暘州通信

日本の山車

◆05281 熊野神社

2011年05月10日 | 論攷 延喜式神名帳
◆05281 熊野神社
□所在地 京丹後市(旧久美浜町)久美浜町兜山
□旧国名 丹後國
□現社名 熊野神社
□旧社名 
□祭神
イザナミノミコト 伊邪那美命
□汎論
 熊野神社は、延喜式神名帳丹後國熊野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神にはイザナミノミコト(伊邪那美命)のみが兜山(かぶとやま)の山頂に祀られる。兜山は秀麗な山で、おそらく神南備山であろう。おなじ久美浜町内にある雲晴神社(くもばるじんじゃ)の境外摂社になっていて雲晴神社には、熊野神社を望む地に鳥居が立てられている。
 久美浜町には当社のほかに、河梨の熊野新宮神社、品田の熊野若宮神社があり、三社神社とよんでいて、それぞれが延喜式神名帳記載の式内社、熊野神社の論社となっている。
 久美浜の熊野神社の創祀はおそらく海神族(綿津美氏)から、出雲氏にいたる過程で祀られた神社で紀州(和歌山県)の熊野各神宮より創祀が古いと推定される。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇大宮氷川神社(旧大宮市高鼻氷川神社2神名帳考証)
2010/9/27(月) 午後 2:36
... 扶桑見聞私記;大己貴命(大国主神) 1735年 Ⅱ神名帳頭註(延喜式神名帳頭註)                          文亀3年(1503 ... 延喜式所載武蔵國足立郡   氷川神社即是。   注)饒速日命(ニギハヤヒノミコト)     饒速日 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sakado_iwasaki/51074522.html

◇延喜式神名帳の作成
2010/9/14(火) 午後 9:46
船に乗る傍ら、とりあえず趣味の一環として「延喜式神名帳」のエクセルでのリスト化を進めています。 現在、大和・尾張・武蔵・陸奥・出羽・上野・下野のリスト化が終了。 他にも官国幣社・別表神社などのリストも作ってるんですが、結構時間のかかる ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kazuki133/50915127.html

◇延喜式神名帳に記載されている神社
2008/10/24(金) 午後 9:40
... この数カ月は延喜式神名帳に記載の式内社を探検しています。備中に18社ありますが、なかなか険しい山奥などもあり苦戦しています。 今回、穴門山神社を探検しましたが、参道に面白い狛犬がいます。寄進者は「朝鮮京釜線秋風嶺・末永元次郎」とあります。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiroyuki1195/46218441.html

◇延喜式神名帳にのる古社、赤城神社(三夜沢)
2006/6/17(土) 午後 7:47
赤城山麓三夜沢にある赤城神社、延喜式神名帳にもある古社である。しかし赤城山麓だけでも多くの赤城神社があり、中でも赤城山大沼湖畔にある赤城神社(大洞)、前橋市にある赤城神社(二之宮)で本家争いがあるという。    赤城神社由緒略記 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/houzan_ky/38026516.html

◆16442 矢田神社

2011年04月28日 | 論攷 延喜式神名帳
◆16442 矢田神社
□所在地 京都府京丹後市峰山町矢田谷山
□旧国名 丹後國
□現社名 矢田神社
□旧社名 
□祭神
イカガシコオノミコト 伊加賀色許命(伊香色雄命)
□汎論
  矢田神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神のイカガシコオノミコト(伊加賀色許命、伊香色雄命)は、ニギハヤイノミコト(饒速日命)六世の孫だといい、物部氏の祖先である矢田部氏を祖とするいわれる。野田川町には、物部神社がある。
しかし、もとは羽衣天女である天酒大明神豊受賀能売命だったといい、明治四年にイカガシコオノミコト(伊加賀色許命。伊香色雄命)となった。
境内には五面の【社日塔】とよばれる石塔があり、五面は、
オオナムチノミコト(大巳貴命)
ウカノミタマノカミ(倉稲魂命)
スクナヒコナノミコト(少彦名命)
ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)
アマテラスオオミカミ(天照皇大神)
をあらわしていて、かつては出雲系の神を祀る神社であり、アマテラスオオミカミ(天照皇大神)は、イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)【日命】が置き換えられたかもしれない。
 【矢田】の名称は、『丹後国風土記・逸文』にある【比治の天女】と関わりがあるという説があり
天女が養父(ヤブ)から、矢田(ヤタ)に移ったのだという。【日氏】を祀る神社だったことも否定できない。
 徳島県吉野川市川島町桑村には、伊加加志神社(いかがしじんじゃ)があり、イカガシコオノミコト(伊加賀色許雄命)、イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)の神が祀られている。
 イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)は、開化天皇の后女で、崇神天皇の母にあたる。通称を【ヒノミコト・日命】と言い、吉野川市川島町では、この神社を【日命大明神】と称していたという。

◆18603 多奈閇神社

2011年04月04日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18603 多奈閇神社
□所在地 三重県員弁郡東員町中上
□旧国名 伊勢國
□現社名 久米神社
□旧社名 多奈閇神社(たなべじんじゃ)
□祭神
アマノヒワシノミコト 天日鷲命
合祀
天照大御神
天児屋根命
宇迦之御魂神
大山津見命
須佐之男命
保食神
菅原道真
品陀和気命
大市比売命
大己貴命
大山咋命
□汎論
 多奈閇神社は、延喜式神名帳伊勢國員弁郡に記載される、伊勢國二五三座のうちの一座。祭神のアメノヒワシノミコト(天日鷲命)は、日本神話のアマテラスオオミカミ(天照大神)がスサノオノミコトの乱暴な行いに愛想をつかして天岩戸におかくれになったとき、その岩戸前に神々が集い、歌や踊の宴を催したとき、弦楽器を演奏していた神の楽器の上に大鷲が止まったのを奇瑞とし、このことから神の名をアメノヒワシノミコト(天日鷲命)とよぶようになったとある。
 『古語拾遺』には、アメノヒワシノミコトはフトダマノミコト(太玉命)に従った四柱の神の一柱だとされている。
 阿波國(徳島県)では、阿波の忌部氏(いんべし)の祖神とされるが、日氏につながる一族としての事蹟がうかがえる。高魂命、その裔神である天日鷲翔矢命、天加奈止美命がある。
 田邊氏の祖先とされる。

◆18602 鴨神社

2011年04月04日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18602 鴨神社
□所在地 三重県いなべ市大安町丹生川上
□旧国名 伊勢國
□現社名 鴨神社
□旧社名 
□祭神
カモワケイカヅチノミコト 鴨別雷命
配祀
玉依姫命
合祀
伊邪那岐命
誉田別命
須佐之男命
市寸島姫命
天照大御神
火産霊神
大山祇神
菅原道真
□汎論
 鴨神社は、延喜式神名帳伊勢國員弁郡に記載される、伊勢國二五三座のうちの一座。祭神のカモワケイカヅチノミコト(鴨別雷命)は京都上賀茂神社の祭神と同じである。

◆16307 岐佐神社

2011年03月20日 | 論攷 延喜式神名帳
◆16307 岐佐神社
□所在地 静岡県浜松市(旧舞阪町)舞阪
□旧国名 遠江國敷智郡
□現社名 岐佐神社(きさじんじゃ、きざじんじゃ)
□旧社名 岐佐神社
□祭神
キサガイヒメノミコト 蚶貝比賣命
ウムガイヒメノミコト 蛤貝比賣命
配祀 
市杵嶋比賣命
□汎論
 岐佐神社は、延喜式神名帳遠江國敷智郡に記載される、遠江國六二座のうちの一座。岐佐神社の名称は、象神社の意と考えられ、遠浅の砂浜で形成される潟に祀られる象神社の意と考えられ、秋田県秋田県にかほ市(旧象潟町)にも象潟がある。祭神は二柱の貝の名称がつく女神であり、イチキシマヒメノミコト(市杵嶋比賣命)が配祀され、古代に海神族(綿津美氏)により祀られたことをうかがわせる。龍宮城の乙姫は蛤(はまぐりは)の化生とする巷説があり、江戸時代に作られた山車には、亀に乗って龍宮城を訪れた浦島子を、乙姫が蛤から出て出迎える山車からくりが行われる例がある。
 蜃気楼(しんきろう)は、蛤の吐く気だという俗信がある。

◆16304 大神神社

2011年03月11日 | 論攷 延喜式神名帳
◆16304 大神神社
論攷 延喜式神名帳
□所在地 静岡県湖西市(旧新居町)中之郷  
□旧国名 遠江國
□現社名 大神神社(おおみわじんじゃ) 
□旧社名 大神神社
□祭神
オオモノヌシノミコト 大物主命(大己貴命)
□山車
山車はない。
□汎論
 大神神社は、延喜式神名帳遠江國濱名郡に記載される、遠江國六二座のうちの一座。祭神のオオモノヌシノミコト(大物主命)は、大己貴命のことだとされる。
*注)行政コード(団体コード)は従前のままです。

◆奈疑知命神社

2011年03月08日 | 論攷 延喜式神名帳
◆奈疑知命神社
論攷 延喜式神名帳
□所在地 静岡県賀茂郡河津町縄地
□旧国名 上野國
□現社名 子安神社
□旧社名 奈疑知命神社(なきちみことじんじゃ)
□祭神
ナキチミコト 奈疑知命
相殿 
オオヤマツミノミコト 大山祗命(山神社) 
スサノオノミコト 素盞嗚命(天王社)
□山車
山車は無い。
□汎論
 奈疑知命神社は、延喜式名帳伊豆國賀茂郡に記載される、伊豆國四六座のうちの一座。祭神のナキチミコト(奈疑知命)は不詳の神で、一説にはオオヤマツミノカミにつながる女性の眷属神ともいわれる。境内に乳神を祀る。

◆18401 高良大社

2011年01月18日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18401 高良大社
論攷 延喜式神名帳
□旧社名 高良玉垂命神社
□現社名 高良大社
□所在地 福岡県久留米市御井町
□旧国名 筑後國
□祭神
コウラタマタレノミコト 高良玉垂命
配祀 
ハチマンオオカミ 八幡大神
スミヨシオオカミ 住吉大神 
合祀 
トヨヒオオカミ 豐比大神
□汎論
 高良大社は、延喜式神名帳筑後國三井郡に記載される、筑後三社のうちの一坐で、名神大社と記載される。筑後國の一宮である。
 神社はひときわ高い高良山に祀られる。創祀は社伝に拠れば仁徳天皇期(三六七))または(三九〇)とあり、社殿の創建は履中天皇期(四〇〇)とある。
 高良山内には神籠石が三個所ある。その一は水神社で高良大社の奥宮とされる。その二は神籠石。その三は味水御井神社で、朝妻の泉と呼ばれる。
 祭神のコウラタマタレノミコト(高良玉垂命)は『古事記』、『日本書紀』ともに記載が無い神で古来論議の対象となってきた。一説には、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)はタケノウチノスクネ(竹内宿禰)としている。
 コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)の「玉」は、ジングウコウゴウゆかりの乾珠・満珠のことだという。下関市(山口県)には、ジングウコウゴウ(神功皇后)の抛げた二珠は、干珠・満珠の二島になったとの伝説がある。また、豊玉媛から賜った玉のことだとも言うが、いずれも確証がない。
 久留米の地元には不思議な伝承があり、高良山にはもとタカミムスビノカミ(高木神、高御産巣日神、高牟礼神)があったが、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)が一夜の宿を借りたいと申し出たため、高木神が聞き入れ一夜の宿を貸したところ、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)はそのまま居座って結界を張り、ついにこの地にそのまま鎮ってしまったというものである。旧来の高木神は麓にくだり、高樹神社として祀られている。示唆に富んだ話である。
 筑紫國はおおむね海神族(綿津美氏)の支配する國であった、これが筑後川を境に南北に分割され筑前國と筑後國に分割された経緯を考えると、当時『魏志倭人伝』に記載される
倭國大乱による海神族(綿津美氏)の疲弊、あるいはなんらかの譲歩があったと推定される。
 高良には、高麗に通じる語韻がある。高麗(高句麗)は六九八年に唐と新羅により滅ぼされており、大磯(神奈川県)の高来神社。日高市(埼玉県)の高麗神社(高句麗神社)はそのときの高麗からの渡来人たちにより祀られたといわれる。
 大磯の高来神社の祭神は、
   カミムスビノミコト 神皇産霊尊
   アマツヒコホニニギノミコト 天津彦穂邇々伎尊
   オウジンテンノウ 応神天皇
   ジングウコウゴウ 神功皇后
 日高市(埼玉県)の高麗神社(高句麗神社)の祭神は、
   コマノコシキノジャッコウ 高麗王若光
   サルダヒコノミコト 猿田彦命
   タケノウチノスクネ 武内宿禰命
である。 高良大社の祭神である、しかし、コウラタマタレノミコト(高良玉垂命)の名は無い。
 肥前國(長崎県)から筑後國にかけて高良神社ガ点在する。このことは朝鮮半島からの渡来人らが海神族(綿津美氏)と衝突するのを避け、長崎半島、島原半島を迂回し、有明海から筑後川に沿って遡上(東進)下のではないかと想像される。
 サルダヒコノミコト(猿田彦命)、タケノウチノスクネ(武内宿禰命)はいずれも朝鮮半島からの渡来人とされている。

◆18004 織幡神社

2011年01月14日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18004 織幡神社
論攷 延喜式神名帳
□社名 織幡神社
□所在地 福岡県宗像郡玄界町鐘崎字岬
□旧国名 筑前國
□祭神
タケシノオミ 武内大臣
シカノオオカミ 志賀大神
スミヨシオオカミ 住吉大神
アマテラスオオミカミ 天照大神
ムナカタオオカミ 宗像大神
ハチマンオオカミ 八幡大神
イキノマネコ 壹岐眞根子
□汎論
 織幡神社は、延喜式神名帳筑前國宗像郡に記載される、筑前國十九社のうちの一坐。
鐘崎の織幡神社とよばれる。
 多くの祭神が祀られているが、創祀時の姿を推定すると、シカノオオカミ(志賀大神)、ムナカタオオカミ(宗像大神)が祀られ、ついでジングウコウゴウ(神功皇后に従った、タケシノオミ(武内大臣、竹内宿禰)と、タケノウチノスクネ(竹内宿禰)に謀反の嫌疑がかかったときその身代わりとなって自害した、イキノマネコ(壹岐眞根子)。次いで皇室系のハチマンオオカミ(八幡大神)、アマテラスオオミカミ(天照大神)が祀られる。もとは海神族(綿津美氏)を祀るじんじゃであり、皇室系の神は後祀であろうと考えられる。

◆18003 宗像大社辺津宮

2011年01月13日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18003 宗像大社辺津宮
◆18003 宗像大社辺津宮
論攷 延喜式神名帳
□社名 宗像大社辺津宮
□所在地 福岡県宗像郡玄界町田島
□旧国名 筑前國
□祭神
イチキシマヒメノカミ 市杵嶋姫神
配祀
タゴリヒメノカミ 田心姫神
タギツヒメノカミ 湍津姫神
□汎論
 宗像大社中津宮は、延喜式神名帳筑前國宗像郡に記載される、筑前國十九社のうちの一坐。宗像三女神の一神イチキシマヒメノカミ(市杵嶋姫神)を祀り、タゴリヒメノカミ(田心姫神)、タギツヒメノカミ(湍津姫神)が配される。

◆18001 宗像大社沖津宮

2011年01月13日 | 論攷 延喜式神名帳
◆18001 宗像大社沖津宮
論攷 延喜式神名帳
□社名 宗像大社沖津宮
□所在地 福岡県宗像郡大島村沖ノ島
□旧国名 筑前國
□祭神
タゴリヒメノカミ 田心姫神
配祀
タギツヒメノカミ 湍津姫神
イチキシマヒメノカミ 市杵嶋姫神
□汎論
 沖の島は福岡県宗像郡大島村にあり、宗像三女神の一神である、タゴリヒメノカミ(田心姫神)を祀る島で、一名を【不言島(おいわずのしま)】と言い、島のことは口外してはなないとされる。島には古祭祀遺跡があり、国宝、重要美術品を含む多くの出土品がある。出土品は宗像大社の宝物館で展示されるが、すべてが一度に展覧されることは無いので、拝観するとすれば何度も通うことになる。


◆18007 志加海神社 (五)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (五)

 大和政権(天皇)はたびたびの難関を乗り越え安泰を保ったが、昭和二〇年(一八四五)第二次世界大戦において敗戦。無条件降伏に到り、天皇政権は崩壊。平和憲法の制定により【象徴】としてのみ存続し執政権から離れることになった。
 この時代は日本政権第五期とする。

◆18007 志加海神社 (四)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (四)
   
 日氏から海神族(綿津美氏)へ、さらに物部氏の出雲から大和の大物氏にいたる政権の変遷は紀元前三〇世紀より紀元三世紀ころまで同族、近縁氏族らの支配が行われたと考えられる。長い間には、小さな争いや確執も生じたであろうが、この同氏族支配社会は致命的な国家存亡にまでいたるような破綻が生じた形跡がないようである。
 その安定した社会構造に変異が生じたのは大和政権(天皇)の勃興である。大和政権(天皇)は2度にわたって困難を乗り越えた。一回目は、祭政一致を目指すところから、九州の
海神族(綿津美氏)に対し、祭祀権の引渡しを求めたことである。チュウアイテンノウ(仲哀天皇)と第二夫人ともいうべきジングウコウゴウ(神功皇后)は九州に赴き海神族(綿津美氏)に対して祖信の引渡しを求めたと考えられる。しかし、チュウアイテンノウ(仲哀天皇)は志半ばで死去。ジングウコウゴウ(神功皇后)とタケノウチノスクネ(武内宿禰)は三韓をめぐって、斡旋・媒介の道を模索したもののならず、九州から畿内に向けて帰還したのだった。ジングウコウゴウ(神功皇后)は、引渡しが得られなかった、三祭神、
   ソコツワダツミノカミ 底津綿津見神
   ナカツワダツミノカミ 仲津綿津見神
   ウワツワダツミノカミ 表津綿津見神
 に代わり、
   ソコツツオノミコト 底筒男之命
   ナカツツオノミコト 中筒男之命
   ウワツツオノミコト 上筒男之命
 の三神をたて住吉の神として祀ることになった。
 ジングウコウゴウ(神功皇后)は大和のカモ氏を祖先とし、近江(滋賀県)北部に勢力を有したオキナガタラシ氏(息長帯氏)の息女と言い、タケノウチノスクネ(武内宿禰)もまた朝鮮半島からの渡来系支族だといわれる。
 二回目の主張は大物氏(出雲氏)に対する【國譲りの強訴】であり、ヒタチの鹿島神と香取神の支援を得て、最後まで肯き入れなかった諏訪神は信州(長野県)に封じ込められた。こうして、大和政権(天皇)の簒奪はみごとに成功したのだった。
 この時代は日本政権第四期とする。

◆18007 志加海神社 (三)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (三)
   
 スサノオノミコト(素盞嗚命)は、海神族(綿津美氏)から離れ、九州伊都(怡土)から民を移して、ネノクニに出雲の國を興した。テナヅチ、アシナヅチ夫婦の娘であるクシイナダヒメ(奇稲田姫、櫛稲田姫)を妻に迎え、生まれた子供がオオクニヌシノミコト(大國主命)である。オオクニヌシノミコト(大國主命)はほぼ全国に進出し大国を築いた。出雲、和泉、怡土、伊豆などは出雲國の痕跡の印象がある。
 オオクニヌシノミコト(大國主命)が死後オオナムチノミコト(諡号、大己貴命)とよばれるようになり祖神として祀られるようになった。オオクニヌシノミコト(大國主命)はそらく一人ではなく代々の称号であろう。最後の代のオオクニヌシノミコト(大國主命)が物部氏の長である大物氏であり、大和(奈良県)の大神神社(おおみわじんじゃ)はその霊を祀る神社であり、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)とオオモノヌシ(大物主)は同一であろう。長野県には諏訪大社があり、タケミナカタノカミ(建御名方命)とヤサカトメノミコト(八坂刀売命)の夫婦神を祖神とする。ヤサカトメノミコト(八坂刀売命)は、越後(新潟県)糸魚川を根拠としたヌナカワ氏の娘とされる。また、タケミナカタノカミ(建御名方命)の母はカナサシ氏(金刺氏)の出身とされ、タケミナカタノカミ(建御名方命)とともに信州まできたが、子供と別れ自分は晩年を辰野(辰野町)で過ごしそこで亡くなったといわれ、辰野諏訪神社境内に墳墓がある。諏訪湖を源流とする天龍川流域には遠州掛塚(静岡県)まで金刺姓がしばしば見られる。この時代には多くの神が祀られるようになり、神社が創祀されるようになった。
  この時代は日本政権第三期とする。

◆18007 志加海神社 (二)

2011年01月12日 | 論攷 延喜式神名帳
論攷 延喜式神名帳
◆18007 志加海神社 (二)

 日氏に次いでさらにこれを飛躍させたのが海神族(綿津美氏)であり、海神族は、北九州から中国、近畿、中部を経て、関東から東北にいたるまで勢力を拡大した、その東あるいは北への進行には稲作技術の伝習ができる多くの国内移民が行われた。
 この海神族(綿津美氏)とおなじ、あるいは支族と考えられる氏族がカモ氏(賀茂、加茂、鴨、加毛など)、ムナカタ氏(宗像氏)、ハタ氏(秦、畑、波田、羽田、畑野、秦野など)は、ウカノミタマノカミ(倉稲魂神)の祭祀にかかわり、のちに武人の物部氏とともに稲作の技術を各地に伝えた稲荷を祭祀した氏族であろう。
 この時代はスサノオノミコト(素盞嗚命)と、アマテラスオオミカミ(天照大神)のあいだに不和が生じ両者が海神族(綿津美氏)から離れた時期でもある。スサノオノミコト(素盞嗚命)は、朝鮮半島を経てふたたび日本に帰り、出雲の國を建国した。スサノオノミコト(素盞嗚命)は物部氏の始まりではないだろうかと考える。
 この時代は日本政権第二期とする。