◆01339 楢泉庵 横山家 8
五臺山
創建年代は不明である。
寛政年中(一七八九-一八〇一)の記録があるのでこの当時すでにあったと推定されている。文化四年(一八〇七)頃には盧生の臺名ででており、操人形があった
盧生のからくりは、いわゆる「邯鄲の夢」を人形が演じるもので、人生の栄枯盛衰はまるで夢のように儚いというたとえで、盧生が進士の登用試験である科挙にむかう途中、邯鄲の旅宿で、道士の呂翁から枕を借りて眠ったところ、宿屋の主人が炊事をするまでの間に栄えたり衰えたり、長い一生の夢を見た。という故事である。枕既済、枕中記ともいう。文化一二年(一八一五五)臺名をそれまでの「迦陵頻」から「五臺山」に改めている。
明治二三年から三年かけてで大修理を行い現在の形になった。
基枠(臺輪)は欅材で黒漆塗り、金具付き。
車輪は御所車で、基臺の内にはいる内輪車、黒漆塗り、金具付き四輪車
下臺には六体の彫刻「飛び獅子」がある
製作は諏訪の和四郎といわれるが、谷口與鹿である。
中川吉兵衛の紹介状とともに、與鹿がほぼできあがった獅子の彫刻をもって諏訪に赴き、和四郎の監修を得たあと、獅子を持ち帰って仕上げて屋臺に収めた。当時無名だった與鹿より、和四郎の名の方を喜んだ。
諏訪の和四郎作との誤解があるが、獅子にあわせて屋臺を造るわけではないので、仮に和四郎が彫刻するとすれば、屋臺全体と微妙な納まりの寸法、全体の調和を考えないと彫刻にはかかれない。したがって和四郎が彫刻を依頼されれば、高山まで「出づくり」しないと作れないわけである。
後日與鹿は、この獅子について「往年の作などとくと鑑賞いたさせ美を採り拙を捨て……」といっている。この六体の獅子は谷口與鹿の作である。
上臺と、中臺の欄間には極彩色の華麗な牡丹が収められているが、これも與鹿の作である。いわゆる「與鹿の牡丹」とし著名である。
中臺には獅子と牡丹を刺繍する緋羅紗の大幕をめぐらせている。
この獅子と牡丹の下絵は円山應挙が描き、京都の西陣で織ったもの。
後部にかける見送りは、「雲龍昇天図」。幸野楳嶺の原画をもとに、やはり西陣で織ったもので明治二一年の作。
幸野楳嶺の美術展が、滋賀県立美術館で開催されたが、年譜の中でも彼の代表作のひとつとして位置づけられていた。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料
五臺山
創建年代は不明である。
寛政年中(一七八九-一八〇一)の記録があるのでこの当時すでにあったと推定されている。文化四年(一八〇七)頃には盧生の臺名ででており、操人形があった
盧生のからくりは、いわゆる「邯鄲の夢」を人形が演じるもので、人生の栄枯盛衰はまるで夢のように儚いというたとえで、盧生が進士の登用試験である科挙にむかう途中、邯鄲の旅宿で、道士の呂翁から枕を借りて眠ったところ、宿屋の主人が炊事をするまでの間に栄えたり衰えたり、長い一生の夢を見た。という故事である。枕既済、枕中記ともいう。文化一二年(一八一五五)臺名をそれまでの「迦陵頻」から「五臺山」に改めている。
明治二三年から三年かけてで大修理を行い現在の形になった。
基枠(臺輪)は欅材で黒漆塗り、金具付き。
車輪は御所車で、基臺の内にはいる内輪車、黒漆塗り、金具付き四輪車
下臺には六体の彫刻「飛び獅子」がある
製作は諏訪の和四郎といわれるが、谷口與鹿である。
中川吉兵衛の紹介状とともに、與鹿がほぼできあがった獅子の彫刻をもって諏訪に赴き、和四郎の監修を得たあと、獅子を持ち帰って仕上げて屋臺に収めた。当時無名だった與鹿より、和四郎の名の方を喜んだ。
諏訪の和四郎作との誤解があるが、獅子にあわせて屋臺を造るわけではないので、仮に和四郎が彫刻するとすれば、屋臺全体と微妙な納まりの寸法、全体の調和を考えないと彫刻にはかかれない。したがって和四郎が彫刻を依頼されれば、高山まで「出づくり」しないと作れないわけである。
後日與鹿は、この獅子について「往年の作などとくと鑑賞いたさせ美を採り拙を捨て……」といっている。この六体の獅子は谷口與鹿の作である。
上臺と、中臺の欄間には極彩色の華麗な牡丹が収められているが、これも與鹿の作である。いわゆる「與鹿の牡丹」とし著名である。
中臺には獅子と牡丹を刺繍する緋羅紗の大幕をめぐらせている。
この獅子と牡丹の下絵は円山應挙が描き、京都の西陣で織ったもの。
後部にかける見送りは、「雲龍昇天図」。幸野楳嶺の原画をもとに、やはり西陣で織ったもので明治二一年の作。
幸野楳嶺の美術展が、滋賀県立美術館で開催されたが、年譜の中でも彼の代表作のひとつとして位置づけられていた。
建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料