◆29554 後藤義光
初代の後藤利兵衛橘義光は、文化十二年(一八一五)、千倉(現南房総市)の北朝夷に生まれた。幼いころ左甚五郎とであって、のちに彫刻を手がけることになったといわれる。左甚五郎は飛騨高山の名工としてよく知られるが、実在の人物ではなく、この甚五郎に該当する斐太の工がだれであったかは不明である。
房総には、上総の長谷川氏が【大木飛弾藤原綱行】を名乗っており、後藤義光が、自身で【左氏】を標榜しているのは注意を要する。
若いとき、後藤本流とよばれる江戸橋本町(現中央区京橋)にあった、藤茂右衛門の流れを汲む後藤三次郎恒俊に弟子入りして腕を磨いた。後藤、橘の姓号は師筋の姓氏であり、これが許されて用いるようになったのは、義光の才能を師が認めたからと言うことになろう。
天保一八年、二〇歳のとき浦安の【浦賀神明社(現豊受神社)】の彫刻を手がけ一躍有名になった。やわたんまち、鶴岡八幡宮本殿向拝天井に彫られた【百態の龍】は実に見事なものである。
安政三年(一八五六)郷里の千倉に帰り、神社仏閣、また山車の彫刻を手がけているが、その傍ら多くの門人を育成した。
館山市船形の大塚山車彫刻は、もと、浦安で引かれていた山車であるが、義光八十六歳の最晩年の作品である。
各地に名作が伝わるが千倉町内では、
・愛宕神社 千倉町川合
・八幡神社 千倉町
・住吉寺 千倉町朝夷
・西養寺 千倉町寺庭
などに作品が見られる。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/
◇初代後藤義光彫刻 龍性院
2009/9/2(水) 午後 8:19
... 拝見しに行ってきました。 本堂は再建されていますが彫刻は当事の物を使用との事でしたが 非常に綺麗でビックリしました。 向拝龍は双龍なんですかね、親子流?そんなことは無いですね。 裏側の銘には 彫工 朝夷邑 後藤利兵衛橘義光 慶応四戊辰弥生
http://blogs.yahoo.co.jp/maruchan1902/6517563.html
初代の後藤利兵衛橘義光は、文化十二年(一八一五)、千倉(現南房総市)の北朝夷に生まれた。幼いころ左甚五郎とであって、のちに彫刻を手がけることになったといわれる。左甚五郎は飛騨高山の名工としてよく知られるが、実在の人物ではなく、この甚五郎に該当する斐太の工がだれであったかは不明である。
房総には、上総の長谷川氏が【大木飛弾藤原綱行】を名乗っており、後藤義光が、自身で【左氏】を標榜しているのは注意を要する。
若いとき、後藤本流とよばれる江戸橋本町(現中央区京橋)にあった、藤茂右衛門の流れを汲む後藤三次郎恒俊に弟子入りして腕を磨いた。後藤、橘の姓号は師筋の姓氏であり、これが許されて用いるようになったのは、義光の才能を師が認めたからと言うことになろう。
天保一八年、二〇歳のとき浦安の【浦賀神明社(現豊受神社)】の彫刻を手がけ一躍有名になった。やわたんまち、鶴岡八幡宮本殿向拝天井に彫られた【百態の龍】は実に見事なものである。
安政三年(一八五六)郷里の千倉に帰り、神社仏閣、また山車の彫刻を手がけているが、その傍ら多くの門人を育成した。
館山市船形の大塚山車彫刻は、もと、浦安で引かれていた山車であるが、義光八十六歳の最晩年の作品である。
各地に名作が伝わるが千倉町内では、
・愛宕神社 千倉町川合
・八幡神社 千倉町
・住吉寺 千倉町朝夷
・西養寺 千倉町寺庭
などに作品が見られる。
□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
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◇初代後藤義光彫刻 龍性院
2009/9/2(水) 午後 8:19
... 拝見しに行ってきました。 本堂は再建されていますが彫刻は当事の物を使用との事でしたが 非常に綺麗でビックリしました。 向拝龍は双龍なんですかね、親子流?そんなことは無いですね。 裏側の銘には 彫工 朝夷邑 後藤利兵衛橘義光 慶応四戊辰弥生
http://blogs.yahoo.co.jp/maruchan1902/6517563.html