暘州通信

日本の山車

28879 乾珠、満珠

2008年04月27日 | 日本の山車
28879 乾珠、満珠
秋の飛騨高山祭で知られる桜山八幡宮の祭には、高山市下一之町の屋臺(山車)「金鳳臺」が曳かれる。上臺の本座人形は、神功皇后と竹内宿禰が祀られる。
この屋臺は谷口一門が建造に関わったが、中臺欄間には谷口與鹿の草花が描かれる。
もともと谷口與鹿の彫刻が納められるはずだったが、與鹿が上方に旅立つこととなり、彫刻が間に合わないので仮に絵を描いたという。
安政四年(一八四七)、伊丹郷町(現、伊丹市)を旅立った谷口與鹿と橋本香坡は
長府(山口県下関市の豊功神社(とよこと)神社に参詣し、この地から瀬戸内海の乾珠、満珠を遠望している。橋本香坡は、その詩集の中で「乾珠満珠二島アリ」と詠んでいるが、優れた風光地である。與鹿にとっては、故郷、飛騨高山に仕掛けとなっている金鳳臺彫刻が胸をよぎったことであろう。
乾珠、満珠は、武内宿禰が海へ抛げるところが山車人形にも見られる。
満珠は、干珠とともに、火照命を懲らしめるため、海津見の神が火遠理命に授けた二つの玉のことで、
満珠・潮盈珠(しおみつのたま、しおみつたま)海水を満ちさせる珠。乾珠(しおひのたま、しおひたま)は海水を引かせる珠をいい、海神族の神とされるソコツワダツミ(底津綿津見神)、ナカツワダツミ(中津綿津見神)、ウワツワダツミ(上津綿津見神)の三神をいう。
谷口與鹿と橋本香坡のふたりは長府では梁川星巌、紅蘭が訪ねた土地の素封家である広江家の世話になったらしいが、詳しいことは伝わらない。土地の研究家のご教示をいただきたい。
富山県富山市(旧、八尾町)の上新町の山車に乾珠、満珠圖が彫刻されている。





45571 内海八幡神社の幡さし

2008年04月26日 | 日本の山車
45571 内海八幡神社の幡さし
香川県小豆郡内海町
内海八幡神社
□祭は一〇月中旬
蒲団太鼓がでる。
□汎論
内海八幡神社では、太鼓臺のほかに、約八メートルほどの竹につけた幟を片手で差しあげて、額や肩で受ける「幡さし」の神事が行われる。
八流れの幡を由緒とすると考えられる。

31003 金丸八幡神社の磐境

2008年04月26日 | 日本の山車
31003 金丸八幡神社の磐境
31003 金丸八幡神社の磐境
徳島県東みよし町(旧三加茂町)の、金丸八幡神社境内には、「磐境」がある。
作庭、すなわち庭を造るとき、石を組むことが多いが、この石を組むとき「石を据える」とはいわない。石は「たてる」のが古来からの仕法である。磐境(いわくら)の岩も「たてる」が、この形式を引いているという。
徳島県のいわゆる青石・緑色片岩を用いた名庭は各地にあるが、重森三玲氏の作庭されたものにもこれが多い。
大阪府岸和田市の岸和田城につくられた通称「孔明の八陣の庭」などはその一例である。
石組の石(岩)は、たとえ横に組んでも「たてる」という。




28443 岩国柱島の柱

2008年04月26日 | 日本の山車
28443 岩国柱島の柱
山口県岩国市
□汎論
岩国市柱島。風光明媚な瀬戸内の島で、
柱とは神社のことで、柱島の名称は、かつて、多くの神社が祀られていたことに由来するという。また一説に、神社の柱が太かったから、ともいわれる。
いまは賀茂神社、八幡宮が祀られている。
宮の跡(みやのあと) という地名があるが、ここは賀茂神社の旧社地だったという。
賀茂神社は神武東征にゆかりのある神社といい、
祭神は神武天皇、五十鈴姫命。金毘羅宮、出雲大神など八十八柱の神々を配祀するというがすべを確認できない。


00989 鴻八幡宮の秋祭

2008年04月25日 | 日本の山車
00989 鴻八幡宮の秋祭
岡山県倉敷市児島下の町七丁目
鴻八幡宮
□祭神
ホムダワケノミコト 誉田別尊(応神天皇
タラシナカツヒコノミコト 足仲彦尊(仲哀天皇)
オキナガタラシヒメノミコト 息長帯姫命(神功皇后)
タマヨリヒメノミコト 玉依姫命(神武天皇の母神)
ナカミツヒメノミコト 仲姫命(応神天皇の皇后)
□祭
だんじり、千歳楽十九臺を曳く。

□山車
だんじり
千歳楽

□汎論
祭神は大分県の宇佐神宮より分祀をうけたという。
だんじりの柱には祭礼の当日に採取した清めの笹を取り付け、屋根からも葺きおろす。
大鳥居から拝殿までは急勾配の坂道で、篠笛、胴長太鼓、締太鼓、鐘、鼓で構成される
「しゃぎり(お囃子)」にあわせて山車を引き上げる。
演奏されるしゃぎりの曲目七曲あり、
・神楽囃子
・だんぎれ囃子
・信楽囃子
・祇園囃子
・おやじ(上がりは)
・下がりは囃子
・おひゃりこ囃子
などとなっている
倉敷地方には「せんだいろく」という呼び名の山車を耳にするが、これは「千歳楽」の訛ったものとされる。

39281 朝鮮系の神社

2008年04月24日 | 日本の山車
39281 朝鮮系の神社
朝鮮半島には、「神と神社」の概念がないのであろうか? 日本の各地には、朝鮮を意図した神社がいくつも存在する。
たとえば、延喜式神名帳の「宮中式内社」に「韓神社」が記載されるのをはじめ、各地に「韓国神社」、「高麗神社」、「白髭神社」なおどがあり、祭神は韓国からの渡来人である、ほかにも数例をあげると、出雲大社、兵庫県姫路市の射楯兵主神社、福井県敦賀市の気比神宮、和歌山県和歌山市の伊太祁曾神社ほかがあり、ほかにも確証はないものの、大阪府能勢町の岐尼神社、兵庫県篠山市の佐佐婆神社、滋賀県草津市の久佐佐神社、岐阜県高山市の荏名神社などがあげられよう。このように国内には数多くの朝鮮系の神社が存在する。
だが、ひとたび韓国に目を向けると、神社というものがまったく見当たらない。
イソタケルノミコト、スサノオノミコトが降臨したとされる、朝鮮のソシモリ(曽尸茂梨)はその所在が把握できないのみか、名称さえも解釈できないありさまである。
朝鮮にも、かつて各地に神が降臨した形跡はみられる。先祖を祀る文化は存在しないのだろうか…?
そうすると日本の各地に存在する朝鮮系の神社はどうなるのか…?
推定だが、出雲文化は、氏族の「祖神」をもって国を形成し祀る国体を基本理念として経営したのではないだろうか…? 

39281 朝鮮系の神社

2008年04月24日 | 日本の山車
39281 朝鮮系の神社
朝鮮半島には、「神と神社」の概念がないのであろうか? 日本の各地には、朝鮮を意図した神社がいくつも存在する。
たとえば、延喜式神名帳の「宮中式内社」に「韓神社」が記載されるのをはじめ、各地に「韓国神社」、「高麗神社」、「白髭神社」なおどがあり、祭神は韓国からの渡来人である、ほかにも数例をあげると、出雲大社、兵庫県姫路市の射楯兵主神社、福井県敦賀市の気比神宮、和歌山県和歌山市の伊太祁曾神社ほかがあり、ほかにも確証はないものの、大阪府能勢町の岐尼神社、兵庫県篠山市の佐佐婆神社、滋賀県草津市の久佐佐神社、岐阜県高山市の荏名神社などがあげられよう。このように国内には数多くの朝鮮系の神社が存在する。
だが、ひとたび韓国に目を向けると、神社というものがまったく見当たらない。
イソタケルノミコト、スサノオノミコトが降臨したとされる、朝鮮のソシモリ(曽尸茂梨)はその所在が把握できないのみか、名称さえも解釈できないありさまである。
朝鮮にも、かつて各地に神が降臨した形跡はみられる。先祖を祀る文化は存在しないのだろうか…?
そうすると日本の各地に存在する朝鮮系の神社はどうなるのか…?
推定だが、出雲文化は、氏族の「祖神」をもって国を形成し祀る国体を基本理念として経営したのではないだろうか…? 

44005 墾系と出雲系の同盟関係?

2008年04月24日 | 日本の山車
44005 墾系と出雲系の同盟関係?
播磨、尾張など「ハリ」のつく地名は古代の「ハリ氏」にゆかりがあると考える。
愛知県犬山市の国宝犬山城が築かれた地には「針綱神社」があるが、これも「ハリ氏」にゆかりがある。また名古屋市内に「平針」の地名があるが、これも「ハリ氏」であろう。
姫路市に、伊楯兵主神社があるが、祭神は伊楯と兵主の二神である。
イソタケルノミコト(五十猛命)およびオオナムチ(大己貴命)に代表される出雲系と墾系ははやくに同盟関係が成立していたということになろうか。



43005 邪馬台国の謎

2008年04月24日 | 日本の山車
43005 邪馬台国の謎
論証も得られないまま、邪馬台国論争は尽きるところがないように見える。
「魏志倭人伝」とは、中国西晋代の陳寿が記述した、中国三国時代の「魏書」烏丸、鮮卑、東夷伝の倭人の条をいう。
魏志倭人伝は中国から邪馬台国に到る旅程が記述されるが、その邪馬台国はどこであったか謎のままである。
邪馬台国は畿内か? 九州か? は二大説である。ほかにもたくさんの説があり、それぞれ説得力があるがるが、結論は、卑弥呼の陵墓が見つかる時点まで続くであろう。
しかし、それまでまったく謎のまま、まったくわからないだろうか? 
これはひとつの推論だが、
1 邪馬台国という名称のよびかた
邪馬台国の読み方は、「ヤマタイコク」もしくは「ヤバタイコク」であろう。
語尾の「タイ」は九州地方の方言で、本義は「タ」である。
2 八幡という名称のよびかた
八幡という名称の、「ヤワタ」もしくは「ヤバタ」であろう。
3 八幡という神社の祭神は、神功皇后、応神天皇を祖神とする。
4 邪馬台国とは「八幡を祖神」とする国ということになろうか。
5 八幡宮は日本で一番多い神社とされるが、本宮は大分県の「宇佐八幡宮」である。
6 三世紀の日本は空白の三世紀といわれ、おおいに国の乱れた時代であった。その乱れの元は、大己貴命の天皇への国譲りにあったと推定する。
7 混乱の収拾は、海人族と、住吉族の講和が成立したこと。その功績者は神功皇后であったと推定する。
8 神功皇后は畿内に戻っているが、墳墓は畿内に築かれたであろう。
9 卑弥呼とは、神功皇后のことであり、邪馬台国の所在地は九州、墳墓は畿内であろう。

03730 公智神社の秋祭

2008年04月23日 | 日本の山車
03730 公智神社の秋祭
兵庫県西宮市山口町下山口3ー14ー30
公智神社(くちじんじゃ、また、こうちじんじゃ)
□祭神
ククノチニカミ 久久能智神
配祀
タケハヤスサノオノミコト 健速須佐之男命 
クシイナダヒメノミコト 奇稲田姫命 

□山車
山車(だんじり)七臺を曳く。

□山車(だんじり)
・下山口 大
全体素木造り、唐破風の屋根は前後を2段に別ける。
単層で、後部は緋の大幕をめぐらす。後部には加藤清正の虎退治圖
が刺繍される。
勾欄をめぐらすが、後面が開口される。
各要所には金具で装飾される。

・下山口 小

・上山口 大

・上山口 小

・金仙寺

・中野

・名来

□汎論
延喜式神名帳に記載される古社、社記によれば、創祀時の祭神はククノチニカミで、
スサノオノミコトとクシイナダヒメはのち貞観年中に配祀したとある。

□問い合わせ
電話078-904-2251 



29001 木幡の幡祭

2008年04月22日 | 日本の山車
29001 木幡の幡祭
福島県二本松市木幡
□汎論
日本三大幡祭のひとつに数えられる。天喜三年(一〇五五)、源頼義、義家父子が戦いに敗れたとき再興を祈願したのに始まるという。
木幡山を御神体とし、治陸寺が別当としておかれたことを考証するに、起源はもっと古く、長野県青木村別所温泉で行われる「岳の幟」などとおなじ思想からでたもおではないだろうか? と推定する。


01771 安乗人形芝居

2008年04月21日 | 日本の山車
01771 安乗人形芝居
三重県志摩市(旧、志摩郡阿児町)
安乗神社
□汎論
安乗神社で奉納される「安乗人形芝居」 人形浄瑠璃で、通称を安乗文楽ともいい九月中旬の秋祭に上演される。
文禄元年(一五九二)志摩国領だった九鬼嘉隆が文禄の役に出陣するにあたり、八幡宮(現、安乗神社)に武運を祈願し、めでたく大願成就したのを感謝して感謝の奏上をしたさい、氏子らの協賛を得て始まったといわれ、およそ四百年を越す歴史がある。
年初には安乗浜辺で「三番叟」の上演がある。国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。

23001 大国主命の覇権を推理する

2008年04月21日 | 日本の山車
23001 大国主命の覇権を推理する
これは過去の事実を元に組みたてた推論である。もとより断定するものではない。
大国主命(オオナムチノミコト・大己貴命)の事跡を、現在の祭祀等に従ってチェックしてゆくと、朝鮮半島のソシモリに降臨したスサノオノミコトはイソタケルノミコトとともに、島根県地方に来着し、そこで、土地の有力者の娘クシィナダヒメと結ばれる。
大国主命はスサノオノミコト、クシィナダヒメを両親として生まれ、長じて海神族の宗像氏の長女であるタジリヒメと結婚。出雲系氏族、海神族は一族となった。
新羅を経て伝わった稲作を奨励しながら、
大国主命はスサノオノミコトとともに、播州にくだり、さらに東へそして南に移動し、大阪平野、和泉地方をほぼ手中に収め、葛城山、金剛山、生駒山、の東を更に東に。
桜井市の三輪山を神とするオオモノヌシノミコトとしておさまり、ここで第二夫人と結ばれる。
大国主命は、山城、丹波、丹後、若狭を経て加賀にいたり、ここでキクリヒメ(菊理媛・白山比命)を第三婦人(?)として迎え、能登、越中を経て高志の国(新潟県)に到り、直江津で、ヌナカワヒメを妻とする。二人の間にできた子が後のタケミナカタノカミ・いわゆる諏訪神である。
大国主命は北国街道を東に、碓氷峠を越えて武蔵にはいり、そこからさらに東北に進んで常陸に達している。
そこでも稲作を広めていったが、しかし、鹿嶋、香取とのあいだがうまくいかず、これが天皇家とむすびついて、いわゆる「国譲り」にまで発展した。
大国主命は武力衝突したときの非力を承知していたことになる。
大国主命がすすめた稲作文化とはいわゆる「弥生文化」と考えられるが、国譲り」により、弥生文化は終焉し、和泉地方も追われた出雲系氏族は、一部が紀州を南下、一部はいまの島根県、出雲地方に追い詰められ、祭祀用の銅戈、銅鐸などは一隅に埋められた。
各地でも同じような例が多々見られる。

26001 御蔭祭

2008年04月21日 | 日本の山車
26001 御蔭祭
御蔭山は有名な京都東山三十六峰の北から二番目の山にあたる。比叡山の山麓、八瀬にある御蔭山から神霊が迎えられる。神幸祭として最古の例とされ、毎年神馬に神霊を遷し本社に迎える古代古くは御生神事(みあれしんじ)と称ばれていたが明治初年の新祭式採用で、「御蔭祭(みかげまつり)」というようになった。
「みあれ」というのは、「ひもろぎ」の古語のことで、上賀茂神社にもおなじ呼び名があり、長野県塩尻市には「阿禮神社」がある。
 旧祭祀の神事は、旧暦四月の午の日、早朝に神を迎える一行が本宮を出発し、御蔭山麓のに到ると、加茂川支流の高野川に面した「船繋岩・磐座(いわくら)」でて御生神事を行われる、御蔭山の麓を楽を奏しながら「神おろし」の神事があり山を下る。
下鴨にある「糺の森」に到着すると芝挿神事(しばさしのしんじ)。切芝神事(きりしばのしんじ)。御生曳きといい御綱を正官がひく。本宮の儀のすべてを総称して、御生神事といった。
御蔭祭となってから、古式の神事は略されているが、
森を祭祀場とする切芝神事は、神霊を神馬の背にお移しし、神前で祭神のご来歴を宣し、風俗歌三代詠(さんだいえ)の演奏を行い、忌子(童形)が御杖を奉持して先導する本宮の儀などは五月十二日に行われている。
本来は神社で行われる古代祭祀であったが、近年は次第に氏子の祭へと変わってきている。

38201 高岡御車山余談

2008年04月20日 | 日本の山車
38201 高岡御車山余談
高岡関野神社の祭には「御車山」とよぶ山車が七臺曳かれる。
露臺式の山車で、通しの一本柱が立ち、鉾留、弧を描いて垂れ下が花笠には上から赤・黄・赤・白・赤の造花で飾られ、曳行にしたがってゆらゆらと優雅に揺れる。
下臺には贅を尽くした大幕が引き回され、見事な車がゆっくりと回る。
この見事な車輪は前田公からの下賜品だったといい、御車山の名称の由来ともなっている。本座にはおおきな人形が後屏を背にして飾られる。
人形は依代であって、山車を引き出すまでは、町内の会所に表を奉書で覆って飾られる。この山車は近隣の話題をあつめ、模倣があいついだ。
新湊、大門、氷見、伏木、小矢部などでは次々と同じような山車が建造された。
このことが騒動となり、各地で係争となったが、一向に高岡の主張はとおらなかった。
江戸時代、高岡の住人だった與次兵衛なるものはこれを潔しとせず、模倣をやめさせるため役所に差し止めを願い出た。
役所ではこれをききとどけ、魚津にあつめて検分し、処分を決めた。
たとえば城端の山車は、御車山とはずいぶん形態が異なるのだが役所の命により、解体した山車を小矢部川の水運を使ってくだり、日本海を北上して魚津まで運びそこで再び組み上げて、役人らに披露したといわれる。
その結果により、現地で処分の決定した山車、処分を免れた山車がでたが、処分を免れても、もう一度自分の町まで戻る費用がでず、魚津の浜辺につみあげて燃やしたものもあったという。
こうして一件落着し、その功労者となった與次兵衛を称え、御車山祭を「與次兵衛祭」とよぶようになったという。
一方、処分に服した町には大きな憤りと不満が残った。せっかく決まった婚姻が破談となったという話まで残っている。