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暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 27

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 27

深浦漁港の厨子
青森県西津軽郡深浦

 江戸時代中期、陸奥(青森県)大間を北海の物資を満載して西に南下した飛騨屋久兵衛の船は鰺ヶ沢を過ぎるあたりから海が荒れだし、ついに一大暴風雨となって、あわや難破も免れない状況に陥ったが、たまたまこれを望見した深浦の漁民が仲間たちに急報し、知らせを受けた漁民らは多重遭難の危険をも顧みず必死に小舟を操船して乗組員を救助、飛騨屋久兵衛の積荷は一部は海に投棄されたもののそのほとんどは無事で、深浦の港に無事誘導され避難することができたのだった。
 飛騨屋久兵衛は深浦の漁民たちの勇気ある奇特の行為に、感涙に噎びながら深く感謝の気持ちを礼に託したのだった。
 こののち、飛騨に無事に帰ることができた飛騨屋久兵衛は、楢泉庵主、横山彌右衛門に事情を話すとともに特に依頼して斐太ノ工を陸奥深浦の漁湊に派遣して厨子を作らせ、うちに飛騨屋久兵衛の船に安置してあった【馬姐女神像(海神像)】をおさめ、土地の寺院に奉納したのであった。



◆01339 楢泉庵 横山家 26

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 26

龍澤山 禅昌寺(りょうたくざん ぜんしょうじ)
下呂市萩原町中呂

 龍澤山 禅昌寺の開山は、恵心僧都、源信が、萩原町桜洞に庵をひらき、観音菩薩像を彫刻して霊場を開いたのに始まると伝える。後円融天皇のとき皇后の安産祈願のため勅使が遣わされ、無事皇子誕生となったことから【大雄山 圓通寺】の寺号が与えられた。この皇子がのちの小松帝である。
 しかし、その後一時衰微していたが、享禄元年(一五二七)に三木大和寺直頼により再興された。
三木直頼は、高山松倉山に松倉城を築城した三木自綱の祖父(一説では父?)にあたる。
三木氏の居城である松倉城が落城すると、寺号は、龍澤山 禅昌寺となった。三木氏の菩提寺であることには変わりがない。
 臨済宗妙心寺派の別格寺班で、寺格は十刹に数えられる名刹で、江戸時代中期には、北海の物産を扱って巨財をなした【飛騨屋久兵衛】の菩提寺であったことから、本堂が寄進され建立された。普請は谷口五兵衛宗儔と、弟の紹芳による。
 建材はすべては【楢泉庵主、横山彌右衛門】によって調達され、大野郡清見村八日町(現高山市)で調達され、飛騨街道を中呂まで運ばれた。建築材を運搬するため、石浦(高山市)と宮村のあいだにあった口と目番世の橋が架け替えされている。
【飛騨屋久兵衛】と、【楢泉庵、横山彌右衛門】は昵懇のあいだとなった。

 本堂の落慶法要には駿河国原宿(現静岡県沼津市)の高僧、慧鶴 白隠禅師が招かれた。白隠禅師は、中仙道木曾福島宿を得て飛騨入りし、法要をつとまたあと、萩原を経て高山にはいり、宗猷寺では『碧巖録』の講義が行われたがこれには越中富山から一〇〇名を超える僧、尼僧の参加があったと伝わる。このとき、白隠禅師は楢泉庵、横山家に止宿している。白隠禅師は、そのあと、飛騨國府の古刹である、安國寺に足を運び、各地で墨蹟、画を残している。

 龍澤山 禅昌寺には、すり鉢に添えられた擂りこ木にとまる小鳥が描かれ

  うぐいすを まねたとて みそさざい

 の軸が添えられた画幅その他の書がある。



◆01339 楢泉庵 横山家 19

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 19

飛騨総社 樂臺

 工匠は松田亮長。当初谷口家が手掛ける計画であったが、谷口與鹿が高山を不在にしていたため松田亮長が担当することになった。でダン彫刻は初夢三夢にちなみ、櫟文峰(あららぎぶんぽう)が、四季の草花を描き、これに源氏香を添えて源氏物語のと関連を持たせている。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料