暘州通信

日本の山車

◇04454 大日神社祭

2009年08月07日 | Weblog
◇04454 大日神社祭
静岡県浜松市(旧佐久間町)串場
□祭は七月下旬
屋臺を曳く。
□山車(屋臺)
一臺ある。
□汎論
 長野県南部、木曾街道から岐阜県中津川市、恵那市にかけ、また飯田街道沿いは伝統ある地芝居が継承され小屋の残るところも多く見られる。主として神社の祭礼にあわせて興行されてきた。浜松市佐久間の地は江戸歌舞伎の名門でである尾上家ゆかりの歌舞伎役者、尾上栄三郎が佐久間浦川の地にて来たが病没した。それ以後村人たちはその霊を慰めるため供養祭をおきない、地歌舞伎を行っている。
 演目は最近では、ご存知、元禄忠臣蔵 南部坂雪の別れの場、弁天娘女男白浪 稲瀬川勢揃の場 歌舞伎十八番の内から勧進帳などの名場面が演じられている。

□外部リンク
◇祇園を治めた大倭~日光街道を歩く(96)
2009/6/16(火) 午後 10:30
... その向かいに問屋場跡があり、街道を歩くもののための快適なウッディ ... の門前町として鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通沿いに発展した。 京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)であり、南座という歌舞伎劇場もある。 現在は茶屋、料亭のほかに ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/realhear2000/58148410.html

◇農村歌舞伎の里
2009/6/14(日) 午前 10:49
... かつては「秋葉街道」と呼ばれ、秋葉山(静岡県春野町・秋葉神社)への参詣の要所として物流や人の交流が ... 文化も花開く^^ その中でも 「大鹿歌舞伎」 は今でも伝承され演じ続けられています。 「大鹿歌舞伎」の詳しい情報については↑のリンク ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tetsushinwald/28891750.html

◇★古市街道の常夜灯と牛谷坂の桜
2009/4/2(木) 午後 10:05
... その場所は     古市街道の端の猿田彦神社の真横に当たる急な坂道     牛谷坂   で、ちょうど   神宮司庁頒布部と 両宮常夜燈 がある場所です。 ... 歌舞伎芝居「伊勢音頭恋寝刃」に登場する「油屋お紺」の   舞台となっ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/windax_loto/59191542.html

◇あきる野市「秋川歌舞伎」
2009/2/8(日) 午後 6:47
... 定期的に公演されている「秋川歌舞伎」です。 二宮神社は府中市の大國魂神社の“二ノ宮”にあたる、 社格の高い神社とのこと。 ちなみに一宮神社は、多摩市小野にありますo(^-^)o 秋川歌舞伎は、二宮神社の神楽師さんが、明治中期以降にはじめた ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/saitou_mebu129tama/24156969.html

◇歌舞伎町界隈
2007/1/25(木) 午前 10:42
歌舞伎町界隈 昨日の昼食に新宿歌舞伎町にある「神座」のラーメンが食いたくなり、新宿の高層ビル街から歌舞伎町までエッチラ、オッチラ行ってきました。 ... 新宿は甲州街道の宿場町でしたから、明治にはまだ馬車が ... 大阪の方の店は神社みたいなど派手な建物です。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/gongoro2/44548552.html

◇00972 隠岐水若酢神社祭

2009年05月30日 | Weblog
◇00972 隠岐水若酢神社祭

島根県隠岐の島町(旧五箇村)
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)
□祭神
ミズワカスノカミ 水若酢神
ナカコトノカミ 中言神
スズゴゼン 鈴御前
□祭は五月上旬。
山車を曳く。
□汎論
 水若酢神社は隠岐一ノ宮で、延喜式神名帳に記載される古社。
『続日本後紀』によると、承和九年(八四二)に隠岐國の他の三社とともに官社に列しているがそれ以前の祭祀は不明とされている。
 和歌山市神前(こうざき)の福峯山の山麓に中言神社がある。おなじ和歌山市津秦には津秦天満宮(つはたてんまんぐう)があるが、祭神は菅原道真公チハヤヒメノカミ(知波 夜比賣神)、ナカコトノカミ(中言神)が配祀されている。
中言神とは、ナグサヒメ(名草姫命)のことだとある。和歌山県の郡名名草郡でも知られるとおり和歌山県に相当の支配権を持つ呪術を行う、シャーマンあるいは巫女的な女神だったようである。
このほか名草郡には中言神社の祭神をナグサヒコノミコト(名草彦命)、ナグサヒメノミコト(名草姫命)の夫婦神とするものがある。
 紀州(和歌山)の中言神社は伊太祁曾神社に近く、古代出雲系氏族の栄えた地であり、両社が互いに近いのは相互に認識があったといえるだろう。
 伊太祁曾神社は西は瀬戸内にあって、大山祇神社と接している。東は岐阜県に達する同名社がある。海神氏につながると想像している。
 和歌山市の中言神社は神社庁の傘下に入らない孤高をまもっているのは、旧出雲の國譲り以来これを受けいれないという、皇室の支配する神社に下らない思想が継承されているようである。
 水若酢神社の古代の創祀は出雲惠氏族であろう。社殿は大社風で、「隠岐造」の名がある。隠岐と紀州は古代にはともに出雲系氏族の支配下にあった。
 祭には、童子らが「蓬莱山」とよぶ山車を曳く。



◇06435 龍神皆瀬神社祭

2009年05月29日 | Weblog
◇06435 龍神皆瀬神社祭

和歌山県田辺市(旧龍神村)
皆瀬神社(かいぜじんじゃ)
□祭は十一月上旬。
山車(屋臺)を曳く。
□山車(屋臺)
・広井原
・小又川
・上龍神、下龍神
・大熊
□汎論
 皆瀬神社の創祀は、長禄二年(一四五八)、(龍神一〇代の龍神正直が勧請し、文明年間(一四六九-一四八六)に龍神正が建立したと伝える。 明治四十二年(一九〇五)の神社合祀令により、龍神地区およそ二〇社が当地に合祀された。
 山峡の龍神温泉は古くから知られる。あまり熱くないが、飛鳥時代後期(六九七-七〇七)に役ノ行者、役の小角(えんのおずぬ)によって発見されたという。龍神湯本にある温泉寺は、弘仁年間(八一〇-八二四)に、弘法大師の発願により建立されたといわれる古刹で、十五世紀の作と推定される薬師如来像と脇侍日光、月光両菩薩立像が伝わる。
 龍神は、歴史の上では隠れ里でもあった。龍神の小森には「お屋敷跡」と呼ばれる地がある。平維盛(たいらのこれもり)が寿永三年(一一八四)に、富士川、木曽川の合戦に敗れたあと、高野山を経てこの地に至り、住んだ屋敷跡だという、維盛伝説にまつわる、嘉門の滝、明神滝、お万ヶ淵、赤壷、白壷などがある。
 鵺退治(ぬえたいじ)で知られる源三位頼政は、源氏敗北のあとも京にのこり、

 たつきなき 拠るべなき身は 木の本に しいをひろひて 世をすごすかな

 と無聊を歌にしている。「椎と四位」をかけている。のちに以仁王の令旨を得て源氏の旗をあげたが戦に利なく頼政は氏の平等院で自害したのであった。その五男は、治承四(一一八〇)年、源頼氏が、龍神の地に落ちのびて館を構え、住んだ住居跡、また治承年中に武運を祈願して勧請した八幡社がある。
 しかし、捲土重来、頼政の悲願はついに平氏を壇ノ浦に打ち破る先鋒となったのであった。
 幕末、大和五条代官所襲撃によって、天誅組の狼煙が上がった、河内出身の伴林光平は年齢すでに五〇歳を過ぎていたが、伊丹郷町にあってひそかに同志を募ったが、その中核となったのは学問所伊丹明倫堂であり、学頭は沼田藩旧藩士の橋本香坡であった。
 吉田松陰、坂本龍馬、松林飯山、森田節齋、長州藩士、十津川郷士、藤井藍田その他多くの勤皇の志士が往来した。
 孝明天皇が天誅組と合流し、徳川幕府打倒の勢いは一気に高まったのだが、孝明天皇の挫折で一転して、多くの志士が追われる身となった。藤井藍田も吉野の鷲家口で討死している。 龍神村に天誅組珥加担した同志、河内勢の水郡長雄ら八名は、十津川を経て小又川まで逃走したがついに力尽き龍神で紀州藩士にとらえられて蔵に幽閉された。その蔵は現存し和歌山県の史跡に指定されている。
 天誅組義挙といわれる。この流れが、倒幕へのきっかけとなり、鳥羽伏見の戦い、蛤御門の変、池田屋騒動、寺田屋事件などを経て、あと数年を待たずして、徳川は倒れ、明治維新を迎えたのである。

□外部リンク
◇皆瀬神社の秋祭り
ryokansaka.exblog.jp. 旅館さかい 日記. トップ | ログイン. 龍神・皆瀬神社の秋祭り. 11月3日は、秋祭りです。 午後から大熊、小又川、湯ノ又、広井原の屋台獅子が宮入。 鳥居前でのオニと天狗が獅子を誘導する「獅子せせり」が珍しいです。 ...
 http://ryokansaka.exblog.jp/8822038/

◇和歌山県南紀 龍神温泉 かけ流しの温泉の民宿 ささゆり(周辺みどころ)
その中に、聖なる者たちが住んでいます。 ... 道の駅『龍神』の奥にある吊り橋は、皆瀬神社につづいています。 当館から徒歩3分。 ... 皆瀬神社祭典(龍神) 11月23日. 含む2日間. 龍神林業まつり. 12月. 第1日曜日 ...
 http://www.mjnet.ne.jp/sasayuri/mid.htm


00758 根津権現祭

2009年03月30日 | Weblog
00758 根津権現祭

東京都文京区根津一-二八-九
根津神社
□祭神
スサノオノミコト 須佐之男命
オオヤマクイノミコト 大山咋命
モムダワケノミコト 誉田別命
相殿
 オオクニヌシノミコト 大国主命
 スガワラミチザネコウ 菅原道真公
□祭は九月下旬。
□汎論
根津神社の創祀は、日本武尊が千駄木に祀ったのがはじまりと伝えられる。
文明年間に太田道灌が社殿を建立している。

02268 さわらふるさとまつり

2009年03月29日 | Weblog
02268 さわらふるさとまつり
北海道茅部郡砂原町
□祭は四月下旬
市民祭。
□汎論
砂原漁港西側特設会場で行われる神社に属しない市民祭。
祭には、 郷土芸能、沼尻駒踊、砂原権現太鼓、YOSAKOIソーラン踊などのほか、海の幸・山の幸のバザーがあり、加工品の格安販売、歌謡ショウなどのステージ・ショウ、バーベキューコーナー、カジカ汁コーナー、ブルーベリーワインの試飲コーナーも特設され一日を楽しく過ごせる。

35226 山車は出造り

2009年01月04日 | Weblog
35226 山車は出造り

 山車を建造するとき、地元に工匠がいればいいが、そうでないときは、名工といわれた熟練者に依頼して建造することになる。交通機関の発達した現代ならいざ知らず、かっては工匠が現地に出向いて、土地のかたがたの世話になりながら一年、二年、三年、ときには五年以上もかけて建造した。
 山車組の世話人の座敷をあてがい、酒肴でもてなす。慰労のため伎楼に招待する。山車の建造費もさることながら、完成までの接待費の負担はものであった。
 さりとて工匠らは遠慮も格別のお礼も言わない。遊郭には組の通いを持って通う。
 その出費に悲鳴をげたという話もあながち嘘ではない。招きをうけた工匠らはひたすら入念な仕事に精を出したのである。


30000 山車と史学

2009年01月02日 | Weblog
30000 山車と史学

過去の歴史を紐解いてゆくと、そこはもう謎の世界である。ときおりそのはざまに動かしがたい事実が発掘される。そこで史論は一歩前進する。
だが歴史的事実と事実をつなぐそのあいだはやはり闇で、このあいだをつないだ説が樹てられる。長い年月をかけてこれらの諸説は通説として確立してゆく。
しかし、しばしば歴史的発見があって、通説が実証されることがあり、ときに覆る。だから学者は臆病になる。歴史をさかのぼるというのは、ある意味で推理の連続である。だから推理は学問の世界から異端視される。
例をあげよう。
高松塚の建造期はいつか? 六世紀半ばから七世紀はじめと推定されている。数十年の開きがある。かなり明瞭な遺物が発見されているのに、被葬者が特定された話を聞かない。邪馬台国の所在地はどこか? 九州か? 大和か? 多くの疑問を解明する。諸説が立てられたがいまだにあきらかとなっていない。
ピラミッドはなぜエジプトとメキシコに隔離して存在するのか? 推理すれば、そのあいだは連続していたと考えるのが自然である。両地店を結ぶ海底から発見される可能性がある。荒唐無稽と批判を浴びそうだが、史学にはもっと推理を働かせる柔軟さが必要だと思う。
飛鳥の石舞台はむきだしの古墳である。これは、表土が洗い流されたからと説明されている。そうかもしれない。
だが、同じ地方にあって多数の古墳が表土イ覆われているのに石舞台だけが洗い流されるというのは不自然ではないだろうか。筆者は広義のドルメン(支石墓)と推定している。酒船石もこれまでに諸説が立てられているが、決着を見ていない。筆者は砂から丹や鉄などを採取するモデルだったのではと推理している。
日本各地に立派な山車が多くあるが、奇妙に共通するのは過去の資料がないことである。山車を考えるということは、山車を推理する。ということになる。今後、山車学がたてられることがあれば、山車推理学になりそうである。間違いを恐れると画口授としての研究が阻害される。

24482 山車藝能

2009年01月01日 | Weblog
24482 山車藝能

 『古事記』に、スサノオノミコトの狼藉にすっかり腹を立てたアマテラスノオオミカミは、天の岩屋にお隠れになる。このため世の中が暗黒の闇夜となってしまい、大いに困惑する。そこれ一計をめぐらし、天岩戸の前でかがり火を焚き歌舞飲食する。
宴がすすみ、天の鈿女命は半裸になって? きわどい踊りを披露し一同やんやとはやす。そのあまりの騒々しさに、隠れていたアマテラスオオミカミは、岩戸をそっとひきあけて外の様子を伺う。とそのとき強力のタジカラオノミコトは岩戸を引きあけ、アマテrスノオオミカミを外に引っ張り出し、この世にもとのあかりがもどる。
 この伝習は姿を変えながらも、古今変わりはない。
 北陸地方に「アエノコト」とよぶ神事がある。「アエ」とは饗のことで、神人ともに食する「神人共食」の習慣は広く各地に分布する。「直会(なおらい)」などともいう。慶事・法事を問わず、ひとびとは歌舞飲食をたのしみとする。宴席では神楽が舞われる
この習俗の歴史は古い。
 酒が注がれ、食事が振舞われ、歌が出、拍子が打たれて宴は酣となる。
 山車藝能、音曲もまたこのおまつりのなかから生まれてきた。
 田楽、猿若、能、狂言、歌舞伎。これらはのちに、舞踊、傀儡などの人形戯などをはじめ音曲では、浄瑠璃、長唄、常盤津、清元、新内、民謡などと結びついてゆき、一方で、山車囃子が演奏されるようになってくる。
江戸の柳橋の芸者衆らによってはじめられた「手古舞」は、埼玉県の川越市、千葉県の佐原祭などに継承されている。

33668 山車の起源

2009年01月01日 | Weblog
 平成21年(二〇〇九)新年、
 あけましておめでとうございます・


33668 山車の起源
 新年は初詣、清々しく初日の出を迎える。登山をする人たちの中には、早起きして山頂で御来光を拝むという方も少なくない。古代エジプトの神殿にはオベリスクが立つ。モニュメントと説明されるが、朝に太陽神を迎え、夕に送るために立てられたと推理する。ナイル上流より切り出された巨大な一石の赤色花崗岩製のものが初期の作で、頂部の立法錐をピラミディアといい、ピラミッドの祖形と考えるのが定説である。イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、トルコなどに搬出され、コンコルド広場、サンマルコ寺院、セントラルパークなどにたてられている。ワシントン、ホワイトハウスの後ろに立つワシントン・モニュメントはオベリスクを模して立てられたものである。トルコには著名なイスラム寺院があるが、多くは四方に尖塔がたつ。このかたちはタージマハール、アンコールワットなどにも見られ、信州の諏訪神社の四本の御柱にもなっている。ヨーロッパにはひろくメイ・ポール(五月の柱)がたてられ、民族衣装をまとった乙女らが華やかな舞踊を披露する。ネパールでは巨大な柱が立ち、クマリの乗る山車が曳かれる。韓国のソシモリにはスサノオノミコトが降臨したとされる柱があったとされる。カナダから北米の各地に立つトーテム・ポール。愛媛県の八幡浜、山口県の蓋置島には山の神神事があり、岩国では柱が立てられ、京都府では柱を立て火の付いた松を投げ上げる。伊勢神宮には真の御柱がご神体とされている。丹後の峰山にもかっては柱が立てられた。若狭では天道花という柱が立てられる。石川県能登の中島では枠旗がでる。富山県高岡の二上山麓にある射水神社では神の降臨する置山が設けられる。射水市(旧新湊)海老江でも築山が築かれ神が降る。魚津のたてもんも巨大な柱で諏訪神社の祭にたてられる。秋田の竿灯、仙台の七夕飾りも柱に起源をもつ。栃木県には天棚、秋田県のぼんてん、京都の上加茂神社ではミアレに神が降る。祇園祭の鉾には中央に真木が立つ。高岡御車山も中央に柱がたちち赤白黄の造花で飾られる。秩父地方の傘鉾、笠鉾も山車の中央に柱が立つ。寄居では貴重な一本柱山車の遺構をもつ山車がある。すべてを一元視できないまでも、古代の思想に山車の起源を一本の柱にはじまるとみることができそうである。

□関連記事

山車絵師夏坂和良ブログ再開のご挨拶
2008/11/10(月) 午後 8:25
... 早々と題材も決まりコンテも書き山車絵図の本書きに入って順調な走り出しでした。 今年の下大工町山車組の製作責任者の橋本君の母上が丁度、長者山新ら神社に務めていましたのでお力を借り、また ... を調べぬいて製作、そして中央に配置した。 左右の開展舞台 ...

http://blogs.yahoo.co.jp/dashimania/46426863.html


31台の山車が揃う蔵の街 ~ 半田 ~
2008/9/12(金) 午後 11:49
... hsmt/index.html 半田市は愛知県知多半島の ほぼ中央に位置していて、 古くから酒、醤油、味噌などの 醸造業が栄えていたそうです。 その半田では江戸時代から神社の 祭礼の際に御神輿を警護する目的で 山車が練り歩いていたそうです。 1979年から市内にある ...

http://blogs.yahoo.co.jp/shanehashi/55884969.html


人形山車とお囃子の競演のお祭り
2008/8/18(月) 午後 2:48
人形山車とお囃子の競演のお祭り  近くにある神社なのですが、創建以来 ... 下の写真では、右の那須与一が山車の屋根に飾られるのです。  9つの人形山車が広場に勢揃いすると、3つの山車が広場の中央に出され山車の回転やお囃子の競演が始まります。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/weblogrom_an/23918913.html



イベント巡り『中央区築地:波除神社大祭【カラフル】』
2008/6/23(月) 午前 4:54
... 築地の市場の片隅にある『波除神社です』 宮元の御神輿。とってもキレイでした。 神社でお参りしてる方々です。 子供用の山車。『ドンドン・カンカン』良い音出してました♪ お祭りおなじみの露店のチョコバナナ・・・いつから ...

http://blogs.yahoo.co.jp/hanabi2007hanabi/40270080.html



寒川神社(千葉市中央区)の神輿のお浜入り
2007/8/20(月) 午後 10:32
... 4日から6日にかけてのわが登渡神社(所在は

http://blogs.yahoo.co.jp/pwmjk249/50874112.html

【日本の山車】 ホームページ開設のお知らせ

2008年12月31日 | Weblog
【日本の山車】 ホームページ開設のお知らせ

いつも当ブログをごらんいただきありがとうございます。
各地の方がたから地元ならではの貴重な情報や、誤りのご指摘をお寄せいただき感謝しています。
 即、訂正し、加筆に勤めています。また交流を深めていくうち特に許されて特別に山車を身近に拝見させていただいたりするのは望外なしあわせです。
 車を止める場所がなくて困っていると、「ここに置いたらええがな」といって場所を開けてくれた、露天商の粋なお兄さん。
 「飯食ったのか…? これ食いな」といって優しいお姉さんに弁当をいただいたことも。栃木県の、ある山車展示館では、お赤飯を相伴し、お代わりまでしてしまった…笑
 たけのこご飯をいただいたうえに、おみやげまでいただいたことも。
 車が不調で動けなくなった深夜、毛布まで運んで、朝までかかって修理してくれたおにいさん。
 本当にお世話になりました。

 もちろん良いことばかりではありません。「おい、おまえ、この辺では見かけない顔だな…、お前の町には祭はないのか!」酔った勢いでからまれて…平身低頭、一升買って許してもらったことも…苦笑。
 当ブログでも紹介していました日本の山車を、県単位に配列してご紹介しています。
日本の山車・世界の山車を一元化して羅列するのはあまりもも膨大な量になり、ブログやホームページでは許容量を超えてしまうこともあって、分散させています。とくに写真の掲載が不十分です。
 イージーマジックのホームページは、追記、修正などが容易で、入力操作も重宝しお世話になっていたのですが、ネット障害が生じて、この夏前からこの半年ほどまったく入力できなくなりました。
 このさい、もう一箇所ホームページを立ち上げ、各県単位で紹介してゆきます。
 なにぶん、まだ編集中のため完成していませんが、ご覧いただければ幸いです。
 ときに、学術・研究、歴史の解釈上批判を受けることもあろうかと存じますが、これは筆者の個有の領解ですのでご寛恕ください。

 長野県松本市松本テレビさんのご好意にあずかり下記のホームページを開設しました。よろしくお願いします。アドレスは下記のとおりです。

   http://www.go.tvm.ne.jp/~jpn_sansya/ 

 

04487 黒部尾山の七夕舟

2008年05月23日 | Weblog
04487 黒部尾山の七夕舟
八月七日の旧七夕には地域のこどもたちが小さな飾り舟をつくって泉川に流す。
男の子はは「杉葉舟」という行燈、女の子は「姉さま人形」、「稲の花」、「キリコ」
などである。
瀬戸内の尾道などで行われる「田面舟」に通じるものがある。お盆の「精霊舟」に見立てる説もある。

00307 足利祭

2008年05月21日 | Weblog
00307 足利祭
栃木県足利市葉鹿
篠生神社
境内社
織姫神社
八坂神社
浅間神社
末社
□祭は七月
祇園祭といわれるが、境内社の八坂神社の祭になるのだろうか。山車が曳かれる。

□山車
・葉鹿上町
四輪の山車、漆塗。
組内の道具保存箱に天保六年(一八三五)の墨書があり、山車が当時すでに存在してと考えられる。
左右が張り出し構造になっており、歌舞伎などを上演できる「藝山」である。

・葉鹿下町
彫刻の墨書に、下野国下都賀郡 例幣使街道富田宿 磯部儀左衛門 とある。
足利本町四丁目に貸臺時火災でに遭い、桐生で曳かれていた山車を譲り受けて代替返納したという。

・葉鹿仲町
山車に残る記録より、建造期は文政年間に着工、天保六年(一八三五)に完成。
上州山田郡新宿村の弥七、和助、弥八。
彫刻は冨田宿の磯部儀左衛門ほか二名。
細工師は、武州埼玉郡羽生領串作村 江原伝蔵 ほか五名。
の名がある。

□汎論
葉鹿上町、葉鹿下町の両町の山車は名工で知られる磯部儀左衛門の建造。
市内に、孔子を祀る「孔子廟」がある。江戸時代には各地に見られた孔子廟は相次いで姿を消し、いまも「釈奠(せきてん)」を行っているのは、足利だけではないだろうか。
「木造 孔子坐像」、 木造 小野篁坐像」があり、宋刊本 文選(国宝)、宋版 禮記正義(国宝)、宋版 周易注疏(国宝)、 宋版 尚書正義(国宝)、足利学校旧鈔本(周易五、周易伝三、古文孝経一、論語義疏一〇、宋刊本 附釈音毛詩註疏、宋刊本 附釈音 春秋左氏傳註疏、宋刊本 周禮、 宋版 唐書列伝残巻が保存される。



00304 常陸総社宮祭礼

2008年05月20日 | Weblog
00304 常陸総社宮祭礼
茨城県石岡市
常陸総社宮

□祭は十月中旬
山車十三臺を曳く。

□汎論
常陸総社宮祭礼は、常陸総社宮の例祭で十月十四日が神幸祭、同十六日が還幸祭で、曳山や獅子舞が年番町に設けた仮殿に渡御する神輿に随行する。曳山や獅子舞は中町通りで神輿を待ち受け、神輿に随って仮殿まで渡るが、祭典が終わると自町へひとまず引き揚げる。その夜は自由運行で、それぞれに市内を自由に練る。巡行には手古舞姿の娘たちの金棒引きが先頭に立ち、片肌ぬぎで花笠を背負った若者や子供が二本の綱で曳山を引く。頭が拍子木をもって全体を指揮し、鳶の者が挺子棒で曳山を操作する。
曳山は大形の人形を出しとする江戸型山車で、

・青木町 神武天皇
・若松町 八幡太郎
・国分町 仁徳天皇
・泉町 鍾旭
・中町 日本武尊
明治三十四年(一八九七)の建造でもっとも古い。

・香丸町 聖徳太子
・太小路町 挑太郎
・守横町 静御前
・東大橋 新田義貞
・東光台 獅子頭
・金丸町 弁財天
大正十一年に東京日本橋の魚河岸より譲り受けた。

 など十三臺が出ている。中町の日本武尊が
 現行の大半は戦後の新作である。
 獅子舞は、馬車の車体を臺車にした獅子小屋と呼ぶ屋臺を油単で覆った大きな獅子で、舞手一人が獅子頭を舞わし、獅子小屋に乗った大小の太鼓に笛・鉦の囃子連がそれを囃す。いうならば獅子屋臺である。
現在は一五頭の大獅子に子供獅子も加わり計二八頭の獅子舞が練る。
長野県南木曽薮原にも油単で覆った大きな獅子屋臺が曳かれる。
石岡祭は江戸時代における府中平村の鎮守である天王社の祇園祭を引き継ぐものといわれ、明治三十五年に氏子一六カ町による年番制が成立し、総社祭り=石岡祭りという現在の形に定まった。
本来の祇園祭は町の経済的発展を背景に宝暦ー明和期(一七五一ー一七七一)に盛んになったとされ、青木町に住んだ医師山口仙栄の天明四年(一七八四)の著作「常府古跡案内しるべ」は、六月十三日に神輿が高浜へ出御し祭典を行う、これを「御浜下り」という。この日は仮屋(御旅所)に留まり、翌十四日に帰社するが、その還御に「町中より思い思いに作り物を出し、鳴物を揃、警固の人々は羽織袴着し御供す」と記している。
町々のその出し物は、明和年間と推定される史料によれば以下のようであった(「御用留」『石岡市史』)。

十四日ぎおん御祭礼之次第
一番ささら富田
二番やたいおどり中町
三番子共おどり香丸
四番子共おどり守木
五番みろく木之地
六番ふし泉町
七番田打おどり幸町
八番ほうさい青木
九番かさほこ若松町
十番ほろ中之内
十一番人ささら全丸

母衣や踊りが主体の練物の祭りであったことを示す。
『石岡市史』は各町のこの出し物について、「みろく」は弥勒、「ほうさい」は泡斉(念仏踊り)で、「ふし」「かたかた」「ほろ」は不明とするが、「ほろ」は母衣、「かたかた」は「かさほこ」(笠鉾)の誤読である。「ふし」は甲冑武者か山伏であろう。「やたいおどり」は屋台すなわち移動舞台での常磐津や長唄による所作事など、子供踊りは路上で見せる手踊りの類とみてよいであろう。嘉永四年(一八五一)の次第には「中町常磐津・子供踊」「金丸長唄・子供踊」とある。当時、祭礼は隔年と定まり、町々を香丸・中町・守木の三組に編成した当番制で行われていたが、一番の富田のササラは、「是はくじなし、御輿先へ出る」とあって神幸列の先頭に立つのが慣例となっており、木之地の弥勒、青木のほうさいはともに当町の決まった出し物になっていた。弥勒も泡斉も伝承が絶えたが、泡斉は当時流行の念仏踊りであり、弥勒はその杖頭人形を屋台に載せたものであった。現行の富田のササラは弥勒と同様の屋臺芸で、杖頭人形による三匹獅子
(鹿踊り)である。これは常陸(茨城県)一帯に流行したようで、那珂湊市の天満宮祭礼にはー〇数台の曳山とともにみろく(元町)と獅子(三匹獅子・六町目)が揃って出ており◎、水戸近郊の常澄村大串稲荷の祭礼にもささら(大串)とみろく(大野)が出て祭りを賑わしている。
現在の石岡祭りは江戸型山車の祭礼として知られる。しかしその成立は明治以後のことであり、もとは練物の祭であった。

□典拠
『石岡市史』


00286 福光春祭

2007年09月30日 | Weblog
00286 福光春祭
富山県南砺市福光
宇佐八幡宮
祭は四月中旬。
庵屋臺を曳き、所望により庵唄を披露する。五臺中、通常三臺がでる。

□山車(庵屋臺)
・本町

・西町

・五宝町

・東町

・味噌屋町

□汎論
庵屋臺は文久二年(一八六二)に各町がそろって建造した。

□問い合わせ
福光町観光協会
電話0763-52-2038

□参考
庵屋臺
・富山県旧城端町
・富山県旧井波町
・富山県旧福野町
福野町は保存されてはいるが近年出ていない。



00088 日光弥生祭

2007年07月04日 | Weblog
00088 日光弥生祭
栃木県日光市
二荒山神社
祭は四月中旬。
山車(花家体)約二〇臺を曳く。

□汎論
日光東照宮は,東照宮は,束照大権現・徳川家康を祀るため、元和三(一六一七)年四月一七日に創建され、主要な建築物である社殿は、寛永一一年ー同一三年(一六三四ー三六)、奥社は寛永一七年ー同一八年にかけ、三代将軍家光により造替された。
この時造替された本殿や、著名な陽明門を始め,諸社殿五五棟が,国宝、重要文化財の指定を受けている。

□問い合わせ
日光観光協会
電話0288-54-2496

□資料・文献
日光山東照宮造営帳
徳次郎の彫刻屋臺 池田貞夫
しのいの史跡 篠井公民館
栃木県大百科事典 大百科事典刊行会
日光東照宮の装飾文様 植物鳥類
日光東照宮の装飾文様 人物動物絵画
日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊
日光東照宮文庫(株)グラフィック社
日光東照宮龍図案集
車輪付き花屋台の誕生 吉新諒次
とちぎの祭り一〇〇選 月刊さつき研究社
栃木の祭りと芸能 栃木県立博物館
狩野了承『日光霊屋彩色仕本』
日光御宮彩色仕本 文化一〇年三月
吉祥図案解題 野崎誠近 平凡社
中国建築の日本建築に及ぽせる影響 飯田須賀斯相模書房刊
日本建築細部変遷小図録 天沼俊一 星野書店刊星野書店刊
古建築装飾文様集成 鳥獣・草木・風月編 近藤豊 光村推古書院刊
日本の唐草 大淵武美 光村推古書院刊
支那建築細部集 蔵田周忠 洪洋社刊
石印宋李明仲営造法式 中華民国八年
東洋建築の研究 上・下 伊東忠太 竜吟社刊
居庸関 京都大学工学部刊 村田治郎
日光東照宮建造物装飾文様調査報告I 多摩美術大学刊
神道史研究 第一二巻第六号神道史学会刊
東照宮 JSD選書五二 大河直躬 鹿島出版会刊
日光東照宮建築装飾図集 角南隆 大塚巧芸社刊
日光東照宮及び各東照宮関連社寺修理工事報告書
東照宮再発見 高藤晴俊 栃木新聞社刊
束照宮の彫刻 資料編 東照宮社務所 束照宮文庫
日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊口光来照宮文庫長
陰陽五行による日本民俗の構造的把握 吉野裕子
民俗学研究 四五巻 二号
五行からみた馬と猿の民俗 
大日光 六二号
(順不同)