暘州通信

日本の山車

◆邪馬臺國の位置の推察 七

2018年04月26日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の位置の推察 七

 倭王 卑弥呼が死去した。魏志倭人傳はつぎのように誌す。

 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者百餘人」

 卑弥呼の死去により、直径百歩ほどもある大きな冢(ちょう 塚)が作られ百人をこえる奴碑が殉死した。

 卑弥呼死去の三世紀は日本では古墳時代のはじまりの時期にあたる。卑弥呼の墳墓がどのようなものか想像できないが、人が歩いて半径五〇歩ほどの円墳ではないだろうか。
 この古墳が見つかり、魏の明帝から贈られた【親魏倭王の金印】が発見されたとき邪馬台国の所在地は確定するのであろう。

 その日はそう遠くないのではないかと心待ちにしている。



◆邪馬臺國の位置の推察 二

2018年04月26日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の位置の推察 二

 不彌國より南へ千三百里とはどのあたりになるであろうか?

 不彌國の所在は「宇美」ともされているが、ここは、「奴」とよばれている、儺ノ津(福岡県博多市あたり)より東から東南、南方向に千四百里にあたる、筑前國、筑後國(福岡県)、豊前國、豊後國(大分県)あたりがしやにはいってくることになるのではないだろうか。

◆邪馬臺國の位置の推察

2018年04月26日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の位置の推察

 邪馬臺國の所在地はどこか? これは、大きな謎で、およそ二〇〇年におよぶ研究史がある。なぜこのように時間をかけ諸氏がその研究に情熱を傾けたのに解決に至らないのだろうか?
 その主因のひとつに『三國志中「魏書、東夷傳倭人条(通称、魏志倭人傳)」』の解読の誤りが挙げられる。

 【魏志倭人傳 解読の誤り】とは、
 邪馬臺國の位置は、朝鮮半島(韓半島)の帯方都から、邪馬臺國までの距離は、総数一万二千里であり、帯方都から、不彌國までの距離を累算すると、その総距離数は一万七〇〇里であり、その差である千三百里が不彌國から邪馬臺國までの距離ということになる。ところが邪馬臺國の記述中、水行十日、陸行一月とあるのを、不彌國から邪馬臺國へは、さらに水行十日、陸行一月を要すると誤読したために、邪馬臺國の所在が不明になってしまい、「不彌國より南」とあるのを、「東の誤り」として、「邪馬臺國 畿内説」が論じられ、また「陸行一月」とあるのは「一日の誤りだろう」とする説が出されている。

【水行十日、陸行一月】とは。帯方郡より邪馬臺國に至る距離一万二千里におよぶ旅程の内訳である。

◆三角縁神獣鏡

2018年04月25日 | 日本山車論
◆三角縁神獣鏡

 景初二年(二三八)、邪馬臺國女王の卑弥呼は、はるばると魏に使者を派遣して朝貢した。これに対して、魏王はこれをよろこび、【親魏倭王】の称号と、【金印紫綬】を授けて、卑弥呼を邪馬臺國の女王であると同時に、倭の女王として叙し、【親魏倭王】の称号を授け、【金印紫綬】を与えるとともに、次の貴重な品々が下賜されたとある。
 紺地句文錦三匹
 白絹五十匹
 金八兩
 五尺刀 二口
 銅鏡百枚
 真珠、鉛丹 各五十斤
 この下賜品の中に【銅鏡百枚】とあるのが目を惹く。
 
 この「銅鏡百枚」として下賜された、鏡とは、「三角縁神獣鏡」であろうとされていて、この鏡の分布は九州はもとより日本各地に広がっていて、畿内(近畿地方)の古墳からも多くが見つかっている。
 このことはまた、邪馬臺國畿内説の裏付けとしていわば物証のように取りざたされる原因のひとつともなっている。
 この背景を考慮すると、卑弥呼はおよそ七〇國とある倭各國の首長の氏族に与えて同盟関係を結んでいたと推察される。且つ、それは國に与えたものではなく、国王に与えたものではないかと考えられる。国に与えたものであれば、国王死去後古墳の中に納めることはないと考えられるからである。
 さらに、各國王らは【鏡の所望】多く、卑弥呼は銅鏡百枚を拝領する前に鏡の希望を魏王に申し出ていたと推察される。魏に十分な鋳造の準備期間がなければ卑弥呼に渡すことができないからである。
 しかも、鏡は一〇〇面では不足した……。

 その不足を補うために追加を希望したのが、皇帝死去後の元号である「経書四年銘の鏡」であり、それでも足らない分が倭で鋳造された「仿製鏡」ということになるのではなかろうか。

【私論 魏志倭人傳】

◆邪馬臺國の遷都 三

2018年04月23日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の遷都 三

 景初二年(二三八)十二月、魏王より、卑弥呼に下賜された【親魏倭王】の称号と、【金印紫綬】。
 泰□四年□月に、百濟王より倭王に献納された七支刀 銘文の両社は、謎に満ちた古代日本史の貴重な記録と考える。
 
【私論 魏志倭人傳】

◆邪馬臺國の遷都 二

2018年04月23日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の遷都 二

 一方で、奈良県奈良県天理市に鎮座する
石上神宮(いそのかみじんぐう)に保存されている【七支刀】の金嵌銘文六一文字の記述には、

 泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□
 七支刀□辟百兵宜供王 □□□□作
  (異説あり)

 とあって、大意は百濟の國王から、泰□四年□月十六日に倭王に対して献納された品とわかる(これも異説あり)。

 (異説はあるものの)石上神宮に伝わる【七支刀】は、朝鮮の百濟王より、(中國元号の)泰□四年□月に、倭王に献納された品である。

未判読文字
泰□四年を、西晋の「泰始四年」とよめば、【二六八年】となる】。
泰□四年を、「泰和四年」とよめば、【四六八年】となる。

泰始四年は、景初二年(二三八)より三〇年のあとである。
泰和四年は、景初二年(二三八)より二三〇年のあとである。

 【七支刀】が献納されたのは、当時大和にあった物部氏であり、物部氏は、倭王とあるから、邪馬臺國の所在地は、
景初二年(二三八)より三〇年。あるいは、二三〇年ののちには、九州から大和に遷都されたと考えられる。

 大神神社の祭神は【オオモノヌシノミコト(大物主命)】とされ、オオモノヌシノミコト(大物主命)とは、オオナムチノミコト(大己貴命)と同神とする説もあるが、これは、物部氏の首長たる大物主とみるべきではないだろうか。

 桜井市の纏向遺跡は、大物主命(物部氏)の都であり、北九州から遷都された大和の邪馬臺國だと推察する。 

 おそらく茶臼山古墳は、物部氏の墳墓であろう。
 
【私論 魏志倭人傳】



◆始めて一海を渡る…… 考察 六

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 六

 邪馬臺國の所在はいまだ知れないが、総距離一万二千里から
魏から、倭の不彌國までの累算距離である一万三百里を差し引いた、千七百里(当時の一キロメートルは四里から五里位との説によれば)、三〇〇数十キロくらいの九州東部地内に存在したと推察され、その所在地はかなり限定されてくる。

【私論 魏志倭人傳】

◆始めて一海を渡る…… 考察 五

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 五

 しかし、魏の京都である、洛陽から、倭の首都である邪馬臺國にいたる記述には誤りはなく、
 その全行程は、一万二千里。
 その行程の内訳は、陸行一月。水行一〇日。
 であって、記述は正しい。

 これを誤りとする論述は、「魏書、東夷傳」の読み方に誤りがある。

【私論 魏志倭人傳】
 

◆始めて一海を渡る…… 考察 四

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 四

 「魏書、東夷傳」の記述に誤りがないとはいえない。例えば、邪馬臺國を、邪馬壹國と記述したのは誤リりである。
のちの中國の史書では【邪馬堆國】とも記述されていて、邪馬臺國が正しくその訓みは【ヤマタイコク】であろう。卑弥呼のあとを相続した⒔歳の少女の名称も【壹與】ではなく、正しくは【臺與】で、その訓みは【トヨ】であろうと推察する。
 
【私論 魏志倭人傳】

◆始めて一海を渡る…… 考察 三

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 三

 「魏書、東夷傳」の記述において、【倭を特定】するならば、まず、【魏】と【倭】を結ぶ経路をしっかり記述することはその最大の目的であるはずである。
 しかし、「魏書、東夷傳」の記述からは、その【倭の首都である、邪馬臺國】が何処にあるのか判然とせず、邪馬臺國の所在をめぐる論述は非常に多岐にわたっている。
 そのなかでも、
 邪馬臺國九州説
 邪馬臺國畿内説
 は二臺論となっている。そして、このように論評が分かれるのは、「魏書、東夷傳」の記述に誤りがあるのではないか? とまで疑問視される。

【私論 魏志倭人傳】


◆始めて一海を渡る…… 考察 二

2018年04月23日 | 日本山車論
◆始めて一海を渡る…… 考察 二

 【東夷】にある「倭」とはいかなる國か? それはどこにあり、その中心となる統治國(首都)は、何処にあるのか?
その統治國(首都)への道筋(道路あるいは水路)はいかなる経路を経るのか?
 その國の過去の歴史、制度、自然環境や生活、風俗はいかなるものか? などについて、倭を訪れた人々の記録を蒐めて出来うる限り正確に詳述したのが、概ね、『三國志中「魏書、東夷傳倭人条(通称、魏志倭人傳)」』と言えるのではないだろうか。

【私論 魏志倭人傳】