暘州通信

日本の山車

◆谷口與鹿と木下逸雲

2008年06月14日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と木下逸雲
 木下逸雲は、寛政十一年(一七九九)長崎八幡町の木下清左衛門勝茂の四男に生まれ
た。木下家の本姓は藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めている。幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助といった。名を相宰、字を公宰、号を逸雲は号で、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房と名づけている。諱を隆賢という。
谷口與鹿、橋本香坡と共通の交友があり、與鹿と香坡が長崎を訪れたときは出会いの楽しみにしていたが、逸雲はちょうどそのころ流行した天然痘と取り組んでおり、豊後日田(大分県)にいたため会うことはできず、安政四年の秋に日田の市山亭で会っている。
逸雲は博才な人物で書画、音曲、煎茶にうぐれた才能があった。
遠州灘沖を航海する外国船と富士を一幅の画におさめ「富士山に蒸気船を写したのは余をはじめとす」と興じている。

◆谷口與鹿と松林飯山

2008年06月14日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿と松林飯山
天保十年(一八三九)二月ー慶応三年(一八六七)一月。
筑前早良郡金武村羽根戸村(現福岡市西区)に生まれた。幼名を駒次郎、字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。
父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、絵が好きで南画を得意とした。五教館教授、片山歓治氏の推挙で藩の御典医についている。
飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが父はこれを嫌い、妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。
十四歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。
飯山は伊丹郷町に橋本香坡をたずねているがこのころのことであろうか。香坡は不在であったが、待つうち、香坡は谷口與鹿とともにすっかり酩酊して明倫堂に帰ってきた。「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、深更にいたるまで話し合っているが、飯山はすっかり香坡に心酔した。
安政四年(一八五七)十九歳のとき幕府の昌平校に入り、ここで学才を認められて詩文係に任命された。
二十一歳のとき五教館の教授を拝命し故郷の大村(長崎県)に帰った。北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。土佐の岩崎弥太郎もその一人である。
文久三年(一八六三)十月、二十六歳のとき五教館の祭主についた。
渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩が倒幕へと向かう、大村藩勤王三十七士の中心人物
となった。
慶応三年正月、大村城中で恒例の謡初式が行われたが、自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に襲われて死去した。享年わずか二十八歳であった。このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になるが。慶応四年は明治元年と改元された。明治維新はを迎えたのは飯山の死去一年後のことである。
松林飯山の著述に「飯山文存」がある。


00622 博多祇園山笠

2008年06月14日 | 日本の山車
00622 博多祇園山笠
福岡県福岡市博多区上川端町
櫛田神社
□祭神
大若子命
櫛玉命
スサノオノミコト 須佐之男
アメノオシホノミミノミコト 天忍穂耳
イチキシマヒメノミコト 市杵島姫

□祭
七月上旬-中旬
山笠七臺、飾山十数臺、子供山笠が出る。

□山車(山笠)
・千代流
・中州流
・恵比須流
・西流
・土居流
・大黒流
・東流

□汎論
櫛田神社の創祀は、伊勢の松阪(三重県松阪市)からの勧請と伝えられる。三重県松阪市の櫛田町には櫛田神社があり、祭神は、大若子命、櫛玉命、須佐之男、天忍穂耳、市杵島姫である。櫛田神社という社名の神社は各地にあり、富山県射水市串田の櫛田神社、石川県七尾市の久志伊奈太伎比神社、石川県七尾市の久志伊奈太伎比神社、島根県奥出雲町稲田の櫛稲田姫神社、佐賀県神埼市の櫛田宮などは祭神はスサノオノミコトの妃であるクシイナダヒメを祀る。
だが、博多の櫛田神社の祭神にはクシイナダヒメの名前が見られない。松阪の櫛田神社にもおなじで、共通する祭神として「櫛玉命」がある。
奈良県高市郡明日香村の真弓には、櫛玉命神社(くしたまのみことじんじゃ)があり、こちらの祭神は、「櫛玉彦命、櫛玉姫命、天明玉命、豊玉命」である。玉作連が祖神を祀ったとされ。「櫛は奇し、玉は御霊」のこととされ、クシイナダヒメではない。
クシタマヒメノミコト(櫛玉比賣命)はニギハヤヒノミコト(饒速日命)の妃である。
博多の櫛田神社はスサノオノミコトを祀り、祇園祭が行われることには何の疑いもないが、櫛玉命が饒速日命であれば、神社の創祀はもともと祇園社ではなかったことになる。


00776 城崎温泉祭

2008年06月14日 | 日本の山車
00776 城崎温泉祭
兵庫県豊岡市城崎町湯島
四所神社
□祭神
ヤマヌシユノオオカミ 山主湯大神
ムナカタサンジョシン 宗像三女神

□祭は十月中旬。
臺とよぶ山車を曳く。

□汎論
四所神社は、和銅元年(七〇八)日生下権守が、四所の神を奉祀したことが創祀とされる古社。

□問い合わせ
城崎温泉観光協会
兵庫県豊岡市城崎町湯島357‐1
電話 0796‐32‐3663
FAX 0796‐32‐3005

00549 五社神社春祭

2008年06月14日 | 日本の山車
00549 五社神社春祭
高知県安芸郡東洋町白浜
五社神社
□祭は四月下旬。
だんじりを曳く。

□山車
・東
・西

□汎論
以前は、四国南部に見られる「土佐花臺」が曳かれていたが、いまは「だんじり」とよんでいる。祭に神輿が神幸を終えて還御するとき、だんじりがこれを帰らせまいとして阻み、神輿とだんじりの揉みあいとなる。
だんじりは神明造りの屋根があり、単層。竹が立てられ堤燈、五色の色紙で装飾される。
□問い合わせ
東洋町役場
電話 0887-29-3392
東洋町観光協会
電話 0887-29-2348
東洋町商工会
電話 0887-29-2036

23387 菊慈童

2008年06月13日 | 日本の山車
23387 菊慈童
九月九日を重陽の節句という。
中国の古典「続齋諧記」に、この日、丘などの小高い場所に登り菊花酒を飲み、茱萸
の薬玉を身につければ、邪気を払い、悪鬼をも寄せつけないとある。
能にもある菊慈童は、中国、周の穆王の僕であったが、王の不在中誤って王の枕をまたぐという過失があってとがめられる。
 時代はさがり、 魏の文帝のとき、命により霊をたずね田一行は
齢七百歳を経る人物に会う。
その人物は穆王より授かったという偈

 具一切功徳 慈眼視衆生  福聚海無量 是故応頂礼

 を見せ、使者と唱和する。
使者はその人物が菊慈童であること、菊からしたたる水葉、長寿の淵源であることを知りる。
山車に長寿を賀しとりいれられることがある。

06119 勝速日神社祭

2008年06月13日 | 日本の山車
06119 勝速日神社祭
三重県鈴鹿市白子
勝速日神社
□祭は四月中旬
屋臺四臺を曳く。

□山車
・中町
伊勢型紙で財を成した、重子屋山中重兵衛家の大口寄進。
安政四年(一八五七)の記録がある。
竹に虎図
・西町
天保四年(一八二三)。の記録がある。彫刻は片桐兵助。
松と鷹図。
江戸小紋の需要で、その伊勢型紙問屋の最大手であった寺尾斎兵衛家が大口寄進。
・東町
文化二年(一八〇六)の記録がある。工匠は長谷川長蔵。
牡丹に唐獅子。
江戸廻船を営んだ豪商久住家の寄進で建造された。
久住家は江戸廻船と肥料の販売で莫大な富を集めた商人である。
・山中町
文化五年(一八〇八)の記録がある。
公案図。菊慈童だという。
山車の大口寄進者である一見仁兵衛家は約三十町歩、八万坪の大地主であった。
□汎論
寛永十一年(一六三四)、白子に紀州藩代官所の創設時に「久留真神社」が移転され、氏子が南北二つに別れたとき、北は栗真にあった「八重垣神社」と「勝手明神」を合祀して一社にして遷したのが「勝速日神社である。
安永七年(一七七八)三月に屋臺四対が曳行された記録がある。山車の曳かれた歴史は古い。文化二年(一八〇六)の道具箱墨書がある東町の山車がこれにつづく。
白子の山車は四臺とも形態が相似しており、二層式、上臺は下臺と同じ大きさで、前後は三間割り、屋根は唐破風。横は四間割りにし、比較的高い黒塗りの勾欄がつく。勾欄は金具をうち、刎ねない留め勾欄で腰は素通しである。前後はほぼ二分割され前部は開放されている、この部分は藝座で、古くは歌舞伎狂言が披露されたという。
後部は大きな幕で覆われる。水引幕がつくが、後部は覆われない。このため、上体後部の図は全体がよく見え、見送幕ともなっている。
下臺はおなじ幅の縦継色幔で覆われる、四臺ともおなじだが、東は赤と辛子色、西は赤と黒、中も赤と黒、山中は辛子、黒、赤の三色。上にはさらに刺繍を施した水引幕がかけられる。車輪は四輪となっている。
上体が下臺と同じ大きさでゆったりとしていて、大幕と大きな図柄が引き立つ。


01498 宮道天神社雨乞祭

2008年06月12日 | 日本の山車
01498 宮道天神社雨乞祭
愛知県豊川市(旧宝飯郡音羽町)
宮道天神社
□祭神大山咋神
建貝児王命 

草壁皇子命
□祭は八月下旬
山車を曳く。

□汎論
日本武尊が東征したとき第三王子の建貝児王をこの地に封じという言い伝えがある。建貝児王は日本武尊と、穴戸武媛(吉備武彦の息女)のあいだに生まれた子である。
また、大宝二年(七〇二)持統天皇の御幸した地だといい頓宮跡がある。町の東方をは穂の国の天野で、白鳳年間に草壁皇子(のちの天武天皇)がこの地に住んだという伝承があって草壁皇子が宮路山上に祀ったとされる祠が残されていた。ここに、のちに村民らが三神を合祀して鎮守としたのが宮道天神社だという。菅原道真は無関係である。
宮路山は急峻の地なので、ここに祀られる宮道天神社は嶽明神ともいう。
近くに東海道五十三次(旧鎌倉街道)の赤坂宿には長福寺があり。能や謡曲で知られる「石橋(しゃっきょう)」の大江定基がついに結ばれなかった長者の娘力寿姫の菩提を弔う。
各地に「石橋」を題材にした山車があり、飛騨高山の「石橋臺」のからくり人形は永い眠りから覚め近年復活し、婦人の姿が一瞬にして獅子に変わって喝采をあび、飛騨市古川祭にも「石橋」のからくりがあり、機関樋の先におかれた籠から牡丹の花が咲く。
大江定基は三河の国司だったといい、仏門に入り宋(中国)にわたったがふたたび本土の土を踏むことはなかった。
御油宿と赤坂宿のあいだは、東海道の宿駅の中で最も距離が短く、関川神社には、松尾芭蕉の

  夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や

 の句碑がたつ。夏の夜の短さを宿場間にかけた句だという。

□問い合わせ
音豊川市
電話 0533-88-8005


34472 阿久比の岸幕家と江原家

2008年06月12日 | 日本の山車
34472 阿久比の岸幕家と江原家
愛知県阿久比町には古くから名工を出しており、神社、山車にその歴史を見ることができる。
岸幕家と江原家は宮大工の家系として、独立し、あるいは共同で仕事をしている。
また町内に横松大工という技術集団があって、岸幕家、江原家のしごとを助けている。
武豊町の山車、大足組蛇車は寛政八年(一七九六)岸幕善兵衛。
文政九年(一八二六)半田市の山車、亀崎の中切組は、岸幕善次郎と江原庄蔵の合作。
半田市乙川の八幡社は岸幕善兵衛。
乙川八幡社拝殿は明治十三年(一八八〇)岸幕善之助。
阿久比町角岡(現阿久比町椋岡)の八幡宮は江原庄蔵。
武豊町の堀田稲荷拝殿は江原新助。
阿久比町横松神明社山本八兵衛、江原新助、杉浦傳吉、岸幕善兵衛
詳細は不明だが、岸幕は和泉岸和田の出身という説もある。和泉地方の社寺には名建築が多いがその多くに岸和田の宮大工が関わっている。


02806 高遠鉾持神社祭

2008年06月12日 | 日本の山車
02806 高遠鉾持神社祭
長野県伊那市(旧高遠町)西高遠
鉾持神社
□祭神
天津彦火瓊瓊杵尊 (伊豆神社)
天津彦火火出見尊 (箱根神社)
大山祗命 (三島神社)

□祭は九月下旬
燈籠祭に山車二臺を曳く。

□山車
・本町
江戸末期の建造。
・仲町
嘉永五年(一八五二)の建造。
・霜町
現在は曳かれない。

□汎論
高遠は桜の綺麗な城下町である。
鉾持神社は、高遠藩の鎮守として、養老五年に小治田宅持が伊豆、箱根、三島から三社を勧請、町の西部にある権現山に創祀した。
燈籠祭には町々に笹竹がたち、鬼燈提燈(ほうずきちょうちん)を吊るす。太鼓、笛、三味線などで高遠囃子を演奏し、山車(屋臺)を曳く。
高遠町郷土館には祭で曳かれる本町と仲町の山車(屋臺)が展示されている。
「絵島・生島」は、徳川六代将軍家宣のとき月光院に仕えた絵島と役者生島新五郎の恋物語などくでよ知られる。絵島は高遠に送られ高遠の地で二十八年の歳月を送って生涯を閉じた。その終焉の地でもある。

□高遠町郷土館
高遠町大字東高遠四六二-一
電話〇二六五九四二一四四










00891 鰍沢八幡社祭

2008年06月12日 | 日本の山車
00891 鰍沢八幡社祭
南巨摩郡鰍沢町
八幡社
□祭
四月中旬
山車四臺を曳く。

□山車
・上宿
・二丁目
・三丁目
・本町

□汎論
江戸期にはたびたび水害に見舞われている。山車の記録は殆ど残されておらず、詳細は不明。上宿町の山車には「嘉永三年」の墨書が残る。古い絵図には三輪の山車が描かれているという。

□問い合わせ
鰍沢町役場 総務課 企画情報係
山梨県南巨摩郡鰍沢町1599-5
電話 0556-22-2151
Fax 0556-22-5290


00891 鰍沢八幡社祭
南巨摩郡鰍沢町
八幡社
□祭
四月中旬
山車四臺を曳く。

□山車
・上宿
・二丁目
・三丁目
・本町

□汎論
江戸期にはたびたび水害に見舞われている。山車の記録は殆ど残されておらず、詳細は不明。上宿町の山車には「嘉永三年」の墨書が残る。古い絵図には三輪の山車が描かれているという。

□問い合わせ
鰍沢町役場 総務課 企画情報係
山梨県南巨摩郡鰍沢町1599-5
電話 0556-22-2151
Fax 0556-22-5290













01203 牛倉神社秋祭

2008年06月12日 | 日本の山車
01203 牛倉神社秋祭
山梨県上野原市(旧上野原町)で新町二丁目
牛倉神社
□祭神
須佐之男命
保食神
誉田別命
経津主命
武甕槌命
天児屋根命
神祖熊野大神櫛御気命
厩戸豊総耳皇子命
戦死者の霊

□祭は九月上旬。
山車二臺を曳く。

□山車
・新町
・本町

□汎論
倉神社は、上野原村の鎮守で、多くの神が併祀される。創祀は不明で、「甲斐国風土記」には古郡幸燈明神、「甲斐国誌」に大宮牛倉明神とあり、牛倉の名が見える。
永禄九年(一五六六)、加藤景忠建立の棟札がのこり、慶長九年(一六〇四)には本殿が建立され創祀の歴史は古い。
山車の上では、関東系の山車囃子が演奏され、狐姿、ひょっとこの踊などが披露される。
□問い合わせ
上野原市役所 
山梨県上野原市上野原3832
電話 0554-62-3111(代表) 
Fax 0554-62-5333



00382 勝山のサギッチョ

2008年06月12日 | 日本の山車
00382 勝山のサギッチョ
福井県勝山市
□祭は一月中旬。

□汎論
「サギッチョ」とは、左義長のことで、歳徳神を送る行事として各地で小正月の行事として、神社や街辻、川原などで注連縄、松飾りを燃やす新年の行事。滋賀県近江八幡では山車を曳くが、勝山のサギッチョは、各町内が櫓を組んで夜になると町内毎に左義長囃子ではやし、左義長に火がつけられる。

00568 新津夏祭

2008年06月11日 | 日本の山車
00568 新津夏祭
新潟県新潟市(旧新津市)
堀出神社
□祭神
イザナギノミコト 伊弉諾尊
イザナミノミコト 伊弉冉尊

□祭は八月下旬。
山車(屋臺)七臺を曳く。

□山車
・一之町
本座人形は稲神。
安政三年(一八五六)の建造。慶応年間に新発田から譲り受けた。
・二之町
江戸末期の建造。
安政年間に県北部から譲り受けた。
本座人形は大黒。
素盞鳴尊命図の見送りを懸ける。
・三之町
昭和二十五年の再建。
本座人形は恵比寿。
見送りは波に鯛
・四之町
昭和四十九年の建造。
本座人形は弁財天。
昇龍の見送りを懸ける。
・駅前
昭和四十八年の建造。
本座人形はは毘沙門天。
鳳凰図の見送りを懸ける。。
・新町
昭和五十年の建造。四輪車
本座人形は天神。
龍の見送りを懸ける。
・上善道
昭和五十二年の建造。四輪車。
人形なし。
唐獅子牡丹図の見送りを懸ける。
これよりさきには「善道丸」という山車を曳いていた。
・山谷
いまは曳かれない。

□汎論
堀出神社は、当初新津本町三丁目に創祀。大正五年に大山祇神社、羽黒神社、久須志神社、諏訪神社 二社、神明社、若宮神社、稲荷神社 二社、菅原神社を遷し、現在地に合祀された。詳細は不明であるが境内に異なる形式の鳥居が立つのは祭神の由緒であろうか。旧地の堀出神社は、天福元年(一二三三)に金津信資が築城したとき土中から二神像が出土したのを奇遇として「堀出大神」として祀ったのを創祀とする。
天正元年(一五七三)に、新津勝資がこれを新津に遷した。
祭神はイザナギノミコト(伊邪那岐神)、イザナミノミコト(伊邪那美神)、住吉神である、上筒男命、中筒男命、底筒男命。このほか宇迦之御魂神、宇気母智神、豊宇気毘売神、大御宜都神、大宜膳都神などが祀られる。金津の堀出神社には、イザナミノミコト、イザナギノミコト以外にはこれらの祭神が見られないから、何らかの意図を持って別けられたのであろう。
山車には新発田(新発田市)、村上(村上市)の様式がみられ、二輪車、三輪車が混在する。

□問い合わせ
新津支所農産業振興課
電話 0250-24-2111