05935 高城お祇園祭
宮崎県都城市(旧高城町)小松原
朝神柱神社
□祭神
天照大神
豊受大神
□祭は八月上旬
山車二臺を曳く。
□山車
「おぎおんさあ」と言っている。古くは「ろっがっつどお・六月堂」とよばれていた。鹿児島県知覧町でも、祇園祭を「六月堂」といっている。
神幸は朝神柱神社から宮丸の八坂神社まで渡御し、一泊して還御する。
朝神柱神社は、都城市小松原に鎮座するが、もとは梅北の黒尾神社所在地にあり、万寿三年(一〇二六)に遷されたと言い、神柱神社の旧地には黒尾神社が祓川から遷されて鎮座する。
梅北家所蔵の神柱由緒を抄出意訳すると、
平朝臣大監季基(たいらのあそんたいかんすえもと)は梅北の地を開墾し
所有するとともに屋敷を構え、万寿三年丙寅正月季基家門を建てようとして大吉山より門柱を曳いたが、五百人の忍側では動かず、倍の千人で引いた。季基の娘はちょうど六歳成であったが、外に出て柱曳きを見たところ狂気になった。
ちょうどそのとき、伊勢の神の託宣があって、[われは伸勢の外宮なり。此の地にて衆生を護らんとする。すみやかに社を建て神社の名を神柱と称すべし。これを信ぜずんば人を伊勢の囲に上げて問うべし」ということだった。
季基は直ちに使者を伊勢に向かわせたところ、伊勢神宮にもおなじような神託があって「日向の国 荘内益貫に我を祀るべし」とのことだったという。奇遇と言おうか、たまたま梅北からの使者と、伊勢からの使者が同じ宿に宿泊することになって、互いに伊勢の神の託宣を知った。使者はそこで別れたが、同じ年、季基伊勢に参詣してそのことを告げ、分霊をうけて帰国した。
ちょうど同じころ、日向国と同じように、こんどは伊勢内宮が出羽国荘内に託宣あって、 伊勢内宮は東三十三国を護り、外宮は西三十三国を護ることになった。
この柱を「神柱社」と称し、日向国、出羽国の柱を日本国二柱神と云う。
従って、「朝神柱神社」を「神柱」というはその故だという。
祭祀は平朝臣大監季基から梅北家にひきつがれ、代々神柱宮の祭祀を奉じてきた。
□問い合わせ
高城総合支所産業振興課
TEL:0986-58-2311
FAX:0986-58-4281
宮崎県都城市(旧高城町)小松原
朝神柱神社
□祭神
天照大神
豊受大神
□祭は八月上旬
山車二臺を曳く。
□山車
「おぎおんさあ」と言っている。古くは「ろっがっつどお・六月堂」とよばれていた。鹿児島県知覧町でも、祇園祭を「六月堂」といっている。
神幸は朝神柱神社から宮丸の八坂神社まで渡御し、一泊して還御する。
朝神柱神社は、都城市小松原に鎮座するが、もとは梅北の黒尾神社所在地にあり、万寿三年(一〇二六)に遷されたと言い、神柱神社の旧地には黒尾神社が祓川から遷されて鎮座する。
梅北家所蔵の神柱由緒を抄出意訳すると、
平朝臣大監季基(たいらのあそんたいかんすえもと)は梅北の地を開墾し
所有するとともに屋敷を構え、万寿三年丙寅正月季基家門を建てようとして大吉山より門柱を曳いたが、五百人の忍側では動かず、倍の千人で引いた。季基の娘はちょうど六歳成であったが、外に出て柱曳きを見たところ狂気になった。
ちょうどそのとき、伊勢の神の託宣があって、[われは伸勢の外宮なり。此の地にて衆生を護らんとする。すみやかに社を建て神社の名を神柱と称すべし。これを信ぜずんば人を伊勢の囲に上げて問うべし」ということだった。
季基は直ちに使者を伊勢に向かわせたところ、伊勢神宮にもおなじような神託があって「日向の国 荘内益貫に我を祀るべし」とのことだったという。奇遇と言おうか、たまたま梅北からの使者と、伊勢からの使者が同じ宿に宿泊することになって、互いに伊勢の神の託宣を知った。使者はそこで別れたが、同じ年、季基伊勢に参詣してそのことを告げ、分霊をうけて帰国した。
ちょうど同じころ、日向国と同じように、こんどは伊勢内宮が出羽国荘内に託宣あって、 伊勢内宮は東三十三国を護り、外宮は西三十三国を護ることになった。
この柱を「神柱社」と称し、日向国、出羽国の柱を日本国二柱神と云う。
従って、「朝神柱神社」を「神柱」というはその故だという。
祭祀は平朝臣大監季基から梅北家にひきつがれ、代々神柱宮の祭祀を奉じてきた。
□問い合わせ
高城総合支所産業振興課
TEL:0986-58-2311
FAX:0986-58-4281