暘州通信

日本の山車

◆倭の五王

2018年06月29日 | 日本山車論
◆倭の五王

 これは仮説である。

沈約の著とされる『宋書』に記載される「倭の五王」については、







の五王が挙げられ、従来より歴代の天皇を比定する説がいろいろある。

筆者は、【倭の五王とは、大和・大倭(奈良県)に覇権を確立した日氏王朝
(物部王朝)の歴代王】と推察する。


◆覇権の構築と拡大 八六

2018年06月25日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八六

 これは仮説である。

 しかし、『魏志倭人傳 三國志「魏書、東夷傳倭人條(通称、魏志倭人傳)』のこのあと、八年の記述に、

「其八年(正始八年)、 太守王□到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 □相攻□□ 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 □幢 拜假難升米 爲檄告□之」 

「その八年、太守に王□が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯と烏越らを郡に遣わし、互いに攻□している状態を説明した。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と?幢を難升米に拜假し、告□し、これを檄文とした(私訳)」。

 つまり、卑弥呼が統治する邪馬臺國は、その南にある「狗奴國の男王である卑彌弓呼」と不和であり、争いが続いていた。
 つまり、九州一円においては争いが繰り返されていた。子俺から推察されるのは、邪馬臺國は、一〇〇前後に亙る古代日本の當v斐能力はなかったことを意味している。

 そうすると、「親魏倭王」の統治範囲とはいっ態度の範囲だったろうか?

 これを推察すると、邪馬臺國が、親魏倭國であり、卑弥呼はその女王であり、換言すると、倭國とは邪馬臺國の別称ということになるのではないだろうか。





◆覇権の構築と拡大 八五

2018年06月25日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八五

 これは仮説である。

『魏志倭人傳 三國志「魏書、東夷傳倭人條(通称、魏志倭人傳)』に記載される、

「景初二年(二三八)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書には倭の女王に報いて、こう言う。

「制紹、親魏倭王卑弥呼。帯方太守、劉夏が使を遣わし、汝の大夫、難升米、次使、都市牛利を送り、汝が献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り、以って到る。汝の在る所は遠きを踰(こ)える。すなわち、使を遣わし貢献するは、これ汝の忠孝。我は甚だ汝を哀れむ。【今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する】。汝は其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地?粟?十張、?絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。還り到らば、録して受け、悉く、以って汝の国中の人に示し、国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に、鄭重に汝の好物を賜うなり(私訳)」。

 邪馬臺國の卑弥呼に対する「魏帝の制紹」である。この記述中にある、【今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する】の解釈はどうなるだろうか?

 一般的に考えれば、西暦二三八年に、邪馬臺國の卑弥呼に対し、一〇〇前後に分かれた諸国の頂点に立つ、【卑弥呼を魏と親しい倭の王として認め、
金印紫綬を仮し】たということになろうか。
 では、卑弥呼には、九州から東北地方に分立する倭人の住まう一〇〇前後の國を統治するほどの国力と統率力があっただろうか?
これははなはだ疑問である。


◆覇権の構築と拡大 八四

2018年06月25日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八四

 これは仮説である。

 倭の定義には混乱がある。
 まず、「倭」とは、古代の日本人が自ら名付けた名称ではない。
 倭という國は存在しない。
『魏志倭人傳 三國志「魏書、東夷傳倭人條(通称、魏志倭人傳)』に記載される、
「倭人在帶方東南大海之中、依山□爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國」。
 にには、古代の日本を中国から見るときは、「そこは、旧くは、百餘國にわかれた倭人の住まう地(私訳)であり、九州から東北地方にかけて一〇〇余りに分かれた分立した國が合聚していた。
 この一〇〇余国は九州地方に限定する説があるが、認めがたい。

 しかし、この一〇〇余りの國の上に立ちこれをを統率する【國体】は成立していない。


◆覇権の構築と拡大 八二

2018年06月25日 | 日本山車論

◆覇権の構築と拡大 八二

 これは仮説である。

 では、卑弥呼が仕えた神社とはいったいどこだったか?

 これを推理すると、九州東北部にある神社ということになり、それは、「宗像大社」と、「宇佐神宮」ではなかろうかと考えられる。

 しかし、「卑弥呼の塚を宇佐神宮」とする説は当たらないと思う。




◆覇権の構築と拡大 八一

2018年06月25日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八一

 これは仮説である。

 邪馬台国の卑弥呼はその名称からも、日神に仕える「巫女」だったのではないか? という多くの指摘がある。「鬼道に事えよく衆を惑わす」とは、大陸のシャーマニズムのことであろうとする説があるが、当時、大陸の文化が普遍的となるほどの異国文化が我が国で行われていただろうか? 
 はなはだ疑問である。

 これは、日本本来の古代祭祀にかかる「日本古神道」と考えるべきではないだろうか。




◆覇権の構築と拡大 八三

2018年06月25日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八三

 これは仮説である。

 倭の定義には混乱がある。
 まず、「倭」とは、古代の日本人が自ら名付けた名称ではない。
 倭という國は存在しない。
『魏志倭人傳 三國志「魏書、東夷傳倭人條(通称、魏志倭人傳)』に記載される、
「倭人在帶方東南大海之中、依山□爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國」。
 にには、古代の日本を中国から見るときは、「そこは、旧くは、百餘國にわかれた倭人の住まう地(私訳)であり、九州から東北地方にかけて一〇〇余りに分かれた分立した國が合聚していた。
 この一〇〇余国は九州地方に限定する説があるが、認めがたい。

 しかし、この一〇〇余りの國の上に立ちこれをを統率する【國体】は成立していない。


◆覇権の構築と拡大 八〇

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八〇

 これは仮説である。

 九州の古代祭祀は、

 日國の阿蘇山を御神体とする阿蘇祭祀とその麓の「阿蘇神宮」と、日氏氏族の祖神である「疋神社」。

 對馬、壹岐、を経て、志賀島におよぶ、海海氏の祀る「海神神社」。

 北九州東部に、秦氏によって祀られた「宗像大社」と、「宇佐神宮」。

 が挙げられよう。



◆覇権の構築と拡大 七九

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 七九

 これは仮説である。

 これまでの記述から、邪馬臺國が存在した三世紀以前、すでに、九州には、豐國、筑紫國、肥國、薩摩國、日向國、漢に所属する委奴國などの祖型となる國は存在していたと推察され、さらにそれらの國には神社が祀られ祭祀が行われていたはずである。仮にこれを「古代祭祀」という。



◆覇権の構築と拡大 八三

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八三

 これは仮説である。

 福岡県田川郡香春町香春に鎮座する、「辛國息長大姫大目命神社」は、その社号から、「神功皇后」が連想されるが、全く関係のない異神である。

祭神は、
カラクニオキナガタラシヒメオオメノミコト 辛国息長大姫大目命
オシホネノミコト 忍骨命
トヨヒメノミコト 豊比売命
である。

 「民謡 炭坑節」でもよく知られる「ひと山 ふた山 み山 越え……」とうたわれる「三山」、つまり、「香春三山」を御神体山とし、その山麓に里宮として建立されたのが「辛國息長大姫大目命神社(香春神社)」である。

 邪馬臺國が拝跪した神社ではなかろうか。


◆覇権の構築と拡大 八二

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八二

 これは仮説である。

 では、卑弥呼が仕えた神社とはいったいどこだったか?

 これを推理すると、九州東北部にある神社ということになり、それは、「宗像大社」と、「宇佐神宮」ではなかろうかと考えられる。

 しかし、「卑弥呼の塚を宇佐神宮」とする説は当たらないと思う。


◆覇権の構築と拡大 八一

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 八一

 これは仮説である。

 邪馬台国の卑弥呼はその名称からも、日神に仕える「巫女」だったのではないか? という多くの指摘がある。「鬼道に事えよく衆を惑わす」とは、大陸のシャーマニズムのことであろうとする説があるが、当時、大陸の文化が普遍的となるほどの異国文化が我が国で行われていただろうか? 
 はなはだ疑問である。

 これは、日本本来の古代祭祀にかかる「日本古神道」と考えるべきではないだろうか。

◆覇権の構築と拡大 七八

2018年06月23日 | 日本山車論
◆覇権の構築と拡大 七八

 これは仮説である。

 そうすると、魏志倭人傳(『三國志 魏書 東夷傳』)に記述される、
「舊百餘國」は、日本六〇余州の祖型と考えると、前世紀に次第に形成された集落は、郡邑はあつまって、不完全ながらもそれが「國体」をなしており、前漢の代には褶合国家をなしていたが、争いと講和を繰り返し、離合集散、淘汰を経て三世紀のころにはその数を減じつつも一〇〇前後の國が存在し、邪馬臺國はその一國であり、魏使と意志の通いうる國はそのうちの三〇
國であり、その他七〇余国は全く言葉が通じなかったということになろう。