みち藤さんから次のお問い合わせがありました。
教えてください。 (みち藤)
2012-02-25 12:21:39
宮本(住江)町の山車や人形が立川市砂川からの話はどこから解るものなんでしょうか?気になり今頃コメントさせてもらいました。
次のように簡単にお返事させていただきました。
みち藤 様
(一人閑(ひとりしずか))と申します。
2012-02-25 19:11:39
ご訪問ありがとうございます。典拠は【寥郭堂資料】によります。青梅市住江町の山車は、人形とともに旧砂川村(現立川市)より譲り受けたと伝わります。旧砂川村は明治二二年に神奈川県北多摩郡砂川村となり、さらに明治二六年(一八九三)に、北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡とともに東京府(現東京都)に編入されています。旧砂川村は一〇地区に分かれ、養蚕が盛んで巨富を得たようで、その一部を山車の建造に当てたようですが、多忙のため山車を曳くことが出来ず、いずれも青梅市、府中市、日の出町、瑞穂町、所沢市、羽村市、飯能市など。東京都、埼玉県など各地に譲られました。そのいくつかは現在も曳行されています。
次のご回報がありました。
ありがとうございました
(みち藤)
2012-02-29 18:26:05
ありがとうございました。
寥郭堂の読みかたも解らずまたまだ理解しきらずに知人に教えたりしてます。
自分の住む森下町の武内宿禰の山車人形の太刀の鍔には大和屋吉右衛門が寄進の銘が刻まれてます。このことも寥郭堂資料にあると嬉しいんですが。
みち藤 様
一人閑(ひとりしずか)です。ご訪問ありがとうございます。
先日のお返事に加筆させていただきます。
①【寥郭堂】は「りょうかくどう」と読みます。
②【寥郭堂文庫】の山車関係所蔵品は、現在、飛騨高山(岐阜県高山市)を本拠として、富山県、滋賀県、京都府、兵庫県、長野県、神奈川県などに分散保存しています。
③【寥郭堂】の名称は、京都の二条家に近かった【乾山】が庵を【稜郭堂】と名づけていました。
④新潟県の秋艸道人・會津八一氏が寓居を【寥郭堂】と名づけられていたそうです。
⑤會津八一氏は終戦間際の昭和十九年〔一九四四)に出版された【山光集】の出版に関わりがありましたが、山光集は世に出る前に罹災して失われたとつたわります。寥郭堂文庫には、同書の題簽と一部のみが残されています。
⑥大和屋吉右衛門については、知識がありませんが、齋藤月岑(さいとうげっしん)の著作『武江年表』に記述があるといわれます。探してみてください。
教えてください。 (みち藤)
2012-02-25 12:21:39
宮本(住江)町の山車や人形が立川市砂川からの話はどこから解るものなんでしょうか?気になり今頃コメントさせてもらいました。
次のように簡単にお返事させていただきました。
みち藤 様
(一人閑(ひとりしずか))と申します。
2012-02-25 19:11:39
ご訪問ありがとうございます。典拠は【寥郭堂資料】によります。青梅市住江町の山車は、人形とともに旧砂川村(現立川市)より譲り受けたと伝わります。旧砂川村は明治二二年に神奈川県北多摩郡砂川村となり、さらに明治二六年(一八九三)に、北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡とともに東京府(現東京都)に編入されています。旧砂川村は一〇地区に分かれ、養蚕が盛んで巨富を得たようで、その一部を山車の建造に当てたようですが、多忙のため山車を曳くことが出来ず、いずれも青梅市、府中市、日の出町、瑞穂町、所沢市、羽村市、飯能市など。東京都、埼玉県など各地に譲られました。そのいくつかは現在も曳行されています。
次のご回報がありました。
ありがとうございました
(みち藤)
2012-02-29 18:26:05
ありがとうございました。
寥郭堂の読みかたも解らずまたまだ理解しきらずに知人に教えたりしてます。
自分の住む森下町の武内宿禰の山車人形の太刀の鍔には大和屋吉右衛門が寄進の銘が刻まれてます。このことも寥郭堂資料にあると嬉しいんですが。
みち藤 様
一人閑(ひとりしずか)です。ご訪問ありがとうございます。
先日のお返事に加筆させていただきます。
①【寥郭堂】は「りょうかくどう」と読みます。
②【寥郭堂文庫】の山車関係所蔵品は、現在、飛騨高山(岐阜県高山市)を本拠として、富山県、滋賀県、京都府、兵庫県、長野県、神奈川県などに分散保存しています。
③【寥郭堂】の名称は、京都の二条家に近かった【乾山】が庵を【稜郭堂】と名づけていました。
④新潟県の秋艸道人・會津八一氏が寓居を【寥郭堂】と名づけられていたそうです。
⑤會津八一氏は終戦間際の昭和十九年〔一九四四)に出版された【山光集】の出版に関わりがありましたが、山光集は世に出る前に罹災して失われたとつたわります。寥郭堂文庫には、同書の題簽と一部のみが残されています。
⑥大和屋吉右衛門については、知識がありませんが、齋藤月岑(さいとうげっしん)の著作『武江年表』に記述があるといわれます。探してみてください。