玉依姫 様 (二一六)
なんとなく、鞍作止利は新羅系の佛師の印象がありますが、四天王寺、法隆寺は、百濟系の寺院であり、ハクスキノエ(白村江)の激しい争いで、まもなく百濟が滅亡したことを考えると疑問も生じるところです。
佛教公伝とは別に、渡来系氏族が私的に信仰していた念持佛がかなり持ち込まれていたようで、関西には、紛れもない飛鳥佛小像が大切に保存されているのを見かけます。
佛教において佛像が像顕されるようになったのは、ギリシャ彫刻の影響が大きいとされ、ガンダーラにはすぐれた彫像が造られたようです。その時期は少なくとも三世紀以後ではないでしょうか。言い換えると、釈迦入滅以後六〇〇年ー七〇〇年以上は、偶像が作られることはなかったはずです。
【阿弥陀如来】は日本では平安時代以後に多くの信者が生まれましたが、釈迦の旧地であるインドにはおそらくなく、【大無量寿経】、【観無量寿経】、【佛説阿弥陀経】などは、西域の文化と褶合し、中央アジアから中国に伝来する過程で成立したと推定されます。
【西方浄土】ということばがあり、なんとなくインドをイメージしますが、バクトリア(大月氏國)から、イランあたりを指すと考えるべきかもしれません。
なんとなく、鞍作止利は新羅系の佛師の印象がありますが、四天王寺、法隆寺は、百濟系の寺院であり、ハクスキノエ(白村江)の激しい争いで、まもなく百濟が滅亡したことを考えると疑問も生じるところです。
佛教公伝とは別に、渡来系氏族が私的に信仰していた念持佛がかなり持ち込まれていたようで、関西には、紛れもない飛鳥佛小像が大切に保存されているのを見かけます。
佛教において佛像が像顕されるようになったのは、ギリシャ彫刻の影響が大きいとされ、ガンダーラにはすぐれた彫像が造られたようです。その時期は少なくとも三世紀以後ではないでしょうか。言い換えると、釈迦入滅以後六〇〇年ー七〇〇年以上は、偶像が作られることはなかったはずです。
【阿弥陀如来】は日本では平安時代以後に多くの信者が生まれましたが、釈迦の旧地であるインドにはおそらくなく、【大無量寿経】、【観無量寿経】、【佛説阿弥陀経】などは、西域の文化と褶合し、中央アジアから中国に伝来する過程で成立したと推定されます。
【西方浄土】ということばがあり、なんとなくインドをイメージしますが、バクトリア(大月氏國)から、イランあたりを指すと考えるべきかもしれません。