◆谷口與鹿と木下逸雲
木下逸雲は、寛政十一年(一七九九)長崎八幡町の木下清左衛門勝茂の四男に生まれ
た。木下家の本姓は藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めている。幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助といった。名を相宰、字を公宰、号を逸雲は号で、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房と名づけている。諱を隆賢という。
谷口與鹿、橋本香坡と共通の交友があり、與鹿と香坡が長崎を訪れたときは出会いの楽しみにしていたが、逸雲はちょうどそのころ流行した天然痘と取り組んでおり、豊後日田(大分県)にいたため会うことはできず、安政四年の秋に日田の市山亭で会っている。
逸雲は博才な人物で書画、音曲、煎茶にうぐれた才能があった。
遠州灘沖を航海する外国船と富士を一幅の画におさめ「富士山に蒸気船を写したのは余をはじめとす」と興じている。
木下逸雲は、寛政十一年(一七九九)長崎八幡町の木下清左衛門勝茂の四男に生まれ
た。木下家の本姓は藤原氏で、代々八幡町の乙名職を勤めている。幼名を弥四郎といい、成人後は志賀之助といった。名を相宰、字を公宰、号を逸雲は号で、如螺山人、物々子、養竹山人、住居を荷香深処、養竹山房と名づけている。諱を隆賢という。
谷口與鹿、橋本香坡と共通の交友があり、與鹿と香坡が長崎を訪れたときは出会いの楽しみにしていたが、逸雲はちょうどそのころ流行した天然痘と取り組んでおり、豊後日田(大分県)にいたため会うことはできず、安政四年の秋に日田の市山亭で会っている。
逸雲は博才な人物で書画、音曲、煎茶にうぐれた才能があった。
遠州灘沖を航海する外国船と富士を一幅の画におさめ「富士山に蒸気船を写したのは余をはじめとす」と興じている。