暘州通信

日本の山車

◆花里神社の由緒 二五

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 二五

 中川吉兵衛は、寥郭堂の北続きにある、東照宮造営に関わっていたが、完成するまで寥郭堂に滞在し、谷口與鹿はしばしば、吉兵衛をたずねて教えを受けた。

 のちに、谷口與鹿が、向町(現、本町)の屋臺である琴高臺(きんこうたい)の建造に携わったとき、阿波出身の書家で、江戸時代の三筆と称される、「菘翁 貫名海屋(しょうおう ぬきなかいおく)」が来飛し、その琴高臺が完成して曳行されるまで寥郭堂に滞在した。
貫名海屋がその滞在中に西之一色で詠まれた漢詩が世に知られる。

◆花里神社の由緒 二四

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 二四

 備前鴨方の旧藩士で、「霊和 玉堂琴」 を背に、春琴、秋琴の二人の子供を連れて各地を旅した「浦上玉堂」は、京都滞在中に親しくなった田中大秀をたずねて飛騨入りしたが、このときも寥郭堂を訪ね弾琴のひとときを楽しんだ。
 浦上玉堂は、このとき特に請われて、益田羽根の老杉をもって、霊和の鑑成琴、二面の調製を許し、寺内の屋臺である布袋臺の建造で知られる、中川吉兵衛にその作成を依頼した。この鑑成琴には、漆がかけられなかったが、そのまま糸を張って演奏に供されたが、浦上玉堂はたいへん満足したと伝わる。
 のちに、中川吉兵衛の弟子となった、谷口與鹿は、上一之町の麒麟臺の下臺に、一連の諫鼓鶏圖を描いたが、このうちの弾琴圖に描かれているのが、この霊和 玉堂琴である。
 谷口與鹿は、上方に上り、摂津伊丹郷で過ごしたが、赤田臥牛から譲り受けた鑑成琴をつねに身近におき、長崎への西遊のときも携えている。

 このとき、田中大秀、赤田臥牛、津野滄州らとともに、催馬楽で知られる浅水に出向いている。
 浦上玉堂は、このとき田中大秀の世話で完成した高山下一之町の屋臺 大八臺(おおはちたい)の屋臺囃子を作曲した。この曲が優れていたことから他の高山の屋臺組でもこの屋臺囃子を編曲した「大八崩し」が演奏された。



◆花里神社の由緒 二三

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 二三

 備前鴨方の旧藩士で、「霊和 玉堂琴」 を背に、春琴、秋琴の二人の子供を連れて各地を旅した「浦上玉堂」は、京都滞在中に親しくなった田中大秀をたずねて飛騨入りしたが、このときも寥郭堂を訪ね弾琴のひとときを楽しんだ。
 浦上玉堂は、このとき特に請われて、益田羽根の老杉をもって、霊和の鑑成琴、二面の調製を許し、寺内の屋臺である布袋臺の建造で知られる、中川吉兵衛にその作成を依頼した。この鑑成琴には、漆がかけられなかったが、そのまま糸を張って演奏に供されたが、浦上玉堂はたいへん満足したと伝わる。
 のちに、中川吉兵衛の弟子となった、谷口與鹿は、上一之町の麒麟臺の下臺に、一連の諫鼓鶏圖を描いたが、このうちの弾琴圖に描かれているのが、この霊和 玉堂琴である。
 谷口與鹿は、上方に上り、摂津伊丹郷で過ごしたが、赤田臥牛から譲り受けた鑑成琴をつねに身近におき、長崎への西遊のときも携えている。

◆花里神社の由緒 二一

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 二一

 臨済宗の中興ともいわれる、駿河、原の慧鶴白隠は、
 下呂市上呂の、龍澤山 禪昌寺の本堂 が、飛騨や久兵衛の寄進で落慶し、飛騨入りしたが、このとき高山に足を延ばし、宗猷寺で碧巌録の講義をしたと伝わる。また、寥郭堂に泊まり、さらに国府の安國寺を訪れている。

◆花里神社の由緒 二〇

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 二〇

 圓空上人は、鉈一丁をもって12万体の佛像彫刻を悲願としたと伝わるが、寥郭堂に止宿して千島の飯山寺を訪ねここにし千光寺にばらく滞在し、さらに丹生川の舜乗上人を紹介されて千光寺に赴き、ここを根拠に主として飛騨地方東部に夥しい数の佛像をはじめとする「鉈ばつり尊像」を像顕した。
 飯山寺の観音開帳の時は、飯山寺の登り参道の辻々にこれを飾って善男善女の喜捨をもとめたものだった。
 およそ七、八尺はあろうかと思われる執金剛神像をはじめ大小の尊像は、長持四杯以上もあったというが、明治の廃仏毀釈令で、飛騨陣屋の広場に積み上げられて燃やされ炎上した。

◆花里神社の由緒 一八

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一八

 松倉山麓に開けつつあった三木氏の城下町は、宮川右岸の三町に移り、花里八幡宮は(現、花里町二丁目)に遷座。善應寺も東山に移された。
 善應寺廃寺あとは解体され、武田信玄に攻められて炎上した丹生川町 袈裟山 千光寺の本堂の再建部材の一部となった。焼失を免れた般若心経も同時に千光寺に奉納された。善應寺に祀られていた三木氏一族の位牌は、下呂市 龍澤山 禪昌寺 に祀られることになった。

◆花里神社の由緒 一七

2018年09月11日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一七

 金森長近は、大八賀の三木氏の支城だった鍋山城に滞在し、天正一八年(一五九〇)に、飛騨高山、天神山の築城に着手したが、およそ一五年の歳月をかけ、慶長一〇年(一六〇五)に高山城が竣工し、さらに城下町の構築に取り掛かった。
 飛騨入府の時の約束により城の正面に、白川郷より照蓮寺を招き、このあいだを結ぶ道路沿いは、武家屋敷が居並び、この道から西に坂(衣斐坂)を下ったところが壹之町村、貳之町村、參之町村、片原町、宮川の左岸には向町ができて、高山の城下町は次第に形を整えていった。



◆花里神社の由緒 一四

2018年09月08日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一四

 江馬輝盛の母は、三木自綱の父である三木直頼の妹であり(異説あり)、輝盛と自綱は従弟の間であった。
 しかし、輝盛は死去し、その居城であった「諏訪城」も陥落したのであった。

元亀四年(一五七三)年四月 武田信玄死去。
天正六年(一五七八)三月 上杉謙信死去。
天正一〇年六月 織田信長死去
天正一三年(一五八五)、富山の役にて、佐々成政は秀吉に降伏して富山藩を出る。

 飛騨に大きな関わりのある戦国時代の英雄らは相次いで世を去り、飛騨北方の雄であった、江馬氏が滅亡し、
あるいは、佐々氏の敗北で、三木氏の飛騨での安泰は確かなものとなったかに見えた。

◆花里神社の由緒 一三

2018年09月08日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一三

 天正一〇年(一五八二)、織田信長が死去すると、江馬輝盛と三木自綱と争いが生じ、高原郷の諏訪城を出て、大坂峠を越え、現、高山市国府町八日町に陣を布き、三木自綱と戦うことになった。伝えるところ、この戦は輝盛勢が優勢であったが、壊走する三木勢を深追いしすぎたため、三木氏の伏兵に本陣を襲われて輝盛は最期を遂げた。三木兵を追い散らして意気揚々と本陣に戻った
江馬勢は、大将が討ち取られた様を見て仰天したがもはや取り返しがつかず、総崩れとなり、十三人の陪将らは、主君の後を追って自害した。
 その十三人の陪将らの霊を祀った大坂峠は、「十三墓峠」ともよばれる。

 また、この戦役で死去した無名兵士の遺骨は、飛騨の歴史研究で偉大な功績のあった岡村利平氏宅の北側に四角く区画した区域に集められて集団墓苑となっている。

◆花里神社の由緒 一二

2018年09月07日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一二

 江馬輝盛は、父とともに武田氏について越中富山の
椎名氏を攻め、その戦功で、富山県中新川郡の芦峅寺(あしくらてら)にちかい中地山に築城し、城代に、河上中務をおいた、
 しかし、天正六年(一五七八)に上杉謙信が病没し、以後は次第に勢力を失った。


◆花里神社の由緒 一一

2018年09月07日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一一

 前稿七で触れたが、武田信玄と、上杉謙信の争いは飛騨を統治する三木氏にとっても焦眉の急であった。
 まず考えられるのは、いずれかと同盟を結び手を組むことである。しかし、それには美濃の意向をうかがわなければならない。その選択を誤ればたちまあちのうちに三木氏は失脚することになる。
 すでに武田氏の兵は、丹生川の、千光寺を陥落させている。三木氏は、高原郷の江馬時盛とともに武田信玄の配下につくことになった。ところがその一子江馬輝盛は父の時盛と意見が合わず、上杉謙信につくことに固執した。この父子の意見の相違はやがて、輝盛が父の時盛を弑逆することとなった。

◆花里神社の由緒 一〇

2018年09月07日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 一〇

 頼山陽の、
  鞭声粛粛 夜河を過る……

 この詩は、五期にわたるとされる、「川中島の合戦」でももっとも激戦だったと伝わる第四期の戦のありさまを詠んだもので、上杉謙信が陣を構えた「妻女山」と、武田信玄の陣を構えたとされる、「茶臼山(異説あり)」の両雄は睨みあい、武田信玄の軍師、山本勘助の進言を入れて兵を二つに分け、その一つは妻女山を攻め、山を下った上杉勢を本陣で迎え撃つという戦略で、世にいう「啄木鳥戦法」で、キツツキが木を敲くと驚いて飛び出した虫をとらえて食うありさまを戦法としたものであった。
 これが成功していたなら、武田勢は大勝できたのだが、謙信はこれを見破り、夜半、ひそかに軍勢を山からおろし、川を渡って信玄の陣と対峙した。
 驚愕した武田勢と上杉勢の間で激戦となった。
 このとき信玄の陣に単身で切り込んだ武士があり、振り下ろした刃を思わず手にした軍配でうちはらい、きわどいところで危機を脱した。僧体の武士とは上杉謙信であった。
 この両者の戦いは軍記物でよく知られる。
 山本勘助はこの戦で落命した。

◆花里神社の由緒 九

2018年09月07日 | 日本山車論
◆花里神社の由緒 九

 長野県長野市篠ノ井川中島は、北アルプスから流れ出た渓流は、上高地を経て梓川となり、松本平で犀川と名を変え、安曇野を経て長野市に至る。
 一方、甲州境に流源をもつ千曲川は、海ノ口、佐久平、小諸、上田を経て更埴にいたり、ここで犀川と合流して信濃川となる。
 この合流地点が、武田信玄と上杉謙信のあいだで繰り広げられた歴史上名高い「川中島の合戦」の古戦場である。