暘州通信

日本の山車

◆蘇我稲目

2018年01月27日 | 日本山車論
◆蘇我稲目

 これは仮説である。

 蘇我稲目の生涯は不明であるが、一説には、武烈天皇八年(五〇六頃)
ー欽明天皇三二年(五七〇頃)とされている。蘇我高麗の子で、妻は葛城氏の出とされる。次の四男三女の父、委奴氏の出と推察される。
 蘇我馬子
 境部摩理勢
 蘇我小祚
 田中刀名
 堅塩媛
 小姉君
 石寸名

 娘の堅塩媛と小姉君は天皇妃となっている。

 堅塩媛は七男三女を産み、そのうち、
 大兄皇子(用明天皇)
 炊屋姫(推古天皇)
 が天皇に即位している。

 小姉君は四男一女を産み、
 泊瀬部皇子(崇峻天皇)
 が天皇に即位している。

 つまり、稲目の家系からは、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇を輩出している。

欽明天皇一三年(五五二)は、百濟の聖明王より[仏像と経論数巻」が献じられたとされ、稲目はこれを支持した。これが我が国への【仏教伝来の公伝】とされている。

 一方で「物部尾輿」と「中臣鎌子」は神を祀る氏族であることからこれを認めず、曽於の後の神仏をめぐる大きな争いのはじまりとなった。

飛鳥にある「石舞台古墳」は、稲目の子である蘇我馬子の墓とされている。


明日香村阪田の【都塚古墳(金鶏塚古墳)】は、従来、稲目の墓と推察する説がある「円墳」とされていたが、二〇一四年に、「明日香村教育委員会」と、「関西大学」の調査により、【石積みされた、ピラミッド状・階段構造の巨大な方墳】であると報道された。




◆稲 二

2018年01月19日 | 日本山車論
◆稲 二

 これは仮説である。

 「稲」が、西方・南方の原産地よりすんなりと北上しテ我が国に至ったとは考えにくい。
 東南アジア原産の原種のイネは、食料として生産される主要農産物として次第にアジア大陸を北上し、ネパールを経て中国の四川省、揚子江沿岸部を次第に下降。琉球を経て鹿児島に至ったというのが大まかな伝播のルートであり、この段階で、長米種は短米種へと、変種、さらに耐寒性の強いあるいは品種へと変り、味覚も、さらっとした原種から、粘りと味覚が加わって、わが国に馴化しさらに北へと生産地を広げていったと推察される。

◆稲

2018年01月19日 | 日本山車論
◆稲

 これは仮説である。

 稲の栽培については、縄文遺跡における「プラント・オパール」の年代測定など近年の研究により従来説より相当さかのぼることが指摘され、紀元前2,000年から3,000年にもお飛ぶのではないかと言われている。もしそうだとすると、稲の栽培は、弥生時代よりはるか以前の、縄文時代中期から末期のころにはすでに行われていたことになる。
 「稲」の原産地が、西方・南方であることは間違いないだろうが、日本への稲の伝来については諸説がある。

 まずその伝来ルートを考えると、もっとも単純なのは、東南アジアー台湾ー琉球(沖縄)-九州ということになるのだが、日本で栽培されている稲は、短米種と呼ばれる【poa aponica】
であって、南方系の長米種ではない。
 南方系の植物が、北方寒冷地に馴化するのはなかなか困難なことであり、繼軆的にも、長米種が、短米種に形質の変化を遂げるのは困難ではないかと推定される。


◆為奈

2018年01月18日 | 日本山車論
◆為奈

 これは仮説である。

 【為奈】は、【委奴】の延長上にある名称で、「為奈郷」とよばれる地名がある。
【為奈郷・いなのさと】は、攝津國 川邊郡は八郷の名称のひとつで、『和名類聚抄』に「為奈郷」とみえる。つまり、現在の表記である猪名の旧表記である。その地域はおおむね現在の尼崎市から、伊丹の南部あたりにあったらしい。

 神崎湊は、平城京と大陸を結ぶその古湊だったと推察される。


◆猪名 二

2018年01月18日 | 日本山車論
◆猪名 二

 これは仮説である。

 「猪名は、委奴の別表記」ではないかと考える。
 猪名川は、委奴氏の定住した地につけられた名称で、「斐太ノ工ゆかりの地」と推察する。

 兵庫県伊丹市は、京都府宇治市の木幡に、隠元を招聘して開山された、「黄檗山 萬福寺」の建設用地が、近衛家の所領であったため、その代替地として近衛家が領することになったもので、市内にある「墨染寺」も、氏から移転してきたと伝わる。
 このようないきさつがあって、江戸時代には【伊丹郷町】とよばれ、大名ならぬ公卿の領する近衛家摂領として栄え、池田市に続く酒の名産地であった。
 市内に、「野宮・のみや」とよばれる【猪名野神社が鎮座】し、尼崎市猪名寺には、【猪名寺】があったが、現在は廃寺となっている。

 【猪名野小笹】は、かつて古歌にも

  有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
  いでそよ人を 忘れやはする
      『小倉百人一首』 大貳三位

  しなが鳥 猪名野を来れば 有間山
  夕霧たちぬ 宿りはなくて
      『万葉集 巻七』詠み人知らず

 読まれていて、名勝として知られ、『攝津名所圖繪』には絵入りで案内が出ている。
 近くに、【黄金塚】があって、埴輪、須恵器の出土があって、猪名野神社、猪名寺、猪名野小笹の一帯は、委奴氏・斐太ノ工 居住の故地ではなかったか? と推察している。

 伊丹郷町は、飛騨高山の名工 谷口與鹿 の淹留した地である。筆者の別稿に、(『谷口與鹿の軌跡』、『谷口與鹿』)がある。
 

◆猪名

2018年01月18日 | 日本山車論
◆猪名

 これは仮説である。

 近畿地方北西部。京都府、大阪府、兵庫県の三行政区にまたがる【劔尾山】と呼ばれる山がある、その北部西麓は京都府亀岡市畑野町であり、秦氏ゆかりの地と推察されるが、地域には劔尾山を源流とし、千ケ畑を通って流れ出てきた「大路地川・おろじがわ」がある。名前からしてもその旧名は「大蛇(おろち)=龍」だったと考えられる。この大路地川はさらに下流に向かって、大阪府の能勢町を経て「一庫・ひとくら」、川西市、池田市、伊丹市、尼崎市、大阪府を経るころには【猪名川】と名を変え大阪湾にそそいでいる。



◆東大寺 大仏鋳造 四

2018年01月17日 | 日本山車論
◆東大寺 大仏鋳造 四




 これは仮説である。




 大仏が鋳上ると、型枠が撤去され、御身に黄金を鍍金する作業にすすんだ。
 だが、当時、大仏に鍍金する黄金が不足し、十分ではなかった。ところが、朝鮮半島から渡来していた、百濟王 敬福(くだらのこにきし きょうふく)は、天平二十一年(七四九)に、陸奥國小田郡の黄金九〇〇両(現代に換算しておよそ三・四キログラム)を献じたという。
 これで、大仏鍍金のための黄金入手の見込みが立ち鍍金作業が進められることになった。
 鋳上った大仏は、丁寧に御身ぬぐいがおこなわれたあと、香がたかれ僧侶らの読経のうちに、陸奥久慈と、下総から運ばれた琥珀を溶かして塗布され、そのうえに、水銀に黄金を溶かしたアマルガムを塗り、炭火で水銀を蒸化させて定着させる、鍍金が行われた。
 
 東北の金はこの時はじめて発見されたとの記述が時折みられるが、そうではなく、当時よりもすでに二〇〇年以上も前に陸奥の黄金はオリエント方面に運ばれていたのである。
 エトルリアの金鈴は、陸奥の金で作成された。

◆東大寺 大仏鋳造 二

2018年01月17日 | 日本山車論
◆東大寺 大仏鋳造 二

 これは仮説である。

 大仏鋳造の銅は、全国から集められ、豊後(大分県)からも大量の銅が献納された記録があるが、その大部分は国内銅ではなく、渡来銅であっただろうと推察される。
 国内から集められた銅には、おそらく、おびただしい銅剣、銅矛、銅戈、銅鏡、銅鐸などの銅製品が、鋳潰されていることであろう。一方で、古墳に埋葬された同製品は長髪を免れることができたと推察される。
 このようにして集められた銅の量を計算して大仏の大きさが決まり、鋳造にかかったと考えられる。
 つまり、大仏を鋳造しながら銅を探すということはなかったはずである。

◆東大寺 大仏鋳造 一

2018年01月17日 | 日本山車論
◆東大寺 大仏鋳造 一

 これは仮説である。

 慶雲五年(七〇八)、

 わが国ではじめて銅が発見され、朝廷に献納されたのは、慶雲五年(七〇八)のことであり、朝廷はこれを嘉しみして、元号を【和銅】と改元されたのは史書に見えるところである。

 東大寺の創建は、着工が、天平十七年(七四五)、竣工・開眼供養会が行われたのが、天平勝宝四年(七五二)であり、おおむね七.八年の歳月をかけて完成したようである。

 和銅発見から、およそ四〇年くらい後には、鋳造された大仏
(毘盧舎那仏像)が姿を現したはずである。


◆益田繩手 六

2018年01月15日 | 日本山車論
◆益田繩手 六

 これは仮説である。

 「繩手・なわて」とよぶ語彙。
 「島根県松江市塩見縄手」は、松江城下の一角にある武家屋敷に通じている道路である。

 【松平不昧公】は、茶人としても名高く、いまもその風雅の人徳をしのんで訪れる人が多い。

 塩見縄手は、初代出雲藩主だった堀尾吉晴が、慶長十二年(一六〇七)から4年の歳月をかけ、松江城を築城したとき、宇賀山を堀削し、城の内堀と道路、侍屋敷を造成したさいに完成した通りだと伝わる。昭和四八年に、「松江市伝統美観保存地区」の指定を受け、昭和六二年には、「日本の道一〇〇選」に選定された。

 塩見縄手地区は、みごとな武家屋敷群がいまも残され、松江城、また、小泉八雲旧居などとともに、屈指の美観を誇っている。

◆益田繩手 五

2018年01月15日 | 日本山車論
◆益田繩手 五

◆益田繩手 五

 これは仮説である。

 「繩手・なわて」とよぶ語彙。
 「大阪府四条畷市」
 四条畷市(しじょうなわてし)
 
 大阪府と奈良県の境にある「生駒山彙」の北西に「飯盛山」があり、【飯盛山城】があった。四条畷市は、その西麓にあり、古くは四条縄手と書かれた。
 南北朝時代、楠木正成の一子、正行(まさつら)は、吉野山の如意輪寺如意輪堂に詣で、御堂の扉に弓の鏃で、

 かえらじと かねておもへば 梓弓 
  なき数に入る 名をぞとどむる

 と辞世の歌を書き、四条畷の合戦へ向かった。

 かつて、この辞世の歌を刻んだ扉は、宝物館に保存され、公開されていたが、いまはどうだろうか。

 桜井の駅 で父と別れた場面は山車彫刻として、岸和田のだんじりほかに残されている。

 楠正行は、この四条縄手の合戦に臨んだが敗れて短い生涯を終わった。 四条畷市の、楠公一丁目に墓地があり、明治二三年に、楠正行をはじめとする殉難将士の霊を弔う【四條畷神社】が創建されている。
 

◆益田繩手 四

2018年01月15日 | 日本山車論
◆益田繩手 四

 これは仮説である。

 「繩手・なわて」とよぶ語彙。

 京都市東山区大和大路通(やまとおおじどおり)は、
南の泉涌寺道から、北の三条までの旧大和街道の一部にあたり、四条以北は縄手通と呼ばれている。
 もともとは、鴨川の土手のことだったという。

◆益田繩手 三

2018年01月14日 | 日本山車論
◆益田繩手 三

 これは仮説である。

 飛騨川の上流は、益田川であったが、古くは、この一帯が旧益田(郡、こおり)だったのではなかろうかと推察する。現在は高山市になったが、合併まえの久々野町、朝日村、高根村がおおむね含まれる。文献にみられる「益田・ました」の名称は、貞観一二年(八七〇)に飛騨國、大野郡の南部を分割したのにはじまる。
 この地に居住した斐太ノ工が、【益田繩手】である。
 旧萩原町(現在は下呂市)の国道四一号線沿いには、「久津八幡宮」が鎮座するが、朝鮮半島(韓半島)から渡来した「久津氏・クツ氏」ゆかりの神社である。
 越前は早くから、の渡来があり、若狭から滋賀県北部にかけて、朽木、沓掛、久津野、沓水などクツ氏にちなむ姓がみられる。
 大仏殿建立の益田繩手は越前國足羽郡出身とされるが租の出自は飛騨國益田郡を出自とする斐太ノ工だったとかんがえる。
 国道四一号線から離れ東部に向かうと、高根村にいたるが、ここで道はおおきく二つに分かれ、野麦峠を経て、奈川、薮原をとおり中山道に出る。上ケ洞、中之宿はその宿場であった。
 もう一つの道は木曾御嶽を仰ぎながら、開田を経て木曾福島(きそふくじま、ふくしまとは言わなかった。)で中山道と合流し松川を経て【伊那谷(委奴)】に至る道で、古くから飛騨の斐太ノ工と、信州の斐太ノ工の交流するみちであり、越中國で水揚げされた【寒鰤・かんぶり】は越年には欠かせない出世魚で、歳末の進物として飛騨高山を経由して信州伊那に贈られた。伊那地方ではこれを【飛騨鰤】とよんで珍重した。