暘州通信

日本の山車

00075 常滑祭

2007年06月29日 | 日本の山車
00075 常滑祭
愛知県常滑市
□祭は五月上旬。
各神社に属する山車一八臺が曳かれる。

□山車
・唐子車(横須賀)
小倉神社
山車、からくり人形四体は
市の有形民俗文化財
離れからくりが行われる

・紅葉車(橋詰)
風宮神社
山車、からくり人形四体は
市の有形民俗文化財
離れからくりが行われる
操り人形芸能と祭囃子は市の無形民俗文化財

・梅榮車(十王)
天満宮
帆下神社
山車、からくり人形四体は
市の有形民俗文化財
糸からくりがおこなわれる
面かぶり人形

・小倉の山車
小倉天神社
平成三年より復活した
小倉の山車は、大屋根を油障子で覆い、楫棒には横棒が
取り付けられていない
車輪には格子の「和掛」とよばれる車輪覆いがある。
臺名はまだつけられていない。

・矢田の山車
八幡社
御幣車
昭和六十二年に建造された

・西之口の山車
雷車(鉄砲津)
神明社
昭和三十八年以来中断していたが平成五年より復活
摩振り人形がある

・西寶車(西之口)
神明社
昭和三十二年以来中断していたが平成四年より復活した
摩振り人形がある

・多屋の山車
海椙車
平成元年山車を建造。
白木づくりによる山車
装飾金具類が使われていない
塗装されていない
前檀にも唐破風がある
軒には
大屋根
前だなの屋根には懸魚はなく白地に赤色の紋をいれた
丸提灯を下げる
上段勾欄は角仕上げで横桟は二本ある
正面は分割されてない
隅の組違いは、隅からは出ない
下段正面の勾欄は丸柱仕上げ
中央で分割され上部は次第に下にある勾欄に彎曲して接し
下の勾欄はそのさらに先で下部に彎曲して床に接する
下段中央には御幣が一本たてられる

・神明車(北条)
神明社
常石神社
祭囃子は無形民俗文化財

・世楽車(瀬木)
神明社
常石神社
唐子人形
祭囃子、勇み獅子無形民俗文化財

・常石車(奥条)
神明社
常石神社
三番叟を隠れ使いする
人形戯と祭囃子は無形民俗文化財

・常山車
神明社
常石神社
人形つかい、巫女の舞が演じられる
両手が手車になっている

・常盤(磐?)車(市場)
神明社
常石神社
前檀に摩振り人形がある
夜つけられる提灯は赤で、他の町内ではみられない

・保楽車(保示)
神明社
常石神社
糸からくりによる、桃太郎のからくりが演じられる。
桃が二つに割れると中から桃太郎が現れる。

・大谷の山車
蓬莱車(浜条)
八幡社
市の有形民俗文化財
三番叟がからくりで演じられる
舌だし人形
人形戯と祭囃子は市の無形民俗文化財

・東櫻車(奥条)
八幡社
三番叟の舌だし人形がある
祭囃子は市の無形文化財
木部は黒漆塗

・小鈴谷の山車
白山車
白山社
糸からくりによる三番叟

・坂井の山車
松尾車
松尾神社
山車は市の有形民俗
浄瑠璃
糸からくりによる人形戯
無形民俗

・大野
権丸ごんまる(権現)
巻藁船
昭和三00年の伊勢湾台風以来中断していたが
昭和六十三年に復活した

□汎論
常滑市には
大野に三臺
小倉に一臺
矢田に一臺
西之口に二臺
多屋に一臺
常滑に六臺
大谷に二臺
小鈴谷に一臺
坂井に一臺
と九地区に一八臺の山車があり、ほかに大野には権丸という巻藁船がある。尾張津島神社で奉納される巻藁船と同じ形態である。
山車の名称には、小倉の山車以外は「車」がつくが、常滑の山車のうち、神明車は、しんめいぐるま、常石車は、とこいしぐるま。常山車は、とこやまぐるま。というように「くるま」でよばれ他の山車は「しゃ」である。
大野の山車に共通するのは屋根が唐破風で、前檀が設けられている、しかしこの前檀には屋根がなく、正面に向けて緋の大幕が下げられており、臺名、山車組町名などが書かれている。

00074 浅草三社祭

2007年06月29日 | 日本の山車
00074 浅草三社祭
浅草二丁目
金龍山浅草寺
□祭は五月中旬。
宝船一臺、小型屋臺九臺を曳く。

□山車
・宝船の山車
昭和四七年より曳くようになった。

小型屋臺
・花川戸一

・花川戸二

・浅草馬一

・浅草馬三

・浅三東

・浅草二

・浅草東

・浅一三栄

・浅一中央

このほか、床の無い、小型の底抜け屋臺が若干ある。

□汎論
『武江年表巻之六』に、「天明元年(一七八一)三月一八日、浅草三社権現祭礼久しく絶えたりしが、今年神輿乗船、産子町々より出し、練物を出す」とあり、
『浅草三社権現祭礼番附文政六年(一八二三)』には、
・一番
浅草黒船町・同三好町
源為朝人形の山車。碇の曳物。荷茶屋一基。

・二番
浅草並木町・同茶屋町
宝船の山車。万歳人形の曳物。荷茶屋一基。

・三番
浅草駒形町
天の岩戸の山車。岩組に鶏の曳物。荷茶屋一基
・附祭
浅草並木町、同茶屋町。同駒形町。同諏訪町
踊り担ぎ屋臺、底抜け担ぎ屋臺三臺、瓢箪に駒の曳物、桜の曳物、練物、荷茶屋三基。

・四番
浅草諏訪町
鶴岡八幡宮の景の山車。海老の曳物。荷茶屋一基

・五番
浅草三間町
源頼政人形の山車。管弦太鼓の曳物。菖蒲の曳物。太鵺の曳物。荷茶屋一基

・六番
浅草田原町壱丁目、弐丁目、三丁目
浦島太郎人形の山車。船に碇の山車。珊瑚珠曳物。貝尽くしの曳物。

・七番
浅草西仲町
弁財天の山車。蜃気楼の曳物。御所車の曳物。北条時政人形の曳物。

・八番
浅草東仲町
注連縄に羽子板の山車。紅葉に仕丁の曳物。荷茶屋二基

・九番
浅草田町壱丁目、弐丁目
棟上飾の山車。諌鼓鶏の山車。荷茶屋二基。

・十番
浅草材木町
紙雛の山車。蛤の曳物。荷茶屋一基。

・十一番
浅草花川戸町
揚巻意休門兵衛人形の山車。蛇の目傘提灯の曳物。新吉原大門口之景の曳物。荷茶屋一基附祭
浅草田町一、二丁目、浅草材木町、浅草花川戸町
踊担ぎ屋臺、底抜け屋臺四基、破魔弓の曳物、宝船の曳物、桜に紙雛の曳物、曳物、三宝に糸巻の曳物、鶏の曳物、菊花の曳物、練物、荷茶屋三基。

・十二番
浅草山之宿町
葱堂の山車。牛の曳物。荷茶屋一基。

・十三番
浅草南馬道町、同北馬道町
岩組に山姥人形の山車。岩組に金太郎の曳物。荷茶屋一基。

・十四番
浅草聖天町
蜃気楼の山車。珊瑚珠の曳物。荷茶屋一基。

・十五番
浅草聖天横町
岩組に玉藻前人形の山車。荷茶屋一基。

・十六番
浅草金龍山下瓦町
毘沙門天(多聞天)の山車。弁財天の曳物。延命袋の曳物。荷茶屋一基。

・十七番
山谷浅草町
猿の山車。からくりの曳物。荷茶屋一基。

が曳かれている。これら山車が曳かれる祭は明治維新とともに御神輿の祭に代わって言った。

00071 亀岡祭

2007年06月28日 | 日本の山車
00071亀岡祭
京都府亀岡市上矢田町
鍬山神社
祭は一〇月下旬。
山車(山、鉾)を曳く

□山車
・翁山鉾 三宅町
本座人形は三番叟 臺名もこれに因む。
人形は昭和末期の作。
文政一二年(一八二九)に見送り幕「八仙図」、前掛幕三国志の「桃園の誓」、天幕、見送りの房、御幣が調製されている。

・高砂山鉾 柳町
本座人形は高砂の尉と姥
人形道具箱に宝暦五年(一七五五)とある。当初は舁山で、文政八年(一八二五)に鉾にに改造されている。
見送りは京都西陣製で、綴錦。
水引、前掛は文政八年の新調。
大幕は中国甘粛省の毛織物。

・八幡山鉾 西町

・羽衣山 東堅町、西堅町
本座人形は謡曲羽衣の天女の舞と漁師。丹後半島に天女伝説がある。
ながらく人形のみを東堅町、西堅町の両会議所に隔年で飾っていたが、平成一四年に山車が一三〇年ぶりに復元された。
懸装品は町内人らの手になる。

・浦島山 呉服町
本座人形は浦島太郎
平成五年、復活。
寛政七年(一七九五)に熊野忠兵衛が水引と見送りを寄贈した記録がある。このころすでに山車がったと推定される。
大幕は玉取り獅子。

・八幡山 西町
『八幡山記』に、「宝暦一三年(一七六三)九月、山を造営し八幡山と號し奉る」とある。天保一二年(一八四一)に曳山に改造されている。

・難波山 矢田町、京町、上矢田町
本座人形は王仁。
応神天皇が百済から招き、漢字を伝えたとされる王仁の墓は大阪府枚方市にある。

勾欄を入れる箱に、安永六年(一七七七)の記録がある。
創始期は舁山で、『引山記』に、寛政一一年から一二年にかけ、山から曳山に改造されている。

・三輪山
本座人形は、大和(奈良)の三輪山の大物主命。
三ッ鳥居の箱書きに、寛延二年(一七四九)とある。
天明元年(一七八一)、舁山から曳山に改造されている。
胴幕はイギリス製。
見送りはインド製。
と伝える。

・武内山 紺屋町
本座人形は、武内宿禰
武内宿禰がまだ幼い応神天皇を抱く。
胴幕箱に、安永六年(一七七七)と記録が残る。
寛政一一年(一七九九)の記録に「三ッ車」との記載がある。
見送り幕は文化四年(一八〇七)の作。
勾欄箱銘に、文政一二年(一八二九)蟷螂山町とあり、かっては京都祗園祭蟷螂山の勾欄であったと推定される。

・蛭子山 塩屋町
本座人形は恵比寿
水引幕に、寛延四年(一七五一)の記録がある。
水引は明和六年(一七六九)、前掛、大幕は天保二年(一八三二)の作。

・稲荷山 新町、旅籠町
本座人形は稲荷
装束箱に寛延四年(一七五一)とある。蛭子山の水引幕もこのとし調製されている。
前掛は元は文久三年(一八六三)の作で、浅葱地に雲龍繻珍綿の作だったが、平成一一年に、復元新調された
大幕は貴重な朝鮮李朝期の朝鮮毛綴。
見送りは京都・西陣作の、虎に仙人図。

・鍬山 北町
本座人形は神社にちなむ鍬山大明神
文化八年(一八一一)に見送り、前掛、水引を調製している。

□汎論
面降山の東麓に鎮座する鍬山神社の秋季大祭。
「丹」の歴史には謎が多い。丹後の元伊勢は内宮、外宮があり、神殿は三重県の伊勢神宮とおなじつくりだが、その成立は伊勢より七七年先だとされる。
景初年号のある三角縁円獣鏡の出土、浦島・羽衣伝説、丹波・丹輪(大阪南部)・伊丹の関連、出雲系の事物。丹後の国があって、丹前の国がないことなど口丹波の祇園祭として親しまれる、「口丹波」とは、丹前なのだろうか?
祭は一〇月一日から二六日におよび、一〇月二〇日は御出祭とも呼ばれ、鍬山神社より鍬山宮、八幡宮のそれぞれの御輿が御旅所に出御し、二五日の本祭まで鎮座する。
亀山郷長杉原守親が著した、延宝九年(一六八一)の「丹波の國桑田郡矢田郷矢田社之祭法」によると、鍬山神社の祭は、古くは旧暦九月一日から晦日までの一ヶ月間行われていたという。この二十四日のところに、舟造、御鉾飾とあり、同日樫舟をつくり、鉾を飾ったことがうかがわれる。舟造りとは興味ある表現で、樫舟をさす。
江戸時代後期には各町内に鉾が造られ、巡行したようで、山、鉾の曳き順は、京都の祇園祭と同じように籤引きによったといわれる。
鍬山神社は、社記によると、和銅二年(七〇九)に創祀されたといい、「延喜式」に記載される古社である。祭神は大已貴尊を鍬山大明神として祀る。
山車三輪山鉾があるが、大和大三輪神社の祭神も大已貴で、その関連もうかがわれる。
永万元年(一一六五)より、譽田神を八幡宮として併祀し、九月二九日には、藝に優れた人によって猿楽が上演、奉納されたとある。
「看聞御記」、「丹波國桑田郡矢田社之祀記」などによると丹波猿楽の本座としても隆盛をきわめたようである
天正四年六月、明智光秀が桑田郡に入って亀山城を築いたが、このとき鍬山神社の祭礼はことごとく廃止された。また祭礼の廃止にあわせて神樂、競べ馬、相撲、猿楽などの祭に関わる娯楽も一切癈された。しかし、明智光秀はこのわずか六年後の天正一〇年六月二日、本能寺に織田信長を討ったが、つづく山崎の合戦では豊臣秀吉に破れ、亀岡は秀吉の支配となり、亀山城主には養子の羽柴秀勝(織田信長の四男)がはいっている。
その後歴代の城主は、神領を寄進するなど崇敬も厚かったが、岡部長盛の城主のとき、鍬山宮、八幡宮の社殿を造営し、慶長一五年(一六一〇)には猿楽が復興された。
神官は別当職として菱田氏をおき、のちに僧舎一棟を建てて僧侶に神事を行わせたが、僧坊は大智院といった。
「引山記」によると、鍬山神社の祭は、表番と裏番があり、城主が在国の表番の年は、御輿や曵山を城内まで曳き入れて上覧に供し、城主が江戸詰めで裏番となる不在の年は、御輿のみ御旅所まで渡御され、曵山は出なかったとある。
「旅籠町会議所所蔵文書」には亀岡祭の山車は舁山四臺、曵山六臺、飾山一臺(もとは曵山)の十一臺が記録される。
既述のように、亀岡祭には延宝九年(一六八一)風流の「樫舟」を曳き、船中には南社前の榊(賢木)をたて、十人の楽人が大鼓、笛、鼓で楽を奏し今様を謡い、曳く方向を操舵する木挺は四人、曳子は十六名であったと記録される。現在見られる舁山や山鉾よりも前に「樫船」とよぶ曵山があった。
杉原氏の写生図が、四季の祭と年中行事に転載されているが、その挿画には龍頭の船首、四輪の車輪を持つ山車で、船腹は幕で覆い、下部の幕は波模様が描かれている。
その上を覆う幕には大きな鳥(鳳凰か?)が描かれる。唐破風の屋根を持つ御殿風の造りであったようだ。
花氈は花毛氈ともいわれるが、稲荷山の御装束箱の箱書きに「寛延四年未年九月吉祥日」とあるのがもっとも古い記録で寛延四年は(一七五一)にあたる。
高砂山の御人形箱ならびに道具入箱には「宝暦五乙亥歳九月」(一七五五)。
三輪山の御装束箱に「宝暦七年丑九月寄寄附」(一七五七)。
八幡山は建造記録があり、「宝暦十三年癸未年九月、新たに山を造営して八幡山と号奉る」とあって、いずれも九月になっているのはその年の祭に、はじめて用いられたことを
示している。


00066 飛騨総社祭

2007年06月27日 | 日本の山車
00066 飛騨総社祭
岐阜県高山市神田町
飛騨総社
□祭は五月上旬
山車(樂臺)がある。現在は曳かず飾り付けのみが行われている。

□山車(樂臺)
・飛騨總社神楽臺
創建はは田中大秀の起案。下一之町の大八対と同じように和式意匠でまとめられる。
嘉永六年(一八六〇)の改修により現在の形になったといわれる。
工匠は、根付彫刻で著名な松田亮長(まつだすけなが)。亮長は名工として知られるが、これも名工谷口與鹿と合作した、本町の應竜臺が火災で焼失したため、山車に名をとどめるのはこの神楽臺のみである。
切破風の屋根で、太鼓は昇降する。
神楽臺は山王祭、八幡祭、東山白山神社にそれぞれ一臺があるが、いずれも露座に太鼓をおいたもので、屋根のある神楽臺は高山ではこの屋臺のみである。
天井の雲龍の画は垣内雲鄰。
屋根飾りは「常世の長鳴鳥」
上段勾欄には源氏物語のなかの音楽に関係のある各巻々の絵が画かれる。
昭和四十七年修理された。
下段には富士、鷹、茄子の彫刻。
見送りは岩と花に獅子が配される。朝鮮毛綴れといわれる。
上臺の屋根は朱色の柱四本でせりあげる。
群雲に金色
桝組
群青色に塗られる雲形
軒は五三の桐透かし彫
銀の玉を紐にとおしている
上臺の柱は朱塗、雲形に透かし金具付
軒裏には朝顔
千木は朱色
鰹木は五
屋根には金地五三の桐
勾欄は黒漆塗
両端は跳ね上がる刎勾欄
中臺の勾欄は角勾欄ではねない
下段
白木の紋
白網代
縁は梨地で研ぎ出し
正面の欄間は
左は緑色の龍
右は青龍
角形に意匠されている
中央には金の宝珠
剣先には青雲が上を取り巻く
正面勾欄の画は
右、白梅 二
左、白藤と藤
右、撫子
左、小菊、野紺菊に紋白蝶 三、
右、烏瓜
左、宮城野萩
後ろ、
右、紅葉
左、すみれ、と、すぎな

藤袴
朝顔

山桜、白、桃の花
白梅に鶯
画には、源氏香が描かれ、源氏物語各段の草花の画と関連づけられている
上臺
軒裏は群青地に白雲
太鼓
大太鼓
縁は仕法どおり、剣先四十七で囲む
台枠は雲
さらに内側には瑞雲
軒以下柱までは朱塗
屋根下は御簾
緑布により縁取
見送りは中臺で枠を止める
上臺の勾欄は黒塗
曲げて平桁に結ぶ
中は筋交いとし金地仕上
金具は桐づくしと、菊唐草
下臺
側面は唐木仕上
縁は菊唐草透かし彫
屋根と太鼓は同時にせり上げられる
屋臺の入口は後部にあり黒漆塗の柱と、上面を緩く彎曲させた枠に左右にあける二枚の障子で、併せた中央部には朱色格子が組まれている
地には獅子と牡丹が描かれる
金具は平金具
菊唐草
正面は菊
下臺框上の金具のみ桐
大屋根軒裏の朝顔は赤、白、黄色
屋根の五七の桐は金箔うちだし
勾欄正面は開口して(左右を蕨手に曲げる)
正面に白幣一本をたてる
車輪は四
欅材で研ぎだし
画は地元の画家、櫟文峰(あららぎぶんぽう)
太鼓は瑞雲
臺輪上の框板は上面を曲面処理で仕上げする
木鼻は鉄の金具をはめる。側面は曳綱用の円環がとりつけられている
勾欄の地板は桐材が用いられている。

00062 高岡御車山祭

2007年06月27日 | 日本の山車
00062 高岡御車山祭
富山県高岡市末広町
関野神社
□祭
四月下旬-五月上旬
山車(御車山)七臺を曳く。

□山車(花車)
・坂下町
標旗と源太夫獅子が、露祓いとして神幸の先に立つ。

・通町 鳥兜           
鉾留は鳥兜
天保四年の作。昭和五年に中山久勇、中山久作が復元。
本座人形は布袋と唐子。布袋は明治34年に本保喜作が復元。唐子三体は辻丹甫の作と伝える。後屏は辻野伊右衛門と久右衛門。幕は白羅紗地剣梅鉢文本金糸刺繍。
からくりは唐子が「大車輪」を行う。

・御馬出町(おんまだし)
鉾留 胡□(文字なし=たけかんむりに禄・「やなぐい」)
本座人形は「佐野源左衛門」。天保一三年(一八四二)に仏師山本与三兵衛により復元された。

・守山町 鈷鈴
鉾留は御鈷鈴。
本座人形は恵比寿。
幕は岸駒の下絵により、昭和五五年に復元した「緋羅紗地波濤文刺繍」。

・木舟町 胡蝶
補助留 胡蝶。明和元年(一七六四)飯野仁兵衛の作。
本座人形(神座)は大黒天と唐子、宝暦年間(一七五一ー一七六三)辻丹甫の作。
幔幕は昭和七年に京都、「朱地綴織宝珠模様刺繍」。
からくりは太鼓叩き童子。

・小馬出町(こんまだし) 
鉾留 諌閑鶏(太鼓に鶏)。諌閑鶏は宝暦三年(一七五三)、辻丹甫の作。
本座人形(神座)は猩々と猿。
幕は昭和五六年に復元「春秋舞楽模様綴織」。
からくりは猿の太鼓叩き。

・一番街通(一番町、三番町、源平町) 金鐘           
鉾留は鐘。播州高砂尾上の鐘を模した金の釣鐘。
本座人形(神座)は尉と姥。
幔幕は昭和五〇年、京都で復元「朱地綴織剣梅鉢文本金欄刺繍」。

・二番町 桐           
本座は熊野神。
車輪は六町が四輪、二番町の山車だけは二輪。
木彫、漆芸、金工、染織など伝統工芸の粋をあつめる。
高岡漆芸
金工は名高い安川乾清はじめ多数の地場の名工によって仕上げられている。
心柱の後部を本座という。
各町ごとに各々恵比須や布袋などの祭神人形を飾る。
前部を柏座といい神賑わいといって機巧(からくり)の遊び人形を飾る
ひげこの「ひげ」は三六本あり、上から赤、黄、赤、白、赤の順
大輪の御師祖花を飾り、その上は鉾留がつけられる。

□参考
高砂
謡曲高砂尉と姥の詞章
今を始めの旅衣、日も行く末ぞ久しき。そもそもこれは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。 われいまだ都を見ず候うほどに、このたび思い立ち都に上り候。 またよきついでなれば、播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。
高砂の、松の春風吹き暮れて、尾上の鐘も、響くなり。
波は霞の磯がくれ、
音こそ潮の、満干なれ。
誰をかも知る人にせん高砂の、松も昔の友ならで、
過ぎ来し世々は白雪の、積り積りて老の鶴の、ねぐらに残る有明の、春の霜夜の起居にも、松風をのみ聞き馴れて、心を友と菅筵の、思いを述ぶるばかりなり。 おとずれは松に言問う浦風の、落葉衣の袖添えて、木陰の塵を掻こうよ、木陰の塵を掻こうよ。 
里人をあい待つところに、老人夫婦来れり。 いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。
こなたの事にて候うか、何事にて候うぞ。
高砂の松とはいずれの木を申し候うぞ。
ただいま木陰を清め候うこそ高砂の松にて候らへ。 
高砂住の江の松に相生の名あり。当所と住吉とは国を隔てたるに、何とて相生の松とは申し候うぞ。
仰せのごとく古今の序に、高砂住の江の松も、相生のように覚えとありさりながら、この尉はあの津の国住吉の者、これなる姥こそ当所の人なれ。 知ることあらば申さ給へ。
不思議や見れば老人の、夫婦一所にありながら、遠き住の江高砂の、浦山国を隔てて住むと、言うはいかなる事やらん。
うたての仰せ候うや。 山川万里を隔つれども。互いに通う心づかいの、妹背の道は遠からず。
まづ案じても御覧ぜよ。
高砂住の江の、松は非情の物だにも、相生の名はあるぞかし。 ましてや生ある人として、年久しくも住吉より、通い馴れたる尉と姥は。 松もろともにこの年まで、相生の夫婦となるものを。
謂れを聞けば面白や。 さてさて先に聞こえつる、相生の松の物語を、所に言い置く謂れはなきか。
昔の人の申ししは、これはめでたき世の例(ためし)なり。
高砂というは上代の、万葉集のいにしえの義、
住吉と申すは、今この御代に住み給う延喜の御事、
松とは尽きぬ言の葉の、
栄えは古今相同じと、
御代を崇むるたとえなり。
よくよく聞けばありがたや、今こそ不審春の日の、
光和らぐ西の海の、
かしこは住の江、
ここは高砂、
松も色添い、
春も、
のどかに、
四海波静かにて、国も治まる時つ風、枝を鳴らさぬ御代なれや、逢いに相生の、松こそめでたかりけれ。
今は何をかつつむべき。 これは高砂住の江の、相生の松の精、夫婦と現じ来りたり。
不思議やさては名所の、松の奇特をあらわして、
草木心なけれども、
かしこき代とて、
土も木も、
わが大君の国なれば、いつまでも君が代に、住吉にまず行きて、あれにて待ち申さんと、夕波の汀なる、あまの小舟にうち乗りて、追風にまかせつつ、沖の方へ出でにけりや、沖の方に出でにけり。
さあらば方々の船に乗り、住吉へ参ろうずるにて候。
高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。われ見ても久しくなりぬ住吉の、岸の姫松幾代経ぬらん。 睦ましと君は知らずや瑞垣の、久しき代々の神かぐら、夜の鼓の拍子を揃えて、すずしめ給へ、宮つこたち。
西の海、あをきが原の波間より、
あらわれ出でし神松の、春なれや、残んの雪の浅香潟。
梅花を折って頭に挿せば、
二月の雪、衣に落つ。 ありがたの影向や。月住吉の神遊び、御影を拝むあらたさよ。
げにさまざまの舞姫の、声も澄むなり住の江の、松影も映るなる、青海波とはこれやらん。
神と君との道直に、都の春に行くべくは、
それぞ還城楽の舞。
さて万歳の、
小忌衣、
さす腕には、悪魔を払い、納むる手には、寿福を抱き、千秋楽は民を撫(な)で、万歳楽には命を延ぶ、相生の松風颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ。

□問い合わせ
高岡市観光物産課
電話0766-20-1302


00055 村上大祭

2007年06月25日 | 日本の山車
00055 村上大祭
新潟県村上市
西奈弥羽黒神社
祭は七月上旬
山車(おしゃぎり屋臺、俄(仁輪加)屋臺)一三臺を曳く。

□山車
・安良町
曳順九番
本座に松の木をたてる。住吉をあらわす。
見送りは相打つ龍虎。
安永三年の建造。一説に安永二年。
安政三年再建された
棟梁、稲垣又八。又八は有磯周齋の弟。
彫刻の一部は山脇三作(近代の名工といわれる、山脇敏男の祖父)。
囃子屋臺
傘鉾がある。享保十五年庚午(一七三〇)六月吉日とあり、下げ物は能面尽くし。
もこう(水引)は緋の呉呂服(ゴロフク)
ゴロフクは梳き毛織物の一種でオランダ渡り。
裏地は絹の紬。
元文三年の再調。
囃子は二上がりの祇園囃子楽くずし。
「序、破、急」の調和がよいと定評がある。京都より伝えられたという。

・羽黒町
曳順一四番
仁輪加屋臺
本座に茶摘娘が乗る。
村上を象徴する産業の北限の茶村上市は茶栽培の北限とされる。
江戸時代、元和年間村上に茶の栽培が始まる。
文化四年、仁輪加屋臺ができはじめて曳いた記録がある
現在、おしゃぎり屋臺を建造中。

・塩町
曳順六番
しゃぎり屋臺本座人形は猩々。能楽の猩々人形が乗る。
明和七年から三年をかけ建造された。
現存する村上の屋臺では二番目に古い。
天井、勾欄など古い形をとどめている
見送りは亀
日覆い飾り水引、前庇や本座臺の貝尽し。
下段廻り縁の波の彫刻は見事
猩々の人形は文政四年(一八二一)にあらためられた。

・加賀町
曳順一八番
仁輪加屋臺
舌切り雀のおじいさん。岐阜県高山市上一之町の三番叟は以前、、恩雀といい、日本昔話の舌切雀のからくりがあり、翁と名を変え、三番叟に移行している。
文政年間屋臺を保有していた記録がある。
昭和六三年の再建。

・久保多町
曳順一番
大阪市住吉大社の景色を表現しており、太鼓橋、鳥居などの住吉大社が表現されている。住吉大社の屋臺が一番を曳くのは、村上市発展の歴史に関わりがありそうである。
お囃子屋臺
車輪の羽根は七。
寛延三年に花車が出来、文化四年(一八〇四)に建造され、文化九年(一八〇九)に再建されている。
工匠は、細工町の稲垣源左衛門。

・細工町
曳順八番 囃子屋臺。
本座人形は三番叟。
人形は村上藩士の白沢彦左衛門の作。
屋臺は再建で、簡素な能舞台の形式で、能舞臺を模している。初期のものは文化年間にはあったといい、文化八年、曳行中に破損し、修理のため、翌九年には曳かれなかった記録がある。
大正一三年昭和天皇のご成婚を記念し、前の屋臺と同じ形に再建された。
素木造。

・肴町
曳順一二番 しゃぎり屋臺
本座人形は大鯛に乗る恵比須。
肴町は、城主の堀丹後守より肴商いの免許を得ていた。町名もこれにちなむ。
宝歴十年の建造。
現存する村上の屋臺の中では一番古く、天井、勾欄などに古い形が残る。

・寺町
曳順三番
本座人形は仙人の費長房で、鶴に乗り飛翔する。同じ例が長野県小布施町にあり、葛飾北斎記念館に展示されている。
寛政元年(一七八九)の建造で、文化三年に修理が行われている。
『啓齋翁日誌』に、「今日、寺町の仕組車、鳥居前にて清祓いたし、神前へ披露いたし候なり」とある。
仙人「飛鳥坊」とあるのは「費長房」のことである。
勾欄は十二支に因み、
蕪に鼠
波に兎
雪輪に犬


下臺欄間は蟠龍
上がり段の波彫刻
前庇の槌を水車状に配する元禄模様
上段勾欄上の擬宝珠柱は真直。
屋臺全体はやや小ぶりである。

・小国町
曳順一番しゃぎり屋臺
本座人形は二十四孝の孟宗。京都祇園祭の孟宗山をはじめ各地に例が多い。
享保一八年には曳かれた記録があり、安永四年再建された。
本座人形の孟宗は、寛政六年京都で製作されたもの。
平成七年に解体修理が施された。

・小町
曳順五番 しゃぎり屋臺。
本座人形は大黒天。黒い顔の大黒天で親しまれる。
この大黒天は、仏教天部の尊像で、大国主の尊ではない。
組内には、人形が二体あるが、一体は、肩に掛ける
袋が小さく、古い形の大黒天である。
延享はじめまでは、象の飾物の乗る屋臺だったという。
延享二年乙丑の建造。このとき本座人形は「大黒天」になった。
文化二年に再々建造。
工匠は、山脇杢平、香川奥助、塗師、佐藤甚助。
この屋臺にはギャマン、玉が使われていたといわれるが、明治五年九月二〇日の火災で焼失したのが惜しまれる。
火災を免れた天井板、擬宝珠柱、前庇の支えなど今もそのまま使われている。
近年、田端町の細野鋼六により、彫刻や塗装が施された。
現在の屋臺は四代目にあたるという。、
組内の稲垣氏にはいろいろ貴重な資料をいただき懇切な説明をいただいた。誌して謝意を伝えたい。

・庄内町
曳順一五番 仁輪加屋臺
本座人形は忠臣蔵の大石内蔵之助。
元文三年荒馬の乗子の衣装を再製した
はじめにつくられたのは俄屋臺で、文化十年の建造。平成七年に再建されている。
傘鉾と荒馬十四騎があり少年たちが騎馬姿で参加する。

・上町
曳順七番 しゃぎり屋臺
本座には梵鐘がのる、正面に、「羽黒山大権現」の銘がある木製で、、寛永十年の銘がある。同じような作例に富梵は神聖、清浄の意だといい、富山県高岡市関野神社の御車山祭に梵鐘がのる山車が曳かれる。
屋臺の創建は享保五年といわれ、嘉永三年再建された。
工匠は、名工を謳われる有磯周齋で、この屋臺を建造するため町内に越してきたという
下段柱は龍門の瀧、鯉が滝を昇るところを籠彫にする。
日覆飾は図案化された双龍。
古い飾物の梵鐘があり、正面に「諸願成就」内面に「享保五年庚午(一七二〇)六月吉日 村上町大工佐七、大工百五十人 塗師百一人 木挽二十人……」の記録がある。
町内に傘鉾があり傘の上には「倶利加羅明王」がつく。下げ物は、寶鐸、唐扇、巻物、塗籠など。

・上片町
曳順一七番 囃子屋臺
本座人形は天鈿女命。
屋臺の構造はしゃぎり屋臺と同じ形で、以前は仁輪加屋臺だったといい、昭和九年に再建されている。

・泉町
曳順一九番 仁輪加屋臺
二宮金次郎
大正一三年に曳かれた記録が有り、平成四年に再建された。

・大工町
曳順四番 しゃぎり屋臺
本座人形は高砂で祝能に題をとる。
神主が相生の松の精である尉と姥に会い古今の松の神秘を聞く場面。高砂も住吉大社とゆかりがある。
年寛政七年の再建。以前に屋臺があったと伝えられ、
工匠は、稲垣源右衛門、鈴木金右衛門。
棟梁をつとめた稲垣源右衛門は藩の御用大工であった。
彫刻は稲垣八郎兵衛。板垣伊平。
塗師、山中佐七らによる。
内側の見えないところを中刳りし、屋臺を軽くする工夫がなされている。
寛政七年時屋臺を建造したときの記録「寛政六年寅八月吉日 祭禮車普請出入帳」が残る。
旧屋臺は瀬波仲町に売却している。記録に、
「一、金百八拾貫文、車売銭。これは寅八月町内相談の上、瀬波中町へ売り払いこの代銭をもって新車出来つかまつり候」とある。

・大町
曳順二番
本座に諫鼓鳥が乗る。諫鼓鳥が乗る山車は江戸天下祭の一番山で、各地に例が多い。
寛永一〇年は、屋臺の祖型が出来た年と伝えられ、祭礼に曳かれている。
文政六年(一八二三)に再建。
工匠、棟梁は、稲垣治平。
このときの屋臺には、勾欄にギャマンがのっていたという。
諫鼓鳥の太鼓の胴に巻いた緋羅紗には九龍の刺繍が施され、龍の目には玉が使われていた明治五年の火災で焼失し、その後、再建された
棟梁は長井町の高田耕平。

・鍛冶町
曳順一一番 しゃぎり屋臺
本座は 二見浦
寛政四年に建造された
彫刻、色漆、金箔で仕上げられている。

・長井町
曳順一三番 しゃぎり屋臺
本座人形は布袋和尚
村上では唯一のからくりがある。操りを行う人が人形の中に入って操作し、布袋は。首を振り舌を出す。
寛政一二年の建造
天井、日覆いのない露座式の屋臺だったといわれる。
明治元年に再建された。
工匠、棟梁は、高田耕平。

・片町
曳順一六番 囃子屋臺
構造はしゃぎり屋臺と同じ形
以前は仁輪加屋臺だった
昭和八年の再建である。

□汎論
村上藩政期には早い時期に山車が建造されている。肴町の曳順一二番を曳く、 しゃぎり屋臺は宝歴十年の建造といい、村上の山車の中では一番古いといわれるが、記録では享保期までさかのぼる。
山車は、しゃぎり屋臺と俄(仁輪加)屋臺に二大別される。がいずれも屋臺囃子にちなんでいる。全国に「しゃぎり」を行う山車は、岡山県の倉敷市、岐阜県岐阜市なではいまも演奏が行われている。
西奈弥羽黒神社は山形県の羽黒山の分祀であるが、社前の社號石は越前の古社のもので、表面を削って彫りなおしたという伝承がある。
村上市は堆朱(ついしゅ)が特産で、山車にもふんだんに堆黒工芸の優れた技が見られる。富山県氷見市の地蔵組の山車にも優れた技術の堆朱が施されている。相互に関わりがあるかもしれない。
市内には堆朱の店が数件あり立派な工芸品が販売されている。文箱からイヤリングまで、女性にも人気があるようだ。
山車は前後をあおり、蛇行しながら囃子にあわせて優雅に曳かれる。
梅雨明け前にあたるため、しばしば雨に祟られる。川原に用意された駐車場であめのあがるのを待っていたらあっというまに増水し、危うく水没を免れるという椿事があった。

□問い合わせ
村上市商工観光課
電話0254-53-2111


00052 犬山祭

2007年06月24日 | 日本の山車
00052 犬山祭
愛知県犬山市
祭は四月上旬。
針綱神社
山車一三臺を曳く。

□山車
・遊漁神 枝町
当初は雪丸げの練り物で、一六七四より「石曳車」になり、一七一五より踊山となった。その後、犬山城番佐藤金平により再建され「恵比須の鯛釣」のからくりを行う山車に変わった。
この山車(車山)は黒塗り。
切妻屋根で、天井は竹の網代、幕は木綿地、水引により装飾されていた。
その後、屋根は唐破風となり大幕や水引幕には金箔押しの模様がつけられ、錦、金襴、羅紗地などに絹糸で刺繍したものとなった。
からくりが行われ、恵比須神の人形が荒磯の岩の上に腰を下ろし」鯛を釣っていると、唐子人形が恵比須の方へ魚を招く、恵比須の前に大鯛や小鯛が集まってきて姿を見せはじめ恵比寿は見事に大鯛を釣り上げ、唐子はそれを抱き抱えて喜ぶ。目鼻口が同時に動く工夫がなされており恵比須の表情が楽しい。
・真先(まっさき) 魚屋町
一六三五に茶摘みの練り物を出したのがはじまりで、一六四四よリ枠臺程度の曵山となった。一六八九町内の大工木村傳助により山車(車山)が建造された。
一七四四息子の源右衛門の手が加わり今見られる形がほぼ整った。
からくりが行われ、以前は「日蓮上人の星下り図」であったが、一七七四に人形師竹田藤吉により乱杭をわたる人形が付加された。このからくりはそのまま現在に伝えられ他に例を見ないものとなっている。
一八〇五に心棒が破損し、このとき高さや幅が縮小された。
臺名の「真先」はかってすべての山車の先頭を曳く一番車山」だったためだという。 からくりの所作は、日蓮の人形が礼拝を終え曲碌に坐り、頭が下がると天上の星が割れて天女が現れる。天女の唐子が浮島にある乱杭をわたり梅の木に掛かるギリに飛び移って遊ぶというもので、何の支えもなく乱杭をわたる技は見る人を驚嘆させる。
みごとな離れからくりの妙技である
・應合子 下本町
祭礼に参加したのは一六三五からでそのころは「馬の塔」や「聖」の練り物が出されていた。山車(車山)となったのは一六四一で、からくりは「蜘蛛の舞」であった。
幕も次第に立派な織物が使われるようになり、大幕は猩々緋に。水引幕は錦になった。
からくりには唐子人形が加わり「唐子のからくり」とよばれた。
一七七五に文吉離蔵によって唐子の大人形が小人形を肩に乗せるからくりが作られ、今見られる原型ができた。
一八四〇大改修が行われ山車(車山)藏も該らしく造られた。この藏は今も山車備品の収蔵庫として使われている。
その後一九七九に修理がなされ、天井裏の墨書きが見つかった。「犬山里語記」の著者肥田久吾が一八三六に記したもので、この記述には、
他の車山が屋根の上に「梵天」(ぼーでんとよびならわす)をつけているが、この町内の山車(車山)にはそれがないとある
からくりがあり、大人形が小人形を肩車の上にのせ「舞竹」のところまでゆくと、小唐子がそれに掴まり下がる。子人形は二回転すると、再び大人形は小人形を肩に乗せて戻る
大人形と小人形の離合の妙技、離れ業が見所である。
・西王母 中本町
一九四九より山車(車山)が出ている。当時のからくりは「龍門の瀧」だったが、その後西王母に変わった。
さらに一七七六年、人形師の竹田藤吉により「西王母唐子遊びの綾渡り」のからくりとなった。臺名の西王母もこれに由来する。人形の衣装が右前となっているのが不思議である。山車(車山)中臺(中山)の勾欄は、一八一四と一八四〇に修理され、一九七六に再修理されて現在に至っている。
楽太鼓は一八三五当時のもので、これは今も使われている。
一八六七に作られた水引幕は刺繍に優れ、「全国刺繍大会」に特別出品されたこともある山車(車山)の車輪は他の町内の作り方と異なっており木口全体を円周に対して直角になるようになっている。これは車輪の摩耗を少なくし、かつ摩耗が均一になる効果がある
という。
からくりがあり、大人形の西王母が千年に一度実がなる桃を、唐子に取ってくるよう指示すると、唐子は桃の木の枝から、枝にわたり、最後にギリに掴まっておりると、「瑶臺」と書かれた軸を掲げる。

・住吉臺 熊野町
当初は佐夜姫(佐與姫、小夜姫、作用姫)の練り物だったという。佐夜姫がのる山車は岐阜県の可児市にもある。
一六四九より山車(車山)となり、一六七五年に町内の工匠源七により改造されからくりも「大黒天」から「丞相」に変わった。
一七七九年に工匠忠八郎によえう修復が行われ、「是善郷、天より子を貰ひ給ふ所」に変えられた。
その後車山の塗装を塗り替えし、一八二四に、工匠吉右衛門、木挽三次、彫物師公勝、漆屋和助、徳兵衛らにより再建された。これが今の車山である
臺名は「住吉と白楽天」の戯作をよりつけられている。
からくりはあり、能楽の「唐の白楽天と老漁夫の知恵問答に因んだもの。
天井板に「叶 千鶴 萬歳 千亀」が天地逆にかかれているが、なぜ逆なのか謎とされている。
からくりは、笛の合図で住吉人形と白楽天人形が舞ながら問答を始める。そのうち住吉は心境に、白楽天は斜塔に変わるその変身の早さが見所になっている。

・浦島 新町
一六五〇年ころより大母衣、小母衣の練り物をだし、一六八三年からは、大母衣が廃されて小母衣のみとなったとある。このほか差物に軍配があったともいう。
これは町内の大阪屋吉次方にあったものを借用したもので、豊臣秀吉からの拝領品といわれている。
小母衣は大人が演じていたものが子供に代わり、子供の母衣武者となった。さらに幟のみの参加の時代を経て「花車」が作られ、山車(車山)が作られ、一八一一年には黒船が作られた。のちに他の町内と同じよううな山車(車山)が作られ、一八七三年に名古屋から山車を譲り受けて改修を加え、ふたたび「黒船」と改名した。一八八七にはそれまでの二層だった黒船を三層に改造している。
臺名「黒船」は山の形より名付けられているが、全体の遠見の形が鶏に似ていることから「鶏車山」の愛称がある。
からくりがある。浦島太郎伝説に因み、浦島太郎の人形が亀に乗って貝のところにゆくと貝が割れて中から乙姫がでてくる。乙姫が玉手箱を浦島に渡し貝の中に戻る。浦島太郎はこれを持ち帰り、玉手箱を開けるとたちまち翁に変わる。

・咸英 本町(上)
一六五〇年には巡礼の練物を出している。その後、唐人の練物に代わり、一六九九年には踊山となり、一七四五から、山車(車山となった。このとき始まったからくりは「七福人であったが、竹田藤吉により「唐子遊び」となり、現在まで承継されている。
山車(車山)は、一八〇五年に再建。一八六五年、工匠広瀬清七ほかにより、再々建された。
中臺(中山)の勾欄は貴重な紫檀製で、明治のはじめ横浜まで出向いて一万両で購入したといわれる。
上臺(上山)下臺(下山)の琵琶板には堆朱が施されている。
下臺(下山)の突き出し部は山柿と花梨が用いられる。
臺名の「咸英」は「とりわけすぐれる」のいといわれる。
からくりがあり、三体の唐子人形により人形戯が演じられる。 中央にある挽臼(蓮台)の上で唐子人形が左片手で逆立ちするが、この見事に決まった逆立ちの形は「鯱」をあらわしている。さらに右手で小太鼓を打ち首を振る。一体の大人形は鉦子を打ち首と芦を動かして行き来する。

・國香欄 練屋町
一六五〇年に「鷹匠」の練物を出したのに始まり、一六八三年に山車(車山)が作られた一七四二年に矢場町の甚四郎が、からくりで動く文殊菩薩を作った。このとき山車(車山)は三層になっている。
からくりがあり、
能楽の石橋によせて、当時の人形によるからくり戯が行われる。
山車(車山)は一八〇三年、山車の下臺(下山)に張出部が作られ、一八一五年には、工匠の岩蔵により車輪が新造されている。
一八四二年、上臺(上山)に鶴。、中臺(中山)に龍。下臺(下山)に獅子の彫刻が付加された。この彫刻は彫り込みが深く、ふたつとないの意味で「無双彫」といわれ、山車(車山)の四方を飾る。
この山車(車山)には他の山車に見られる中幕正面の大房が懸けられていない。これは幕そのものが「魔除け幕である」という言い伝えによるという。
夜山車の提燈には「奇妙樂」と書かれているが、これは山車囃子が「奇にして妙れなる音色」と評されたことに始まるという。
からくりがあり、文殊人形と唐子人形が楽の音とともに操られる。前の唐子が牡丹の花を手にして喜び踊る。その牡丹を花台に挿すと中から獅子が飛び出す。最後に文殊が軍配を?手に唐子を讃える。

・壽老臺 (ある資料に石橋とあるは誤り) 鍛冶屋町
一六五一年にお伊勢参りの練物をだし、一六七〇年には御座船の車に変え、一七〇二年には踊山となった。このころ犬山城主より拝領した緞子の大幕を懸けていたといわれる。
また、町内の人たちより武具を飾ってはどうか、と提案がなされたが、たとえ一刻たりとも、武士が武具を手元より離すことはないと意見が出て、流案になりかけた。ところがこれを聞いた旗本の片見久右衛門は、わしは隠居の身で、すでに家督を譲り、一線を退いたものであるからといい、一国の総鎮守たる針綱神社の祭に用いられるなら、と快よく自らの武具を一式貸し与えたので、町内の人たちはよろこんでこれを飾ったという。 その後三層の車山となり、一七七二年には大規模な修理がなされた。
しかし、老朽化が進み、傷みがひどくなったため一九〇三年に、まったく同じ形で、あらたに復元改臺がされた。
この山車(車山)は、擬宝珠以外いっさい金具の装飾品を用いず、また塗装もされない
「素木づくり」であった。このとき、請われて尾張一宮の石刀神社の氏子の馬寄に旧臺が譲られた。
一宮市今伊勢町の「大聖車だいじょうぐるま」と名を変えているのがそれである。
一宮市では市の指定文化財に指定し、現存する。
臺名の「壽老臺」は、からくり人形が、七福人の一人である「壽老人」であることからつけられている。
しかし、もとは「石橋壽老臺」であったという。古い記録では、「石橋」と書いたものも見られる。練屋町の「國香欄」に石橋のからくりがあることから、混乱を避けるため、壽老臺」とよぶようになったのだともいわれる。
楽にあわせて文殊の人形が左右に舞う、左手の箱を正面に移動し割ると、中から唐子がとびだす。文殊の人形は、獅子にかわり(獅子の面をつけ)咲き乱れる牡丹にたわむれながらにぎやかに舞う。

・ほう(=文字なし)英 名栗町
一六七四年に太神楽を出し、一六八九年より山車(車山)となった。
最初からくりは「布袋和尚」で、のち「時平公」に代わった。
現在のからくり人形は、一八六九年に、人形師の土井新三郎、仕立物師岩田屋和七によりつくられた。
水引幕はその五年後の一八七四年、人形に併せて冠、笏、軍配、太刀を羅紗地に金糸で縫い取りがされた。
臺名の「ほう英」は優れた縫物の意であるが、別に「こうえい」という呼び方がある。
ほう英の転訛とか、誤称ではないかなどの説もある
からくりがあり、菅原傳授手習鑑にちなむもの。始めた頃は名古屋から師匠を招いて学んだという。
山車囃子は独特の「名栗町車山囃子」がある。
からくりがあり、時平人形が正面奥に坐り、頭と手を動かして前に据えてある梅鉢の花を散らせる。菅承相は、右手に持つ軍配を投げ捨て梅の枝を折って差し上げると、残った花が満開となる。童子は喜び梅を抱いて舞う。

・老松 寺内町
延宝二年(一六七四)大きな雪の玉を模した作り物に松や竹を添えたとある。
「雪丸臺」また「木綿山」ともいい舁山の「雪丸げ」を出したが、のちにこの「雪丸げ」に車をつけ、雪掃きの箒を持った子供が十人ほど先行して曳かれるようになった。
天保元年(一八三〇)には、今見られるような三層構造の車山なった。このとき、上臺(上山)に脇能の謡曲「老松」をとりいれ、松をたてるようになった。
この松は標山(しめやま)としてそれウ全よりあったという説もある。臺名はこのときに命名された。謡曲の老松をとりいれたのもこの松にあやかったからであろう。もしそうなら、標山として松をたてる古い形態を継承していることになる。
天保四年(一八三三)からくりの「淡路島」が始まった。 能楽の謡曲「淡路」に因むもの。
題を神話の伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみの「国生み神話」にとり、巫女舞が行われる。このため、この車山には、「巫女車」、「神子車」の別名がある。
中臺(中山)に、金の鯱がつけられているのは他の車山に例を見ない。
山車(車山)には随所に巧緻な「螺鈿細工」がほどこされている。
からくりは、曲にあわせて巫女が左手に鈴、右手に金扇の採物をもって舞う。巫女の舞が終わると、神人の人形が二回転し、一瞬の間に社殿に、巫女は鳥居に変わる。そしてまた、元の人形に戻る。人形が社殿に変わるからくりは岐阜県の大垣市にもある。
・寶袋(ほうてい) 余坂町
一六七四年ころには馬の塔を二塔出していたが、この二年後「山伏の練物」に変わった。一八一三年に練り物に代わって、山車(車山)が作られた。
からくりは二福人といわれるが、一説には山伏と比丘尼だともいう。
一八四二年、大火のため余坂町は罹災し、山車(車山)もこのとき失われたが、二八年後の(一八七〇)再建された。

江戸時代には「二福人」とか「大黒車」などと呼ばれていた。
夜曳かれる山車(車山)の丸提灯には「二福人」と書かれている。
中臺(中山)の人形は「きふり人形」で、真っ赤な長い舌を出し入れする滑稽な名人形は「余坂のべろだし」とも呼ばれ、親しまれている。
「寶袋」は塗装を施さない「素木(白木)づくり」で、このような山車(車山)は他には鍛冶屋町があるのみである。
臺名に因んだからくりが行われる。大黒人形が宝袋を前に、左右に動き、大黒が正面を向くと、早笛とともに右手の小槌を振り下ろす。宝袋は二つに割れ、中から舟に乗った恵比須が現れる。恵比須は扇を開き大きく煽る。大黒はそれを見て大きくうなずき、喜びを表す。

・梅梢戯 外町
一六七四年より山車(車山)を出している。当初は牽牛、織女の「七夕二つ星」であった。
一七五六年に車輪を更新している。
「梅梢戯」は山車の曳順で最後を曳くのが慣わしとなっている。山車の曳順は、毎年決まっているがこれは山車の建造順とは異なり、巡行届けの順である。
臺命に因んだからくりがあり、一八二六年まで「七夕」が演じられていた。翌一八二七年に「梅渡りのからくり)が人形師の玉屋庄兵衛により作られた。人形の衣装は伊藤店(現在の松坂屋)で作られている。
囃子にあわせて中唐子と小唐子が正面に向かって一礼する。中唐子は梅の木のそばで遊んでいるが、小唐子は台にのり梅の木の中ほどで左手をついて逆立ちし、枝に懸けてある太鼓を首を振りふり叩く。
唐子がさかだちするからくりは、愛知県武豊町小迎でも行われる。、

□汎論
犬山では「車山」と書いて「やま」と読む慣習になっている。記録をひもとくと、三層構造の曵山ではもっとも起源が古いと考えられる。いまは曳かれなくなった山車(車山)が犬山市文化会館に保存と展示されるが、見上げるほどの山車にみごとな工芸の技が見られる。
尾張地方の山車は、名古屋でもっとも古い起源をもつといわれる「東照宮祭」の影響を強く受けている。この名古屋を中心とする地方の山車はいろいろな面で近隣に影響を及ぼしているが、「犬山針綱神社祭礼絵巻」に描かれている山車はやはり、東照宮祭のそれによく似ている。
東照宮祭は元和七年(一六二一)に曵山が曳かれた記録がある、しかし、東照宮祭の曵山は二層であるが、犬山祭の山車は三層である。練物から山車に移行した当時は二層であり次第に三層となっていったと考えられる。曳くときは曳子のほか山車の基臺下に人がはいって押すくらい余裕がある。
犬山祭の曵山はさらに他の地方へと影響を与えており、一宮市の今伊勢の祭礼で曳かれる「大聖車」は鍛冶屋町の車山が譲られたものである。
からくり戯のある山車は全国に約五〇個所、二〇〇臺ほどあるが、犬山祭りには古くから優れたからくり人形戯が継承されている。
現在曳行される十三臺の車山にはすべて「からくり人形戯」がある
犬山の歴史をみると、『犬山里語記』に寛永一二年(一六三五)に下本町が「馬の塔」、魚屋町が「茶摘」の「練り物」を出した記載があって、これが現在の曵山の始まりといわれる。
・犬山城と祭の変遷
犬山城主成瀬氏は尾張藩の附家老であったが、寛永一二年から六年後の、寛永一八年(一六四一)に下本町が馬の塔を車山に変え、人形からくりを奉納するようになっている。
その三年後には魚屋町が続き、他の町内でも練物を出すようになった。
山車と練物が混在する時期を経て、馬の塔などの練物から踊り車山」を経てからに車山へと段階的に発展してきた。山車(車山)は当初単層であたものが次第に二層、三層へと進んだと考えれる。
・からくりは、
信仰に由来するもの、能楽の一場面からとられたもの、日本の昔話などさまざまで、またときに、出し物が変更になる例もある。
からくりは当初地元の人たちの手で考案され作られたが、のちには専業の人形師の手により作られたものが用いられるようになった。これら専門職の人には、
・名古屋の甚四郎
・文吉離三
・竹田藤吉
・玉屋庄兵衛
らがある。
演技もさらに複雑となった。
囃子は現在十三臺のうち九臺は、能笛の「能管」を用いており、能楽流派は「藤田流」が多い。名古屋の熱田神宮の神楽が藤田流で、その楽員の指導を受けている。
この曲は、譜面によらず、代々相伝で、口伝により継承されている。
一方で、車山の維持費用はその負担がたいへん重く、俗に「車山のある町には嫁にやるな」の言い伝えがあるという。
昭和三十九年(一九六四)愛知県有形民俗文化財に指定された。

□問い合わせ
犬山市観光課
電話0568-61-1800

00051 小矢部祭

2007年06月24日 | 日本の山車
00051 小矢部祭
富山県小矢部市石動(いするぎ)
愛宕神社
祭は四月下旬。
曳山一一臺を曳く。

□山車
・北上野町
本座人形(祭神) 関羽    
ダシ 打手の小槌 加賀、小出作馬永康の作。
鏡板彫刻は聖賢と童子、井波町の北村七左衛門貞国。漆塗装は寛政一二年庚申暦、越、城端、一白斎とある。
北上野町山車背面の彫刻は、井波の彫刻師北村七左衛門貞国の作。寛政十二年(一八〇〇)、塗りを城端の塗師小原治五右衛門宗好に依頼している。
宗好は八代治五衛門一白斎で、宝暦四年二七五四)に城端で生まれ、父親から漆器の技術を承け、また、同所の天文学者西村大仲に就いて蘭学を学び、長崎に赴いてオランダ語を習得した。その間、密陀僧を使って白漆をつくることを習って帰国し、当時まで不可能と考えられた白漆による蒔絵の作品をつくって斯界を驚かした。また一白は俳諧を好み、同志とともに小矢郎南の本行寺に奉納した。俳句額の中に、作句をのせているのみならず、額縁のオランダ語は一白の書いたものである。

本座人形(祭神)は、昭和四一年修理前の写に、
 文政十一年子五月六日 能州所口(現石川県七尾市) 近江屋勘四郎 印
 今石動 五社屋治良右衛門様 仝 惣町内衆中様
とあり、
されに、鏡板の彫刻の裏銘に、井波北村七左衛門貞国。また、同彫刻中の唐人の持っている羽根うちわの裏面に、寛政十二年庚申暦 越 城端一白斎 小童のせり合う雪の玉瓢
竹葉亭 の書き込みがある。

・南上野町
本座人形(祭神) 猩々    
ダシ 錨
鏡板彫刻は竹林七賢人
舞臺下彫刻は、波に龍と波に亀で、彫刻師 能登所口 九藤屋又四郎 弘化二年とある。山車部材保存箱書に文化十五年とある。

・下糸岡町
本座人形(祭神) 大黒天
ダシ 揚羽蝶
鏡板の彫刻は聖賢像。井波町の番匠屋の作。昭和一〇年ごろという。
舞臺下は虎、十二支。大島の弟子で、城端町のの谷久の名がある。
唐子は、町内、上新田の小西の作で、昭和二五年ごろ。

・紺屋町
本座人形(祭神) 恵比寿
ダシ 桐葉三枚に分銅
鏡板彫刻は黄石公と張良。舞臺下は 唐人と水波 井波町の大島五雲父子。
創建は天保五年。補修弘化二年に補修がおこなわれている。

・今町
本座人形(祭神) 布袋
ダシ 千枚分銅
彫刻 鏡板 聖賢五人。舞臺下は唐子。
あやつり人形がある。
大正九年一〇月、昭和三年四月に補修が行われている。

・柳町
本座人形(祭神) 壽老人
ダシ 笹龍胆(ささりんどう)
鏡板彫刻は聖賢を彫り、舞臺下は唐人、水波と亀
基枠(框)より上部は、文政一一年所口の近江屋勘四郎。
漆塗装は、昭和三年の施工。

・ 御坊町
本座人形(祭神) 人形はなく、鼓と笛を神格化し前に鳥居を置く
ダシ 千枚分銅
彫刻 鏡板 尉と姥 鼓と笛。舞臺下 七福神の作者は、井波町の横山作大郎。新田町 小西の名がある。
宝暦二年城端大工町にて建造 文政二年基枠(框)を欅材に交換
明治三年 轅棒取替。同、二十五年車輪新調、同四十四年勾欄出来 の記録がある。
昭和三から四年にかけて塗装が行われている。

・博労町
本座人形(祭神) 住吉明神
ダシ 神子鈴
彫刻 唐美人と従者
祭神新調 天保一二年一二月
衣裳 明治二年

・上新田町
本座人形(祭神) 弁財天
ダシ 千成瓢箪 芭蕉葉
明治五年 町内 室谷惣左衛門京都に注文の上寄附
彫刻 鏡板 竹に虎、唐人
舞臺下 仙人と童子
明治三三年 上新田の工匠浅野政次郎により補修、
昭和六年 金具 設計 県工業試験場寺田技師。
彫金は高岡市金屋町の彫金師 石動新町の岡村美久が補修を加える。

・中新田町
本座人形(祭神) 應神天皇と武内宿禰
ダシ 唐冠
彫刻 鏡板 素蓋嗚尊の大蛇退治
舞臺 桐に鳳凰 亀に波 竹に虎 唐子と獅子
文久三年三月 井波町 大嶋作兵衛作
浦島天郎 明治二四年四月 井波町 野村清大郎作

・下新田町
本座人形(祭神) 毘沙門天  
ダシ 大鼓に鷄
彫刻 鏡板 中国の聖賢?五人と龍
舞臺下 水波と龍

・柳町
 柳町の山車の例を子文献に見ると、
一、壱本 錆山   わくより上 木地出来
  代銀 壱貫弐百目等金弐匁  相定
   内 百 目  先達詰取
   又 弐百目  只今請取
    都合 参百目  為ニ手附・請取
  右一通相違無御座候 以上
とある。

□汎論
小矢部祭は、古くから石動(いするぎ)の曳山祭で知られる。
 旧石動の愛宕神社の春例祭で、藩政時代は三月二三日から二五日まで行なわれていたが、新暦になってから四月二三日から二五日までとなった。
藩政時代は、町民が相当派手な祭をしたらしく、奉行所はたびたび質素に行なうようお触れが出ている。
四月二三日の午前、神霊が御輿によって町内を渡御し、午後、馬場に仮設の御旅屋に安置、つづいて祭典が執行される。二五日の晩まで町民の参拝が続き、二六日未明に本社へ還御になるのが例となっている。
 春祭の神事に曳山車が出る。二十三日の午前中、山車を持つ町では、町内の青年によって山車蔵から引き出された山車を組み立て、午後、神霊が御旅屋へ移られたころ御旅屋前まで運び、祓か済むと引き戻って、その日は町内を曳き回す、これを町内曳きという。
二十四日は午前中から全町を曳くのであるが、山車はそれぞれ思い思いに回るので、道幅の狭い所では引きちがいの際、どちらか、かさがる必要がおきる。こんな時、曳子の間で時にはロ論もおこり、酒の酔いも手伝って、以前は喧嘩もあり、山車をぶつけあったりして騒ぎが大きくなったが、近年、金をかけて山車を奇麗にしてから騒ぎも見られなくなった。山車には花山車と歌舞伎山車がある。
花山車
 花山車は一一臺あり、構造は不定だが、外形はよく似ている。
木製車輪の上に、欅材の枠を載せ、それに勾欄を設けて祭神を祀り、その背後に鏡板という衡立をたてる。祭神の傍らに約三メートルの木柱を立て、三〇本あまりの竹に紙製の菊花をつけて笠形に下げ、柱の上には鉾留の「ダシ」を取り付ける。
 斗拱上の梁や長押は二重のものもあり、三重のものもあり、その間には彫刻して極彩色を施し、梁や長押などには金具をうったものもある。彫刻でもっとも主力が注がれているのは鏡板の背面で、どの山車も立派な作である。
基枠(框)の外側には種々の模様を染めたり、刺繍を施した幔幕を吊し、框の下には山車を引く二本の轅棒(梶棒といわない)がある。
框の中に笛・大鼓・鉦の囃方がかはいり、拍子木の合図で掛け声をかけて曳き出す。この時、車のキシム音が 祭の気分をかき立てる。曳子の服装は、町々でそろいの模様や紋をつけた法被に股引・白足袋・捻鉢巻である。近年は略装で曳く者もいる。
 花山車は南上野・北上野・下糸岡・今町・柳町・紺屋町・御坊町・博労町・上新田・中新田・下新田の十一カ町にある。これらの山車は、部品を収納する箱書の年号や、彫刻の裏銘などからみて、大体は宝暦年間からつくられ、文化・文政ごろに揃った。
また製作の年代は同一でなく、町によって前後し、構造もまちまちであるが、いずれもその時代の地方の名工に依頼したり、木組などは熟練した大工に注文している。
木組は能登・加賀の大工、彫刻は井波の彫刻師、塗りは城端の塗師、金具は高岡の彫金師に注文している。
 町内山車中で、もっとも吉いといわれているのは御坊町の山車である。宝暦一二年(一七六二)からあった千枚分銅の山車。同町に残っている記録によると、寛延二年(一七四九)御坊町の某か白馬山の麓にゆくと謡の声が聞えた。近寄ってみると、樹上の藤に翁の面と、鼓・笛が懸つていた。これは珍しいと持ち帰ったが、手許に置くと気掛りになるので、藩主へ献上の手続きをとつた。これに対して藩では、模作を代わりに渡した。その後、御坊町で山車をつくったとき、これを鏡板にはめ込んだ。今もある奴と笛、かそれであるという。この山車だけは祭神がなく、鼓と笛とを神格化し、前面に鳥居を立てている。 宝暦・明和・安永のころ、高岡の御車山を摸して城端・放生津・今石動その他で山車がつくられた。安永三年(一七七四)四月、高岡町から高岡町奉行宛に、近頃、城端・今石動・放生津で高岡の御車山を模倣して作ったのは不届千万である。高岡の大八車は前田利長公から拝領した由緒のある御車山であるのに、猥りに模倣することは僣越の沙汰であるから早急に禁止されたいと訴え出た。町奉行は早急に今石動町奉行と砺波射水郡奉行にその旨を伝えて禁止方を要望した。各町では、いずれも「山車を作るな」との御触を受けていない。
 各自の町で作つたとて別に高岡から干渉を受ける必要かないとなかなか聞き入れなかった。高岡町ではこれを心外として、奉行所へ大勢が殺到して狼 籍を働く始末で、奉行所も困りぬき、藩庁に実状を訴え善処方を願い出た。
 藩でも再三詮議した結果、その願意を聴き届け、盗賊改方を兼ねた魚津町奉行寺西弾正に裁きを命じた。奉行は町々の代表者や乱暴を働いたものを牢に禁足して、魚津で訊問を始めた。そして各町の山車を魚津まで取りよせて吟味した。城端の文書によると、城端では津沢まで人夫で運び、津沢から伏木までは小矢部川を川舟で、伏木から魚津まで海上を舟で運んだ。吟味、か終わって返還されたが、入費がかさむので魚津で捨て、また新しい山車を作つたとある。今石動でも、おそらくこうして魚津まで運んだものと思われる。寺西奉行の裁きの結果、城端の祭りは古いから前々のごとく山車を引いてもよいが、放生津と今石動とは禁じられた。しかし放生津は神保安芸守時代から免許せられたなどと理由を申し立てて応じなかった。そのうち放生津の秋祭になった。放生津では何とかして山車に板をうちつけて今年限り曳かせてほしいと願い出た。高岡奉行所では地元の意見をきくと、それなら仕方がないと承知した。いよいよ当日になると、高岡から津幡屋与四兵衛と、若者放名が放生津に出掛けて約束どおり実行するかどうかを見にいった。とこやか約束と違って板が打ちつけてない。口論の末、高岡からいった若者、か怒って隠し持った鳶口で放生津の者に打ちかかって大喧嘩になった。かねて不祥亊か起こるかもしれないと魚津奉行所から取り締まりに来ていた役人に捕えられて牢へ入れられた。一度禁止された今石動の山車も文化・文政のころには修理を加えられているところからみると、禁止されたのも永い期間ではなかったようである。

・歌舞伎山車 
歌舞伎山車は花山車のごとく多くの彫刻などか施してない。四輪の車の上に框をのせ、その上に唐風の屋形(御殿)がかつくられ、演技を始める時には屋形の前柱をはずし、床の舞台を左右に引き出して広くする。屋形の左右の奧の出入口に幕をたれ、中は三味線方と浄瑠璃方、また役者の控室になつている。
出し物は、
絵本大功記、尼ケ崎の段
鎌倉三代記
菅原伝習手習鑑、寺子屋の段
御所桜堀河夜討、弁慶上使之段
など、浄瑠璃の一段、か演じられる。しかし近年は浄瑠璃を語る者も三味線をひく者もだんだんいなくなって来たので、歌舞伎の代わりに舞踊を代用することもあるが、歌舞伎ほどの人気はなく、今日では特別の年でなくては曳かぬようになったのは遺憾である。
歌舞伎山車を持つ町は、越前町・鍛冶町・新町・川原町の四カ町と、福町、神明宮の祭礼に曳く福町二丁目・三丁目である。

屋臺
山車が出るときには屋臺も出る。屋臺の保有町は、
・細工町
・福町一丁目
・川岸町
である。以前は越前町にもあったといわれる。
屋臺というのは庵屋臺(いおりやたい)で、屋根は入母屋風の二層の数寄屋づくりで、軒にはちょうちんを吊し、前の轅棒の上に舞台をつくり、舞踊を演じる。数寄屋の中には笛・太鼓・三味線などの囃方が入って屋台とともに歩く。囃方は町内の若連中で、祭が近づくと合奏練習を始める。
以上、十敷臺の山車と屋臺が、祭礼の両日、全町を練るので、近郷近在から老若男女が町に集まって賑わいをきわめる。御旅屋に近い越前町・中町・飯田町・鍛冶町・細工町あたりは、各地から露店商人が集まり、二四日の午後は身動きもできないほどの混雑である。
現在は、二三日から二五日までは愛宕神社のほか、日吉神社・比売神社・熊野神社・神明宮も春の例祭で町の総祭りになっている。
以前はそれぞれが異なった日に行なっていたが、南上野町・北上野町の如きは山車を出す関係もあり、春祭を二度することになるので、終戦後、春祭は愛宕神社の祭日と同一日にすることになった。しかし秋祭は、従前どおり氏子別に行なっている。

□文献資料
「小矢部市史} 上卷
                             
□問い合わせ
小矢部市商工観光課
電話 0766-67-1760

00049 石那田祭

2007年06月23日 | 日本の山車
00049 石那田祭
栃木県宇都宮市石那田
高麗神社
通称を天王様という。
祭神は素盞鳴尊

□祭

□山車
・一番 仲内
猿田彦
山車(屋臺)を保有しないが、祭礼の先導をつとめる猿田彦を奉じていることから祭礼順位は一番を与えられている。
猿田彦は各地に「道案内」「境界の守護神」などの信仰がある。

・二番 桑原屋臺
創建は不明。
石那田の屋臺の中では製作年代が一番新しいとされるが、屋臺が建造される前には「飾臺」があったと伝わる。
繊細な彫刻があるが、素木(白木)の地彫り彫刻で彩色されていない。
彫刻は、菊政の名で知られる上都賀郡久我村(現在の鹿沼市上久我)の「菊彫」の名人といわれた彫刻師、上山政五郎と弟の泰で製作にはおよそ十年を要したという。
上山政五郎は農家の出身で、文化五年生まれ明治二十五年に八五歳で死去した。磯邊の流れを汲む石塚知與に師事した。
神山泰吉はかれの一子、門下に大貫長之助、大出常吉がいる。明治一五年、桑原屋臺が完成したときは政五郎七五歳に当たる
鬼板は飛龍と左右に鯱
懸魚は波に鯱
後部の鬼板と懸魚は鷹と松
正面内障子は鶴に牡丹
蹴込みは二頭の獅子
脇障子、障子廻り、柱隠しは繊細な彫刻の菊、葡萄、木鼠が配されている
障子廻りの上部、欄間は小鳥の彫刻
勾欄下は鯛
車隠しは波に
正面の車隠しには波に二羽の鶴
後部の障子は獅子に牡丹
彫刻は一部に朱が入れられた箇所があるが、他は白木彫りである
屋根は唐破風
踊場がある

・三番 六本木屋臺
工匠は、屋臺職人、越後國大工直吉の名がある。
彫刻師、富田御内後藤方野州中里村高田伊兵衛
文政十一年子九月の記録が残る。
塗屋臺で、彫刻は高田伊兵衛 
富田御内後藤方 中里村(現在上河内村大字中里)の彫刻師は、ほかにも、河内村大字上田原にある屋臺にも文政四年(一八二一)「中里住彫物□工 後藤金重」の名があり
中里村の彫刻師後藤家の一門というより、止宿していたか、また招聘されたのではないだろうかと推定されている。おそらく出造りであろう。
後部鬼板の獅子の裏に「彫工 當國下都賀郡富田住磯邊義兵衛、下総國香取郡南玉造住山瀬□□」と記されている。
柱隠しは鹿沼の旧屋臺のものを譲り受けたといわれる。
鬼板は獅子、左右に二頭の獅子を従える。
懸魚は二頭の子獅子。
正面内障子、側面の脇障子菊に鶏。
脇障子の下部は「龍馬」(麒麟か?)。
後部障子はいずれも菊。
柱隠しは下方が菊。
中部以上には金の瓢箪と木鼠。
障子廻りと外欄間構図が一体化しており、梅に小鳥が配される。
勾欄下は波に鯛。
車隠しは波。

4,原石那田屋臺
塗屋臺
屋臺の建造期、彫刻については不詳。彩色屋臺は素木のままの屋臺より建造期が古いことから、初期に作られたと推定する。石那田の屋臺の中ではもっとも小さいのも初期の屋臺を特徴付けており、後年他の屋臺が次第に大きくなっていることと対照的である。
前鬼板は龍?(飛龍?)
懸魚は鯱
後部も同じ
菊の彫刻を基調とする。
勾欄下、車隠し、障子廻りは明治末期に後補されたもの。
脇障子、障子廻りは菊で埋め尽くされている。
外欄間は牡丹。
柱隠しと梁は葡萄に木鼠。
勾欄下は火焔龍。
車隠しは波に千鳥。
後方左右の障子は虎と龍。
左は笹を背にした火焔の虎。
右は梅を背にした火焔の龍。
車隠しは波と菊。
この屋臺はもと塗りと白木彫刻の混在する屋臺であったが昭和五十一年の修復工事のときすべて彩色された。

・五番 岡屋臺
素木屋臺で、製作年代は不明。
鬼板の牡丹の裏面に「野州鹿沼宿 彫物師 後藤常吉正秀 作之」とある。
彫刻は牡丹を基調としている。
牡丹は素木だが一部に朱が使われる。
後部の鬼板、懸魚正面とほぼ同じ構図。
正面内障子は牡丹に雉子。
内欄間は牡丹に小鳥。
正面は牡丹。
脇障子は松に梅、小鳥。
障子廻りは菊と小鳥。
欄間は菊と波。
勾欄下は龍。
車隠しは波と小鳥。
後部の障子は左右とも二頭の龍。
柱隠しの彫刻はない。

・六番 仲根屋臺
龍の彫刻の裏面に「巻龍體 當國大平山麓 富田住 職姓後藤 免許 平五郎改 磯邊儀兵衛 字松濡 藤原敬信 生之二十五齢」の墨書きがある。
儀兵衛は、磯邊の名乗を許された名工で、三代目を襲名したと考えられている。
この彫刻をしたときの二十五歳は逆算すると、嘉永五年に相当する。正面の鬼板の獅子、脇障子の牡丹獅子は明治に入ってから作られたという。
後部の鬼板は媼。
懸魚は菊と鳥であるが、作風が異なる
正面内障子は波に龍。
笹と梅を背にした虎。
柱隠しは牡丹と鶏。
梁は鳳凰、藤の透し彫。
脇障子は素木の牡丹と獅子。
障子回りは葡萄と木鼠。
欄間は菊と小鳥。
後部左右の障子は牡丹。
車隠しは波に菊。
左右両側面の勾欄にも二匹の小龍を彫る。

・七番 坊村屋臺
塗屋臺で、製作年代は不詳。
彫刻師は、脇障子の下に「礒松需」とあることから、仲根屋臺と同一の人物、磯邊儀兵衛敬信と考えられる。
欄間と障子は明治三〇年頃の作。
鬼板
懸魚
柱隠しはいずれも火焔龍。
柱隠しの龍は左右ともに下り龍。
内障子は上と左右に獅子。
蹴込みも左右中に三頭の獅子。
脇障子は獅子に牡丹。
障子回りは菊。
欄間は梅に小鳥。
勾欄下は龍と亀。
車隠しは亀。
勾欄は水平でなく中央部が上部に彎曲した太鼓橋の欄干の形になっている。
後方鬼板、懸魚は龍で、正面より数が多い後部の障子は左が葡萄に梟。
右が葡萄に木鼠。
勾欄下は菊。

□汎論
石那田は日光との関わりが深く、ことに徳川幕府の日光東照宮造営期には、鹿沼、徳次郎、宇都宮、氏家などとおなじように屋臺に大きな影響を与えたと考えられ、見事な彫刻が作られている。
屋臺は、三空間を具象した思想により、欄間など上位は、空の世界とし、彫刻も見合うものが作られる。鬼板と懸魚は上下の関係で一体化しており、同一の対象物または、関連性の深い対象物となっている。
中位は地上の世界で、中臺の障子などには地上にかかわる鳥獣,花卉の彫刻で飾られる。下位は、海の世界で勾欄下などには、浜千鳥、玄武、波濤など海にちなむ事物がある。
・石那田屋臺の由緒
石那田に屋臺が創建された時期は、日光東照宮造営期の寛永年間と推定されている。
諸説があるが、製作年代を裏付ける資料としては、六本木屋臺の彫刻師芳名板に「文政十一年」の年号が記される。
仲根屋臺の龍の彫刻裏に「磯邊儀兵衛、藤原敬信」の銘があり嘉永六年と推定されている桑原屋臺は明治十五年の建造(再建か?)
製作年代を知る手がかりを持つ屋臺は三臺あるが、他の屋臺からは手がかりが得られておらず不明である。
彫刻は東照宮造営に関わる名工の作といわれるが、判明しているものは、富田(現在大平町)の磯邊一族の手になるものが知られる。
磯邊一族による磯邊系の山車は、北関東に優れたものが多く残されている。
ことに、三代目磯邊儀兵衛敬信は各地に秀作を残している。
また名工で知られる後藤系一門の手になるものが見られる。

・文化財指定
石那田六臺の屋臺は仲内の猿田彦の祭祀具とともに昭和四九年三月一日n宇都宮市民俗文化財に指定された。
ほかに彫刻屋臺で文化財に指定されている例として、宇都宮市伝馬町の屋臺一臺が昭和三〇年七月に栃木県有形文化財に指定されている。

□参考文献
徳次郎の彫刻屋臺 池田貞夫
しのいの史跡 篠井公民館
栃木県大百科事典 大百科事典刊行会

00048 三国祭

2007年06月23日 | 日本の山車
00048 三国祭
福井県坂井市三国町桜谷
三国神社
□祭は五月中旬
山車一八臺を保有し、そのうちから当番町が交替で六臺づつ曳く。

□山車
・玉井、中元、大門

・上西、下西、松ヶ下

・四日市、森町、岩崎

・汐見、元新、上旭、下旭、上台、下台

・橋本、堅、上横、上真砂、下真砂、東滝本、西滝本、西滝谷、仲滝谷、浜滝谷

・平野、久宝持、下錦、南末広、北末広、喜宝、桜町、下新

□汎論
北陸三大祭の一つに数えられる。
六年ごとに桜の造花で飾った桜山が出る。

三国町郷土資料館
三国町緑ケ丘四-二-一
℡〇七七六八二五六六六
九 〇〇ー一六 三〇
明治期の大人形を復元し山車に乗せ展示する

□問い合わせ
坂井市商工観光課
電話0776-50-3152

00047 秩父夜祭

2007年06月22日 | 日本の山車
00047 秩父夜祭
埼玉県秩父市番場町一-三
秩父神社
□祭は一二月上旬
山車(笠鉾、屋臺)六臺を曳く。

□山車
・中近笠鉾 中村町と近戸町の二町
全体を黒漆塗りとする

・下郷笠鉾 阿保、大畑、金室、滝の上、永田、柳田の6町会
文政七年(一八二四)の創建。
工匠、藤田大和により修修理が行われている。
水引幕、腰幕は昭和六三年復元新調された。
標木は平成三年に復元新調。
基臺枠は平成八年に復元新調
平成三年、おおがかりな改修工事が完了し、平成の御大典を記念して実に八八年ぶりに全装備で秩父神社を出発、神社を出るとき標木がクスノキの枝にかかりはらはらさせられたが、無事出発、電線の取り払われた市街に引き出されていった。

・宮地屋臺
工匠は藤田大和の名があるが、創建時の屋臺か否か不明。
後幕は猩々。

・上町屋臺
彫刻は大頭の仙蔵と伝えられる。
後幕は龍門の瀧を昇る鯉。

・中町屋臺
天明五年(1785)の曳行記録があり、創建はそれ以前である。
水引蒔くは亀。
後幕に海の魚をあしらう。

・本町屋臺
昭和一〇年の再建。
水引幕は、波に飛龍。
後幕は江戸の玉孫の作。すばらしい幕で、おもちゃ尽くし舳先にキセルを咥えたとぼけた顔のサルが立ち、数々のおもちゃや達磨が見事に刺繍されている。
先の山車は笠鉾で、明治一七年の建造。
大正三年の電線架設時に単層の花笠に縮められたが。新臺建造にとおもない小鹿野町の飯田八幡神社へ奉納された。

□汎論
秩父夜祭は、飛騨高山祭、京都祇園祭とともに日本三大美祭といわれる。
秩父音頭に、
   秋蚕(あきこ)仕舞(しも)うて、麦蒔きおえた、秩父祭を待つばかり
とある秩父祭は一二月のはじめ、本祭最終日は軽快なお囃子にあわせて笠鉾と屋臺が団子坂を引き上げられる。一臺ごとにみごとにあがると、これにあわせて花火がうちあげられる。

□秩父祭り祭り会館
秩父神社の隣にある。昭和に建造された笠鉾と屋臺とが展示されている。
会館の中はあたかも秩父祭りを彷彿させる、屋臺と笠鉾の演出が行われ、照明により夜祭りの提燈や雪燈(ぼんぼり)に灯が入り、高張提燈が高々とかかげられ、屋臺と鉾が浮き上がる。
太鼓が打ち鳴らされ、勇ましいかけ声が一段と高くなり、お囃子衆が大映しになり、あたかも団子坂を駆け上がる秩父夜祭りが盛り上げられ、後の壁面に打ち上げ花火が投影され、やがて館内の明かりがともり光と影による演出が終わる。
向かって左には映写室がありシネマスコープのスクリーンに秩父祭りが映写される。
時間はおよそ一〇分間。この映画により、夜祭りを見ることのできない人にも、あたかも特等の桟敷において祭りをみる機会が与えられる。
ロビーには、ビデオがおかれ三つのプログラムから見たいものを選べるようになっている。
映像は、秩父夜祭り、屋臺の組立、秩父地方の風物
二階には祭り関係の展示があり、二階よりも屋臺と笠鉾が見られるようになっている。
昭和の屋臺と笠鉾の出来るまでの行程を解説してあるのは良い試みである。
二階で目を惹くのは、屋臺を舞台にしたときの中央、左右の展開がよくわかるようになっていることである。
古い神輿が展示されているが素朴で気品がある。見ていて惚れぼれするすばらしい御神輿である。神輿の担ぎての握り棒のさきが多面に面取りした形がいい。
日本海を背に佐渡を望む地にたてられた新潟県出雲崎の良寛堂を連想した。
お巻くが飾られるが、架け替えがある。
秩父には現在四臺の屋臺と、二臺の笠鉾があり、これに昭和になって建造された各一臺の屋臺と笠鉾がある。
新しく建造された笠鉾と屋臺は共に展示されるのみで、曳行されることはないとのことである。

□山車 笠鉾と屋臺
笠鉾、屋臺いずれも祭前に組み立てられる、組立式で 屋臺を所有する町内んひと達の手で一日かけて、祭の都度組み立てられるが、たいへん複雑な構造びなっており、組立式の屋臺では富山県の城端祭の山車とともに随一の名が与えられる、凝った作りになっている。
・笠鉾
上には直径三尺(九〇センチ)の朱色に塗られた日輪と下から上に線状に放射する後輪がある。複雑な構造をもつ神座があり、美しく彩色されている。
その下には円形の笠が三個取り付けられる。これらが上部のものが小さく下にいくほど大きくなっている。
笠の骨からは円弧を描いて造花が枝垂れ、一階、二階、三階の造花がそれぞれうち重なり、たいへん優雅である。
四輪の臺車は板車で、鉄綸で焼きばめられている。
材質はケヤキである
大幕がめぐらされる。そのうえには勾欄によって囲まれる。
勾欄は黒漆がけである。先は緩く上に反らせる、いわゆる刎ね勾欄である。
前面は階段で、黒漆がけになっている(なっていないものもある)。
床が張られるが白木のままである
中央に大きな柱が立てられる。この柱を「標柱(しめばしら)」といい、最下部には、緑の松が標柱に結ばれている。この松は、古い笠鉾の祖型を伝えるものだといわれる依代と考えられる。。

・屋臺
高山と同じように、屋臺の名称で呼ばれる。四つの台車、上に幕がめぐらされる。
波の彫刻亀が泳ぐが、海上を渡海する船を陸曳きする思想である。後は船のように弧を描くいて上に反りあがり、斜形にそろえられる。四隅の軒支輪は波形の透かし彫りになっている。下臺は舞臺と囃子方が襖で仕切られている
舞臺上では歌舞伎が上演される。
柱は四角い角柱で、素木(白木)のまま彩色されず、毎年鉋をかけて木地を新しくする。のが習w2あしとなっている。
右の柱(向かって左)には「五穀豊穣」、左の柱(向かって右)には「天下泰平」
の木札が懸けられる。かつてはこの札はいろいろあって懸け変えられたもののようで、歌舞伎の演題などが懸けられたこともあるらしい。
揚幕は三方が同時にあがる構造で、囃子方の音曲を演奏する場所は御簾がかけられる。
町内の辻などで歌舞伎が披露されるが、屋臺を左右に拡張して、花道と油障子が差しかけられる。屋根の軒裏稜木二段、三段もある。
当番町により歌舞伎が上演される。道路上に屋臺をとめ、勾欄を左右に広げ手張り出し一市松模様の油障子を挿しかける。花道がつけられ、道路沿いの町屋の二階は観覧席となる。役者が入場し、地元の主裏により歌舞伎がはじまると、爆笑や遠慮の無い野次がとび、観覧客はまた笑い崩れる。
藝題はいろいろあるが、ご存知、「白波五人男、稲瀬川の場」はとくに人気がある。

00046 足助祭

2007年06月22日 | 日本の山車
00046 足助祭
愛知県豊田市(旧足助町)
足助八幡宮
□祭
山車四臺のほか藝屋臺を曳く。

□山車
・西町山車 西町
山車の建造期は不明だが、彫刻品箱の箱書きに「安永五年(一七七六)大工金八郎」
の名があり、板人形の墨書には「寛政七年(一七九五)」工匠名には、西町、新町、桐山(霧山)の人名があがっている。したがって、このころにはすでに山車がったようである前幅が足助の山車の中では若干狭い。
画は新町の絵師の手になる。
彫刻品箱に、文化九年(一八一二)勾欄の龍と波の墨書きがありこのときの作と推定されるが、彫刻が大きく、格間に収まらないため、いまは勾欄の外部に止束をつけこれに着けている。旧臺の彫刻を新臺に使用しているからである。
正面に掲げる八幡宮の扁額は、文化十一年(一八一四)の墨書きがある。
彫物師は名古屋別院近く、橘町裏(名古屋市中区)の大屋治助の作と推定される。
上臺の六本柱は、かっては下臺(下段)の上に取り付けられていたが、いまは
これを切断して縮め、中段の床の上に新しく臺を作って乗せている。
勾欄の四隅は擬宝珠柱
前面の架木は蕨手状。
上臺柱は六本すべてが木製の覆い板で巻かれている
前面二本は円柱、後方の四本は角柱である。
内法材は外陣の三方周りが水平虹梁
欄間の彫刻は、龍
内陣の三方まわりは、長押で欄間に雲の彫刻がある。
斗組は大斗枠肘木(だいとわくひじき)で肘木は二段。
上段には巻斗(まきと)五個を並べる。
中備(なかそなえ)は力士が頭と両手で軒桁と裏虹梁を支える束を入れる。
仏壇奥の内陣には天井がなく、外陣天井は銀紙貼の襖二枚を嵌める。
大屋根の棟端飾は、黄鶴仙人で、懸魚は波を変化させた特異なものである。

・新町山車 新町
足助の山車の中では一番手のこんだ作りになっている。
創建は不明だが、上臺の六本柱と庇(ひさし)に安政三年(一八五四)の墨書きがある
棚板には嘉永七年(一八五四)、猩々緋幕の箱書きには「文政十二年(一八二九)」
と記される。文政十二年には山車があったと推定される。
備品箱は一七番までの番号が付され、上臺に「屋臺」と書かれ、足助の山車も本は屋臺と読んでいたと推定される。
新町山車を特徴づけるのは下山の勾欄まわりの装飾と、上臺の屋根下飾りである
浜縁の外縁に幅の広い溝を彫り、蛇籠、葦、水鳥、波の彫刻をいれる。
勾欄地覆と中桁のあいだの金龍の彫刻。隅束の外にも巻きつく。
勾欄の正面中央には、金唐草画付の擬宝珠柱で、四隅を跳勾欄とする。
上臺六本柱は前面の二本が円柱で、後方の四本は角柱となっている。
柱上部欄間にある柱間の彫刻は六面とも金龍彫刻。
外陣部分が虹梁。正面は形を変えて火頭虹梁とする。
内陣の長押柱の間にはもと襖となっていた痕跡が残る。
襖の外につけられる人形は、八幡太郎義家。
竹内宿祢と侍者、神功皇后などが飾られていたと伝わるがいまはつけられていない。
柱上斗供は拳鼻付の出組で、隅はのばして三手先斗組(みてさきとぐみ)とする。
出組の斗組を基本とするので、大屋根の妻虹梁や軒桁は上臺の柱心筋よりも一手先分が外にでることになる。このため、大屋根は同町他の山車より一段と外に張り出している。
斗組の初段肘木上の巻斗上に、三角材の「支輪(ささえわ)」をのせて、額縁様に組んだ「支輪角隅部」は、上臺六本柱上の隅斗組、大斗上におさめ、前背面の支輪端の上部だけを角のように出して両側面の軒桁に組こませている。
「仏壇への入口は、本町をのぞく他の町内のものは両端の二本の円柱で向唐破風の屋根を支えるが、新町のものは四本柱である。
斗組、後方出三斗の前方には柱上に内側にのびた連三斗で、中央にも一具を入れる。
また大型であるため、下山の中柱間頭貫の高さにある土台框は後列柱筋から丁字型に前方へ持ち出しをつけて前柱をのせる。
四本柱上にのった臺輪間には、雲画の天井まではいる。
屋根上の棟飾は松に八幡の鳩。左右の袖壁も唐入を主題とする。
内陣には天井がなく、外陣は折り上げて、金箔置きの天井がつく。
大屋根の屋根飾は鬼板に相当する龍に乗る應婦人が琴を弾く。
懸魚は鳳凰。
この山車は上臺の六本柱が特に長く作られる。
下臺内の下方に深く内接し、下臺中段の上部には、上臺全体を上下する綱式のせり上げ構造となっており、巻取軸が山車の前後について上下できる。

・本町山車 本町
創建は不明。
祭礼幕箱に、享和元年(一八〇一)八月、「床前諸道具入」の箱に、享和二年(一八〇二)「高欄天井ほり物類」には安政二年(一八五五)、「床前欄間彫物入」には安政七年(一八六〇)の墨書きが残ることから、享和年間にはすでに山車があったと推定される。
この山車は上臺の六本柱が短くなっている。
臺車桁の上端から六本柱の下端までを下臺上部で固定する。上臺柱は下臺柱に沿って固定された箱型樋の中を上下に移動する。
名古屋型暗射によく見られる構造である。
上臺を固定するときは、箱樋の止孔に止栓、込栓を差込んで止める。
勾欄の欄間彫刻は波に鳥、後年交換されている。
上臺は、六本柱が他の町内のものとは逆で、前面が角柱で、内陣まわりの四本が円柱である。
内法境は、外陣まわり三面が水平虹梁、内陣まわりの四面が円柱間に組み入れた火頭虹梁小壁欄間は外陣まわりが金龍の彫刻。」
内陣まわりは板小壁に金菊花を浮彫する。
内部は菊の画板。
角柱上の枡形斗組」は出三斗、斗間の飾りは外陣まわりが岩に小獅子。内陣まわりは雲に獅子で、その裏側には雲を彫る。
天井は金箔置きの平格天井で、隅の一部ははずれる構造になっており、その箇所から屋根へ出入りする。
外陣天井は、折上げの格天井で豪華に仕上げる。
大屋根の鬼板と懸魚は上下で一組となる。
龍の頭部は鬼板に、尾部は懸魚に相当する。
唐破風板は、頂部が外側に傾斜させている
この山車には仏壇とよばれる厨子状物がない。はじめから設けられていなかったと推定されている。
高欄の正面に掲げる額は、八幡宮でない。

・田町山車 田町
創建は不明。
絵、彫刻箱に享和二年(一八〇二)八月、祭礼額箱に文化四年(一八〇七)八月、屋根下の霧除二枚に文化七年(一八一〇)の墨書きがあり、享和年間初期にはあったと推定される。
床前彫物箱、床前柱箱、高欄飾物などに、天保六年(一八三五)八月に名古屋の前津や桜町(現在名古屋市中区)の仏壇関係の町で製造されたもの。
この山車は、大きさ、高さがもっとも標準といえる大きさである。
臺輪の側桁は、足助では唯一前後の端を拳鼻状(こぶしはなじょう)に刳形(くりがた)をつけ、渦彫とする。
この山車の型は、挙母型、知立型と共通する。
上臺は中段の床上に土台をおいて固定させている。
組み上げるときは、上臺の土台をつけず、柱を楫棒の上に落とし、上臺を組んでから下臺中段まで引き上げて中段の床上においた基臺に柱臍をさす方法を採る。
上臺柱は下臺柱に横付けし、摺上げるようにしてあげる。
前柱二本は円柱形、内陣まわりの四本柱は角柱で、六本とも化粧仕上げとする。
内法は外陣まわり三面が水平虹梁、内陣まわり三面が長押(なげし)をめぐらす。
欄間彫刻は金龍。
欄間の上にある頭貫虹梁(かしらぬきこうりょう)は蟻臍(ありほぞ)で柱頭に止める。前後面と横面には、象頭木鼻を蟻臍でとめる。
内外陣の外まわりはすべて金龍。
側面の龍は大型で、前端外陣柱間の欄間に架け中柱の外を巻く。
六本柱上の桝組(斗組)はすべて出三斗
斗間は黒塗り地板に、正面が楽器、外陣の側面が御所車、火炎太鼓。内陣の側面と後面が獅子と毬の浮き彫り、天井には襖貼型をのせる。
仏壇は向唐破風の宮殿風。
両袖の彫刻飾は龍門瀧の鯉。
斗間の板壁は鳳凰、
懸魚は牡丹。
鬼瓦に相当する屋根飾は逆立ちする獅子彫刻。
勾欄手摺は正面中央寄りが錺付擬宝珠。
地覆上の欄間彫刻は龍に波と雲。
現在正面の欄間彫刻波彫小板」は後補。
側面背面の小板は二枚が一組で両外端は羽目板溝にはめ
中央寄りの束(つか)に欄間裏板からの栓で止める
懸魚は鳳凰
屋根上には雲鰭付きを、両端に猛禽が倒立する。
この山車の上臺(上山)柱には貫穴に埋木があり、貫穴を変更したのは柱が下端で切り縮められたためと推定される。このため、上山の内陣まわりにあった襖壁や人形の位置が下がり上層床板と重なるため、取り付けできなくなっている。

□足助型山車
足助型といわれる山車は、広義の知多型、名古屋型、挙母型などに共通点があり、地方において若干分化して、形態に変化が生じたものと考えられ、足助八幡宮の祭礼に曳かれる四臺がある。四臺とも基本的に同型で、建造年代もほぼ同時期と推定されている。
前面に出役棚を持つのは大きな特徴である。
下臺は大きな太い臺輪桁を左右にとり前後の心棒とを井桁に組む。
車輪は内輪である。
名古屋、知多、三河の山車では一木幅広の三尺車輪であるのに対し、太い欅材の心棒を通した欅材心胴の周囲に十六個の樫の駒爪を履かせ、止め鎹で固定する。その分、胴に大きな負担がかからず、車輪が摩耗してくればすれば駒を交換する。
下臺には両側面に前後に長くつきだした楫棒(かじぼう)を柱の内側に付け、地貫から麻縄で結束する。縛りかたには約束があり縦に七重巻、それを横に五重に束ね裏で絡める。前の楫棒上の格子窓や、上にある本体からはつきだし、長い腕木の間に渡した床板が、出役の踊場となる出役棚である。
両側面の袖舞臺を引き出してそろえる舞臺、下山前方上部に掲げる八幡宮の社号額も、愛知県では足助の山車にのみ見られる。
楫棒位置の下段に、下山全面には、囃子檀が設けられる。大太鼓、小鼓、能管、篠笛などでお囃子を演奏する。
上臺は、屋根を支える六本の柱を足助では六本とよんでいる。
円柱と角柱の飾柱で従来上下する構造となっていたが、いまは固定されている。
六本の柱により外陣である前室と内陣である後室にわけられるが、本町の山車以外は仏壇と呼ぶ向唐破風屋根のつく厨子状物の前面飾を取りつけ、内陣の正面とする。
内陣の他の三方にはもと柱の間に絵襖をたてて囲み、外には人形が取り付けられたこともあったようである。しかし、上臺が上下できなお構造に上臺柱を切りつめたときから、構造上取り付けることが出来なくなっている。
内陣の周りは布幕で囲む。内外陣とも木偶や人形などはまったくない。
六本柱の内法の上には獅子彫刻を飾った欄間、頭貫、臺輪をめぐらし、下の小壁位置には金箔置きの龍、菊花の彫刻。
下端には虹梁、長押をめぐらし、黒漆塗、錺金具で仕上げる。
六本柱上には斗組を組み、斗間には、獅子、雲、花、力士、飾板などをめぐらしてある
大屋根は向唐破風で、軒天井付き。
大棟端には懸魚や飾りがつく。
通行上の障害に備えるため、大屋根に上る必要が生じたことから、屋根に登りやすいように屋根板を改造している・
祭のときに取り付ける副部材には、前面の拡張舞台、下山を巻く下幕、本幕、水引幕、舞台上に張り出す天幕。
上臺両側の前方に突き出される竿の先には紙ささらを束ねた御幣の梵天を二個取り付ける勾欄の隅には雄松(クロマツ)、雌松(アカマツ)の枝を結ぶ。
出役舞臺上では臺上に御神酒徳利を二本と御幣をたてる。
本楽祭の奉納の後、各町内に帰るときは大屋根の下回りに五十個ほどの提燈をつける。
勾欄周りには細長い七張提灯をつける。
出役舞臺の前よりには臺上に立てて点火した蝋燭台を置く。
山車を曳く曳き綱には、山車の臺車に取り付けた太い曳綱、下臺柱上端には結んだ横綱、後方に交叉して引き止める惜しみ綱などがある。

□足助町資料館
木曜休館
電話0565-62-0387

□文献・資料
『足助町の山車』愛知工業大学岡野調査 平成七年三月三十日 足助町教育委員会

00044 有松祭

2007年06月21日 | 日本の山車
00044 有松祭
愛知県名古屋市緑区有松
天満社
□祭は四月
山車三臺を曳く。

□山車
・神功皇后車 西町(旧金龍町)
有松で建造された。

・唐子車 中町(旧清安町)
知多半島の内海で建造されたものを譲り受けた。

・布袋車 東町(旧、橋東町)
かつて名古屋市の若宮祭で曳かれていた祭車。

□汎論
天滿社は寛政年間初期に祇園寺内に祀られていものを筆が岑裏手にある通称筆ヶ岑の現在地に祀り、その後、文政七年(一八二四)に到って社殿が造営されたことが、天保一五年(一八四四)の『尾張名所圖会』に記載されている。
『尾張年中行事絵抄』に、八月一三日有松天神祭。祇園寺の北にあり、筆が岑と號す、
とある。

00039 下原八幡神社祭

2007年06月19日 | 日本の山車
00039 下原八幡神社祭
下呂市金山町(旧金山町)。
下原八幡神社
□祭は四月上旬。
山車は飾り付けのみ行われる。

□汎論
天保七年、高山下二之町で山車・鳩峯車(屋臺)を新造した。金山の下原ではこの旧臺を譲りうけた。いまは曳かず飾り付けのみ行なわれる。
下原八幡神社の境内北側にある屋臺蔵内で飾り付けた山車(屋臺)が披露される。屋根は唐破風である。高山の屋臺が仙人臺が唯一唐破風屋根を継承しているが、下原八幡宮の山車は全体に高山の古い形態をよく残している。
彫刻はなく、金具類は平打ちの金属に線刻を施した素朴なもの。大幕は紫の縮緬地を白抜きに染めたもの。
車輪は小ぶりの板車を外側にとりつけ、前輪は自在に動くよう舵取り装置になっている。前輪・後輪とものちの改造の手が加わる。
山車上で演じられたからくり大津絵は、飛騨市(旧古川町)に譲られ、今も唐子が梯子をかけて、福禄寿の頭にのぼり大きな頭をぼやきながら? 剃る。大津絵でよく知られる「外法の梯子剃り」が二十八条の綱により操られる。謡曲の「鶴亀」にあわせて三味線にあわせた所作があり、見事に剃り終わると福禄寿がよろこび、左手にもつ亀の甲が割れて中から鶴が羽ばたき、口から赤い小幡が垂れさがると、金銀色紙の紙吹雪が美しく舞う。複雑巧妙なからくりである。
下原八幡神社は難波根子武振熊(なにわねこたけふりのくま)が朝廷の命で、飛騨の両面宿儺お討ったとき、この地で八幡に戦勝祈願をした地とされ、のちに勧請されて祀られることになったと言う伝承がある。
金山は、金森藩(のち天領)の番所が置かれた地で、飛騨街道の往来を取締まった。町内には飛騨川(益田川)の上流から流した御用材を綱を張って止めて改める綱場があった。下呂市、旧金山町と旧下呂町のあいだは中山七里とよばれ山間を流れる清流と緑の景色は古くから屈指の景勝地として知られる。
名和博士により命名されたギフチョウはこの地で採集されたものがタイプ・ロカリティになっているという

00041 新湊曳山祭

2007年06月18日 | 日本の山車
00041 新湊曳山祭
富山県射水市(旧新湊市)放生津町
八幡神社
□祭は一〇月上旬。
曳山一三臺を曳く。

□山車
・古新町
標識は鈷鈴
本座人形(王様)は三国志の諸葛孔明
創建は慶安三年(一六五〇)
元禄十年(一六九七)に再建された記録がある。

・四十物町
標識打出の小槌
本座人形(王様)は菊慈童
創建は、享和三年(一八〇三)

・長徳寺
標識は平家の揚葉蝶
本座人形(王様)は神武天皇
創建は、文化十一年(一八一四)
再建は明治十年(一八七七)の記録がある。

・中町
本座人形は壽老人と松鶴
創建は元禄五年(一六九二)

・奈呉町
標識は錫杖
本座人形(王様)は恵比須
創建は、元禄五年(一六九二)

・東町
標識は諌鼓鶏
本座人形(王様)は高砂の尉(じょう)と姥
創建は享保三年(一七一八)
再建は天明三年(一七八三)に記録がある。

・荒屋町
標識は千枚分銅
本座人形(王様)は大黒天
創建は明和七年(一七七〇)
再建は昭和二七年(一九五二)年。

・紺屋町
標識は振鼓
本座人形(王様)は日本武尊
創建は寛政元年(一七八九)
再建は明治一三年(一八八〇)

・三日曽根
標識は和銅開珎
本座人形(王様)は布袋。
創建は享保六年(一七二一)。
再出来昭和二四年(一九四九)

・立町
標識は壽
本座人形(王様)は孔子
創建は享保六年(一七二一)
再建は享和二年(一八〇二)の記録がある。

・法土寺町
標識は軍配
本座人形(王様)は三国志の関羽と張飛
創建は天明五年(一七八五)。

・南立町
標識は五三の桐
本座人形(王様)は、住吉大明神。
創建は明治一四年(一八八一)。

・新町
標識は法螺貝
本座人形(王様)は神功皇后と竹内宿禰。
創建正徳五年(一七一五)
再出来安永三年(一七七四)

□汎論
新湊に山車が建造された歴史は古い。古新町の山車(曳山)の建造は慶安三年(一六五〇)の記録がある。
・放生津八幡宮の築山神事
築山が飾られるのは、放生津八幡官の本祭十月二日である。その起源は定かではないが、享保六年(一七二一)の東八幡官記録や築山古老伝記などにより、江戸初期から行なわれていたこと推定される。
九月三〇日夕方、海より御祖の神霊を境内の高い松に迎え、祭日には築山へさらに招く
もので、御霊信仰の古い姿を具現的に残している古典的民俗資料で、全国的にもまれである。築山は、高い松の木を背景に西面してつくられる。構造は、幅七・二メートル、奧行三・六メートル、高さ二・七メートルの雛壇様の組み立て式で、最上段の中央正面に主神である姥神(俗にオンババという)を祀る。姥神は鬼女の面をつけ金欄の打掛けを着、白髪をふり乱し御幣をつけた竹竿を持って直立している。下段の四隅には仏門守護の四天王(多聞・持国・増長・広目)を配する。
姥神や四天王がつける古面は、室町・桃山時代の名作である。
築山は、石動山の伊須流伎比古神社(能登)と、二上山の射水神社(高岡岡市)にもあったが、前者は廃絶し、後者は近年復活した。主神の形態から、放生津の「足なし」、二上山の「ロなし」と俗称されてきた。
放生津八幡宮の築山・民俗資料県指定文化戝昭和五十七年一月十八日指定

□問い合わせ
射水市観光振興課
電話 0766-82-1958