暘州通信

日本の山車

23387 菊慈童

2008年06月13日 | 日本の山車
23387 菊慈童
九月九日を重陽の節句という。
中国の古典「続齋諧記」に、この日、丘などの小高い場所に登り菊花酒を飲み、茱萸
の薬玉を身につければ、邪気を払い、悪鬼をも寄せつけないとある。
能にもある菊慈童は、中国、周の穆王の僕であったが、王の不在中誤って王の枕をまたぐという過失があってとがめられる。
 時代はさがり、 魏の文帝のとき、命により霊をたずね田一行は
齢七百歳を経る人物に会う。
その人物は穆王より授かったという偈

 具一切功徳 慈眼視衆生  福聚海無量 是故応頂礼

 を見せ、使者と唱和する。
使者はその人物が菊慈童であること、菊からしたたる水葉、長寿の淵源であることを知りる。
山車に長寿を賀しとりいれられることがある。

06119 勝速日神社祭

2008年06月13日 | 日本の山車
06119 勝速日神社祭
三重県鈴鹿市白子
勝速日神社
□祭は四月中旬
屋臺四臺を曳く。

□山車
・中町
伊勢型紙で財を成した、重子屋山中重兵衛家の大口寄進。
安政四年(一八五七)の記録がある。
竹に虎図
・西町
天保四年(一八二三)。の記録がある。彫刻は片桐兵助。
松と鷹図。
江戸小紋の需要で、その伊勢型紙問屋の最大手であった寺尾斎兵衛家が大口寄進。
・東町
文化二年(一八〇六)の記録がある。工匠は長谷川長蔵。
牡丹に唐獅子。
江戸廻船を営んだ豪商久住家の寄進で建造された。
久住家は江戸廻船と肥料の販売で莫大な富を集めた商人である。
・山中町
文化五年(一八〇八)の記録がある。
公案図。菊慈童だという。
山車の大口寄進者である一見仁兵衛家は約三十町歩、八万坪の大地主であった。
□汎論
寛永十一年(一六三四)、白子に紀州藩代官所の創設時に「久留真神社」が移転され、氏子が南北二つに別れたとき、北は栗真にあった「八重垣神社」と「勝手明神」を合祀して一社にして遷したのが「勝速日神社である。
安永七年(一七七八)三月に屋臺四対が曳行された記録がある。山車の曳かれた歴史は古い。文化二年(一八〇六)の道具箱墨書がある東町の山車がこれにつづく。
白子の山車は四臺とも形態が相似しており、二層式、上臺は下臺と同じ大きさで、前後は三間割り、屋根は唐破風。横は四間割りにし、比較的高い黒塗りの勾欄がつく。勾欄は金具をうち、刎ねない留め勾欄で腰は素通しである。前後はほぼ二分割され前部は開放されている、この部分は藝座で、古くは歌舞伎狂言が披露されたという。
後部は大きな幕で覆われる。水引幕がつくが、後部は覆われない。このため、上体後部の図は全体がよく見え、見送幕ともなっている。
下臺はおなじ幅の縦継色幔で覆われる、四臺ともおなじだが、東は赤と辛子色、西は赤と黒、中も赤と黒、山中は辛子、黒、赤の三色。上にはさらに刺繍を施した水引幕がかけられる。車輪は四輪となっている。
上体が下臺と同じ大きさでゆったりとしていて、大幕と大きな図柄が引き立つ。