暘州通信

日本の山車

32261 天と地祗

2008年08月28日 | 日本の山車
32261 天と地祗
「天神地祇」という熟語がある。いずれも「カミ」として扱われる。
大山祗は大山津見とも書かれる山のカミ。海祗は海神とも書かれる海のカミ。
天のカミは「」、山、海のカミは「祗」であって、明確にわけられていた。
アヅミは安曇(アヅミ)、安曇川(アドガワ)、安土(アヅチ)などと表記を変えているが、もとは地のカミだったであろう。
長崎県の対馬に、アマテルジンジャがあり、天□(=文字なし。「祗」の左しめすへんを除く)天祗留神社でもおおきな誤りではないであろう。
では、アマテルジンジャの祭神はだれか? アマテラスオオミカミ(天照大神)があてられるのだが、異論、異説がある。
神明神社といえば、祭神はアマテラスオオミカミと考えてほぼ間違いないだろう。だが、アマテルオオカミとアマテラスオオミカミを同一視するのは問題がありそうである。
筆者は海神惠の宗像氏の祖神と推定している。

28825 盗っ人神さまと蘇塗

2008年08月25日 | 日本の山車
28825 盗っ人神さまと蘇塗
飛騨高山(高山市)の旧市街北部に松本町がある。ここに盗っ人神さまとよぶ小祠が祀られている。富山県に流れる神通川の上流であり、高山市内の中心を南北に流れる宮川、裏日本に流れる水系では唯一淡水のりを産したことから名づけられた苔川(すのりがわ)、さらに旧清見村(現高山市)を流れる川上川の三川が合流する地域である。
この苔川左岸側に冬頭町(ふいとちょう)がある。明治、大正期ころまでは「ふと」とよんでいた。
嬰児に飲ませる乳がでない貧しい婦人が「おもゆ」をつくって吾が子に飲ませるため、稲穂を盗んだところ、里人に見つかって追われたが、盗っ人神さまの祠に逃げ込んで助かったという伝説がある。
『魏志東夷伝・韓志』に「蘇塗(そと)」といい、大木を立て、鈴鼓(れいこ)を飾り、盗人が逃げ込んでくる記述がある。ここに逃げこめば、捕えることができない聖域とされ、通俗の常識とは無縁のところ不可侵の場所、すなわち「アジール」と考える思想は、エジプト、ギリシャにもあるという。
また「俘屠(ふと)のごとし」とある。俘屠とは寺院のことだといわれるが、冬頭(俘屠)の地名、先の川上川に架かる「四十九院橋」の固有名称とも無縁とは考えられない。
飛騨高山の「盗っ人神さま」は、古代に朝鮮から渡来した「蘇塗」だったとも考えられる。


30018 銅鏡

2008年08月14日 | 日本の山車
30018 銅鏡
 古代につくられた銅鏡は、中国を起源とする。銅を主原料とし、他の金属の混合がある。おもに錫との合金が多く、その混合率により白銅鏡とよばれるものまである。
その出土状況から分布域は中国、朝鮮、日本。古代エジプトにも出土例がある。
形は円形が主で、表面は磨いて鏡とし、裏面には同心円で囲まれた四、五、六、八などに区切られた内室に、多様の複雑な文様が鋳造されるものが多い、その鋳造文により多様の名称がある。中心部に紐があり、紐を通す穴がある。
 上記は銅鏡の共通点であるが、作られた時代、目的、地理等により、大小がある。
次の四通りに大別できる。
1 舶載鏡。
中国、朝鮮などの外国から渡来したもの。
2 □(=ほう。文字なし。にんべんに方)製鏡。
外国で作られたものをまねて(模倣)し、日本でつくられたもの。倣製鏡といってもよかろう。
3 同□(=はん。文字なし。)
外国製にならい日本において同じ鋳型から鋳造したもの。同じ範疇の意から同範鏡といってもいいだろう。
4 和鏡。
文字通り日本で作られたもの。
鏡の作られた目的は、祭祀、種族の権威と象徴、婦人の化粧のためなどが考えられる。
弥生時代、銅鐸文化は中部、畿内、中国と、銅矛(鉾)、銅戈文化は九州とおおむね分布が独立していることを述べた。「銅鏡・銅鐸文化」といい、「銅鏡・銅矛、銅戈文化」という言葉をきかない。
しかし、銅鏡は、銅鐸と、銅矛、銅戈文化の双方に共通し普遍的である。寡聞だがこれに論及した例を知らない。
銅鏡の多くは古墳から出土する。銅鏡は神社に祀るご神体となっている例が多いことと相俟って、同じ鏡が出土する地方は古代におなじ祖先をもつ同盟国だったと言う推理はなりたたないだろうか。

00774 弘前八幡宮祭

2008年08月14日 | 日本の山車
00774 弘前八幡宮祭
青森県弘前市八幡町一-一-一
弘前八幡宮
□祭は八月中旬
山車があるが久しく曳かれていない。
□山車
・米山 和徳町、
・大根山 茂森町
・布袋山 東長町
・紅葉狩山 紺屋町・浜の町 
・猩々山 土手町
・黄石公張良山 本町
・道明寺山 鍛冶町
□汎論
弘前市は津軽氏の弘前藩の城下町として発達した。弘前城のみごとな桜でもよく知られ、「お城とさくらとりんごのまち」である。
弘前八幡宮は、弘前城の場内にあるが、もとは岩木町内に鎮座していたのを、津軽藩二代目の藩主、信枚が弘前城を築城したとき遷したと伝える。
夏に曳かれる「ねぷた」は、「扇ねぷた」といい、青森市の「人形ねぶた」とは対照的である。
扇ねぷたは基臺のうえに扇の型をした大小さまざまの行燈が載り、後部には見送りとなっている。緻密で精細なねぷた絵が描かれ、宵闇に華やかにうかびあがる。ねぷた囃子にあわせて太鼓が打たれ、巨大な大太鼓にうちまたがり胸まで白晒を巻いたお嬢さんがこれを打つ。ねぷたの行列はしずしずと次第に遠ざかり、ふたたび闇に消えていく有様は現生のものとは思えない華麗さで、感傷的だと笑われそうだが、見ていて目頭が熱くなり、涙ぐみそうになる。
市内に「山唄」というお店があって、ここでは津軽三味線の演奏を聴くことができる。
弘前に行ったときにはかならず寄る「隠れファン」である。


00256 引本浦関船祭

2008年08月13日 | 日本の山車
00256 引本浦関船祭
北牟婁郡紀北町海山区(旧海山町)引本浦
引本神社
□祭神
不明。
□祭は十月下旬。
関船を陸曳きする。
□汎論
関舟は席舟などと書かれることもある。香川県の豊浜祭では蒲団太鼓とともに曳かれ、徳島県など四国地方の祭には各地に曳かれる舟型山車。
関舟(せきぶね)の起源は戦国時代から江戸時代にかけ海上の取締りをおこなった舟で、大型のものに「安宅舟」があったが、徳川時代に諸大名の安宅船の所有が禁じられて姿を消し。関舟が残った。
大阪府の太子町にはこの関舟を模しただんじりが曳かれるが、岸和田祭に代表される岸和田ほかのだんじりもこの関舟が起源であろう。
全国に民話やわらべ唄で知られる「権兵衛が種蒔きゃ鴉がほじる」にでてくる「種まき権兵衛」は旧海山町が発祥の地。地元宝泉寺で供養、権兵衛踊、神楽舞が奉納される。

00408 島勝浦かます祭

2008年08月13日 | 日本の山車
00408 島勝浦かます祭
北牟婁郡紀北町海山区(旧海山町)相賀八六八
島勝神社
□祭神
不明。
□祭は十月上旬
□汎論
神社の創祀、祭神は不明。祭には山車の上で三番叟を上演し、地区内を「浜にせい」「山にせい」のかけごえで山車を曳く。「かます」は魚の名称。


30009 銅鐸

2008年08月12日 | 日本の山車
30009 銅鐸
銅鐸(どうたく)もまた起源について諸説がある。
筆者は、朝鮮半島に出土する馬鐸が日本において巨大化したものと推定する。
カンアオイ(asarum)科の植物に馬兜鈴(ばとうれい)の漢名がある。地上すれすれ、もしくは地中に隠れて花を咲かせる。花をつけて結実した種子が発芽するのに平均的な統計値は、十年で約一ミリメートルの移動。換言すると一万年かけてもわずか一メートルしか移動していないという研究がある。このためカンアオイ属の植物は地史との関係が深く、九州と四国の両方に見られるオナガアオイが自生するのは、かっては豊予海峡がなく陸続きだったのでは? と推理するむきもある。コシノカンアオイはフォッサマグナの影響をうけたとみられ、糸魚川近辺に自生があるやや大型の草本である。
名和博士が岐阜県金山町(現下呂市)で採集された春の女神ともいわれるギフチョウは、カンアオイを食草として成長する。
京都の上賀茂、下加茂両者の社紋になっているのは、やはりこの仲間のフタバアオイであり、徳川家の家紋三葉葵もコノフタバアイオイである。
、銅矛、銅鉾、銅戈は北九州に多く、銅鐸は中国地方日本海側に初期のものが分布し、畿内から中部地方に分布が伸びる。
しかし、おなじ弥生時代であっても銅矛、銅鉾、銅戈と、銅鐸の分布圏はほとんど重ならない。これもなぞとされている。
筆者は、北九州は宗像系海神系の民族、中国、畿内、中部は出雲系の民族の支配下にあったと推定する。
海神系の安曇氏、宗像氏と出雲系の大国主(大己貴)は血縁であり、弥生時代にはきわめて強い同族意識があったと推定され、たとえば、古代に出雲地方に宗像神社が争うことなくきわめてすんなりと祀られ、信州安曇の穂高神社は、諏訪大社と争った形跡が無い。
信州では諏訪大社に見られる「御柱」が立てられ、その例は屋敷に祀られる屋敷神の祠にもみられ、諏訪とは無関係の神社にもみられ、上田市の生島足島神社にも立てられているのに穂高神社には御柱がない。
これは海神系の安曇氏、出雲系の諏訪氏のあいだにはきわめて強い相互不可侵の同盟関係があったからではなかろうか。
日向の高天原は天孫降臨の地であるが、宮崎県児湯郡農町都農神社は創祀不明といわれ、延喜式にも記載のある古社だが、祭神は大己貴である。
このことは、日向の国はすでに出雲系氏族の支配が及んでいたことを推定させる。
すこし横にそれたが、銅鐸は上に梵鐘の龍頭に相当する部分があり、内側に舌(ぜつ)をさげたようである。やや扁平で、上部に小さな穴がある。祭のときは銅鐸の両側に人が立ち、穴に紐を通して揺らして鳴らすというような使い方をしたのではなかろうか。
いまでこそ寺院の梵鐘は専門の業者によって鋳造されるが、明治期になっても、梵鐘の無い寺院では、鐘鋳り(かねいり)といって地区内に櫓を組んで梵鐘を鋳た。僧侶の読経のうちに善男善女が列を作って順番を待ちながら寛永通寶などの古銭を投げ入れた。
日夜鳴らされる梵鐘の音には、信者の喜捨がこめられている。
山車には、富山県の高岡市の御車山、新潟県村上市のおしゃぎり山車などに梵鐘がのすぇられている。
大国主の国譲りが無く、弥生時代が続いていたら、山車の上に銅鐸がのるということがあったかもしれない。

30007 日本古代の銅文化 銅鉾、銅戈

2008年08月12日 | 日本の山車
30007 日本古代の銅文化 銅鉾、銅戈
日本古代の銅文化は弥生遺跡より出土する遺物に多種が見られる。
山車に関連するもので、注目を要するのは、銅鐸、銅劔、銅鉾、銅戈、銅鏡などであろう。銅製器物は中国殷代に作られたものがよく知られる。その技術は朝鮮に移入され、銅鉾、銅戈などがつくられ、その製品は九州地方にもたらされた。当初は武器であったろう。やがて、銅鉾、銅戈は、九州において巨大化し武器としての実用性をいちじるしく失う、使用目的は祭祀のためだったと推定されている。
この風習は現代にうけつがれいまも各地の神幸祭に供奉する。山車の頂部に鉾をとりつけるのは京都の祇園祭をはじめ各地に見られる。

30005 神宮

2008年08月12日 | 日本の山車
30005 神宮
祭は天神地祇を「まつる」神事であり、天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄、病魔退散などを願っておこなわれる。
一般的に春祭は、豊作祈願など予祝神事としておこなわれ、夏祭は、祇園祭、ねぶた祭などのように悪疫の懲散にはじまるものが多い。秋祭は豊作を感謝する収穫祭の色合いがつよく収穫した農産物を神に捧げ、神人が共食する饗宴がおこなわれる。
子孫繁栄は、山車彫刻の「瓢箪」「鶉と粟穂」などに見られる。瓢箪はひとつの種から千瓢が得られる比喩である。
「あえば」とは神と人が饗場のことだという。北陸能登方面には「あえのこと」をおこなう地がある。
祭は、おおむね神社を中心にしておこなわれる。一律には言えないが、神社に祭られる神は祖先の霊をまつる霊廟である場合が多い。多くの場合は先祖を祭る、神社の祭礼としておこなわれている。
神社に祭神を祀る風習は日本各地に普遍的に見られるものであるが、じつは神社の起源は中国大陸、朝鮮方面にあると考える。
おそらく弥生時代に稲、稲作と共に入ったもので、古いものは紀元前にさかのぼると推定する。
現在朝鮮半島には神社が無いようであるが、朝鮮の史書『三国史記』に祖先の霊を祀る「神宮」の文字が出てくる。



30003 まつり

2008年08月12日 | 日本の山車
30003 まつり
日本各地の古代祭祀は、縄文時代の遺跡から出土する土偶や石製器物に見ることができる。またストーンサークル(環状列石)、ストーンヘンジ、ドルメン(支石墓)など世界に共通する遺跡がある。甘南備ともいわれる秀麗な山は山そのものが御神体であり、各地にあるが、奈良県の三輪山、滋賀県の三上山などはその例といえる。
山嶽を霊場とあがめる山も各地にあり、富士山、長野県の木曾の御嶽、群馬県の妙義山、栃木県の二荒山(日光)、山形県の出羽三山、青森県の岩木山、石川県の加賀の白山、富山県の越中立山、奈良県の大台など数々あり、なかには修験道の霊場として護摩など火と結びつく例もあり、奈良県の吉野山には仏教色の強い蔵王権現が祀られる。
天から降った神が坐す場所は神籬(ひもろぎ)であり、古くは「アレ」とよばれる。京都市上賀茂の「アレ」、長野県塩尻市の「阿禮神社」などがある。
古代の人たちは神が岩に乗って移動したと信じていたようで、磐船、岩舟の名称は各地にある。
天から降った神が籠る石や磐は神座であり、四国地方の各地ほかに多く見られる。
春になると山から降って「田の神」となる「山の神」信仰も各地にあり、岐阜県下呂市小川では「湯の花神事」も行われる。
家を普請するときは敷地を限って四方に竹を立て、注連縄(しめなわ)を張り祭壇を設けて神饌を供え、地を祓いきよめる地鎮祭が行われる。
ドイツに築庭に日本庭園を築いたとき、地鎮祭をおこなって不審気に見ていた現地の人が質問したので、説明したら大いに納得し賛意を得たというはなしも伝わっている。
「まつり」とは「まつらう」神事であるが、鎮守や産土神をまつる神社の祭神をまつる祭は「御祭禮」とよばれるのに対し、家を新築するときの地鎮祭を御祭禮とは言わない。
日本人にはこの関係はよく分かっているのだが、欧米人には理解しがたいらしい。
「祭」は名詞であるが、「まつらう」という動詞つかいのとき、送り仮名として「り」がつけられることが多い。
祭のポスターなどでも「〇〇祭り」などと書かれるのを多く見かけるが、動詞の五段活用、あるいは送りかなの「り」を各地の祭たる固有名詞につけるのは望ましくない。
「〇〇祭」と書くべきであろう。

00209 伊奈波神社祭

2008年08月11日 | 日本の山車
00209 伊奈波神社祭
岐阜県岐阜市
伊奈波神社
□祭神
イニシキイリヒコノミコト 五十瓊敷入彦命
配祀神
ヌノシヒメノミコト 淳熨斗媛命
ヒバスヒメノミコト 日葉酢媛命
ヒコタツヒコノミコト 彦多都彦命
モノノベノトチネノミコト 物部十千根命
□祭
山車四臺を曳く。
・踊山車
・清影車
・蛭子車
・安宅車
□汎論
岐阜城のある金華山南麓に祀られる。景行天皇十四年に、イニシキイリヒコノミコトを奉祭するため、武内宿禰を遣わして椿原の地(岐阜公園丸山)に創祀したという。
ヌノシヒメノミコトは祭神の妃。ヒバスヒメノミコトは祭神の母。ヒコタツヒコノミコトは外祖父。モノノベノトチネノミコトは祭神の事業を補佐した功神とある。
天文八年に斎藤秀龍(道三)が稲葉山を築城したとき現在地に遷座された。
古社であるが延喜式神名帳に記載が無く、美濃国厚見郡に「物部神社」があることから、当社を物部神社に比定する説がある。
「緑したたる金華山、水清冽の長良川」と歌われる岐阜商業の校歌は、甲子園高校野球球児らによく知られ、夏の風物詩である岐阜の鵜飼は全国に知られる。
名古屋で曳かれていた山車を譲り受けて曳いていた伝承がある。いまは北部の上有知(美濃市)で曳かれている。
美濃市とは古来和紙を通じて親密な関係にあり、岐阜堤燈、傘、今は使われなくなったが謄写版原紙など美濃紙の名は夙に名高い。岐阜市玉井町には長良川から引水した運河があり、往古は和紙問屋が軒を連ねていた。和紙の伝統技術は、越前和紙で著名な今立方面から入ったという。
山車の囃子は
道行
早神楽
車切
帰り囃子
早笛


00087 氣比神宮祭

2008年08月11日 | 日本の山車
00087 氣比神宮祭
福井県敦賀市曙町一一
氣比神宮
□祭神
ケヒノカミ 気比神
ミケツノカミ 御食津神
イザサワケノカミ 伊奢沙和気神
□祭は九月上旬-中旬
敦賀祭、敦賀の山というときは氣比神宮の祭をいい、祭礼が約半月つづくことから「氣比の長祭」の名がある。山車六臺を曳く。祭の期間中いつでも山車が曳かれるわけではない。
□山車
・御所辻子山車 
元町
・金ヶ辻子山車 
桜、蓬莱町
・唐仁橋山車 
相生町
・東町(旭)山車 
相生町
・観世屋町山車 
相生町
・鵜飼ヶ辻子山車 
相生町
□汎論
気比神宮は北陸道(ほくろくどう)の総鎮守として祀られ、祭神のイザサワケノミコト、伊奢沙別命が気比大神古来の主祭神であろう、社伝によると文武天皇期(六九七-七〇七)に社殿が造営され、大宝二年(七〇二)に仲哀天皇と神功皇后を合祀したといわれる。これらは古記録や文献、資料等でさかのぼりうる年代で、さらに数百年を遡りうるのではと推定する。七柱の祭神を祀るとされるが不明な点が多い。
敦賀、若狭は古来朝鮮半島、大陸からの渡来系民族が多く上陸した地であり、断定はできないが、東の古関安発(あらち)を経て近江、山城、甲賀、美濃方面に定住したその玄関口でもあった。
穴穂(穴太)、安曇(安土)、三上、小野、息長、伊福(伊吹)、永原、国友などの各氏は敦賀から上陸した氏族と推定され、滋賀県蒲生郡の石塔寺、多賀大社、日撫神社、阿自岐神社なども敦賀から入ったと考証する。湖北を故郷とする神功皇后が、三韓征伐に船出したのもこの敦賀だったという。滋賀県の草津市に伊佐々神社がある。越、加賀など北陸から、あるいは上方から北陸へ旅する多くの旅人が往来の都度参詣に訪れ殷賑をきわめた。


34482 日本の稲作文化

2008年08月10日 | 日本の山車
34482 日本の稲作文化
日本に稲作が伝わったのは弥生時代である。弥生時代はいわば稲作と農耕が、土地に定着した生活が確立していった時代ともいえよう。
稲の原産地は東南アジアからヒマラヤの低地にまで広がっているが、長籾と短籾に二大別される。東南アジアには長籾種、ヒマラヤの高地には短籾種がある。
長籾種は、亜熱帯に適応した種で、粘りが少なく、チャーハンやカレーなどには適する反面、おにぎりや寿司を握ることはできない。またその生育地が示すように、寒冷地での栽培はできない。
一方、短籾種は、やや高冷地の栽培が可能で、炊くと強い粘りがでる。
現在は多様種の稲があるが、日本に伝えられた当時の稲は、短籾種と考えられる。
では、その稲と稲作はいかにして日本に伝えられたか。これについては多くの研究があるが、ベトナムあたりから中国南部を経て、台湾、沖縄九州南部にいたる海上の道を経た説。ヒマラヤから中国四川省を経て揚子江をくだり、福建省から大陸に沿って海上を北上し、山東、朝鮮半島を経て日本に渡ったとする説。ヒマラヤから中国北部をまわり、北魏、旧満州、扶余、朝鮮半島を経て日本に渡ったとするが三概略説である。もちろん肯定、否定論はある。
米は農産品であるが、日本には農作物として栽培耕作技術とともに移入されたのは明らかである。
その農業技術とともに短籾種を日本に伝えたのはおそらく朝鮮半島の人たちであっただろう。
百済、新羅、高句麗(高麗)、任那に居住するひとたちが日本に渡来し、稲を作り始め、集団生活を営み、土地に定着する生活範囲を広げていった。それは日本に伝えたのではなく、自らの生活のためであったはずである。
それが次第に定着して、広域の文化圏を広げていったと推定されるが、古代の朝鮮半島の民族は単一ではなく、百済、新羅、高句麗、任那はそれぞれに戦いながら成立し、消えていった歴史がある。
その確執は日本に渡った民族間にも互いの反目となった。弥生時代と一口に言われるが、弥生人にもまた争いがあった。
日本には弥生時代以前には縄文時代があり、かつ、前期、中期、後期と大別される。
歴史上、この縄文時代がおわり弥生文化になったように考えられるのだが、縄文時代の終焉がそのまま弥生時代となったものではない。朝鮮半島にも若干の縄文時代の遺物が出土するといわれる。弥生時代のはじまりは、常識的に通用するよりもはるかに古く始まり、紀元前十八世紀あるいはそれ以上も古くにはじまり、縄文時代は紀元前三世紀くらいまでは続いていたのではないだろうか。
弥生時代は縄文時代と錯綜して同時期に並行して営まれていた可能性がある。


00866 田鶴浜住吉神社祭

2008年08月10日 | 日本の山車
00866 田鶴浜住吉神社祭
石川県七尾市(旧田鶴浜町)田鶴浜
住吉神社
□祭は四月下旬。
山車(曳山)六臺を曳く。
□山車
・東町
船山車。
本座人形は大国。
・西町
本座人形は神功皇后と武内宿禰。
・中町
本座人形は楠正成。
・殿町
本座人形は八幡太郎義家。
・上野ヶ丘
本座人形は桃太郎。
・登町
本座人形は恵比寿。
(順不同)

□汎論
田鶴浜住吉神社祭の祭には二層式の山車が曳かれる。上臺には柱が一本立ち、本座人形が飾られる。富山県高岡市にみられるような花笠が円弧を描いて垂れ下がる。しかし、鉾止めはない。
□問い合わせ
七尾市産業部観光交流課
電話 0767-53-8424

03863 十日町諏訪神社大祭

2008年08月10日 | 日本の山車
03863 十日町諏訪神社大祭
新潟県十日町市
諏訪神社
併祀
御機神社
□汎論
諏訪神社は市街を一望できる高台に祀られる。
諏訪神社大祭は「おおまつり」といい、諏訪神社から八角形の神輿が渡御して、町内をめぐり、御旅所の設けられる御仮屋につき、ここで一泊して還御となる。祭には、民謡流し、明石萬燈、俄(にわか)、花火大会などが行われて、大祭を盛り上げる。
俄(にわか)山車は三臺あり、笛と太鼓で演奏される囃子は京都祇園祭の流れを汲むもので、地方色に練り上げられている。
天神囃子は、地域を代表する祝い唄で、古くから座敷唄として、歌い継がれ、普請や、結婚式など慶事にははじめに歌う唄として伝えられる。
柏崎の三階節は、盆踊り唄として古くから歌い継がれてきた唄であるが、十日町でもよく歌われる。
長野県東部、群馬県などで、一月に行われる「鳥追い祭」がこの地にも伝わり、子どもたちが「ほんやらどう」とよぶ雪洞でで一夜を過ごし、翌日はこの唄を歌いながら回る。
十日町市は「明石ちぢみ」、「十日町お召し」でよく知られる着物の町。五月には「きものまつり」が行われる。
民謡「新保広大寺節(しんぼこうだいじぶし)」は、青森県の「津軽じょんがら節」群馬県の八木節の元唄といわれ、十日町市の無形民俗文化財に指定され保存会によって唄と踊りが継承されている。
赤倉神楽(あかくらかぐら)は古式を伝える神楽で、市の無形民俗文化財に指定され、
九月上旬の夜に赤倉の鎮守社境内で上演される。