暘州通信

日本の山車

◆21536 平塩舞楽

2010年03月28日 | 日本の山車
◆21536 平塩舞楽
山形県寒河江市
熊野神社
□行事は四月上旬。
 熊野神社は、おなじ寒河江市にある瑞宝山慈恩寺とおなじように、僧行基が紀州(和歌山県)の三所権現から分霊を勧招して祀る神社である。慈恩寺、河北町谷地八幡宮には林家舞楽が伝わるが、熊野神社には、平塩舞楽が伝えられる。もとは林家によって舞楽が奉納されていたが次第に平塩の人たちに移ったといわれる。
 演目には、振鉾(えんぶ)、散手(さんじゅ)、太平樂(たいへいらく)、安摩(あま)、二ノ舞 、三臺塩(さんたいえん)、還城楽(げんじょうらく)、抜頭(ばとう)、蘭陵王(らんりょうおう)、納蘇利(なそり)の十番の演舞がおこなわれ、県指定の無形民俗文化財となっている。

◆21535 林家舞楽

2010年03月28日 | 日本の山車
◆21535 林家舞楽
山形県寒河江市
慈恩寺
□行事は五月上旬。
□汎論
 慈恩寺には、林家舞楽(はやしけぶがく)とよばれる古い舞楽が継承されている。大阪天王寺の林家に伝承される。林家舞楽、宮中舞楽、四天王寺舞楽、南都楽所舞楽と比肩され、日本四大舞楽の一つに数えられ、重要無形民俗文化財に指定されている。
 山形県には古くは各地におこなわれていたといわれるが、現在おこなわれているのは、おなじ山形県内の西村山郡河北町、谷地八幡宮の秋祭があげられる。
 瑞宝山慈恩寺は、僧行基の開山になる寺院で草創は、神亀元年(七二四)、慈恩宗の本山で本尊は弥勒菩薩。多くの仏像、菩薩像などがあり、国、県の文化財に指定されているがほとんどは非公開である。
 林家舞楽の伝承曲目は、燕歩、三臺、散手、太平楽、喜禄、二ノ舞、還城楽、抜頭、蘭陵王、納蘇利の十曲が伝えられるが、慈恩寺では、五月上旬の一切経会のさい、燕歩、敵手、太平楽、陵王など八番が奉奏される。

◆01567 保呂羽山霜月神楽

2010年03月27日 | 日本の山車
◆01567 保呂羽山霜月神楽
秋田県横手市(旧大森町)大森町八沢木字保呂羽山
保呂羽山波宇志別神社(ほろわさんはうしわけじんじゃ)
□祭神
アンカンテンノウ 安閑天皇
合祀 
ホムスビノカミ 火産霊神
スサノオノミコト 須佐之男命
キクリヒメノミコト 菊理姫命
オオヒルメノミコト 大日□命(□は文字なし)
スガワラミチザネ 菅原道真
カナヤマヒコノミコト 金山毘古命
ウカノミタマノミコト 稻倉魂命
オオナムヒノカミ 大名持神
スクナヒコナノミコト 少彦名命
イワトワケノカミ 岩戸別神
ヤオモイカネノミコト 八意思兼命
イザナギノミコト 伊邪那岐命
フツヌシノミコト 経津主命
サルタヒコノミコト 猿田彦命
天津御女命
タケミナカタノミコト 健御名方命
オウジンテンノウ 応神天皇
オオヤマツミノミコト 大山祇命
オオヤマクイノミコト 大山咋命
□神事は十一月上旬。
□汎論
 保呂羽山波宇志別神社は延喜式神名帳に記載される古社。神社の神事に付属して神職が古くから神楽を奉納してきた。古くは旧暦の十一月(新暦の十二月)に行われてきたので霜月神楽の名があるが、現在は、新暦の十一月に行われる。
 民俗伝承に、春になると山の神は山から里に降って、田ノ神となり、秋の収穫が終わるとまた山に戻って山ノ神にもどる。これにあわせて「神迎え」と「神送り」が行われる。神迎えの祭では、大釜に湯を沸かし、神官あるいは巫女は沸き立つ湯の中に竹や笹をひたし、この湯を参詣人に振り掛ける「湯たて神事」、「湯の花神事」が各地で行われる。富山県の雄山神社には驚くような湯立て釜が保存されていてかつては多くの参詣者があったことをうかがわせる。この湯にかかると一年を健康、息災に過ごせるといい、参詣人がひしめく。中部地方には岐阜県の羽島市をはじめ山車の上に巫女が立って大釜の湯(五色の色紙)を振りまくからくり戯にも取り入れられている。
 「山ノ神」はたいへん嫉妬深い女性とされるが、オオヤマツミノミコト(大山祇命)、オオヤマクイノミコト(大山咋命)は男性神なので「山ノ神」ではないので神代巻に一致しない。
 保呂羽山神楽は、保呂羽山波宇志別神社の里宮(大森町八沢木木ノ根坂)に神楽座を設け、保
呂羽山、御嶽山、高嶽山の三山の神々を勧請し、大友氏が斎主となって近郊の楽人や氏子が集まり、夕刻より 翌朝にかけて夜を徹して奉齋され、「寄合神楽」とされている。
 神楽は三十三番からなり、一番おきに、湯箒を持って四方を拝する「湯加持」を舞う。
十一番目の天道舞は湯立ての本舞いで、十九番が、「山の神舞」で、夜の丑の刻に舞う最も重大な
舞とされる。保呂羽山霜月神楽の次第は古記録が失われ、現存する「保呂羽山御開山以来之次第」記録に天正十八年(一五九〇)とあることから、この年を濫觴とする説があるが、起源はさらに古く、民俗行事と神事が褶合したと考えられる。国の重要無形民俗文化財に指定されている。保呂羽山の中腹には波宇志別神社の神楽殿があり国の重要文化財に指定を受けている。
保呂羽山(ほろわさん)は、秋田県横手市大森町にある矢まで標高四三八メートル、鳥海山系の山で、古代には山そのものをご神体とする神南備山であろう。「ホロワ」はアイヌ語で「神聖なる霊山」の意だという。横手市(旧大森町)の保呂羽山、湯沢市の御嶽山、大仙市の神宮寺嶽に祀られている三神は三姉妹だという民間伝承がある。


◆21428 小迫の延年 

2010年03月27日 | 日本の山車
◆21428 小迫の延年 
宮城県栗原市(旧金成町)
白山神社
□汎論
 旧金成町(かんなりちょう)小迫の延年(おばさまのえんねん)は、白山神社は三迫の総鎮守である白山神社の例大祭に付随して行われてきた。祭には、ちゃれこ舞とよばれる獅子舞、献膳、御山開きとよぶ御法楽、入振舞(長刀舞)、飛作舞(胡蝶舞と青陽舞)、田楽舞の奉納がある。小迫の延年は、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。
 岐阜県美濃の長滝にある美濃馬場の白山神社でも新年早々に延年が行われ、農事に則った所作が行われ、社前に飾られたお花を奪い合う「花奪い祭」が行われる。小迫の延年もまた、豊作を予祝する神事として行われる。飛作舞とよばれる胡蝶舞、青陽舞、また田楽舞は古式の神事として注目されるべきだろう。
 岩手県の平泉にある毛通寺にも延年が伝承されている。

◆05962 堤島神社祭

2010年03月27日 | 日本の山車
◆05962 堤島神社祭
岩手県志和郡紫波町大巻金矢
堤島神社(つつみしまじんじゃ)
□祭神
宗像三女神
イチキシマヒメノミコト 市杵島姫命
タギツヒメノミコト 湍津姫命
タゴリヒメノミコト 田心姫命
□祭は九月中旬。
山車一臺を曳く。
□汎論
 島神社の創祀は元禄十二年(一六九九)。
 紫波町の大巻地区には南部藩の農業振興のため農五町歩におよぶ業用水の貯水池である「大巻堤」があったが、たびたび決壊して氾濫し、村落に被害を及ぼしたため、これを憂慮した南部家第三十代南部信濃守行信公の子光源院は、江ノ島(神奈川県)の弁財天の分祀をうけ、大巻堤の守護神として勧請したのに始まると伝えられる。
 池の中には、大島(沖津宮)、中島(中津宮)、小島(辺津宮)の三つの島が築かれたと伝えられる。近年土地基盤整備により、中島、小島は無くなり、大島のみが残されている。


◆02375 志賀理和気神社祭

2010年03月27日 | 日本の山車
◆02375 志賀理和気神社祭
紫波郡紫波町桜町字本町川原
志賀理和気神社(しがりわけじんじゃ)
□祭神
フツヌシノミコト 經津主命
タケミカヅチノミコト 武甕槌命
合祀 
オオナムチノミコト 大己貴命
スクナヒコナノミコト 少彦名命
サルタヒコノミコト 猿田彦命
ウケモチノカミ 保食神
フナタマノミコト 船靈命
□祭は九月上旬。
□山車
・上組
・下組
・一番組
・橋本組
□汎論
 志賀理和気神社(しがりわけじんじゃ)は、延喜式神名帳に記載される古社。延暦二十三年(八〇四)、坂上田村麿が東北開拓の守護神として、香取・鹿島の二神を勧請して創祀したと伝わるがが、出雲系の神々が鎮座し、こちらのほうが祭神として古いのではないかと疑問がある。社名は、「しがりわけ」「しがりわき」「しかりわけ」などと称されてきたといわれるが、現在は「しがりわけじんじゃ」と称される。
 境内に「赤石」と呼ばれる霊石があり、斯波孫三郎詮直公が北上川で見つけた紫の石で、水波が紫色になったといい、この霊石が地名の紫波になったといわれる。もとは社殿のうしろにあったが、現在は移動し玉垣でかこわれている。佐渡の「赤玉石」とは同質のものだろうか。

◆01053 悪石島の来訪神

2010年03月27日 | 日本の山車
◆01053 悪石島の来訪神
鹿児島県十島村
□行事は七月中旬の盆の行事
 トカラ列島の「悪石島」を紹介した資料によると、悪石島の面積は七・五キロ平方メートル。人口は七〇人足らず、島の周囲は十三キロメートル、最高地点は御岳で五八四メートルとある。
 「ボゼ」とよばれる来訪神は、トカラ列島の中でも悪石島にのみ伝わる。
 異様な仮面をつけた来訪神が各家を訪ね、子供が怖がって逃げ回る。記録がまったくなく、いつごろどこから伝わったかまったくわからないという。然し、その面体は南洋方面の習俗をうかがわせ、秋田県に伝わる「なまはげ」にも通じるものだろう。


◆01389 立花神社祭

2010年03月26日 | 日本の山車
◆01389 立花神社祭
宮崎県児湯郡高鍋町
高鍋町北高鍋(宮越)
立花神社
□祭神
アマニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト 天饒石国饒天津彦火瓊々杵命
□祭は七月下旬。
□山車(太鼓臺)
□汎論
 江戸時代は秋月氏の納める高鍋藩の城下町だった。古くは「財部」と言い、「高鍋」と改称されたのは江戸時代である。藩に学問所の明倫堂を設け、子弟の人材育成に力を注いだ教育藩だった。出羽(山形県)の米沢藩の財政危機を救った藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)は、名君として知られるが、この日向高鍋藩主秋月種美の次男として生まれた。幼名を松三郎といい、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り直松に改名、元服後は治憲という。宝暦十三年(一七六三)より尾張出身の折衷学者である細井平洲に学問を学い生涯の師仰いだ。妻に迎えた藩主の娘である幸姫(よしひめ)は脳障害があり、発育不全の面があったが鷹山は妻を愛していたわり、妻と一緒になって、雛遊びや玩具遊びの相手をしたと伝えられる。妻は三〇歳の若さで死去したが、幸姫の父である重定は、娘の死後その遺品を見てはじめて娘が健常者ではなかったことを知り、不憫な娘に示してくれた鷹山の治憲の心遣いに感涙にくれたといわれる。江戸藩邸と米沢に住む父と娘は互いに顔をあわせることもなかったため、娘に障害のあることも知らなかったのである。



◆01042 高森阿蘇神社祭

2010年03月26日 | 日本の山車
◆01042 高森阿蘇神社祭
熊本県高森町
高森阿蘇神社
□祭神
タケイワタツノミコト 健磐龍命
配祀
阿蘇都媛命
外十九座

□汎論 
 社記によると、高森阿蘇神社の創祀は、ジンムテンノウ(神武天皇)の孫にあたるタケイワタツノミコト(健磐龍命)が阿蘇の国に降り、宮居を定めようと阿蘇山上に登り南北に向って吉凶を占う矢を射たが、一矢は一ノ宮町の十二の宮地に落ち、一矢は南にある大石に当たったので、この地を嘉み、宮を定めたのが、高森阿蘇神社だと伝わる。しかし、高森阿蘇神社はこれよりまえには山腹に祀られたとの伝承がある。出水市には鉾立山があり、また、市内には延喜式に記載される古社「加紫久利神社」があって、祭神はアマテラスオオミカミ(天照大神)であり、高天原に降臨する前に鉾立山にくだったという伝承がある。スサノオノミコト(素盞嗚命)とアマテラスオオミカミ(天照大神)は不縁となって海神氏からはなれ、スサノオノミコトは朝鮮の曽尸茂梨(そしもり)に降ったとされる。曽尸茂梨の地は所在不明で、数説があるが、曽尸は朝鮮語で「牛」、茂梨は「頭」で、牛頭となり、スサノオノミコトの本地「牛頭天王」を指すと思われる。一方、アマテラスオオミカミは高千穂に降ったと推定される。



◆21029 太良町の川原狂言

2010年03月26日 | 日本の山車
◆21029 太良町の川原狂言
佐賀県太良町(たらちょう)
□汎論
 太良町は、東に有明海、西と南は長崎県であり、佐賀県ではもっとも南西に位置する。
 川原狂言(こうばるきょうげん)は、江戸時代からの狂言をとりいれた浮流で、町内の上川原地区に伝承される民俗芸能で「川原浮立」の別名がある。一声浮立といわれる笛や太鼓の囃子の伴奏で野外で行われる民藝である。演目には、「舟弁慶」、「羅生門」、「大江山鬼退治」、「志賀団七仇討」の四藝が残伝えられている。

◆02790 三柱神社大祭(おにぎえ)

2010年03月26日 | 日本の山車
◆02790 三柱神社大祭(おにぎえ)
福岡県柳川市
三柱神社
□祭神
梅岳霊神(戸次道雪)
松陰霊神 立花宗茂(藩祖) 
瑞玉霊神 ぎん千代(宗茂の妻)
□祭は
□山車(どろつくどん、藝屋臺)
□汎論
 三柱神社は柳川の基礎をきづいたぎん千代の父親である戸次道雪、道雪の養嗣子である立花宗茂(藩祖)、宗茂の妻であるぎん千代の三柱の神を祀る神社である。当初は、天明四年(一七八三)ころ、道雪を祀る神社が建立され、その後、宗茂とぎん千代夫妻の霊は市内坂本町の日吉神社近くの唯一宮に祀られたが、文政三年(一八二〇)ころ三神は合祀され三柱神社となった。文政八年にあらたに社殿が造営されることになり、翌文政九年には新たに三柱神社「御新宮」が完成しとよばれるようになって三神は遷宮となった。境内には多くの石造物があり、柳川出身の名横綱雲龍久吉が奉納した燈籠もある。
 三柱神社の大祭は「おにぎえ」とよばれる。市中や近隣あるいは遠方から多くのひとびとが集まり「大賑わい」
となることから転化したことばだという。祭には、「どろつくどん」とよばれる、重層の山車が曳かれる。この名称は山車囃子から出たといわれる。
 山車は、通し柱の重層(二層)で、唐破風の屋根の上に紅色の帽冠を巻いた傘鉾がたち、さらにそのうえに拵え物がのる。北九州では例を見ない特異な形式の山車である。
 旧城の周りは堀になっていて、年間を通じてさまざまな行事が行われ、多くの人々をあつめる。福岡県柳川市沖端町には北原白秋の生家がある。新潟県出身の宮柊二は北原白秋に師事し、魚沼川にちかい郷里の堀内町で歌壇コスモスを主宰した。堀の外周道路沿いには名物の「うなぎの蒸籠むし」のお店がある。
 安政四年長崎からの帰途柳川に立ち寄った谷口與鹿と橋本香坡は、うなぎの蒸籠むしを食べながら、伊丹郷町(兵庫県伊丹市)に町並みがよく似ていると感傷的になり、里心を呼び覚まさせている。たしかに、いまでも土地に無縁の人でも柳川には故郷を思わせる郷愁が秘められているようだ。