◆依田氏と木曾義仲
上田市丸子町は、平成の大合併で上田市となったが、それまでは、丸子町であった。
東は碓氷峠を経て、上州、武蔵へ、西は、三才山(御射山)を経て松本市から、さらに、飛騨高山へ、南は和田峠をを経て、ここで甲州方面と、諏訪、岡谷から塩尻から木曾へとつづく中山道は、西国に通じる。
北は、北国街道を経て、千曲川に沿って北上し、善光寺平で二つに分かれ、上越と、信濃川の流れに沿って越後方面に通じる道地ヘと二分岐する。
つまり、丸子町は古来より交通の要衝であった。町内には、かつての諏訪市の支配の後を継承する御柱のたてられる神社が数社鎮座する。
町内の中央を西南から北東に依田川の清流が流れ、御嶽堂地区内に、古社、「依田神社」が鎮座する。その北側には、「城山(じょうやま)」は御神体山であり、依田神社はその里宮にあたる。
治承五年(一一八一)、六月。木曾義仲は、後白河法皇の皇子高倉宮以仁王の令旨(りょうじ)をうけると、折柄招聘を受けた、配下の、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、根井小弥太、楯六郎親忠らとともに基礎を出立し、丸子地内の豪族、依田氏と合流したが、さらに海野氏、長瀬氏、丸子氏らの参加があり、依田城址の東麓で挙兵すると、信濃、西上州方面から馳せ参ずるものが続き、その数約三千余騎が集結したと伝わる。木曾義仲は、海野氏の氏神白鳥神社の社前を流れる千曲川河川敷の白鳥河原で兵揃えを行い、平家の先鋒であった越後国の城氏と見みえることとなった。
城助職は大軍を率いて信濃國に侵攻し、川中島雨宮の渡しの対岸にあった横田城に布陣した。
木曾義仲軍と「横田河原」において激突した。義仲は、城氏の軍約六万余騎をここで破り、これにつづく、寿永二年(一一八三)、五月に、越中國と加賀國の境にある栃波山、倶利伽羅峠の戦で平家の大軍を破り、越前國、近江國を制圧して、同年七月京都入りした。
上田市丸子町は、平成の大合併で上田市となったが、それまでは、丸子町であった。
東は碓氷峠を経て、上州、武蔵へ、西は、三才山(御射山)を経て松本市から、さらに、飛騨高山へ、南は和田峠をを経て、ここで甲州方面と、諏訪、岡谷から塩尻から木曾へとつづく中山道は、西国に通じる。
北は、北国街道を経て、千曲川に沿って北上し、善光寺平で二つに分かれ、上越と、信濃川の流れに沿って越後方面に通じる道地ヘと二分岐する。
つまり、丸子町は古来より交通の要衝であった。町内には、かつての諏訪市の支配の後を継承する御柱のたてられる神社が数社鎮座する。
町内の中央を西南から北東に依田川の清流が流れ、御嶽堂地区内に、古社、「依田神社」が鎮座する。その北側には、「城山(じょうやま)」は御神体山であり、依田神社はその里宮にあたる。
治承五年(一一八一)、六月。木曾義仲は、後白河法皇の皇子高倉宮以仁王の令旨(りょうじ)をうけると、折柄招聘を受けた、配下の、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、根井小弥太、楯六郎親忠らとともに基礎を出立し、丸子地内の豪族、依田氏と合流したが、さらに海野氏、長瀬氏、丸子氏らの参加があり、依田城址の東麓で挙兵すると、信濃、西上州方面から馳せ参ずるものが続き、その数約三千余騎が集結したと伝わる。木曾義仲は、海野氏の氏神白鳥神社の社前を流れる千曲川河川敷の白鳥河原で兵揃えを行い、平家の先鋒であった越後国の城氏と見みえることとなった。
城助職は大軍を率いて信濃國に侵攻し、川中島雨宮の渡しの対岸にあった横田城に布陣した。
木曾義仲軍と「横田河原」において激突した。義仲は、城氏の軍約六万余騎をここで破り、これにつづく、寿永二年(一一八三)、五月に、越中國と加賀國の境にある栃波山、倶利伽羅峠の戦で平家の大軍を破り、越前國、近江國を制圧して、同年七月京都入りした。