暘州通信

日本の山車

00120 高田愛宕神社祭

2007年07月31日 | 日本の山車
00120 高田愛宕神社祭
岐阜県養老郡養老町高田
愛宕神社
□祭は五月下旬。
山車三臺を曳く。
山車
・猩々山
・林和靖山
・神楽獅子山

□汎論
山車は岐阜県の文化財の指定を受けている。
山は車偏に山と書くが文字がない。

□参考
林和靖
・愛知県名古屋市
・愛知県西枇杷島町
・高山市片原町崑崗臺にからくり人形がのる(現在は操られない)。

□問い合わせ
養老町産業観光課
電話0584-32-1100

00114 羽生八雲神社祭

2007年07月26日 | 日本の山車
00114 羽生八雲神社祭
埼玉県羽生市
八雲神社
□祭は七月上旬
屋臺二臺を曳く

□山車(屋臺)
・旭町
明治中期の建造。
・東大和町
昭和四八年、町内の人たちにより建造された。
・本町、下町
以前は山車(屋臺)はあったたが、昭和三〇年頃を最後に、いまは曳かれない。

00107 本庄祭

2007年07月18日 | 日本の山車
00107 本庄祭
埼玉県本庄市宮本町
金鑚神社(かなさなじんじゃ)
祭は十一月上旬。
山車十一臺を曳く。

□山車
・宮本町
明治一五年の建造。
本座人形は日本武尊。江戸(東京)日本橋の人形師、原舟月の作。
山車は臺輪部と本体部に分かれる 本体部は臺輪の上で回転できる構造になっている 車軸は車臺に固定され大八とよばれる車輪は四輪とも同じ大きさである 街の角を曲がるときは、車輪を梃子棒でこじりながら少しづつ向きを変えるが 逆方向に方向を変えるときは、本体部だけ回転させてひきかえせるようになっている このような装置を備える山車は、台町にもあったが今は使用されていないので いまは宮本町だけの特徴である。
大幕を彩る豪華な刺繍は玉亀の作。
上臺の幕には飛雲と龍の図。
下臺の幕は萌葱色の羅紗地に楽器。
額は「宮本町」と書かれており「山岡鉄舟」の書
鉾柱をつけると八メートルにも及ぶ大きさだったというが、最近は鉾柱は取り付けられない。
祭礼の日には以前山車に乗せて曳かれた大きな獅子頭が宮本町会館に飾られる。
祭囃子には、逢魔、屋臺、神田、神楽がある。
・泉町
明治二八年頃の建造。
本座人形は武内宿禰、江戸(東京)浅草の横山友治郎、号を朝之というの作。
明治二十八年頃から建造にかかったといわれる 日清戦争の戦勝を記念して作られた この山車には唐破風の屋根がない。いままでほとんど改造の手が入っていない 上臺の人形座の前面勾欄が開かれている この山車が出来る前には旧臺があったといい、三輪車だったとか、牛に曳かせたなどの伝承がある。
明治三十二年、新臺の完成を挨ってこの山車は上町に譲られた。 人形の箱書に「明治二十八年十二月吉祥日」 上幕(三重幕)の箱書きに「上幕明治二十九年十一月泉町」 建造にはおよそ四年をかけ、曳行されたのは明治三十二年と思われる 上幕は赤地に鶴と雲 赤色の下地は取り替えられた 中幕(二重幕)はすべて交換された 上臺にたてられる「錦の御旗」は日輪と月輪 曳行の時ははずされる。
泉町と上町の山車の作者は同一人の建造。
祭囃子は、さんてこ囃子、かわりめ。
・上町
明治三五年の建造。
本座神功皇后、江戸(東京)浅草区榊町一番地横山友治郎の作。
出来たときは泉町の山車と同じように唐破風の屋根がなかった 現在見られる唐破風の屋根は、後年の補作である このとき勾欄にも手が加わっている 山車は明治三十五年九月九日、重陽の節句に発注された 請負約定書に「十月二十八日必着」とあるのは、 作者が出張により作るいわゆる「出造」ではなく 東京で作って 中山道を本庄まで曳いてきたことをあらわしている 人形は神功皇后 泉町の竹内宿禰と一対をなしている 中臺の大幕は「猩々緋に岩と波」 製作された当時のままである 下臺の彫刻があり神功皇后ゆかりである 額の書は 「明治臨池の三代家」といわれた島村出身の「金井之恭」 かないしきょう 貴族院議員になっている 腰板の一面には上町の文字を図案化したものを彫ってある 金具は「銀杏唐草模様」の手のこんだもの 祭礼の床の間にかける「金鑚神社」の軸は、松平越中守定信 の書で金鑚神社の鳥居に懸けられている 扁額の拓本である 明治五年の祭礼には家臺人形菊童子とある 新臺の発注と縁起を併せてある
祭囃子は、大間(おうま)、屋臺囃子(やたいばやし)、通り囃子(とおりばやし)
・照若町
明治三十三年(一九〇〇)の建造。
本座人形は桃太郎、浪速屋七郎兵衛の作。
江戸(東京)浅草の庄田七郎右衛門の作 七郎右衛門は屋号を浪花屋といったので浪花屋七郎右衛門といわれる 本町の石橋人形を作った浪花屋とは同一人である 明治三十三年山車を建造したときの「寄付金人名簿」にはこの山車のことを 「鉾花車」とある 山車彫刻、刺繍は桃太郎に因む 破風下の懸魚に犬と猿が向き合っている 雉はは鬼板にとまっている 鬼ヶ島は中段大幕に描かれる 波と岩が刺繍される 囃子臺の正面上手の左柱(向かって右)に赤鬼が 下手の右柱には青鬼がいる 鬼ヶ島から持ち帰る金、銀、珊瑚、綾、錦、打ち出の小槌、大福帳などの宝物が 囃子臺の欄間にみられる この山車には泉町と同じように破風屋根がなかったが昭和十二年頃補ったといわれる
現在の人形は二代目 上町の米福の作。米福は近隣の山車人形をいくつか手がけている。
囃子は、大馬(おうま)、テンガスク、屋臺囃子。かっては「通り囃子」も あったとわれるが、今は行われない。 宮本町、上町、本町、南本町にはそれぞれ同名の囃子があるが、演奏がいずれも若干異なる。
・七軒町
大正十三年の建造。
本座人形は加藤清正。町内の人たちが作る。
この山車は一度に出来たのではなく、大正十二年頃より、臺輪、枢臺、屋根、 せり上げの採用、上臺 などが、年を逐って加えられてきた 上臺人形も一定ではなく、 「八たの鏡」「太平樂」「大黒」「加藤清正」などがあったといい 年毎に変えていたともいう。 昭和八年皇太子誕生を記念して新たに人形を作ったが今の加藤清正。この加藤清正は虎退治ではなく、「地震加藤」だという 慶長元年(一五九六)正月、伏見において加藤清正が蟄居していたとき 七月十三日大地震があり伏見城が壊れた が、このとき一番に駆けつけたのが加藤清正で、これを賞して蟄居を解かれた という このときの出で立ちすがたである。
この人形は本庄町上町の「松壽軒米富久」の作 本名は松崎福松、東京浅草の人形師に弟子入りし、人形製作を学び 本庄に帰郷して「米福」の屋号で開業した 本庄近在はもとより、群馬県方面にも屋臺や、山車人形を作っている。
昭和三十五年、前臺に唐破風の屋根がつけられた。主任工匠・棟梁は町内の脇坂新太郎 彫刻は神崎助三郎。
幕も何度か作られたが、現在の物は昭和五十六年群馬県の桐生で調製。
額の書は塚越泉南。やはり地元本庄の人である 本名は塚越伊三郎 弘化五年、塚越門之助の長男として生まれた 漢籍や書画の鑑定に長じ、書も巧みである。 大正十三年七十七歳の時に揮毫されている。
・仲町
明治五年の建造。
本庄市最古の山車。
明治二五年に山車改修と人形新調。
東京日本橋本石町の原舟月、本名、原金五郎である 本庄に残る山車の中では一番古い 古文書「龍女人形出シ印仕用帳 法橋原舟月 本庄宿仲町御世話人衆中様」 人形は龍女の木彫 目に玉が入っている 「唐団扇」と「金の龍玉」を持つ 上臺に懸かる水引幕には白の羅紗地に四神が刺繍されている 東青龍 西白虎 南朱雀 北玄武 山車は中国の故事に「天子は南面す」とあることから 定位置では南に向かって留め置かれる 正面には朱雀が来るように張られる 中段の水引幕は萌葱色の羅紗地に龍が刺繍されている 下段の水引幕は龍と立浪の模様がある 前大幕は紫地に白羅紗の「巴紋」が縫いつけられている 三味線胴 雲に玉丸入りの白鶴の彫刻 中段勾欄には白鶴の透かし彫りがある この山車を作ったとき舟月は四十二歳である
山車創建時の人形は龍女だったという。
この十年後、五十二歳のとき宮本町の山車を作ることになる 刺繍はいつもの提携者「玉亀」があたっている 明治二十四年やはり舟月に伊頼して大改修を施している 神武天皇の人形はこのとき新調された 昭和十年大改造を行い、「唐破風屋根」がつけられた 大工は仲町の粟野清吉、塗師は五井富蔵 彫刻は玉井村(現在は熊谷市)の小林栄吉 下段の幕も神武天皇にゆかりの「三種の神器」である 剣、鏡、勾玉が高崎市の新井道平により刺繍されている 山車を収蔵する収蔵庫、「山車小屋」といわれる収蔵倉もこのとき作られた 「仲町」之額は書家の松本薫仙 松本薫齋の子で名は宗祐、字を成義といい、文久三年頃は東京の泉町に住んでいた 書の中井敬義(薫堂)之流れをくむ 祭りのとき「会所」の床の間にかけられる「金鑚神社」の軸は小暮雪堂の書 屏風の画は小倉青於 いずれも地元の文人。
囃子は、大麻、屋臺囃子、通り囃子、ひょっとこ囃子、籠丸。

・本町
本座人形は石橋、庄田七郎兵衛の作。
建造期は不明。
町内に「竹田近江大掾縫殿之助清兼 明治二十八年拾弐月大祥以壱周年」と書かれ た木簡がある からくりにゆかりの「竹田近江」であろうが 「翁」の人形の制作者ではないか? と考察されている 山車の製作者とは思われないが、詳しいことはわかっていない 当初は三番叟だったと思われる 町内の言い伝えでは現在の山車は二代目で、初期の物は原舟月の作だったといわれる 昭和三年十一月に、人形を「翁」から「石橋」に変えた 石橋の製作は東京市浅草区茅町二丁目二十一番地 浪花屋、庄田七郎兵衛 中臺の幕牡丹の花の図」もこのとき取りかえられた 人形は能の五番もの「石橋」 清涼山 前半 後半 寂昭法師(大江定基)と、獅子は面で表現されている 中段の幕に描かれる牡丹は、能舞台に見立てている 昭和九年、唐破風屋根、鬼板、腰板を台町に譲り、あらたに 唐破風屋根が作られたが、囃子臺の「半柱」に上り龍」「下り龍」 の彫刻がつけられた 彫刻は玉井村(現在熊谷市)の小林という彫刻師による (小林については詳しいことがわからない) 本町と書かれた額は福羽美静(ふくばびせい)の書 明治二〇年子爵に叙せられ、のち貴族院議員になった。 「金鑚神社の軸は中沢雪城の書 雪城は巻菱湖の四天王の一人といわれる ちなみに、上町の額を書いている金井之恭は雪城の門人である 囃子がどこから伝えられたかよくわからないが 対象の初め頃までは仁手村から指導にきたという 岡部町の屋臺囃子の中に本町と同じものがあり この囃子を、境町では「武州囃子」とよんでいる
祭囃子は、大間(おうま)、屋臺囃子、通り囃子、籠丸(かごまる)、新道、貴船、ひょっとこ囃子。
・南本町
昭和四十八年の建造
人形は天宇受売命(天鈿女命)で、表記は「古事記」に則っている 製作は町内のひとたちの手による。
本庄の山車の中では一番新しい 高崎線が電化されたことから、それまでは曳行されていた本町の山車が 架線のため駅南には曳くことが出来なくなった 山車の本体は鉄骨製 「駅南会」の額を上げ本町の山車の「供車」として参加した 人形もまた町内の人の手になる 昭和五十五年四月、駅南会は新たに南本町自治会として発足した その年の秋祭りには、それまで掲げられていた額をおろし、「南本町の額を 掲げ、南本町の山車として正式に参加した。 本庄の山車はこの南本町の山車を加えて、九町九臺となった。 昭和五十六年南本町会館と山車蔵(山車小屋)ができた 会館にかけられる「金鑚神社」の軸は本庄の金鑚神社宮司、中山訓好の書。
囃子は「大間」「屋臺囃子」「通り囃子」「籠丸」「ひょっとこ囃子」「数え歌」 「四丁目」で本町の囃子を伝承している。 この四丁目は寄居町の同名の曲と同じ囃子となっている。
・台町
本座人形は素盞鳴命(スサノオノミコト)。
町内に「明治十八年十二月東京浅草浪花屋七郎兵衛」の木札がある 浪花屋七郎兵衛は、照若町、本町の山車も製作している この山車は宮本町の山車と同じように、枢臺が回転する ように作られていた しかし、後の改修以来出来ない構造になった。 旧構造を懐かしみ惜しむ声がある 昭和十年頃唐破風と腰板を本町より譲り受け改造が行われた 大工は町内の清水林平、 塗師は野村源光 中臺の幕もこのとき福島梅吉により新調された 町内に残る逸話 「昔京都で中古の山車を買ってきた」 「東寶齋壽山作」と書かれた木札が山車に掲げられている 「東寶齋」という人物は不明である 人形は、素戔嗚尊のヤマタのおろち退治 上臺大幕には、ヤマタのおろちが刺繍されている 中臺の大幕には、おろちに飲ませる酒樽が八個描かれている 「臺町」の額の書は尾高藍高 下手計村(現在深谷市) 通称新五郎、字を子行 後年、惇忠といった、諡号もまた惇忠という 水戸額を学び、後に彰義隊にはいった 明治に入り民部省に招聘されて、富岡製糸の工場長になった 「金鑚神社」の額は、中沢雪城 越後の人で、名は俊卿、字は小國、通称を行倉と言った 巻菱湖の門人囃子は「大間」「神田丸」「屋臺囃子」「「ひょっとこ囃子」「貴船」 「屋臺囃子は、通称「さんてこ」といわれ、地が「さんてこ」「変わり目」が 「屋臺囃子」
・諏訪町
平成五年の建造。
本座人形は太田道灌。日光兼光、纏屋義郎の作。
・南本町
平成三年の建造。
本座人形は連獅子、町内の人たちが作る。
昭和四八年の創建。

□問い合わせ
本庄市商工課
電話0495-25-1174

□山車文献資料
・本庄祭りの山車 本庄市教育委員会
・中山道の旅(一)」(日本歴史一九七二年一月号)岡田章雄翻訳文
フランス人レイモンド・ド・ダルマスが明治十五年(一八八二)十一月三日 中山道を通った時の記述

00106 岩谷観音祭

2007年07月18日 | 日本の山車
00106 岩谷観音祭
岐阜県坂祝町(さかほぎちょう)勝山
岩谷観音
□祭は七月中旬
小型山車一臺を曳く。

□山車
大正末期には山車が曳かれていたといい、昭和三十五年ころからしばらく休止状態にあったが、平成一三年に、地元勝山地区の消防団OBが組織する勝栄会により再建された。
工匠は勝栄会の会員、小島勝成

00103 熊谷うちわ祭

2007年07月17日 | 日本の山車
00103 熊谷うちわ祭
埼玉県熊谷市鎌倉町
愛宕八坂神社
石原 八坂神社

□祭は七月下旬。
山車十二臺を曳く。


山車5台 本町1、2丁目、本町3、4丁目、筑波町、仲町、銀座
屋台7台 弥生町、荒川区、鎌倉町、伊勢町、桜町

□山車
・第一本町区 本町一、二丁目
本座人形は神武天皇。長野屋綱季の作。
明治三十一年の建造。
工匠は島野茂三郎。
彫刻は小林栄次郎。
見送り幕は龍虎。
創建は天保元年(一八三〇)という。

・第二本町区 本町三、四丁目
本座人形は戸隠大明神。三代目仲秀英の作という。
天保年間の建造と推定されている。
明治二十四年に神田の紺屋が個人で所有していた山車を中家堂・軍配せんべい製造販売、初代の中村藤吉をはじめとし、松本清七、鴨田半三郎他数名が世話人となって譲り受け、東京から曳いてきたといわれる。
工匠、彫刻ともに不明。
見送り幕は火焔太鼓と鶏の図は閑古鶏と推定される。

・筑波町区
本座人形は日本武尊、人形師は本庄市の米福。
昭和三十六年の建造。工匠は岡田屋の小林福三郎と篠笹直広。
彫刻は福島光治、新井松十郎。
見送り幕は龍。
創始は明治三十五年に鴻巣市より渦理受けた。本座人形は神武天皇だった。
江戸期に狂言屋臺が出ていたろの口伝がある。

・仲町区
昭和三〇年の建造。
鉾は昭和五十六年の後補で、従来のものを大きくした。
工匠は小林工務所、小林稲三郎。
彫刻は福島光冶。
塗師は楢原平助。
見送り幕は天女奏楽図。
明治三十九年に建造した花屋臺。昭和初期に妻沼町の上町に譲渡したというが現存しない。
江戸期には狂言屋臺がでていたとの伝承がある。

・銀座区
本座人形は熊谷次郎直実、長野屋綱季の作。
平成六年の建造。
工匠は松本房吉。
彫刻は日光兼光。
見送り幕は上鉾幕が熊谷直実公略記。下鉾幕は、桐に鳳凰。平家物語にちなむクマガイソウ(熊谷草)とアツモロソウ(敦盛草)

・弥生町区
大正十五年の創建。
工匠は島野茂吉。
彫刻は内山良雲。
見送り幕は松と鶴亀。

・荒川区
昭和二十二年の建造。大室木工所の建造。
見送り幕は横綱の土俵入り。
昭和一〇年頃に建造した山車があったが、伊勢町に譲渡した。
  
・鎌倉町区
昭和二十八年の建造。
3代目。本体60万円。
工匠はは岡田屋、小林福三郎。三臺目の建造だという。
彫刻は福島光治。
見送り幕は、松と火焔太鼓。
先の山車は大正五年建造の屋臺だったが、終戦前日の昭和二〇年八月十四日に戦災により焼失した。
創建は山車で明治二十九年の建造。明治四十二年に越生町黒岩町に譲られた。 
江戸期には狂言屋臺がでていたと言われる。

・伊勢町区
昭和五十四年の建造、工匠はは若松建設、若林松太郎。
彫刻は神田洋三。
昭和二〇年代に建造した山車があったが。桜町に譲られ、さらに現吹上町へ渡っている。
・桜町区
平成六年の建造。
制作費は1,500万円。大工は
工匠は四分一作次郎。
彫刻は四分一昌宏。
見送り幕は桜の老樹。
昭和五十四年伊勢町より小型の屋臺を譲り受ける。

・石原区
四方唐破風屋根をもつ三輪の御所車。
昭和十一年の建造。
工匠はは渡谷豊吉(石原)。
彫刻はは小林義雄。
見送り幕は鶴亀。
先の山車は群馬県鬼石町三杉町に譲られた。

・本石区 石原下町、1丁目
昭和十二年の建造。工匠は大澤善太郎。
彫刻は内山良雲。
見送り幕は唐獅子牡丹と小獅子の峪落し図。獅子は我が子を生まれて三日目に峪におとし、無事這い上がってきたものだけ育てるという故事。
先の山車は大正初期頃の作といわれるが群馬県鬼石町本町に譲られた。

・石原中町 石原二丁目
創建は不明。戦災で焼失。いまも石原の赤城神社に一部残る屋臺部材がこの屋臺のもの
。その再建されていない。

・文化町
昭和七年の建造だったが文化町と本石町の合併で処分された。
いまは存在しない。

□汎論
第二本町区、工匠島野茂三郎、彫刻小林栄次郎による、神武人形の山車。第二本町区
天保時代の建造と推定される、戸隠人形の山車(いずれも典型的な江戸型山車)は 昭和四十三年十一月三日に熊谷市、有形文化財に指定された。
埼玉県児玉郡児玉町の児玉 八幡神社の祭で曳かれる、新町の山車彫刻は熊谷の彫刻師の手になるという。
また、埼玉県岡部町板井の出雲乃伊波比神社で曳かれる山車(屋臺)は、大正期に熊谷の鎌倉町より譲り受けたといわれる。

00102 桐生祇園祭

2007年07月17日 | 日本の山車
00102 桐生祇園祭
群馬県桐生市
八坂神社
□祭
八月上旬。
八木節祭ともいう。山車(鉾)二臺、屋臺六臺を曳く。

□山車(屋臺を含む)
山車
・本町三丁目
翁鉾。
文久二年(一八六二)の建造。
江戸型山車。

・本町四丁目
四丁目鉾。
明治八年の建造。
桐生型山車。
人形は素盞鳴命、松本喜三郎の作。
彫刻は岸亦八。

屋臺
・本町一丁目
昭和十三年の建造、工匠は金子惣次郎。
彫刻は高松伍助。

・本町二丁目
明治三〇年に着工、三十五年に竣工、工匠は金子作太郎。
彫刻は高松政吉。
創建は江戸期。
明治十二年曳行中事故があり寂光院の本堂に部材の一部に寄進された。

・本町三丁目
安政五年(一八五八)の建造。
工匠は山田慶次郎。
彫刻はは石原常八。
解体して保存。

・本町四丁目
明治二年の建造。工匠は鈴木嘉七。
彫刻は岸亦八。

・本町五丁目
安政六年(一八五六)建造、工匠は不明。
彫刻は岸亦八。

・本町六丁目
慶応三年(一八六七)建造。工匠は不明。
彫刻は岸亦八。

□問い合わせ
桐生市経済部産業振興課
電話0277-46-1111

00096 伏木祭

2007年07月16日 | 日本の山車
00096 伏木祭
富山県高岡市伏木

□山車
・中町山 中町
鉾留(だし)は瓢箪。
文政年間の建造。
一個の種子から百子を生ずるみちなんで、子孫繁栄を象徴する。一個の茎から百果を生ずるもの千果を結ぶものがあり、「百成」「千成」という。
雛臺とよぶ部分があり、ここから上部が上臺(上山)となる。
上臺(上山)の勾欄は二層となっており、下から一の段、二の段と数える。
この山は二の段が後屏を兼ねる
後屏、鏡板と呼ばれる上臺後部には、「見送り」に相当する彫刻の主座を占める場所
である。
仙人「せき(文字なし、赤におおざと)大通」を彫る。
一の段の欄間、下の段は大輪菊」、上は「竹林の七賢」と推定されている。
竹林の七賢は、
阮籍
けい康(けい=は文字なし)
山濤
劉伶
阮咸
向秀
王戎
の七人をいい、中国魏代の人物。よく山車の題となる。
二の段の欄間、欄干の架木(ほこぎ)は、蕨手唐草を結ぶ熨斗文で、欄干に鳥がとまる
下臺は柱が伊達柱で、嵌込み式の幕板がおさまる。伏木ではこの山車のみの特徴である。長押上の小壁にあたる欄間には「実柘榴と胡錦鳥」が彫られる。この実柘榴も子孫繁栄
を願う。
射水市(旧新湊)の「法土寺山」とは、同一人の作で、工匠が新湊放生津の高瀬竹次郎
で、両者は共通点が多い。

・上町山 上町
本座人形は布袋。
辻野丹保の作、天明元年の銘がある。もとは、廻船問屋を営んでいた「能登屋」藤井家の座敷神として祀られていたものだといい、文政年間の作との説もある。
上臺(上山)は蓬莱山に見立てる。
典型的な三重山になっており、三の段が後屏を兼ねる。
一の段、二の段の欄間は、一の段は鹿、二〇人の仙人が彫刻されているが、特定できていない。
二の段欄間は曲水遊園図」
曲水をめぐって七人の仙人
後屏の鏡板はっ中国の故事で知られる、張良、黄石公が彫られる。
一の段は水皺と松鶴、亀
二の段右後方は、蝦蟇仙人、劉海せん(せん・文字なし)また葛玄ともいう。
蝦蟇仙人はよく李鉄拐とともに画かれる例が多い。
二の段前部は、逍丙(しょうへい)の渡河図。
張九哥(ちょうきゅうか)、羅(うすもの)で蝶を切り抜いたらいずこかへ飛び去ったという。
二の段左側前部
欄間には虎を従える董奉(とうほう)
長剣を背にする呂洞賓(ろとうひん)、大和文華館には雪村の呂洞賓がある。
林霊素は水を噴いて五色の雲を起こし、金色の龍を出現させたという。
蓬莱群仙図は京都四条派の画家、松村呉春。

・本町山 本町(浦町)
鉾留は、こ鈴(文字なし・かねへんにふるい)
天保年間の建造。
後屏は、東方朔
背面一の段の欄間には、桓き(き・文字なし)
雲に乗る青童
牛を引く沈義と妻の賈氏
劉晨(りゅうしん)、阮肇(げんちょう)
虎を従える董奉
陶淵明
同じ図柄が新湊の法土寺山の鏡板にもある。
鐘鼎

・寶路町山 寶路町(寶玉町)
後屏の主座は西王母
一の段背面に謡曲高砂の尉と姥を彫る。
左右に、烏帽子、神楽鈴。能管、面箱、鼓、笙、冠など、能楽ゆかりの品。

・石坂町山 石坂町
安政年間の作
後屏の主座彫刻は菊慈童。芭蕉の奥の細道。北陸山中温泉で詠んだ、
  山中や菊はたおらじ湯のにおい
がよく知られる
この山車には、箱欄間の手法が用いられ、正輦下の小壁には一小間ごとに箱の中に彫物を取り付け箱ごと装着するようになっている。
十二の小間には、唐子遊戯図を彫る。
石坂山車の工匠は不明よされるが、新湊の立町山とは、勾欄の形、朱欄の意匠、鉾留の壽の字がよく似ている。
立町山は、放生津の高瀬市十郎の建造とされる。高瀬家は代々宮大工棟梁を業とし、
市十郎改め四代目仁兵衛、仁兵衛はその子祐太郎とともに新湊の山車に腕を振るっている。その関連が指摘されている。

・湊町山 湊町
明治の作主座は、黄石公と張良
後屏と二の段の勾欄の工匠は能登の牛道という伝承があったが、近年、石川県能登町(旧鳳至郡柳田村石井)の大森万九郎であることがわかっっている。
上臺
下はすべて龍、上はすべて唐獅子。作者は井波町の「宮窪繁」
下臺小壁の欄間図柄は十二支にちなむ
欄間は金碧濃彩の桃山風。七福神を守護神とする。
唐様の瑞祥文づくし

・古国府下町
ここに歌舞伎山の山車があったといわれている。伏木に見られる山車とは全く異なる
明治三一年(一八九八)古国府の有志により、三年間曳かれた。背面の鏡板には村中徳次郎の「神功皇后の三韓征伐」の図が描かれていたといい、山車の上では高岡や新湊より芸妓が来て歌や踊りを演じたという。その後、この山車の所在は不明となっている。



□汎論
山車の中心を一本の柱が立つ。心柱といい、檜材が使われる。
塗り替えは七年目、山車の曳き順が一位になる時を待って行われる。
曳順の一番は先導車で、先導する山車を「一番山車」という。曳順は一年に一番づつ繰り上がる。
「伏木のけんかやま」で名高い伏木祭は、夜になると山車は昼の花山車から提燈山車に装いをあたらめ、山車同士のぶっつけあいが行われる。「弥栄、いやさか」の掛け声とともに箱型に提燈を灯した山車が出揃いぶっつけが行われる。山車前面に三本の巨大化した梶棒は、直径およそ一尺五寸(約五〇センチ)の丸木、一本が長く左右に二本が添えのように固定され、両方山車上の指揮者によって向き合った山車は約三〇メートルを一気にかけて正面からぶつかる。
華麗な山車はその衝撃で装飾品が落ちることさえある。
かって、山車のぶっつけを阻止しようとした警官が両方の山車の間に挟まって犠牲になる事故があり、毎年大なり小なりけが人が出る。
もちろん当局はその危険を十分承知しており、事前に欠く山車組の責任者を招んで、厳しく注意し、誓約させる。
しかし、ひとたび祭が始まれば。そのような約束は何処吹く風、華やかなぶっつけが展開する。
だいたい、市民は喧嘩好きで、この夜ともなると、観客にまで喧嘩を売ってくる。向こうは血気盛んの若者大勢だから、言いがかりをつけられたら、平身低頭引き下がるのが懸命である。とにかく物騒な祭ではある。
上町と、本町は、花山車から提燈山車に変えるときは事前に勾欄をはずしている。


昭和四十一年、「寶路町」な山車は塗リ換えを行ったが
この機会より勾欄を全部取り外すようになった
地山とよばれる下臺には大幕が付けられる。大幕は昼と夜とは交換される
本座人形(祭神)を「でく」「やまのかんさま」などという。前者は「木偶」後者は「山車の神様」のことである。

□山車文献資料
伏木の曵山のはなし 正和勝之助

00091 神明社祭

2007年07月04日 | 日本の山車
00091 神明社祭
愛知県名古屋市中村区
神明社
祭は一〇月中旬。
山車三臺を曳く。

山車
・二福神車 名駅5丁目、二福神車保存会。
本座人形は恵比寿、大黒神
宝船は人形師七代目玉屋庄兵衛作、昭和三〇年に改造された。
水引幕は森高雅の下絵による。

・紅葉狩車 花車町一丁目 小鳥町南部、
創建は文政年間。
人形四体。
更級姫・鬼女、平維茂、従者は安政四年(一八五七)竹田源吉の作。

・唐子車 名駅南1丁目(内屋敷町)
創建は文政年間。
人形は四体。
人形を納める箱に天保一二年(一八四一)の記載がある。

□問い合わせ
名古屋市観光課
電話052-961-1111

神明社
電話052-586-2544

00088 日光弥生祭

2007年07月04日 | Weblog
00088 日光弥生祭
栃木県日光市
二荒山神社
祭は四月中旬。
山車(花家体)約二〇臺を曳く。

□汎論
日光東照宮は,東照宮は,束照大権現・徳川家康を祀るため、元和三(一六一七)年四月一七日に創建され、主要な建築物である社殿は、寛永一一年ー同一三年(一六三四ー三六)、奥社は寛永一七年ー同一八年にかけ、三代将軍家光により造替された。
この時造替された本殿や、著名な陽明門を始め,諸社殿五五棟が,国宝、重要文化財の指定を受けている。

□問い合わせ
日光観光協会
電話0288-54-2496

□資料・文献
日光山東照宮造営帳
徳次郎の彫刻屋臺 池田貞夫
しのいの史跡 篠井公民館
栃木県大百科事典 大百科事典刊行会
日光東照宮の装飾文様 植物鳥類
日光東照宮の装飾文様 人物動物絵画
日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊
日光東照宮文庫(株)グラフィック社
日光東照宮龍図案集
車輪付き花屋台の誕生 吉新諒次
とちぎの祭り一〇〇選 月刊さつき研究社
栃木の祭りと芸能 栃木県立博物館
狩野了承『日光霊屋彩色仕本』
日光御宮彩色仕本 文化一〇年三月
吉祥図案解題 野崎誠近 平凡社
中国建築の日本建築に及ぽせる影響 飯田須賀斯相模書房刊
日本建築細部変遷小図録 天沼俊一 星野書店刊星野書店刊
古建築装飾文様集成 鳥獣・草木・風月編 近藤豊 光村推古書院刊
日本の唐草 大淵武美 光村推古書院刊
支那建築細部集 蔵田周忠 洪洋社刊
石印宋李明仲営造法式 中華民国八年
東洋建築の研究 上・下 伊東忠太 竜吟社刊
居庸関 京都大学工学部刊 村田治郎
日光東照宮建造物装飾文様調査報告I 多摩美術大学刊
神道史研究 第一二巻第六号神道史学会刊
東照宮 JSD選書五二 大河直躬 鹿島出版会刊
日光東照宮建築装飾図集 角南隆 大塚巧芸社刊
日光東照宮及び各東照宮関連社寺修理工事報告書
東照宮再発見 高藤晴俊 栃木新聞社刊
束照宮の彫刻 資料編 東照宮社務所 束照宮文庫
日光東照宮の彫刻について 高藤晴俊口光来照宮文庫長
陰陽五行による日本民俗の構造的把握 吉野裕子
民俗学研究 四五巻 二号
五行からみた馬と猿の民俗 
大日光 六二号
(順不同)