暘州通信

日本の山車

◆05251 名木神社祭

2011年04月30日 | 日本の山車
◆05251 名木神社祭
□所在地 京都府京丹後市峰山町内記宮の谷
□旧国名 丹後國
□現社名 名木神社
□旧社名 
□祭神
トヨウカノメノミコト(豊宇賀能売命、天酒大明神。羽衣天女)
□祭は十月上旬。
□山車
山車(楽臺)一臺を曳く。
□汎論
 名木神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。『丹後国風土記・逸文』には、祭神のトヨウカノメノミコト(豊宇賀能売命、羽衣天女)がこの「丹波の里の哭木の村に至り、槻の木に據りて哭きき。故、哭木の村と云ふ」と名称の由来を記す。羽衣をなくした天女が大声を上げて哭いていた里だという。宮津市由良にもトヨウカノメノミコト(豊宇賀賣命)を祭神として祀る【奈具神社】がある。
 境内に五角形の社日塔(地神塔)があり、五面はそれぞれ、
オオナムチノミコト(大己貴命)
スクナヒコナノミコト(少彦名命)
ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)
ウカノミタマノミコト(倉稲魂命)
アマテラスオオミカミ(天照皇大神)
 を表象している。
 近隣には古墳が多い。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
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◇☆京都伏見の御香宮神社へ♪
2011/4/24(日) 午前 0:27
... 御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ)☆ <伏見地区の産土神> 神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀る。 神功皇后の神話における伝承から ... 御香宮を訪れ、各地で名木を見て来たが、 これほど見事なツバキは ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hyonhyon115/28564735.html

◇明治神宮
2011/4/19(火) 午後 6:05
... 代々木神園町1-1 原宿駅側 神宮入口鳥居 旧官幣大社 御祭神 明治天皇 昭憲皇太后 東京都渋谷区代々木にある。 ... この前の名木「代々木」は昭和二十年五月の戦禍で ... 11日に崩御された昭憲皇太后を祀る神社。 創建は大正9年(1920)11月 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/anaterasuoukami_76/3453624.html

◇元伊勢の旅~♪
2011/4/19(火) 午前 3:39
... この天神神社は「元伊勢」でありながら、 祭神が「タカミムスビさま」と「カミムスビさま」なんです。 しかも1箇所目は「アメノミナカノヌシさま」も入っていて ... また元伊勢に戻って・・・ 「名木林神社」 ここは、長良川のすぐ近くにありました~ で ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mojiyuu/11936074.html

◇武蔵と相模の境を流れる境川と鯖神社・祭神源満仲(46)
2009/8/5(水) 午後 9:56
... 境内には横浜市から名木の指定を受けた推定樹齢360年以上の「たぶの木」がそびえている。 参考情報:『相模国風土記稿』には中の宮左馬神社と同様にこの神社の記述はない。 『神奈川県神社誌』の由緒沿革は、「勧請年代不詳であるが、俚伝には ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/bosatsuyoideyo/39726834.html

◇赤根天神社と長岡京市 名木6 シイ
2008/12/17(水) 午後 10:11
... 当社は赤根天神社と称し、祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。 古い昔より、その神徳を願し、地域住民は家内安全、五穀豊饒を祈願して参り、 古い書物や今里自治会館に保存してある古文書にも色々と記録されている。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kurohaji2001/21069924.html

◆05253 発枳神社祭

2011年04月30日 | 日本の山車
◆05253 発枳神社祭
□所在地 京都府京丹後市峰山町橋木
□旧国名 丹後國
□現社名 発枳神社(からたちじんじゃ)
□旧社名 發枳神社
□祭神
トヨハヤヒノミコト 樋速日命
境内社
稲荷神社
 ウケモチノオオカミ 保食大神
愛宕祗社
 カグツチノミコト 軻遇突智命
□祭は10月上旬。
□山車
山車(太鼓神輿)一臺を曳く。
□汎論
 発枳神社は、延喜式神名帳丹後國竹野郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。発枳は【枳殻、また枸橘】とも書かれる「からたち」のことで、中国、秦の始皇帝が当方に求めた不老長寿の仙果【ときじくのかぐのこのみ】とは、この枳殻(からたち)のことだったとの説がある。発枳神社の社名にもなっている発枳は正字では【發枳】と書かれ、やはり「からたち」のことである。兵庫県出石町の出石神社に祀られる、アメノヒボコ(天日矛)が朝鮮半島から当地にもたらしたという伝承がある。「からたち」は日本には自生がなく各地に植栽されるものは、中国からの伝来で、原産地は揚子江の上流域といわれる。

◆05254 藤社神社祭

2011年04月28日 | 日本の山車
◆05254 藤社神社祭
□社名 藤社神社(ふじこそじんじゃ)
□所在地 京都府峰山町五箇鱒留
□祭神
ウケモチノカミ 保食之神
末社
大山祗社 大山祗神
武大神社 素佐之男命
天目一社 天目一箇命
天満宮社 菅原道真
弁財天社 市杵島姫神
和奈佐夫婦祠 和奈佐夫婦神(わなさふうふ)
□祭は十月上旬
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を引く。
□汎論
 藤社神社の社号の「藤」は、「泥(ひじ)」がなまったと考えられている。神社の後ろにある比治山(ひじやま)にちなむ神南備山と推定される。泥山は、ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)が連想されるが、この神社の祭神には見当たらない。おなじ
峰山町の矢田谷山、矢田神社には、ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)が祀られる。


◆05255 比沼麻奈為神社祭

2011年04月28日 | 日本の山車
◆05255 比沼麻奈為神社祭
◆05255 比沼麻奈為神社祭
□所在地 京都府京丹後市(旧峰山町)峰山町久次宮谷
□旧国名 丹後國
□現社名 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)
□旧社名 比沼麻奈為神社(ひちのまなゐじんじゃ)
□祭神
トヨウケオオカミ 豊受大神
ニニギノミコト 瓊瓊杵尊
アメノコヤネノミコト 天児屋根命
アメノフトダマノミコト 天太玉命
□祭は十月上旬
□山車
山車(太鼓屋臺)一臺を引く。
□汎論
 比沼麻奈為神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。三重県の伊勢神宮に鎮座する外宮の祭神であるトヨウケオオカミ(豊受大神)は、当社から分祀去れR他との伝承があり由緒ある釈迦句の神社で、【元伊勢】の名がある。
アメノフトダマノミコト(天太玉命)は、日氏の一族である、日置氏の祖神である。

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◇天橋立に行ってきました!宮津元伊勢「籠神社・比沼麻奈為神社」
2010/8/22(日) 午後 10:58
... 京都府宮津市字大垣、 籠神社 (この・じんじゃ) ・ 奥宮 真名井神社   ・京都府京丹後市峰山町、 比沼麻奈為神社 (ひぬまない・じんじゃ) がそれです。 今回、両神社に加えて   ・天橋立   ・智恩寺   ・大宮売神社 にお参りさせていただき ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/61013674.html

◇写真で綴る「京丹後市風土記」・峰山町編④
2009/11/26(木) 午後 10:57
... 「比沼麻奈為神社」「慶徳院」は、次回にいたします。 赤坂今井墳墓(あかさかいまいふんぼ)‥国指定史跡‥峰山町赤坂 赤坂今井墳墓は、 京都府の北部、丹後半島の中央部に所在する弥生時代終末期前後の巨大な墳墓。 この墳墓は ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/gonngennsann629/49780459.html

◆16442 矢田神社

2011年04月28日 | 論攷 延喜式神名帳
◆16442 矢田神社
□所在地 京都府京丹後市峰山町矢田谷山
□旧国名 丹後國
□現社名 矢田神社
□旧社名 
□祭神
イカガシコオノミコト 伊加賀色許命(伊香色雄命)
□汎論
  矢田神社は、延喜式神名帳丹後國丹波郡に記載される、丹後國六十五座のうちの一座。祭神のイカガシコオノミコト(伊加賀色許命、伊香色雄命)は、ニギハヤイノミコト(饒速日命)六世の孫だといい、物部氏の祖先である矢田部氏を祖とするいわれる。野田川町には、物部神社がある。
しかし、もとは羽衣天女である天酒大明神豊受賀能売命だったといい、明治四年にイカガシコオノミコト(伊加賀色許命。伊香色雄命)となった。
境内には五面の【社日塔】とよばれる石塔があり、五面は、
オオナムチノミコト(大巳貴命)
ウカノミタマノカミ(倉稲魂命)
スクナヒコナノミコト(少彦名命)
ハニヤスヒメノミコト(埴安媛命)
アマテラスオオミカミ(天照皇大神)
をあらわしていて、かつては出雲系の神を祀る神社であり、アマテラスオオミカミ(天照皇大神)は、イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)【日命】が置き換えられたかもしれない。
 【矢田】の名称は、『丹後国風土記・逸文』にある【比治の天女】と関わりがあるという説があり
天女が養父(ヤブ)から、矢田(ヤタ)に移ったのだという。【日氏】を祀る神社だったことも否定できない。
 徳島県吉野川市川島町桑村には、伊加加志神社(いかがしじんじゃ)があり、イカガシコオノミコト(伊加賀色許雄命)、イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)の神が祀られている。
 イカガシコメノミコト(伊加賀色許賣命)は、開化天皇の后女で、崇神天皇の母にあたる。通称を【ヒノミコト・日命】と言い、吉野川市川島町では、この神社を【日命大明神】と称していたという。

◆01747 福知山の播州歌舞伎

2011年04月26日 | 日本の山車
◆01747 福知山の播州歌舞伎

 福知山市の北部を流れる由良川は、さらに北に流れて丹後半島の由良で、若狭湾に入る日本海に注ぐ川であるが。研究者によると、太古の地質時代には、由良川は現在の綾部市から長田野を通り、兵庫県の竹田石生(いそう)を経て加古川にいたり、播州で瀬戸内に流れる川だったという。地殻の変動により、丹波山地が隆起し、大江町あたりが沈降して流れが変わったということのようである。加古川の堆積積土壌には由良川と同質の成分が層をなしているのが見られるとのことである。
 石生は分水嶺となっていて、ここでは一本の川が中央で二つに分岐し、分かれた水は日本海と瀬戸内海に流れる水流に分かれるのである。このあたりの海抜は百メートルにも見たないらしい。氷上郡の青垣町に古い友人がいて、案内してもらったことがある。
 古代から、中世、さらに近世にいたる歴史には、河川の流域文化が一体となっている例がよく見られる。福知山の播州歌舞伎はその好例といえないだろうか。
 【播州歌舞伎】は、その名称でもわかるとおり播州起源である。元禄時代(一六八八-
一七〇四)に、加西市の北条で始められたとする高室歌舞伎(農村歌舞伎)をその淵源とし、高室の座は昭和十二年頃までは続いたといわれるが、このころに消滅した。
 しかし、兵庫県多可郡多可町中区の【嵐獅山一座】が、その伝統を今も継承している。
高室には、化政期といわれる江戸時代でも華やかな一時代であった文化・文政時代には、高室にもこの時代の役者の碑が残される。
 福知山市でも宝暦年間にはすでに歌舞伎村があったと伝わり、福知山の【嵐玉若座】が御霊神社の祭礼などで歌舞伎を上演していたといわれる。
このように庶民の人気を集めたびたび興行されたようであるが、奢侈を禁じる幕府の度々の禁令により中止となっている。しかし、この程度では庶民は屈することなく、万歳狂言だとの口実で取締りを逃れている。

 藝題(外題)には、
壽三番叟
源平咲分牡丹の曲
繪本太功記
壺坂雲験記
假名手本忠臣蔵
加賀見山旧錦繪通
一ノ谷嫩軍記
義經千本櫻吉野山道行ノ場
傾城阿波鳴門 どんどろ大師の場
御所櫻堀川夜討 三段目弁慶上使の段

など、播州と共通する演目がある。
 また、丹後方面の舞鶴、宮津、加悦谷(かやだに)などからも依頼を受けて出向き山車の上でも歌舞伎を上演したことがあったようである。

□典拠
・播磨鑑
・京都府の地名 1981年(昭和56年)3月 ㈱平凡社
・福知山市史 平成4年3月 福知山市役所
・御霊神社 ご鎮座三百年 新発見社宝図録 平成18年9月14日 御霊神社三百年祭奉祝事業委員会
・農村舞台と播州歌舞伎(昭和四十八年)
・芸能史研究

◆01439 御勝八幡宮の田楽

2011年04月25日 | 日本の山車
◆01439 御勝八幡宮の田楽
□社名 御勝八幡宮(みかつはちまんじんじゃ)
□所在地 京都府福知山市上野条
□祭神
□祭
□山車
山車はない。
□汎論
 御勝八幡宮は、福知山市の北部にある御嶽山(現在は御岳、あるいは三岳と書かれる)の東麓にある神社。創祀は不詳である。御嶽は沖縄の御嶽(うたき)が北上したものと推定されるが確証はない。おそらく神南備山であり、かつては修験の山として知られ、三嶽神社祭礼が行われてきた。春と秋に各村落がそろって御嶽山に登山して神社に拝礼し藝能を奉納したと伝わる。古い繼軆の古代祭祀の姿を彷彿とさせるが、現在は登山と藝能は行われていない。御勝八幡宮は三嶽神社の里宮だったと推定されるが、これも現在に伝わる資料がない。
 25年に一度行われる御勝八幡神社の大祭には、上野条(かみのじょう)の紫宸殿田楽(ししんでんでんがく)。天座(あまざ)の田楽。下野条(しものじょう)の三嶽練込太鼓(みたけねりこみだいこ)が奉納される。これはもと、御嶽山の山頂にある三嶽神社に奉納されていたものである。
 上野条紫宸殿田楽は社伝の前に正装した楽人、十六名によって行われる。神社正面に向かって【びんささら】が左右に六名づつたてにならび、その間の前列に二名の締太鼓、後列に二名の笛二名がはいる。全体としては、各辺六名で構成される四角形に並ぶ。
 田楽の所作は楽にあわせて行われ、太鼓は左脇。びんささらは正面にささげるようにしてもたれる。
 所作は、足を曲げ腰を落とし、その姿勢で左右に移動する。
 天座の田楽は、裃姿の男子が、鳥とび、びんささら、猩々の三種目を奉納する。「烏とび」は、三名の踊手が日の丸の入った扇を目の前でかざしながら舞い、ときどき左右に飛ぶ
にとぶ。「びんささら」は、十二名が横二列任あって正面を向き、定位置で舞う。
「猩々舞」は、赤い髪、赤い羽織、赤い着物、赤い袴の赤尽くしの衣装で能楽でも知られる猩々を舞う。ときどき酩酊姿の所作が入る。二名が扇をもって行う相舞である。
 古い形態をよく伝える伝統芸能として知られ、烏とび、びんささらは京都府登録無形民俗文化財。下野条の三岳練込太鼓は福知山市の指定無形民俗文化財となっている。

□外部リンク
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◇金砂郷神社大祭礼の再現 ③
2010/5/12(水) 午前 5:09
... なんと、かの由緒ある東金砂郷神社の出で、水戸の護国神社の神主さんです。  ですから、御利益こぼれんばかりです。 装列の方ですが、、田楽舞いの主役の天狗を先頭に、氏子総代、水木ささらと笛部隊、太鼓部隊、 真榊(まさかき)隊と続き、そして ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hitachi_daisuki/33651443.html

◇田楽 田植え歌 田囃子
2009/8/27(木) 午後 9:32
... さらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。 ... 白鬚神社の田楽(2000年12月27日 佐賀県) 都々古別神社の御田植(2004年2月6日 福島県) 食べ物 料理の田楽については、味噌田楽を参照のこと。田楽の芸に高足という ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mitosya/29186625.html

◇壬生の花田植 広島県北広島町(旧千代田町)
2009/5/31(日) 午前 6:56
... 継承し現在に至ってるそうです ささらを持ったサンバイの指揮で大太鼓 ... 12:00~壬生小子ども田楽(壬生小学校出発) 12:30~本地花笠おどり(壬生小学校出発) 13:00~飾り牛 13頭(壬生神社出発) 13:40~壬生田楽団(高峰会館出発) 13:40~川東田楽団(壬生小学校 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mimatyu2000/58136255.html

丹生神社 秋祭り
2008/10/31(金) 午前 2:45
丹生神社 秋祭り 田楽横とび              2008年10月19日撮影                      毎年 ... 舞殿に登ってから三周した後で、田楽が奉納されます 子供達が元気ですね。 ささら(楽器)を中央に立てて扇で扇子を両手で挟ん ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/nekozero54/55661689.html

◆谷口與鹿 柿のお礼

2011年04月23日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 柿のお礼
 與鹿の悪戯盛りの子供のころの話である。
 高山町の南部、宮川の西は昔は大灘(おおなだ)といっていた。ここに徳兵衛と呼ばれた旧家があったが、畑に大きな柿が実るのであった。大きな果実の甘柿で、近在の人は次郎柿とよんでいた。今と違って菓子などない時代だから、秋になると皆うらやましげに見上げるのだったが、この家の主人というのが稀に見るけちで、この柿を口にした人はめったになかったのである。
 柿が実るころになると高山の町のほうから商人に雇われた若者が二、三人やってきて、天辺に一個を残し、すべてもいで町に運んでしまうのが常であった。
 この柿に目をつけたのが、例の鐡(のちの山岡鐡舟)と五郎(のちの谷口與鹿)である。
 主人の不在を狙って、この柿の木によじ登り、次から次ともいで、たらふく食った後は「あじか」とよぶ小籠につめこみ、ちぎった柿をこれに要れ、しめしめと柿の木を降りてきたまではよかったが、地上に下りたとたん、大きな怒号が飛んだ。いつの間にか主人が帰り、おりてきたら縛りあげようと、丈夫な荷縄を二筋、手にさげて待ち構えていたのである。
 悪いところで捕まってしまった二人は、頭を張り飛ばされ、しこたま背中をどやされ、柿木を背中にしてがんじがらめに縛り上げられてしまった。約半日ちかくも縛られていた二人は、あたりに宵闇が迫り、あたりが暗くなってくると、さすがに心細い。山の秋は日の暮れるのも早く、やがて、星が瞬き始めると、気温も下がってきて、寒いのと心細いのとで、めそめす泣いていると、ころはよしと、徳兵衛の親父がやってきて、
「こら、懲りたか」
 と聞き、こっくりすると縄を解き、また二、三発張り飛ばして、やっと許してくれたのだった。

 今の若いかたらには想像もつかないだろうが、昔の農家は山沿いに家を建てることが多く、しかも厠は、家から張り出した懸崖のような造りで、下を小川が流れていて、二、三階の高さから用を足すというような家が結構あったのである。言うなればこれも昔の水洗トイレかもしれない。

 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)がこのまま黙って引っ込むはずがない。
 しばらくたって、ほとぼりの冷めたころ、二人は相談してなにやらこそこそ細工をしていたようだったが、やがてそれもすんだと見え、ふたりは顔を見合わせてにっこり笑うと意気揚々と引き上げて行った。
 徳兵衛の家の異変は翌日に起こった。
 肥満の徳兵衛が厠に入ろうと一歩踏み込んだところ、左足がめりめりめりという大きな音とともに床板を踏み抜いてしまい、あわてて下ろした右足も同じようにめりめり、便器には尻を突っ込むとそのまま動けなくなってしまった。
 しかも床を踏み抜いたときの床板がささくれだって、脛から腿にかけて無数の棘となって突き刺さり、赤い血がぽとりぽとり……。
 おかみさんと娘は、実家の祭で山田の在所に里帰りしていて、呼べど叫べど誰もきてくれない。
 あせれど、もがけど、ついに出ることができないまま助け出されたのは、翌日の昼過ぎ、裏道を通りかかった農夫が、血に染まった脚が二本上からぶら下がっているのを見つけたときだった。
 鐡(山岡鐡舟)と五郎(谷口與鹿)が、便所の踏み板を裏を削り取って二分(五、六ミリメートル)ばかりの厚さにしてしまっていたのだった。
 徳兵衛の脚は腫れあがり、ひりひり、ちくちく、うんうんうなりながら三、四日ばかり寝込んでしまったのだった。 
 「忌々しい、くそがきめ……! 今度見つけたらただではおかんぞ……!!」歯噛みしながら心に誓ったのだった。
 しかし、狭い町である。師走、二十四日市の雑踏で賑わう高山の町へ出かけときこのくそがき二人を見つけたのであった。
 「このくそがき!」
 思わずこぶしを振り上げ思いっきり二人の頭を殴りつけたときだった。
 「何をしている!」
 見ると立派な武士が三名この様子を見ていたのである。
「お代官様の若さまを何で殴っておるのじゃ。ちょっと番所まで来てもらおうか」
「ひえーっ」
 徳兵衛はまっさおになって震え上がり、その場にへたりこんでしまった。
 高手小手に縛り上げられ、引っ立てられた徳兵衛、もう命もないものと思うと口惜しいやら、悲しいやらで、顔は涙でぐちゃぐちゃ。お白洲に引き立てられ神妙にうずくまっていると、無念さがこみ上げてくる。正面の襖が開けられ、小野朝右衛門代官(郡代)が正座に着いた。
 「これ、そのものの縄をとけ」
 配下に命じると、声をかけた。 
「これ、徳兵衛とやら、うちのせがれが申し訳ないことをしたのう」
 徳兵衛は声も出ずその場にひれ伏してしまった。
小野朝右衛門は笑いながら
「菜根譚にのう、柿は十個もらったら三つはひとにあげるのがよいとあるぞ」
「へへえ……、恐れ入りましてございます」
結局、何のお咎めもなかったのであった。

 谷口與鹿の幼少時は、相当な悪戯好きで、周りを閉口させることがしょっちゅうだった。師匠の中川吉兵衛が、
「お前の親は左甚五郎のように立派な大工にあるようにとおまえに五郎と名前をつけたが、どうもろくでもないことばかりして……わしがお前にもうひとつ足して六にしてやろう」といった。
 それ以来、与六というようになり、長じてからは與鹿と書くようになった。

mat**aneh*raさん ご来訪ありがとうございます。

2011年04月21日 | 日本の山車
mat**aneh*raさん ご来訪ありがとうございます。
貴方のブログを興味を持って拝見しました。なかなかの卓見だと感心しています。陳壽の『三國志、魏書・東夷傳(通称、魏志倭人伝)は、現在における日本についての最古の記述であり、非常に貴重ですが、その記述をめぐっては謎が多く、研究者の解釈は【百人百説】で、そのいずれの説も大変興味があります。
 中国から倭にいたる経路である、当時の朝鮮半島の帯方、樂浪は、中国から長官が派遣されて治められていたといいます。また同書に拠れば、
 對馬は對馬國。
 壹岐は壹岐國。
 であり、三世紀には邪馬壹國と等格に扱われる國として中国に認識されていたことがわかる【倭の國】すなわち【日本の國】だったといえるでしょう。
 ところが、それよりもはるかに時代の下がる平安時代、十一世紀に完成した『延喜式神名帳』は
謂うまでもなく大和朝廷によって編纂された書ですが、こちらには【對馬】、【壹岐】であり、隠岐島、佐渡島がいずれも【隠岐國、【佐渡國】で一国として扱われているのに國として扱われていません。
 これはどう考えるべきでしょうか?
 では、どこに帰属する島だったのでしょうか?


 

◆左甚五郎 脊振の太鼓

2011年04月20日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 脊振の太鼓
 孟暑の昼下がり、筑前から肥前にいたる脊振の峠道を下っていた左甚五郎は、あまりの暑さに、傍らにあった傾いたお堂の縁に腰を下ろして休んでいたが、そのとき目の前を通りかかった奇妙な小僧に眼を留めた。その小僧は眼を真っ赤にして、眼のふちをほこりと涙で黒くしてめそめそ泣きじゃくっている。これを見て甚五郎は小僧に声をかけた。
 「見かけない小僧だな、虎の皮のパンツなどはいて」……といったかどうかわかりませんが、子供をあやしていると、ようやく泣きやみ手にした太鼓を甚五郎に見せた。
 「ふーん、どうやら壊れてしまったな?」
 というと小僧は「お父うと、おっ母あに叱られる……」
 「よしよし、わかった。おじさんが何とかしてあげよう」 
 甚五郎は、お堂の片隅から破れ太鼓の埃を払い、欅を刳り貫いて、壊れた太鼓と同じようなものを作ってやった。子供の喜びようはひととおりではない。
 そのとき、どこでみていたのか小僧の親らしき人影が目の前に現れた。虎の皮のブラジャーをしているほうは、どうやら母親らしい。
 小僧の父親は甚五郎の作った太鼓を打つとにっこり笑って礼を述べた。
 「……実は私らは、雷神の夫婦でございます。私らが眼を離した隙に倅が大切な太鼓を持ち出して遊んでいるうちに、うっかり雲の上から落としてしまいこのように壊れてしまいほとほと困っておりました。おかげさまで前よりいい音がします」
「ふーん、そうだったのか……」
「ところで、あつかましいがお願いがございます」
「なんじゃな?」
「そこのあまった皮で同じような太鼓をもうひとつ作っていただけませんか」
「造作も無いことじゃ」
 できた太鼓を父親に見せると、指でトントンとはじいていたが、
「まことに結構でございます。これを貴方さまにさしあげます」
「……これは、いまわしが作ったものじゃ」
「……、それもそうで……、ところで、もし雨がいるときはこの太鼓をたたいて私めを呼んでください」
 雷神の夫婦は丁重にお礼を述べると、こどもをつれていずこへともなく立ち去った。 
 甚五郎も山をくだり、鍋島の御城下までくると一軒の旅籠を眼にして暖簾をくぐった。
「ごめんよ」
「へい、いらっしゃいま……」
「番頭さんかな? ひとつ頼みがあるのじゃが……」
「へい、なんでございましょう?」
甚五郎は首からぶら下げたきたない太鼓を指差し、
「実は路銀がないのじゃが、この太鼓で、今夜一晩泊めてもらえんじゃろうか? いや、酒と飯があればそれで十分……」
番頭はそれを聞くと、みなまで言わせず激しい剣幕で怒鳴りつけた。
「ば、ば、馬鹿にするな……とっとと、失せてしまいやがれ!」
 その大声が奥にまで届き、何事かと宿の主人が出てきた。番頭から話を聞くと、
「番頭の失礼をお許しください。結構でございます。手前どもは御客人をお泊めするのが稼業でございます。どうぞお泊まりください。だがひとつお詫びがあります」
「なんじゃな?」
「じつは、先月梅雨明け以後、この一ヶ月あまり雨が一滴も降らず、井戸が干上がってしまって、飲み水にも事欠く始末……、お風呂を差し上げられません」
「何じゃ、そんなことか、わしは酒があればそれで結構……あ、それからな、明日夜が明けたら、その太鼓を二つ三つ叩いてみてくれ」
宿の主人は、奇妙なことを言う客だと思いながらも翌朝目覚めると、表に出て、
どん、どん、どーん、と太鼓を打ってみた。
 すると、雲ひとつ無かった空に黒雲が湧き上がり、
ごろ、ゴロ、ゴロ、じんんごろう……と雷が鳴り響き、みるまにザーッと雨がふりだしたのだった。
 それ以後は、日照りが続くと、
「及慈雨の甚五郎さま、どうかひと雨お願いします」と祈り、太鼓をどん、どん、どーん と打つと、必ず雨が降るのだった。
 「肥前雨乞い太鼓浮流】のはじまりだそうである。

◆谷口與鹿 宗猷寺の鐘

2011年04月20日 | 日本の山車 谷口與鹿
◆谷口與鹿 宗猷寺の鐘
 また、碌でもないことをしおって、この悪がきが!
 真っ赤な顔をして、大声で怒鳴っているのは飛騨高山の東山にある宗猷寺(そうゆうじ)の住職である。
 叱られている悪童は、まだ幼いころの六(のちの谷口與鹿)、それに高山の郡代所(代官所)のお代官さまの倅の鐡(てつ、鐡太郎、のちの山岡鐡舟である。
 悪がきが叱れている話のいきさつはこうである。
 ある秋の夕暮れ刻、いつものごとく住職が鐘を撞いていると、その下でふたりの悪がきがじっとそれを見上げていた。住職は思わず、二人の少年に、
「どうしたこの鐘がほしいのか?」
ときくと二人の少年はこっくりと頭を下げ、口をそろえて、
「ほしい」
といった。住職は笑いながら、それならおまえたちにこの鐘をやろうといった。
 その約束を覚えていて少年らは悪がき十数人とともにやってきて、この鐘をはずそうと、鐘楼に登って梯子を掛けて鐘をはずそうとしていたのである。
 住職はかんかんに怒って、
「だれが、この鐘をやるといった! やるのは音だけじゃ」
 少年らは神妙に叱られ、その日はすごすごと帰っていった。
 しばらくたったころのことである。外が騒がしいので住職が表に出てみると、例の悪がきどもが、鐘を柿渋を引いた茶色の油紙でそっくりつつみ、更にその上を唐草の一反大風呂敷を四枚もつないで鐘をそっくり包んでいる。
 住職は青くなった。
「今日は鐘の音のほうを貰いにきました。大切なものなのでいまこうして丁寧に包んでいるところです」
 なるほど撞木の当たるところには前後に大きな座布団二枚があててある。
 住職は青くなった。
 住職は代官所に願い出てなんとか堪忍してもらったのだった。

 宗猷寺には、山岡鐡舟の父母、小野朝右衛門と磯女の墓所がある。


◆00491 大津曵山展示館

2011年04月20日 | 日本の山車
◆00491 大津曵山展示館
□所在地 大津市中央一丁目二-二七
電話 0775-21-1013
□汎論
 大津曵山展示館は、大津市の京阪電車浜大津駅に近い目抜きの商店街丸屋町商店街の南側にある。大津祭で曳かれる豪華な山車十三臺のせつめいをはじめ、実物大に複製された【西王母山】が祭そのままに展示され、上臺では唐子が桃から生まれるからくり戯が電子技術を駆使した精巧な動きで再現され、展示館の二階からはその動きをすぐ眼の前で手にとるように観覧できる。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/

◇お伊勢参りハイキング(天理 桜井)
2011/4/3(日) 午前 4:19
... ほとんど聞き取れず、先導の菅笠をかぶった人の動きにつれて集団は移動開始。商店街の道幅いっぱいになって進む集団は軍隊蟻かスペイン ... 五智堂からすぐのところに黒塚古墳があり、傍らの展示館のぐるりで昼食休憩です。このコースは途中にコンビニ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/osh1dor1/2880535.html

◇大津祭
2005/9/16(金) 午後 9:42
... その動きが面白い。曳山は祇園祭の山鉾に似ていて ... この曳山を展示した「大津祭曳山展示館」が京町商店街にある。JR大津駅を降りて、湖岸道路の手前、京町商店街を左に折れ、国道161号線を越えてしばらくいくと左手にある。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/bigbear1423/11571559.html

◇ホコリ 見つけました。
2006/8/9(水) 午後 3:38
昨日の午後、全国商店街サミットの開会式のアトラクションに予定しているからくり人形師の萬屋仁兵衛 ... 犬山市では文化史料館別館(からくり展示館)を設けるなど、市をあげて犬山の誇る ... 「これは今年の秋の高山まつりに出る山車のからくりです。修理ですが ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/potos_muramasa/38642772.html

◆04941 長浜曳山博物館

2011年04月11日 | 日本の山車
◆04941 長浜曳山博物館
□所在地 滋賀県長浜市元浜町 14-8
電話 0749-65-3300
FAX 0749-65-3440
□汎論
 滋賀県長浜市で行われる【長浜曳山】は、祭礼で山車が曳かれるようになった歴史上の記録では京都の祗園祭についで二番目に古い。しかし、山車の形態と発展の過程はまったく異なるといってよいだろう。現在観られる長浜の曳山は、山車の工藝美、可愛らしい子供らが演じる子供歌舞伎、【しゃぎり】とよばれる山車囃子が渾然とした様式美を見せてくれる。
 その山車文化は地理的には、西は京都府の舞鶴から丹後半島、北は北陸街道(ほくろくかいどう)を遡上し、加賀小松(石川県小松市)、越中石動(いするぎ・富山県小矢部市)、越中出町(富山県礪波市)、越中上市(現存せず)、越中入善(現存せず)、飛騨古川(飛騨市)、飛騨高山(高山市上町、現存せず)、東は、美濃の西濃地方(岐阜県)垂井町、揖斐川町、養老町室原、大垣市の一部など、広範囲に分布し、且つ、その建造には名匠藤岡和泉が出造りしたものがある。いかにその影響が大きかったかがわかる。
 長浜市は古くは今濱(いまはま)とよばれていたが豊臣秀吉が入府し、長濱となった。秀吉の男児出生を祝し秀吉より町民に砂金の祝儀が出て、これが曳山の始まりになったと解説されたものがあるが、実際は逆で、城主である秀吉に祝い事があったので、町民らがこれをよろこんで、慶祝の山を曳き、これに対して秀吉から褒賞が出たという説がある。それ以前、既に簡素な藝山が存在したという説があり、私的にはそちらの説を採りたい。
 長浜の曳山が巧緻な工藝美を呈するのには、当地が中世以降浄土真宗の信仰の厚い土地で、先祖を供養するための佛壇が作られ、【濱壇】とよばれる、長浜仏壇様式が完成していたことを故なしとしない。
 この方面の優れた工匠であった藤岡和泉およびその一門の功績は大きい。
 長浜の曳山には、謡曲の【鶴亀】にちなんだ【月宮殿】があるが、おなじ名称の【月宮殿山】が大津市にあり、現在では一般的な【鶴亀】ではなく、【月宮殿】を號(なの)るのは同一文化圏を示しているといえるだろう。

□外部リンク
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◇ピッポリーノ行く! in 犬山
2010/12/6(月) 午後 8:08
現存する日本最古の犬山城 こんばんはピッポリーノです。 本題に入る前に、一つサッカー日本代表の話題から。 ... ま~正気を取り戻し、秀吉の備中大返しではないが、なんとか名古屋に舞い戻り ... また、今日は、全国の山車が集まるというイベントが東京 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yosshy19731219/36630263.html

◇弘前城(2010年8月)中編
2010/10/31(日) 午後 11:34
... この櫓で、藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になった。 【下乗橋】 ~現地看板より 本丸と二の丸を結ぶ ... 二の丸に現存する三棟の櫓と同規模となります。 櫓の基礎及び石段に ... 2代藩主信枚が太閤秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/komoda_amb2004/20660823.html

◇九州は本当に魚が美味い
2010/1/18(月) 午後 4:24
『飴源』を出て唐津城に向かう。 ここは豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が建てたそうだが、現存のものは1966年に再現したもの。だから中はコンクリート ... のヤマ(青森のネブタみたいに巨大な山車である)の『からの曳山(ひきやま)展示場』を見た。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/todakotaro/60819649.html

◇名古屋まつり「英傑行列」
2007/10/15(月) 午後 8:13
... 豊臣秀吉とねね ... 700人を従えて行進しました。今年はゲストとして大河ドラマ「風林火山」の放送でお馴染み「山本勘助・由布姫」が山梨より参加していました。  また、名古屋市内で現存する「山車」9台が勢ぞろい、なかなか9台がそろうことがなく ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/take_take_g3/36995504.html

◇#-小江戸川越の文化を探る!
2006/10/27(金) 午後 0:59
... 川越まつり で実際に曳かれている本物の山車2台を、定期的に入れ替えながら展示。豪華絢欄な山車の迫力に圧倒されます。 ■開館時問   04月~09月午前9:30~午後6:30(入館 ... 現存している玄関部分と移築復元した家老詰所を ... 豊臣秀吉の全国統一に際して開城し ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/42857909.html

◆31887 浅妻川

2011年04月10日 | 日本の山車
◆31887 浅妻川
□滋賀県米原町
□汎論
   小々浪や 八十の湊に吹く風の 身に沁み染むる 比叡おろし
   千舟 百舟艪をたてて 
   入るや岸根の柳影……

 長唄の【浅妻川(あさづまがわ)】は米原市朝妻のことだとされる。
 
 朝妻は、『和名抄』には「安佐都末」の名称で記載があり、古くは中山道の湊町で、後に米原に繁栄が移るまでは朝妻と大津を結ぶ海運があった。寿永の乱に敗れた平氏は、都落ちし、行く末を失った女房たちが遊女に身を沈めた故地とされる。英一蝶が描いた、烏帽子、水干姿の白拍子(遊女)が鼓を前に置き、客をもとめて入江に船をながした画はよく知られる。
 飛騨高山の山車(屋臺)の見送圖を入れる入れ物に【海上安全】とかかれたものがあり、これは、大津湊から朝妻までの安全を祈願したものという解説があるが、これは誤りで、文字通り、西方から長崎に物産を運んだ清(しん)の船荷として書かれたものである。

◆00389 稲村神社祭

2011年04月10日 | 日本の山車
◆00389 稲村神社祭
□所在地 滋賀県彦根市稲里町
□祭神
□祭は四月中旬。
□汎論
 稲村神社創祀は詳らかにしないが、現在地の南麓にある塚という地に、日本武尊の子稲依別王を祀ったとの伝承がある。当地、平流(へる)十三ヶ村の鎮守として祀られてきた。現在は氏子九町の鎮守である。現在の社殿は昭和三十三年の遷座と伝え、【太鼓登山】といい、九区から大きな太鼓臺をかついで神社に奉納していたが、近年はすべてが山に上がることはなくなってきている。近隣射はこの太鼓臺が共通し、薩摩町の菅原神社境内にも太鼓臺を収める収蔵庫がある。
 琵琶湖大橋から彦根、長浜にいたる湖岸道路はよく備された気持ちのよい道路で、随所に駐車場が設けられている。松林がつらなり、琵琶湖が望まれ、天気の良い日は湖北の比叡山から、比良連山、竹生島が遠望できる。夏は水泳場に人が群がるが、冬は一変して吹雪舞う荒涼とした冬景色となる。この冬景色にも味わいがある。
 近くにオーミケンシ(近江絹糸)の趣のある工場があったが、取り壊されて、
スーパーマーケットになった。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇「土器どきフェスタ」
2008/12/6(土) 午後 9:42
今日は朝から阿讃山脈は冬景色です。 僕は朝から雪の降る中、明日の「土器どきフェスタ ... 農業経営高校の拓心太鼓や大杉神社の獅子組、バルーンショーやクリスマスリース、しめ縄づくり体験などがありますので、雪景色をみながら温泉につかる ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/pon1192bakufu/45833248.html

◇節分祭・豆まき・中野原稲荷神社
2008/2/3(日) 午後 4:22
... 辺りは真っ白の冬景色。 これもまた絵になる光景だが、中野原稲荷の節分祭もまた絵になる光景だった。 太鼓の音とともに、傘を被った宮司を先頭に神官が続く。 その後には ... しかし、田舎の神社は、面白いことが起きる。 本殿の祭壇には ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/ihatovnokaze/40033904.html

◇幽斉ゆかりのこと―能18-2―
2006/12/21(木) 午前 8:26
... 太鼓なし。 ワキ:神職、アイ:従者、ツレ:菜摘女、面「小面」 シテ:女、面「若女」、衣装は唐織。 ... 勝手神社の神職にこのことを告げる菜摘女に先程の女の霊 ... 春が来たとはいえ、吉野山はまだ冬景色で、松にかかる白雪も寒々として見える。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/aun1949fuu/43207647.html