暘州通信

日本の山車

◆高木彬光氏は一里を約143メートルと記述

2018年05月29日 | 日本山車論
◆高木彬光氏は一里を約143メートルと記述

 当稿記述後に、作家の高木彬光氏は、『邪馬台国の秘密』 光文社刊 
で、「一里を約143メートル」と記述されているとご教示いただきました。高木彬光氏の説に従えば、朝鮮半島(韓半島)の帯方郡(平城付近)から邪馬臺國まで、一万二千里は、84キロメートルくらいになるようです。

不彌から邪馬臺國までは、およそ10キロメートルくらいでしょうか。

◆邪馬臺國の位置の推察 八

2018年05月20日 | 日本山車論
◆邪馬臺國の位置の推察 八

 一里はおよそ100メートルくらいか?

 魏志倭人傳(『魏書 東夷傳 倭人條』)の記述における距離の記載について、邪馬臺國がが存在したころの「一里」とは、いったいどれくらいの距離だろうかということは重要な問題である。これを分権委探る試みがいろいろなされているが、
たとえば、諸橋轍次氏の『大漢和辞典』では、およそ500メートルとある。
 これでは、帯方郡から奴國までが、21キロメートル強くらいとなり、帯方郡から邪馬臺國までは一万二千里であるから、24キロメートルと換算されて、これでは、実地にそぐわない。ほかにも短里説、長里説などをはじめ、独自の見解もたてられている。
 筆者は私的見解として、仮に『魏志倭人傳』に記載される帯方郡から邪馬臺國までの距離の1万2千里は、およそ100キロメートル(一里を120メートルとして換算)。帯方郡から不彌國までだと、およそ89キロメートル強くらい。不彌國から、邪馬臺國までのは千三百里であるから、換算すると、約11キロメートルとなる。
 邪馬臺國の所在地は、不彌國を宗像界隈とすればそこから東から東南、あるいは南に向かい、誤差を見込んでも20キロくらいであろうか。

 もし、この仮説が正しければ、邪馬臺國、九州西部部説、九州南部説。さらには畿内説は成立しないことになる。