暘州通信

日本の山車

00207 尾張津島天王秋祭

2007年08月31日 | 日本の山車
00207 尾張津島天王秋祭
愛知県津島市神明町一番地
津島神社
□祭は一〇月上旬
山車十三臺を曳く

・北町車
文化六年(一八〇九)の建造と推定される。
からくり人形戯がある。
機関樋(からくりとい)に文政一一年(一八二八)の記載がある。
人形は四体。

・米之座車
からくり人形戯がある。
人形は四体、明治二〇年、五代、六代の玉屋庄兵衛の作。
高砂と神主が宝船に変わる。
明治三二年、六代目玉屋庄兵衛作。

・高屋敷車
嘉永二年(一八四九)の建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。

・小之座車
天保年間に改修が行われている。
からくり人形戯がある、
人形四体。
獅子舞をする。

・池町車
寛政年間の建造という。
からくり人形戯がある。
寛政六年(一七九四)の作
唐子がさかだちする。

・麩屋車
嘉永元年(一八四八九)の建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。
湯取巫女が湯取神事をする。

・布屋町車
文政一一年ー嘉永二年にかけて建造。工匠は山川二左衛門。
からくり人形戯がある。
蛭子と大黒の二福神の舞我行われる。

向島の山車 神明町居森社の祭礼
・中之町車
からくり人形戯がある。
人形四体。
唐子の文字書きがある。

・馬場町車
からくり人形戯がある。
大黒の打出の小槌から唐子が出る。

・上之町車
からくり人形戯がある。
唐子が綾渡りする離れからくりがある。

今市場 大土社の祭
・小中切車 
寛政一〇年(一七九八)の建造。
からくり人形戯がある。
住吉明が社殿となりまた明神にもどる。安政四年(一八五七)五代目玉屋庄兵衛の作。

・大中切車
寛政一一年(一七九九)の建造。工匠は吉右衛門。
からくり人形戯がある。
翁と唐子遊び我行われる。

・朝日町車
建造期不詳
からくり人形戯がある。
人形三体。
湯立神子と神官。

石採祭車

・南部車
大正五年の創建。
天幕は、猩々緋に素盞鳴命の八岐大蛇退治。

・中部車
大正六年の創建。
天幕は青緑地。竹に虎。

・北部車
大正六年の創建。
天幕は白地に神武天皇と八咫烏。

・唐臼町
昭和三一年、桑名市江戸町が建造した石取り車
南濃町駒野黄金山から外堀北を経て譲り受けた。
天幕は赤地に松平氏の星梅鉢を染め抜く。

00205 千田祭

2007年08月31日 | 日本の山車
00205 千田祭
和歌山県有田市千田一六四一
須佐神社
祭神は素戔嗚尊
境内社に天照皇大神社、月讀尊社、伊太祁曽社(遥拝所)がある。
伊太祁曽社とのかかわりが深かったようである。
由緒、和銅六年、紀ノ川上流の大和国吉野郡の西川峯から遷座したと伝えられる。
□祭は一〇月中旬。
太鼓臺六臺を曳く。

□汎論
鯛投神事、けんか祭の別名がある。伊太祁曽神社から氏子代表の参詣があり、伊太祁曽神社の祭にはここの須佐神社氏子が赴く。
延喜神名式には紀と出雲に共通する神社名がある。島根県の出雲氏は大阪府和泉を押さえ、次第に紀州に勢力を伸ばしたと推定する。応神天皇陵、仁徳天皇陵と伝えられる陵墓も出雲系かもしれない。

出雲意宇 熊野大社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野本宮大社
出雲大原 加多神社 とあるのは現在の 紀名草 加太神社
出雲意宇 速玉神社 とあるのは現在の 紀牟婁 熊野早玉神社
出雲意宇 韓国伊太神社 とあるのは現在の 紀名草 伊達神社
である。韓国伊太神社は伊太祁曽神社とのかかわりが考えられる。
岐阜県の伊太祁曽神社
岐阜県飛騨地方に伊太祁曽神社六社が祭られるのはこの神社を氏神とする氏族にかかわりがあろうと推定している。
熊野灘から木曽川を遡上し長野県安曇氏とおなじ経路をたどっている。
信州木曾は、伊太祁曽とかかわりがあるだろう。
紀伊續風土記
紀伊續風土記 巻之五十八 在田郡 保田荘 千田村から須佐神社の項に、
 境内方四町四十間 禁殺生
 祀神 素盞烏尊
 末社十社
  天照大神
  手力雄命
  伊弉諾尊        
  日本武尊社
  伊弉伊弉冉尊
  月讀尊 
   以上瑞籬の内にあり
  瀬織都理比賣社
  多紀理比賣社
  市杵島比賣社
  多紀都比賣社
  宇迦御靈神
  軻遇突知命
  大巳牟遅名社
  猿田毘古命社
   以上社地の内所々にあり

  神楽所 宿直所 與舎
  四脚門 寶蔵 御太刀寶蔵
  御装束間 御祈祷所 厩
  伊太祈曽神社遥拝所
 延喜式紀伊國在田郡須佐神社 名神大 月次新嘗
 本國神名帳在田郡従一位須佐大神

 村の西南小名西方にあり保田荘五箇村の産土神にして劔難の神と稱す劔難除の神符を諸人に與ふるを古例とす。郡中の大社なり郡中當社の外式内の神社なし 三代實録貞観元年正月二十七日甲申奉授紀伊國従五位下須佐神従五位上とあり、此地古須佐郷といひ今又近郷に宮崎等の名遺れるも當社あるを以てなり詳に宮崎宮原兩荘の總論に載す 又栂尾明恵上人傳記建仁元年の條に紀州保田荘中の須佐明神の使者といふ者夢中に來りて住處不浄を歎く事あり是古より今の社地に鎭座の明證といふへし社家の傳に和銅六年十月初亥日此地に勧請すといふ 社記曰此神舊在大和國芳野郡西川峯後移于此始祠向西海洋中往來之船不恭謹則飜覆破碎 元明天皇勅令南面今之社規是也とあり、寛永記に名草郡山東荘伊太祈曾明神神宮郷より亥森へ遷坐し給へる年月も是と同しきは故のある事なるへし當社領古は伊太祈曾神戸に接して名草郡にあり其地又當社を勧請せり 詳に名草郡山東荘口須佐村の條に辨す合せ考ふへし 天正の頃まては毎年九月初寅の日神馬十二騎山東伊太祈曾より來りて神事を勤めしといふこれ古の遺制なりしに今皆廢せり又日高郡富安荘當社及伊太祈曾神領なりし事あり 伊太祈曾社蔵久安文書是當社伊太祈曾の父神に坐すを以てなり。
天正七年、豊臣秀吉公信長公の命を受けて此地を畧せる時湯淺の地頭白樫左衛門尉實房内應をなし里民を強暴し神祠を毀壊す社家大江氏重正といふ者神器靈寶及縁起記録等を唐櫃二具に蔵め今の神祠の後光谷といふ谷の林中に隠す實房これを捜り出し或は火に投じ或は海水に没し亂虐殊に甚しこれに因りて當社の傳記文書の類一も傳はる者なく古の事蹟詳にするによしなし其後神殿を造營し今の姿となる社領没収の後も祭祀古の姿を模して九月十四日神輿渡御の祭禮流鏑馬等皆一時の盛なるを極むといふ元和年中、新に社領五石を寄附し給ひ享保年中、大慧公より御太刀御奉納あり 有徳大君御太刀一口御馬一匹を御寄附あり社務を岩橋安藝守といふ大江姓にして古より代々神職なり。
とある。

00203 美濃祭

2007年08月29日 | 日本の山車
00203 美濃祭
岐阜県美濃市
八幡神社
□祭 四月中旬
山車六臺を曳き、ねりもの、にわかが行なわれる。

□山車
・船山車 相生町
美濃市の山車では最も古い。
正保三年(一六四六)頃の山車は「だんじりやま」で「蜘蛛舞」の曳き物であった。
だんじりを曳く綱をつくるため近辺の村々から藁の寄付を得てつくったといわれる。
宝歴四年(一七五四)山車を新しく作りかえた。
宝歴十年、八幡社境内に山車蔵を建てた。
明和九年(一七七二)名古屋の末広町が延宝二年(一六七四)に建造し、
若宮八幡宮の祭礼で曳いていた「黒船車」が売りに出されたので
これを購めた。値段は五両だった。
その年十月、「黒船車」は解体し、船で上有知湊へ運び
翌、安永元年八月までかけて大改修を施し、八月十二日の八幡祭に
曳かれた。
天保年間に大改修が行われている
文化元年には町印を「いかり」にあらためた。
この黒船車は現在見られる黒船車とはだいぶん異なっていた
現在の黒船車は、明治三十一年(一八九八)に大改造され
人形や幕も新調された
この山車を相生町に譲った名古屋の末広町では、おなじ型の
船山車を作り長く曳いたが、戦災に遭い焼失した。

・浦島車 泉町
山車の柱に天保十三年(一八四二)名古屋車町の墨書きが残る
明治十二年に名古屋の幅新道町より譲りうけた。
上山は浦島太郎が鯛を釣って喜んで舞う。
見送りは万葉仮名の祝文が刺繍されている。

・布袋車 吉川町
大幕の箱書きに文化七年(一八一〇)の墨書きがあることからこのころのの建造と考えられている。
もと魚屋町が所有していたものを、明治二十五年に購入した。
上山人形は「布袋和尚」

・聖王車 新町
上山に「聖王」を飾る
人形の箱書きに享和二年(一八〇二)の墨書きがある。
人形が曵山と同時に作られたとすれば、享和二年には建造されたと思われる。
明治十三年に湊町から譲られた。

見事な彫刻が施される
緋の大幕には金の龍の刺繍がされている。
藩主であった金森公に因む

・三輪車 殿町
製作年代は不明
江戸時代と推定されている
明治二十五年岐阜の白木町から購入して、大改修をした。
上山人形が、謡曲「三輪」の一節を舞う

・靱車 常盤町
記録がなく製作年代は不明
名古屋益屋町に同型のものがあるので、江戸時代にはあったものと推定されている
常盤町にはこの山車以前に「唐子車」があったが破損したので
名古屋の富沢町から購入し、大修理をした。
明治三十一年に初めて曳かれた
上山には、大名、家来、猿回し、童子の四体の人形が乗り狂言の「靱猿」を舞う。

ねりもの
・笹渡り 加治屋町
神事行列の先頭先頭に立つ
笹渡りは旧上有知の氏神であった熊野社の古い神事であった
四神旗
笹の葉を小学生が六人で持つ、笹には各々に祝詞の記された。短冊が下がる。
囃子方は笛二人、鼓二人、太鼓一人いずれも裃姿である。

囃子は
「打切」
「津島」
「道行」
「戻り囃子」
この町内には、大正の初めまで「将棋」というねりものがあった。

・桃太郎 米屋町
明治二十二年、米屋町が出来たとき、町内に長子誕生を祝して
作られた御所車を譲り受け、黒馬を乗せた傘鉾をたてて曳き始めた
この傘鉾はそれ以前からあった?
大正十五年に車を改造して宝物を積んだ「宝車」にし、
桃太郎、犬、猿、雉が鬼ヶ島から凱旋する様子を行列に仕立てた。

・七福人 本住町

・浦島と乙姫 俵町

・牛若丸と天狗 魚屋町

・花咲爺 広岡町

・傘鉾 長重町

□汎論
美濃祭
旧美濃町の氏神である、八幡神社の祭礼で、明治末年までは「上有知祭」といわれていた祭は江戸時代に始まるという。「山車」「ねりもの」を中心とした神事行列は、明治初年から盛んになった。「流しにわか」が行われる。
昭和初期に始まる「花みこし」は春の美濃市を鮮やかに彩る。
山車は六臺
県の重要民俗文化財に指定されている
山車についての詳述は「美濃市史、通史編下巻」文化財、に記述されている。
八幡神社の祭礼は昔は旧暦の八月十五日だった。この日を八幡宮の祭礼日とする習慣は各地にあった。
神事が各町内の「ねりもの」でにぎやかになったのは、寛永十一年(一六三四)からとみられ。「上有知旧事記」に、「御祭礼八月十五日、往古よりこれあり候ところ中絶仕り、そのうちは「湯ノ花」ばかりと承り候。寛永十一年、申戊のとしより再行、またまた組々より「ねりもの」など拵え御神事にぎわしくまかりなり候」
とある。
祭礼日は、明治の新暦採用で十月十四、十五になり、明治十三年に九月十四、十五日に変更されたが、明治三十年現在の四月十四、十五日になった。
旧暦の八月十四、十五日には小祭が執行されている
「渡る」とは、「渡御」のことで、祭礼の山車やねりものが行列を作って練ることをいう。
渡りもの
山車やねりものを「渡りもの」といった


花神輿と町騒ぎ
上有知の各町内では種々の作り物をつくりこれを若衆連がかついで太鼓や「婆娑踊り」とともに町中を騒ぎ廻る。

雨乞いの最終行事
江戸時代からしばしば行われた。また、雨乞いの時ばかりでなく、「お鍬様祭」にもおこなわれた。何事かあると作り物を作ってかつぎ、騒ぎ廻ることを好む気風が習慣化し、定着したと考えられている。

にわか
江戸時代の吉原、京都島原などの花街の祭のとき風流人、頓知のある人、剽軽(ひょきん)な人などが、祭の練り物の後から「にわかじゃ」「にわかにおもいついた」などとよびあるき町の辻などでおもしろい即興劇を演じたのがはじまりといわれ、文化文政期には全盛となった。関東では囃子のついた「流しにわか」、関西では専門のにわか師がでて
「小屋にわか」、「お座敷にわか」となり、やがて、「舞臺にわか」が行われるようになった。明治初期には、関西喜劇の濫觴となった。
美濃祭の「にわか」は「流しにわか」の形を残す。
ほかに民間に残る「にわか」は、大阪府河南町寛弘寺に「小屋にわか」、博多仁輪加、大阪府河内の座敷にわかなどがある。

□山車文献資料
・美濃市史、通史編、上巻  昭和五十四年二月二十日発行
 編集発行、美濃市

00201 渋川祇園会

2007年08月25日 | 日本の山車
00201渋川祇園会
群馬県渋川市
八坂神社
祭は八月下旬(隔年)。
山車一九臺を曳く。

□山車
・裏宿
本坐人形は日本武尊、もと埼玉県鴻巣の山車の人形だったと言う。
大正三年、東京神田より山車の躯体(骨格のみ)を譲り受け組内の手で改修した、
先の山車も江戸より譲り受けたと言い、北牧の川原に譲渡したといわれる。

・川原町
本坐人形は神武天皇。
大正三年、東京神田より譲り受けた。
昭和二〇年、加藤虎三が彫刻を補作した。
先の山車は北牧に譲渡された。

・上ノ町
本坐人形は弁財功徳天。
明治二八年に埼玉県鴻巣町北嶋の吉見屋藤吉を介して譲り受けた。
もと北嶋氏が明治一八年頃に浅草で建造した山車だという。
先に、義経千本桜の佐藤忠信が乗る山車があったが譲渡された。

・中之町
本坐人形は龍神
大正三年に、高崎市田町が曳いていた山車を譲り受けた。

・下之町
本坐人形は素盞鳴尊。
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受ける

・新町
本坐人形は、神功皇后
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受けた。
明治三四年頃建造。

・寄居町
本坐人形は仁徳天皇。
大正二年、埼玉県鴻巣町より譲り受ける。

・坂下町
本坐人形は猿田彦命。
明治三三年の九月建造。
高崎市赤城町が建造した山車。
工匠は、高崎市柳川町の町田又平。
大正二年に譲り受ける。

・長塚町
本坐人形は菅原道真。
大正六年、高崎市鞘町より譲り受ける。

・並木町
本坐人形は日本武尊。
昭和二八年の建造。
昭和三二年に譲り受ける。
工匠は荒川政平。
彫刻は加藤虎三。

・南町
本坐人形は、八幡太郎義家。
昭和三三年の建造。
昭和四五年に譲り受ける
彫刻は加藤虎三。
明治の中ごろ回転式の山車を譲り受けたが、明治四二年に沼田町上之町に譲渡した。

・辰巳町
本坐人形は素盞鳴尊。
埼玉県本庄市の米福人形店の作。
昭和四六年の建造。
工匠は埼玉県寄居町の荒川和夫。
彫刻は行田市の高橋幹冶。

・熊野町
本坐人形は熊野皇太神。
昭和四九年東京新宿区花園町より譲り受ける
市内の南町の萩原工務店が改修。

・下郷町
本坐人形は大国主命。
昭和五五年の創建。
工匠は町内の渡辺司。
渋川市で唯一のからくり人形戯がある。

・東町
本坐人形は菅原道真。
昭和六三年の建造。
工匠は子持村の入内島秀男。

・入沢
本坐人形は北条時頼。
昭和六一年の建造。
工匠は杉田大吉。

・上郷
本坐人形は源九郎判官義経。
昭和五一年の建造。
昭和五十三年に改修。

・金井南町
屋臺を曳く。

□問い合わせ
渋川市商工観光課
電話0279-22-2111

00200 栃木秋祭

2007年08月25日 | 日本の山車
00200 栃木秋祭
栃木県栃木市
神明宮
護国神社
太平山神社
□祭は十一月中旬(五年毎)
山車九臺を曳く。

□山車
・万町一丁目
本坐人形は天照大神。
明治二十六年、万町の有志者が東京日本橋本石町の人形師、三代目法橋原舟月により作られた
屋臺の下臺を飾る大幕は金襴幕四張
中臺は金糸による刺繍
人形の衣装は綾蘿錦繍(りょうらきんしゅう)
緞帳も金糸銀糸の刺繍が施される
人形の衣装と持物
天叢雲剣、八たの鏡、八勾曲玉
三味線胴の彫刻
四神
中段の木瓜
半割枠の極彩色十二支
額縁
波に亀
この山車は、天照大神の人形の前に劉備玄徳を飾っていた
このため岩座の四神は名残となっている
上段大幕は黄帝が反乱を鎮めるため力を借りた飛龍が刺繍されている
十二支に見立てる

・万町二丁目
本坐人形は三國志の関羽雲長
明治二十六年東京日本橋の人形師、
三代目法橋原舟月に依頼して製作
屋臺の上臺大幕は金襴幕四張
中臺の幕は緋毛氈に刺繍される
衣服は綾蘿錦繍
三味線胴の龍の箔押し
下臺二重臺の唐獅子に瑞雲の彫刻
台輪の波の深彫
意は二と同義?

・万町三丁目
本坐人形は素盞鳴尊
明治二十六年東京日本橋本石町の法橋原舟月の作
中臺は四神を刺繍している
正面は朱雀
右は白虎
左は青龍
裏面は玄武
上臺はせりあげ式(繰上式)
彫刻は
青海波
牡丹に唐獅子
など
三味線胴の箔押し、龍の彫刻
二重臺の唐獅子の彫刻
柱隠しの菊の透かし彫
臺袴の波の深彫
囃子臺欄間の鳳凰
衣服は綾蘿錦繍

・倭町一丁目
雌雄の獅子頭を舁く舁山で、
右に雄
左が雌
江戸時代、日光東照宮の造営に当たった工人が、当地に足をとどめ
作ったという言い伝えがある
何度か火災に見舞われたが、災難を逃れ夫婦健在であることから
夫婦和合、鎮火の霊験があるといわれている。

・倭二丁目
本坐人形は神武天皇
明治二十六年、東京日本橋本石町の人形師、三代目、法橋原舟月の作
三味線胴のなかに彫られた牡丹に唐獅子
欄間は鳳凰
臺袴の極彩色牡丹、孔雀、錦鶏
中段の大幕は羅紗地に八方睨みの龍
地元、渡辺喜平治や一門の手になる

・倭三丁目
本坐人形は静御前
もと東京日本橋の伊勢、小田原、瀬戸物の三町共有の山車であった
もの、明治七年に譲られた
太刀を背に扇を持って舞う姿
作者は松雲齋徳山で、嘉永元年(一八四七)の作と伝える
鶴ヶ岡八幡で舞う静の姿
三つ巴の神紋が向拝幕や刎勾欄の金具に見られる
清和源氏の流れを汲む花菱紋
が三味線胴の隅金具
特に
上段大幕の鶴と瑞雲
下段大幕の若松
は見事というほかない
静御前山は、かって江戸の室町ほかの共有で、加茂の能人形、本石町の所有、乗妙一來法師、などとならぶ山王祭では五指にはいるといわれる名臺だったが、幕末の元治元年に曳かれたまま曳かれることはなかった。
江戸の山王権現社も明治以降は日枝神社と改名され、吉野静は舟に積んで隅田川を上り巴波川(うずまがわ)を経て栃木に着いたという。

・室町
本坐人形は桃太郎
山車は三段式
総欅造
中段大幕正面には御祭禮の文字が金糸で刺繍されている
明治二十八年
佐野の大沢銀之丞の作
正面六尺
奧行九尺高さ十八尺
その上に七尺五寸の人形を飾る
囃子臺欄間の波に千鳥の彫刻
正面に昇龍
側面は遊泳する鯉

・泉町
本坐は諫鼓鳥
もと宇都宮にあったものを明治七年に譲り受けた、幕末頃の作といわれる。
作者は不明
中国の故事に、尭帝のころ朝廷の門前に太鼓を置き、政道の誤りある時は
人民にこれを打たせて民意を聞こうとしたが太鼓は一度も鳴ることはなく、諫鼓苔深くして、鳥驚かずという状態だった。このことから、国がよく治まる天下太平の象徴となった江戸の山王祭には、大伝馬町の諫鼓鳥が曳かれている。

・大町
本坐人形は武蔵坊弁慶
ときに変更される
正面の柱には昇龍、降龍の彫刻
欄間の正面は花鳥の彫刻
裏格子(側面?)は葡萄に木鼠
豊作祈願
松に鶴
千年の寿齢を賀す。
脇は波に亀
前垂れは鶯宿梅
これらの彫刻は嘉永年間、富田宿の二代目、自在甚五郎をなのる通称、儀兵衛、磯部蟻義の作と
いわれる白木透かし彫。

□問い合わせ
栃木市商工観光課
電話0282-22-3535

□山車文献資料
・栃木市史 民俗編、史料編、近現代編1-2、通史編
・栃木の江戸型山車 平成六年十二月三日発行 編著者太田義男
・江戸型山車の行方 千代田区教育委員会 千代田区
・東京年中行事 1-2、若月紫蘭
・易と日本の祭祀 吉野裕子
・神々の誕生 吉野裕子
・暦と占いの科学 永田久
・年中行事を科学する 永田久
・十二支物語 諸橋轍次
・日本のかたちアジアのかたち 杉浦康平
・韓国紋様辞典 河出書房新社
・武江年表、1-2 斉藤月岑著、金子光晴校注
・絵本江戸風俗往来 菊池貴一郎
・江戸建築叢書 大熊喜邦
・面とペルソナ 和辻哲郎


00200 粉河祭

2007年08月25日 | 日本の山車
00200 粉河祭
和歌山県紀の川市(旧粉河町)粉河
産土神社
祭は七月下旬。
燈明臺を曳く。

□山車(燈明臺)
・本町
・中町
・東町
・北町
・葵町
・根来町
・天福町
・這上り町
・鍛冶町
・石町
・蔵之町
・松ヶ枝町

□汎論
粉河街道
泉佐野市から和泉山脈の灯明岳、三峰山を越え、紀の川谷に通じる街道は、粉河寺への参拝街道として古くからにぎわった。
粉河町
紀の川の北岸に粉河寺の門前町として発達し、伊勢と淡路街道の分岐点で、高野大門にいたる西高野街道にいたる河港だった。
粉河寺
風猛山粉河寺といい、七七〇年(宝亀一)の創建と伝えられ、天台宗の西国三十三所霊場第三番の札所である。鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北共四キロ余りの広大な境内地があったといい、寺領四万余石を有していたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の兵乱にあい焼き払われた。このとき多くの寺宝を焼失したが、再建され、江戸時代は紀州徳川家の保護や信徒の寄進によつて徳川時代中期に現在の諸堂が完成した。那賀郡第一の大郷といわれる町となった。古来釣鐘の鋳造がおこなわれ、粉河鍛冶町ともいわれた。粉河寺の多宝塔は国宝の指定を受け、八暢神社、大日堂などがある。
有名な粉河寺縁起絵巻、絵巻物の一巻が伝わる。粉河寺縁起絵巻は鎌倉時代初期、十二世紀後半に絵巻に描かれたという。絵巻は粉河寺の縁起と本尊千手観音の霊験説話を描く。もとは二巻だったが、いまは一巻にまとめられている。火災で巻頭部を失った。第一の説話は、宝亀元年(七七〇)に大伴孔子古が千手観音を祭り、粉河寺を開いた由来、第二の説話は河内国の長者の娘が観音の加護をえて難病から救われたという霊験絵物語である。粉河町では、燈明台と呼ぶ丈の高い独特の山車(燈明臺・だんじり)を曳く。

□問い合わせ
紀の川市商工観光課
電話0736-73-3311


01560 来頭神社祭

2007年08月24日 | 日本の山車
01560 来頭神社祭
岐阜県揖斐郡大野町稲富字井口山
来頭神社
祭は四月上旬。
□九月上旬
かっては曵山があった

□汎論
祭には「来振囃子」か演奏される。
町内にはほかに雨乞い踊りがあり、地区内の五つの神社に奉納される。

□参考
雨乞い
・岐阜県垂井町表佐(おさ)


00192 青森ねぶた祭

2007年08月24日 | 日本の山車
00192 青森ねぶた祭
青森県青森市
祭は八月上旬。

□汎論
東北の短い夏、巨大な人形型行燈山車をつくって曳く。民俗色の濃い祭である。
「ねぶた」は、眠り流し行事が起源といわれ、最終日には海に流すことから、精霊流し、凶事流し、病気やらいなど諸説がある。
同じ青森県内でもその態様はさまざまである。

□問い合わせ
青森市総務部広報課
電話017-734-1111
青森ねぶた祭実行委員会事務局
電話017-723-7211

□参考
眠り流し神事。
・熊本県阿蘇一宮神宮。
・富山県滑川市。
・福島県長沼町。

青森から近年伝播したねぶた祭
・神奈川県藤沢市。
・群馬県尾島町。
・鹿児島県知覧町。
・長崎県五島。
など。


00190 大須賀祭

2007年08月24日 | 日本の山車
00190 大須賀祭
静岡県大須賀町西大淵五、六三一-一三
熊野神社
□祭は四月上旬
袮里(ねり)十三臺を曳く。

□三山車
・い組 西本町
本坐人形は、太田道灌。昭和二十六年、横田人形店の作。
下臺は昭和三十一年の建造。
上臺は大正末期の建造。
天幕は牡丹に孔雀を刺繍する。

・ろ組 東本町
本坐人形は司馬温公の甕割り
大正八年、浜松市月隅田屋人形店の作。
下臺は昭和六十三年の建造。
上臺は昭和二年建造。
天幕は大正十二年、大阪高島屋の鳳凰に桐。

・は組 中本町
本坐人形は高砂。
明治十五年、浜松の勝栄堂の作
昭和八年の建造。
平成十五年に修復を行う、工匠は山与清水建築の清水啓市。
彫刻は浦部一郎。
天幕は昭和八年、大石栄雄の下画による。

・ち組 十六軒町。
本坐人形は須佐之男命・
大正八年、東京浅草の庄田七郎兵衛の作。
大正八年の創建。
平成十三年の建造。
彫刻は大正八年、彫刻は中山由太郎。
天幕は大正八年の作、龍の刺繍。

・か組 河原町
下臺は昭和六十一年建造。
彫刻は嘉永三年、立川昌敬。
昭和十二年に、東京麹町の藤島とよあきの川中島

・た組 東田町
人形は大正十二年、浜松の勝栄堂栄勝作の京都五条橋
下臺は平成十四年の建造。
彫刻は大正十一年、中山由太郎。昭和三〇年頃、浦部一郎が補作という。
天幕は大正一二年、名古屋の梅金縫製の、龍門の鯉の滝昇り。

・ゑ組 軍全町
人形は浜松の隅田屋人形店の作で、大森彦七。
大正十二年の建造。
天幕は大正一二年、波に槌車。

・あ組 新屋町
人形は昭和三年、浅草庄田七郎兵衛の作で、神功皇后
平成七年の建造。
工匠は福田町の大橋元一。
彫刻は松林氏。
上天幕は昭和三年、松坂屋謹製「雲龍」。天幕は大正三年、「桐に鳳凰子持ち三つ巴」。
彫金は平成七年、愛知県刈谷市の村井親子。

・め組 東新町
本坐人形は明治十三年、旭日に鶴。
下臺は平成元年の建造。
彫刻は明治十五年の作、瀬川治助重光。
上天幕は大正九年、東京白木屋縫製の注連縄。
天幕は平成元年、小田刺繍店の鶴に若松。

・み組 西大渕
本坐人形は昭和二十三年、隅田屋人形店の作で、南総里美八犬伝に題をとる。
平成十二年の再建。
彫刻は平成十三年、松村洋。
上天幕は昭和三十五年、小田刺繍店の注連縄
天幕は昭和二十三年、小田刺繍店の龍虎。

・旭組 西新町
本坐は二見ヶ浦の旭で、明治期の作。
大正一〇年の建造。
人形。「二見ヶ浦」。
天幕は大正十三年、東京三越の竹に虎。

・せ組 工匠町
本坐人形は、新田義貞。昭和四十七年、森町の亀八人形店の作。
上臺は明治初期建造。
下臺は昭和七年の建造。
天幕は大正十三年、東京三越の竹に虎。

□汎論
山車を袮里(ねり)とよぶのは、古来練物であった名残であろう。

00187 日高火防祭

2007年08月24日 | 日本の山車
00187 日高火防祭
岩手県奥州市水沢区
日高神社
□祭は4月下旬。
山車(囃子屋臺)を曳く。

□汎論
日高火防祭
屋臺はかって大屋臺とよばれ、九臺あっていうれも曳かれるが、もとは舁山で、百人あまりの人数で舁いたと言われる。屋臺の床が雛段式に作られていて、雛壇状の囃子屋臺には、裃をつけた可憐な女児たちが小太鼓を前に居並び、あたかも雛人形を思わせる可憐さである。 前面から小太鼓(一五からニ○人)、後方に三味線(五人)が振袖に肩衣姿で居並び、笛の伴奏で華やかな演奏をみせつつ運行する。日高囃子は、少女らにより演奏されるが、岩手県の無形民俗文化財に指定されている。
神幸は、従来六組の町印が打囃子をともなって先頭にたち、大屋臺の屋臺囃子、二五歳、四二歳の厄年連による俄がこれにつづいた。町印はもと六カ町が持つ町組の標識で、町を六組に編成した火消組に藩主が与えた文字である、鎮、定、防、火、心、仁が後年屋臺組の名に転じたといわれる。
町印は、柱の頭に「火の玉」と称する球形を載せ、その下に町名を書いた箱形や行燈、その下に一段大きな球形をつける。上下の球形部分には馬簾という花枝を放射状に挿し飾るが、以前はずいぶん大きく、柱に綱をかけ四方から引っぱって倒れないようにしながら巡行したという。
横町の例のように球形部分が笠状となるものがが古形態とされ、横町では二本の綱を付け頭巾を被った幼児二人が引いて先行する。
屋臺は、障子屋根をさしかけ単層吹抜の屋形四輪の囃子屋臺で、正面奥の棚には獅子頭を飾る。
旧水沢市は、高野長英、後藤新平、斎藤実らが出たことでもよく知られる。

□問い合わせ
奥州市水沢総合支所商工観光課
電話0197-24-2111