暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉菴 横山家 44

2016年07月01日 | 日本の山車
  ◆藤本鐵石と楢泉菴 横山家

 藤本鐵石は、文化一三年(一八一六)生ー文久三年(一八六三)歿。諱は真金、字は鑄公、通称を学治、津之助といった。画号として、鉄石、鐡寒士、都門、売菜翁、吉備中山人などを用いている。
 備前国御野郡東川原村(現、岡山市)の出身で、二四歳のとき岡山藩を脱藩したあと、現在の、山形県、東京都、神奈川県、富山県、 石川県、福井県、 岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、 京都府、大阪府、兵庫県、 奈良県、 和歌山県、鳥取県、 島根県、岡山県、 広島県、山口県、香川県、 徳島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県などひろく諸国を遊歴した。各地に遺墨がつたわる。
 楢泉菴 横山家とのかかわりについては、出羽庄内の斉藤家は、同家の清川八郎が、のちに、山岡鐡舟と深いかかわりが生じてくる。信州(長野県)小布施の高井家とは、九條家の御用を承っていた事情があり、九條実道孝氏より「務存精要」と書かれた書が下賜されている。九條道孝氏の節子氏は、大正天皇の皇后である。言い換えれば、昭和天皇の母方の祖父であり、今上天皇の曽祖父にあたる。
 藤本鐵石が、楢泉菴 横山家を訪問したのは、高井家の紹介だったのではないかと推察される。鐵石は、ここで山岡鐡舟と出会い、鐡舟は、飛騨郡代だった父親の小野朝右衛門の代参ということで、鐵石とともに伊勢詣での旅に出る。この道中、鐡舟は、鐵石の所持していた、【林子平】の著である『開國兵談』を借覧し、おおいに感ずるとこころがあったという。
 このあと、鐵石の紹介で、廣瀬淡窓の弟である【廣瀬旭荘】が、楢泉菴 横山家を訪ねることになる。
 旭荘は、万延元年に越中入りしたが、五十嵐篤好は金沢まで出向いて迎えた。旭荘は、篤好らから歓待され、高岡(現、高岡市)、新湊の放生津(現、射水市。氷見(現、氷見市)をめぐり、牧野村(現、富山県高岡市下牧野)の【東弘寺】で、『高柳山六勝』を作っている。
 船津朝浦(現、岐阜県飛騨市神岡町朝浦)の大森曲亭は、田中大秀の門人であるが、また、篤好の門人でもある。おそらく旭荘は、越中東街道を経て大森曲亭方に宿泊し、高山に至ったと推察される。

  横山家に到着した旭荘は、横山家の庵名を【楢泉菴(ゆうせんあん)】と名付けた。

 【天誅組義挙】は、江戸時代の終わりをつげ、やがて来る明治維新の黎明ともいえる義挙であった。孝明天皇の大和行幸にあわせて、天誅組は兵を挙げて五條代官所を襲撃、代官鈴木源内の首級をあげ、代官所に火を放った。ところが、孝明天皇は、奈良県と京都府の県境にある、笠置までは行幸あったものの、ここで、急遽、大和行きを中止されたことから、天誅組は宙に浮き、紀伊藩、津藩、彦根藩らに攻められ、義挙はあえなく潰え、兵士らは四散し、その総裁であった藤本鐵石は吉野の鷲家口(わしかぐち)で戦死。また、かつて浪速で、岡鹿門とともに、【雙松岡塾】を結成していた【松本奎堂】もそのあとを追ったのであった。



◆01339 楢泉庵 横山家 43

2016年05月23日 | 日本の山車
◆楢泉庵 横山家 43

大隆寺 弁天堂
□山号 妙高山
□寺号 大隆寺
□所在地 岐阜県高山市春日町
□汎論
 妙高山 大隆寺の開基は、承応二年(一六五二)に、高山藩四代藩主だった、金森頼直が、京都市北区紫野大徳寺町の金龍院住職、禅海宗俊和尚を招いて堂宇を建造したのに始まると伝わり、本道脇には池があって、弁財功徳天が祀られている。
 この「弁天堂」は、享和元年(一八〇一)、大隆寺三世だった竺翁恵林和尚により建立されたもので、棟梁は、斐太ノ工(飛騨の匠)善兵衛、小左衛門の手になり、銅板葺、桁行二間、梁間二間の四角い宝形造となっている。内陣は六四に区画された格天井で、ここに四季の草花が描かれている。作者は高山町上二ノ町の二木長嘯、船津の酒造家で田中大秀門の大森旭亭らによる。
 建材は楢泉庵 横山家が納めたものでである。

◆01339 楢泉庵 横山家 42

2016年05月23日 | 日本の山車
◆楢泉庵 横山家 

正源寺

□山号 慈眼山
□寺号 正源寺
□所在地 富山県富山市西番
□汎論
 慈眼山 正源寺は、富山市の常願寺川の左岸、西番にある曹洞宗の寺院である。当地は長年にわたって常願寺川の氾濫により苦しめられてきた。このため、天正二年(一五七四)、常願寺川氾濫で水害に苦しまされる付近の農民たちを守り氾濫防止の祈祷寺とするため、富山城主の命により、土地の豪族である五十嵐次郎左衛門頼房らが願主となって開基された。本尊は聖観世音菩薩で、行基菩薩の作と伝わり、富山県重要文化財に指定されている。
 本堂は、文化年間富山一〇代藩主利保公の招聘を受けた、横山家が斐太ノ工を派遣して工匠は【神工長】が建立したと伝わる。本堂天井に描かれる龍の画は、藩主前田利保公が、【藤原守胤】に命じて描かせ奉納したもので「招福鳴龍」といい、富山市の市の文化財に指定されている。
 北陸第三十一番の霊場で、「鳴龍のお寺」とよんで親しまれる。


◆01339 楢泉庵 横山家 39

2016年03月18日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 39

  おばば

  おばば どこへ行きやるな なあなあ

  おばば どこへ行きやるなあ
  三升樽さげて そうらばえ
    ひゅるひゅるひゅ ひゅるひゅるひゅ

  嫁の在所へな なあなあ
  嫁の在所へな なあなあ
  初孫抱きに そうらばえ
    ひゅるひゅるひゅ ひゅるひゅるひゅ


 岐阜県西濃地方(美濃地方南西部)で唄われる民謡である。祭礼、お祝いの席、またひろく座敷唄としても唄われる。 
民謡おばばの由来について揖斐川町では、天正年間に、斐城主だった堀池備中守の姉が善明寺春淨に嫁ぎ、初孫を出産した祝いとして,母が祝酒を娘の嫁ぎ先に届けたのに始まるとしている。
 しかし、歌詞にあるように、昔は嫁入りした娘の出産は実家で行われる風習があり、出産祝いは、新夫側から嫁の在所に贈られる祝儀である。初孫を抱きに行くおばばは、義母ということになる。

 福井県今立地方には、【御莱祀(ごらいし)】とよぶ祭礼が二月の雪の中で齋行される。大きな木橇のうえに【島臺】とよばれる俵状の組物をのせ、栗の木を立ててこの木に繭団子がたくさんつけられる。岡太神社(おかもとじんじゃ)から曳き出されるとき木遣を務める男性が開口一番の唄いだしが、【おばば】である。  
これをみると、おばば のルーツは越前ではないかと推察され、由緒は揖斐川町説よりさらに古いのではないかと想像される。

 写真は、江戸時代に、【楢泉庵 横山家】から、飛騨高山(岐阜県高山市)衣斐坂(海老坂)の酒造家である【平瀬酒肆】に対し酒三升を注文あいた注文書である。「極上の清酒三升を、お送り遣わされたく願い上げ候」とあり、【飛州大野郡 八日町 楢泉庵】の木印が押印されている。 このことから、広瀬旭荘が明舞した庵名である 【楢泉庵】という名称は屋号としてつかわれ。広く通用していたことがうかがわれる。







◆01339 楢泉庵 横山家 29

2016年03月10日 | 日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 29

龍神臺

高山市上三之町中組

からくり戯で人気のある、【猩々】ののる屋臺。
明治9年に改修が行われている。工匠は、は楢泉庵、横山家の改築にもかかわった谷口
宗之(谷口與鹿の甥)である。

建材、彫刻材の納入したのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料




◆01339 楢泉庵 横山家 28

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 28

むつ田名部祭

江戸時代、陸奥田名部(現青森県むつ市)に飛騨屋久兵衛の商館があったことから、、田名部祭にはさまざまな寄進が行われていた。青森県の祭礼では、ねぶた、ねぷた。立佞武多などが曳かれるが、鰺ヶ沢の白八幡宮、それに当、むつ田名部祭では高山mで曳かれる屋臺(山車)に似た山車が曳かれる。尾の山車の見送りにかつて飛騨高山祭で曳かれていた山車の見送り幕が掛けられる。
 飛騨屋久兵衛が楢泉庵主、横山彌右衛門から譲り受けたものを寄進したものである。

◆01339 楢泉庵 横山家 22

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 22

了徳寺 鐘楼
高山市(旧清見村)牧ケ洞

牧ケ洞了徳寺ノ鐘楼は谷口延儔(與鹿の兄)の建立。四方の彫刻は谷口與鹿。
高山上三之町の屋臺である惠比壽臺建造の前年にあたる。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 12

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 12

・大八臺
 高山の屋臺で演奏される屋臺囃子のなかでも、八幡祭の「大八」はとりわけ著名である。大八臺で演奏される「大八」を、そのままか、または何んらかの形で編曲して演奏する屋臺は、八幡祭の
金鳳臺、豊明臺、鳳凰臺鳩峰車などであるが、秋の八幡祭の屋臺のみにとどまらず、春の山王祭の石橋臺、崑崗臺、鳳凰臺、琴高臺、青龍臺惠比壽臺、大國臺などでも演奏される。
 大八臺が正調「大八」であるのは当然として、他の屋臺組でもこれを編曲した「大八崩し」が演奏される
しかし、かっては曲名はおなじでも、その大八崩しは演奏される屋台組によって微妙に音色や調子が異なったものである。
 これは、囃子を指導する師匠や口伝に個性があり、伝承の課程で各屋臺組独自の曲に変わっていったからである。
 「大八」という屋臺囃子は高山の祭囃子固有の優雅なお囃子で、他には例を見ない。
 では「大八」はどのような過程からうまれたのだろうか?
 江戸時代、文化五年(一九〇八)、ふたりの子供をつれ、背中に琴を背負った浦上玉堂が高山を訪れた。もとは白だったであろう着物とも思えない衣服は、長旅にすっかり汚れ、ほこりと汗にもつれた蓬髪は、見る人の眉をひそめさせた。この姿で玉堂は各地を旅し、しばしば物乞いと間違えられて追い払われた。ふたりの子供は春琴と秋琴である。
 玉堂の旅姿を伝える古書はこう誌している。玉堂はこの足で、千種園に田中大秀を訪ね旅装を解いた。
 大秀は、京都で本居宣長に学んだとき、玉堂を知り、琴の教えを受けた昵懇の間であった。この玉堂の高山訪問は驚喜をもって歓迎された。
 大秀が玉堂の来飛を望んだのにはいまひとつおおきな理由があった。
 下一之町の屋臺の改修にあたり、大秀はその相談を受けていた。国学者である大秀は、従来他の屋臺とは趣を変え、すべて和風で
仕上げる構想を練っていたが、おなじ高山町内で漢学の学問所を開く赤田臥牛もこれには賛成していた。
 しかし、各地を放浪する玉堂の所在を掴むのは、至難のことで、臥牛は「白雲中の鶴を探すより難しい」といって嘆いた。その鶴が高山に舞い降りたのだから、そのよろこぶは一様ではなかった。文化五年、玉堂は水戸藩で逗留し、薬種商の感章堂主人の岩田健文に、琴の指導をしたことがつたえられているが、高山を訪れたのはこのあとのことではないかと考えられる。水戸から高山へ道筋は不明だが、中仙道から、碓氷峠を越え、さらに野麦峠を経て高山入りするという旅程だったのではないだろうか。
 高山に旅装を解いたのは、旧暦の七月。暑い夏の盛りであった。
 歓迎を受けた玉堂がさっそく弾琴の披露をしたのは言うまでもない、
大秀は笙、篳篥、琵琶の名手でもあり、玉堂に和して旧交をあたためた。
 その席には赤田臥牛も招かれた。
 玉堂の琴に話しがおよんだ。
 いま一「こと」といえば「筝」をさすのだろうが、「琴」にはこの「筝」と「琴」がある。おおきな違いは、筝は「琴柱」を立てるのに対し、「琴」はこの琴柱がない。
玉堂や大秀が弾いた「こと」はこの「琴」である。
玉堂が大切にしてどこへ行くにも携えた琴は、やはり高山にも持ってきていた。
 大秀は、この玉堂が持つ「琴の複製作りたい」と希望したところ、玉堂は快諾した。しかし、問題はその材料であった。
 大秀からこの話を聞いた臥牛は意外な提案をした。
 臥牛の手元に老杉の材があるというのである。
 この杉は、浅水の地で、日夜、千年の歳月をせせらぎを催馬楽の音として聞きその生命を終えた。その杉材は、ほとんどお堂の建造に用いられたが、いくらかの余材があり、縁あって臥牛の手に入った。
 臥牛はその杉材を提供すると申し出たのである。
 玉堂の琴について
 玉堂の琴を手本に「かんぞう(複製)」する依頼に応じたのは、彫刻の名匠、中川吉兵衛であった。
 吉兵衛は五日ほどでこれを作り上げたが、玉堂はその間付きっきりだったという。
出来あがるや、玉堂は白木のままの琴に絃をはり試し弾きをした。
 固唾をのんで見守る大秀や人々の前で弾き終わった玉堂は、首を傾げていたが、もういちど弾き終わるや破顔して「自分のもつ玉堂琴にまさるも劣らない」と絶賛した。
 大秀が喜んだのは言うまでもない。
 玉堂は大秀を訪ねるほか、飛騨にはもうひとつの目的があった。
 それは「催馬楽」の旧地である、阿左美豆(あさみず)の地を訪ねることであった。
 話しを聞いた一同はその不思議な因縁話に驚いた。
 大秀は、日を選んで酒肴を調えさせ、羽根の阿左美豆の地に玉堂を案内して一日清遊したが、
 玉堂は出来あがった琴を
携え、浅水の地で川傍の石上に坐って数曲を弾き、さらに自ら編曲した「催馬楽」を披露したが、この曲を聴いて感動しないものはいなかった。
 玉堂は、名工、中川吉兵衛をたたえ、この琴は「漆をかけなくても、このままで申し分ない」といい、「浅水琴」と命名した。
このときの様子を玉堂は「浅水琴記」としてに残している。
 浅水橋は、いわゆる催馬楽の歌曲なり。
 戊辰の歳、余は飛騨の高山に遊び叢桂園の主人訪う。
 主人、嘗テ国風を善くす。固より余が知音なり。
 琴酒の余、余に二謂って日く、浅水橋は昔本州の益田川に在り 橋断ゆること今に二百又余年。 
 是を憾となすのみ。
 余行きて其の処に至り、 川上に琴を把りて浅水の曲を鼓す。
 山雨新たに晴れて、流水潺々たり。
 心を洗い思いを滌いで去る。豈に主人、此の巻を出して題を索む。
 展観すること数四。
 酒を呼んで此を書す。
    
大秀もまた、浅水橋について和歌を詠んだ。
  浅水の橋の古こと万代に しらべ伝へむ琴ぞ此こと
 このあと玉堂は、大秀の需で、大八臺の改修工事に意見を述べ、屋臺囃子の作曲と、その演奏の指導を行ったが、やがてできあがった曲を演奏する指導を受けたのは屋臺組を差配していた「大八」の人々であった。
 この屋臺と、優雅な屋臺囃子に満足した屋臺組では、この事跡をながく記念するため、改修なった屋臺を「大八臺」と名づけた。
 このとき「文武」「蘚花」などの琴曲も教えられたというが、屋臺囃子としていつごろまで演奏されていたかはわからない。
 大八臺の上臺には衣桁が五つ備えられ、それには、担当する楽器により五式に色分けされた伶人衣装がかけられていた。
 いまは小幡に変っている。
 秋祭に曳かれる「大八臺」を見ることなく、屋臺囃子「催馬楽」を聞くこともなく玉堂は二人のこどもを連れて飛騨を去った。
 浦上玉堂はこのあと、大秀の紹介で古川町の酒造家である蒲家に一夜の宿を借り、もとめられて「曳杖野檎図」をのこしている。
 船津(神岡町)では、大森家にわらじを脱いだ。
 さらに越中富山を経て、金沢に至り、暫らく滯在したあと、会津に向かった。
 大秀が玉堂を飛騨古川の酒造家である蒲家に紹介した書翰があるが、それによると、
 玉堂先生御出拙家に六十日程御遊、尤拙家は右の事故八幡山勝久寺等に被居候。
 詩画等も被致誠に天下第一の風流士に御座候。
 何卒御世話奉了等潤子共今夜一宿御願申上候。
 とあって、玉堂が高山に滯在したのはおよそ二ヶ月あまり、高山を離れたのはいまの十月中旬から下旬頃だったと思われる。 玉堂が高山滞在中、中川吉兵衛により二面の琴が作られた。一面はさきの「浅水琴」で、今一面は謝礼として赤田臥牛に贈られた。
その琴は、赤田誠修館にしばらく保存されていたが、臥牛の二代目である章齋のとき、谷口與鹿に譲られた。與鹿はかたときもこの琴を手放さなかったというが、こんどは、與鹿がこの琴を手本にしてもう一度つくることになった。 その琴が、上一ノ町の屋臺「麒麟臺」の下臺に彫刻される「唐子遊戯図」のなかで唐子が弾琴する琴である。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料
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◆01339 楢泉庵 横山家 11

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 11

琴高臺 本町
貫名海屋と琴高臺
儒者として、書画家として名高く、ことにその書は江戸時代の三筆といわれ能書で知られる。阿波徳島の人で、本名は吉井氏。画ははじめ藩の絵師、矢野典博に狩野派を習ったが後に南画に転じた。書はおなじ徳島の西宣行について宗法を学んだが、成長するに従い自分が武士として不適なのを悟り僧となることとした。叔父を頼って高野山に行き、そこで空海の古法帳を臨摸して書家としての腕を磨いた。その後中井竹山の「懐徳書院」に入りのちには塾頭まで進んだ。この懐徳書院は片山北海一派の「混沌社」とともに、当時大坂における二大学派の一つであった。
このころ伊丹郷町より懐徳書院に学ぶ人が多く、加勢屋七兵衛、紙屋七郎右衛門、岡田著斎らがあった。この懐徳書院の門人に岡田著斎があったことがのちの谷口與鹿の後半生に大きな関わりを持ってくる。岡田著斎は通称を鹿島屋利兵衛といい、岡田糠人の父である。酒蔵業を営むかたわら学び、懐徳書院では三ツ村崑山ともっとも親しかった。 著斎は中井履軒の薫陶を受け、その著述である「七経孟子逢原」三十冊を模写した物が今に伝わる。與鹿はまたこれを借りて模写したのである。文政八年(一八二二)十月十五日に死去した。中井履軒は晩年幽人と号し、宗学を修めたが文化十四年(一八一七)八六歳で死去した。履軒は甥の蕉園(中井竹山の子)とともにしばしば伊丹に遊んだ。
 海屋は四国、中国から九州を歴遊したが、長崎では僧鉄翁らと交友があった。
その後東海道から中仙道を漫遊して江戸に出たが、天保八年(一八三七)に高山に入り翌九年(一八三八)までおよそ一年間滯在した。
 海屋の作品は飛騨地方に数多く残されているが、その多くは新装なった赤田誠修館に滞在した。 海屋の滯在の足を長引かせたのは、本町一丁目に建造中の「琴高臺」であった。
 海屋は高山滞在中に松倉山東中腹にある寥郭堂にあそび、漢詩を残している。
 琴高臺は旧臺名を「布袋」といい、文化四年まで曳いた。そのあと改造されて、琴高臺と名を変えた。命名は赤田牛だったが、じつは富山県の八尾に琴高臺があったことからそれ以上の屋臺を建造しようという意欲があった。
 天保九年(一八三八)春の山王祭りにめでたく竣工して曳かれたが、この年の屋臺曳順は記録によると、
番外 神樂臺
 一 三番臾
 二 太平樂
 三 黄龍臺
 四 五臺山
 五 大國臺
 六 龍神臺
 七 殺生石
 八 石橋臺
 九 崑崗臺
 十 琴高臺
十一 南車臺
十二 鳳凰臺
十三 黄鶴臺
十四 麒麟臺
宮本 青龍臺
 の十六臺総揃いで、高山の町は大火、大飢饉をわずか数年で立ち直り、
見事な復興をなしたのだった。 いまはこのうちの何臺かは失われ、この豪華な曳き揃えを見ることは出来ない。 琴高臺の臺名は、中国の「列仙伝」にある琴高仙人の名を取ったもので、琴高は趙の国の人であった、宗の康王に仕えていたが、河北から山西地方を二百年にわたって放浪し、ある日祭壇を設けて潔斎し「龍の子をとってくる」といって水に潜っていった。
皆は水辺で待ったが、果たして約束の日が来ると赤いおおきな鯉に乗って帰ってきた。皆は驚いたが、琴高はそのまま祀堂にすわったまま一ヶ月、ふたたび水に戻っていったという。布袋から琴高臺に改称されたのは、文化十二年(一八一五)のことで、二十四年を経た天保九年(一八三八)ようやく名実備わった優美な姿を現したのだった。
設計、彫刻、鯉の作品いずれも谷口與鹿。大幕は與鹿の下絵をもとに藤井孫兵衛が画き、新宮豊次郎が刺繍をした。
 與鹿の生家があった同じ組の屋臺で、このとき與鹿は十七歳であった。
 この屋臺の学術考証は、二代目誠修館二代目の赤田章斎、意匠、工匠技術は中川吉兵衛が指導した。
この年海屋は六十一歳であった。飛騨の匠の技に驚嘆し、京都に帰ってからもその強い印象を人に語った。
この海屋の来飛は、のち谷口與鹿の運命を決めることになる。 
□汎論
 岐阜県高山市は、いまでも旧国名の「飛騨」をつけて「飛騨高山」とよばれることが多い。「飛騨」の語義は不明とされるが、古い表記は「斐太」である。島根県の簸川、関東に多く見られる氷川などに通じる「ヒ」の國で、茨城県の常陸、大分県の日田、宮崎県の日向(ひゅうが)などに通じる。新潟県には斐太と斐太神社がある。奈良県には、滋賀県には「飛騨」の地名がある。「ヒ」は古代出雲系氏族にちなむと考えられる。
 熊本県も噴煙をあげる阿蘇にちなんで「火の國」とよばれるが、こちらは「ヒの国」ではない。
 高山は左甚五郎に代表される名工、「斐太の工」でよく知られるが、その系譜には謎が多い。全国には斐太の工が建立した神社、仏閣、また彫刻にも優れたものが多く残るが、これらは斐太の工が各地を遊行移動しながら建立したものが多い。また、江戸の蔵前、難波の天満、京都の二条などに出先を構えて、社寺建築受注の出張所がおかれていた。しかし、普通は半農、半工の暮らしだったようである。
 春の高山祭は、旧山王祭である。明治の以後は日枝神社と改称されたが、祭はいまでも「山王祭」とよばれており、東京の日枝神社の祭を「山王祭」とよぶように、定着した呼称には愛着と伝統がある。高山祭の山車は夙に有名であるが、その淵源は、豊臣秀吉の死去七年目の慶長九年(一六〇四)八月十二日より十八日までに齋行された、「豐国大明神臨時祭禮」に遡る。
 豐国大明神臨時祭禮には、長らく豊臣秀吉とともにあった「金森氏」の、長近(ながちか)、可重(ありしげ)親子が、奉行として加わり、臨時祭禮の終了後に拝領した品々を領国飛騨高山に伝え、町衆が高山の鎮守とした山王宮の祭禮にこれら拝領品を用いた祭が行われた。これが春の高山祭「山王祭」の濫觴である。
 春の高山祭「山王祭」で曳かれる山車「屋臺」は、
・樂臺 上一之町上組の歴史は、太鼓臺にはじまり、あらゆる山車(屋臺)に先行する 。現在の形態は露臺式で、御神幸の獅子舞の演奏を行う。厳密に言えば山車でも、屋臺でもない。
・三番叟 上一之町中組は二層の上臺前部に張り出された機関樋のうえで、機巧人形によ る三番叟で、鈴の段、黒き翁が演じられる。三番叟人形は神の依代である。
・麒麟臺 上一之町下組。
・石橋臺 上二之町、神明町は、ながらく休止していた機巧人形による獅子舞が近年復活 した。
・五臺山 上二之町中組は、江戸時代に中国の故事、「邯鄲(かんたん)」にちなみ、盧 生が能楽の「邯鄲」にあわせて舞う機巧人形戯があったと伝えられる。
・鳳凰臺 上二之町下組は、高山の山車(屋臺)のうちでも京都祇園祭の鉾に似ており真 木を高く上に鉾をたてていたが、現在は短くなっている。下部を「網かくし」で覆う。・惠比壽臺 上三之町。
・龍神臺 上三之町中組には、もと八幡祭の旧山車大八臺より、人形「猩々」を譲り受け 、のちに機巧を行う屋臺となった。機巧人形猩々(龍神)が依代となっている。
・崑崗臺 片原町は上臺で林和靖(りんなせい)と唐子の機巧戯をおこなう山車(屋臺) だったが現在は休止している。林和靖と唐子が依代である。
・大國臺は、上臺の俵の上に本座人形、大國主命がのる。
・青龍臺は、江戸時代に「娘道成寺」が演じられていて、狂言の役者が依代だったことが ある。
・琴高臺 本町一丁目。
 樂臺以外、山車(屋臺)と日枝神社には関連がない。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料