◆花里神社の由緒 二五
中川吉兵衛は、寥郭堂の北続きにある、東照宮造営に関わっていたが、完成するまで寥郭堂に滞在し、谷口與鹿はしばしば、吉兵衛をたずねて教えを受けた。
のちに、谷口與鹿が、向町(現、本町)の屋臺である琴高臺(きんこうたい)の建造に携わったとき、阿波出身の書家で、江戸時代の三筆と称される、「菘翁 貫名海屋(しょうおう ぬきなかいおく)」が来飛し、その琴高臺が完成して曳行されるまで寥郭堂に滞在した。
貫名海屋がその滞在中に西之一色で詠まれた漢詩が世に知られる。
中川吉兵衛は、寥郭堂の北続きにある、東照宮造営に関わっていたが、完成するまで寥郭堂に滞在し、谷口與鹿はしばしば、吉兵衛をたずねて教えを受けた。
のちに、谷口與鹿が、向町(現、本町)の屋臺である琴高臺(きんこうたい)の建造に携わったとき、阿波出身の書家で、江戸時代の三筆と称される、「菘翁 貫名海屋(しょうおう ぬきなかいおく)」が来飛し、その琴高臺が完成して曳行されるまで寥郭堂に滞在した。
貫名海屋がその滞在中に西之一色で詠まれた漢詩が世に知られる。