暘州通信

日本の山車

00324 飯能夏祭

2008年07月31日 | 日本の山車
00324 飯能夏祭
埼玉県飯能市
八坂神社
□祭は七月中旬。
屋臺の古い遺構である、朝顔屋根をもつ床のない底抜け屋臺「祇園屋臺」を曳く。
屋臺囃子の演奏者は、屋臺の移動にあわせて歩きながら演奏を行う。
埼玉県では、文政九年(一八二六)の「川越氷川祭礼絵巻」に描かれ、祇園囃子は、入間市の高倉や新久の囃子連から伝えられたという。底抜け屋臺の大太鼓は、山車や屋臺で用いられるのとは別の大太鼓で、締太鼓二つは、山車や屋臺で使われるものと同じ大きさである。

□参考
底抜け屋臺
富山県東砺波郡城端町、城端祭
富山県東砺波郡福光町、福光祭
富山県東砺波郡福野町、福野祭
富山県東砺波郡井波町、井波祭
その他。


00322 武豊富貴祭

2008年07月31日 | 日本の山車
00322 武豊富貴祭
愛知県武豊町富貴
富貴八幡社
白山社
□祭は四月上旬。
山車二臺を曳く。
□山車
・本若車 富貴組
横松村(現阿久比町)の江原庄蔵、地元の田中菊蔵により明治元年に建造。
彫刻は瀬川治助で、檀箱の牡丹と唐獅子。脇障子の桃源、前山の蟇股に粟穂に鶉を彫る。からくりがあり。上山では逆立ちする唐子が演じられる。
水引は昭和四年で八幡にちなむ鳩の刺繍。
大幕は無地の緋羅紗。
・天王丸 市場組
棟札が残されており「文久三年(一八六三)五月奉再造船車」とある。山車は当時は船車とよばれていたようである。
別の記録によれば、常滑の利右衛門と塗屋太蔵が文久二年十一月の建造船。上野間の丈助が臺を作ったとある。
彫刻は中野甚右衛門重富で、前棚の力神と牛若丸を彫る。
水引幕は草緑。波に二羽の鶴を配する。
大幕は緋色。

00321 大迫行燈祭

2008年07月31日 | 日本の山車
00321 大迫行燈祭
岩手県花巻市大迫町
□祭は八月中旬。
行燈を乗せた山車四臺を曳く。
□汎論
花巻市大迫町で、盆の伝統行事として行われる、行燈祭(あんどんまつり)は、天保の大恐慌で、餓死した人たちの霊を弔うため行われるようになったという。祭には、太鼓、音頭上げの競演、大迫音頭の踊りが行われる。
天保の大飢饉は天明期の飢饉に次ぐ悲惨なもので、しかも波状的に繰り返し、翌年の種籾まで食い尽くすという惨状で。飢饉は全国に及んだが、東北地方は冷涼な気候と相俟って被害者の数が多かった。
大迫町の大行燈は、富山県福野町の夜高、新潟県弥彦神社の行燈、秋田県野沢町の行燈、大行燈は青森県各地に見られるねぶた、ねぷたに移行する祖形とも考えられる。
□問い合わせ
花巻市観光課
電話 0198-24-2111


00003 若一王子神社祭

2008年07月29日 | 日本の山車
00003 若一王子神社祭
長野県大町市俵町
若一王子神社
祭神は
アマテラスオオミカミ 天照大神
イザナギノミコト 伊弉冉尊
ニシナオウ 仁品王
イモヤヒメ 妹耶姫
境内社
八坂神社
□祭は七月下旬。
舞臺六臺を曳く
□山車
・大黒町
本座に大国主命を飾る。
天保九年に松本市本町二丁目が建造したものを、明治期になって譲りうけたという。現在松本市で曳かれる山車とは形態が異なるので改造されているかもしれない。
全体を黒漆塗りとし、多くの彫刻があり、欄間には蝦蟇仙人をはじめ多くの仙人が彫刻される。車輪を覆う輪掛は市松格子になっているのが目を惹く。四角い木を網代に編む独特の技法で、近年その作り方が解明されたが、長年謎であった。天保期の作とすれば、製作者は飛騨の匠であろう。市松格子は清見村(現高山市)に本歌があり、同村の了徳寺鐘楼、高山市内島川原町、日枝神社脇の和合神社に類作が残る。
前部は轅状、龍頭のつく楫棒がつき基部を力が支える。
・高見町
本座に獅子頭と油単を飾り、前に金幣をたてる。
・五日町
本座に白弊をたてる。
・六日町
本座人形は葛の葉で知られる安倍保名。
正面の欄間に四角く切った窓があり、そこから白い狐が頭と前足をだして所作をするからくりが行われ、お囃子にあわせて軽妙に操られれる。大町市では唯一のからくり。
・八日町
本座には白弊が立つ。
大町では唯一の二輪車。
・九日町
本座は娘道成寺で知られる安珍と清姫の人形。
上臺は朱の水引幕がかかり、柱には四本とも金色の大きな龍が巻きつく。九日にちなんで「旭」が徴として用いられ、「旭」と書かれた鬼灯提燈が軒にさがる。
上臺の勾欄は朱塗正面を開け、隅は刎ねない。上縁はおおきくしっかりした構造で金具が打たれる。
下臺は、正面は千本格子側面は竹の簾がかかるが、お囃子の演奏中は巻上げられる。
□汎論
若一王子神社(ニャクイチオウジジンジャ)の創祀は、祭神として祀られるニシナオウ(仁品王)、イモヤヒメ(妹耶姫)の夫婦神にはじまると推定される。
垂仁期に仁科盛遠が紀州熊野若一王子神社の分祀を受け合祀された。境内に八坂神社草葺の観音堂、三重の塔があり、境内社が多数ある。
上田市の生島足島神社、須々岐川神社、松本市の須々岐水神社など熊野ともかかわりが深い。
八坂神社は江戸期に居谷里の天王沢に水神として祀られていたもので、九日町を経て若一王子神社の境内に移された。見事な神輿がある。いまはあたらしい神輿を車輪のついた臺にのせて曳いている。江戸時代に悪疫がはびこったので祭が始まったと伝えるが、いまの若一王子神社の祭は祇園祭かもしれない。もっとも、黒塗りの臺車の三宝に俵の神饌は若一王子神社に供えられる。
神幸には可憐な稚児が供奉する。
大町市では、山車は舞臺といわれるが、すべて二層式で、上臺が本座、下臺が藝座となっており、下臺は小庇をつけ正面は千本格子にしているのは飛騨高山の影響を受けたと推定される。松本市の山車も飛騨高山の影響を受けており、飛騨春慶が掛けられたものが見受けられるが、大町にはない。
松本市より譲り受けた大国主命を飾る大黒町の舞臺が古く、八日町の舞臺が二輪なのをのぞけば基本型はほぼおなじである。
組ごとにみごとなお囃子が演奏される。幼い童子から成人まで地域の伝統がみごとに継承されている。山車(舞臺)は宵祭にコマクサ通に明かりを燈して曳き揃えられ、お囃子が演奏される。
□問い合わせ
大町市商工観光課
電話0261-22-0420


00309 大谷祭

2008年07月28日 | 日本の山車
00309 大谷祭
愛知県常滑市大谷
大谷八幡神社
□祭は四月上旬。
山車二臺を曳く。
□山車
・蓬莱車 浜条組
天保十三年(一八四〇)、阿久比町の岸幕善兵衛により建造。
彫刻は信州諏訪の立川常蔵昌敬。
からくりが行われる。前山は三番叟。上山は舌出し人形。
水引幕は波に雀。
大幕は近年新調された。波、海老「濱」の字を刺繍する。
先代の山車は、天保十一年(一八四〇)に大見村(現武豊町)に譲渡した。
・東桜車 奥条
大正七年の建造。工匠は阿久比町横松の江原新助。
彫刻は彫常。
からくりがあり、前山が三番叟。上山は舌出し人形。
水引幕は鶴。
大幕は赤羅紗。
先代の山車は明治初期に布土村平田(現美浜町)に譲渡している。




00307 亀山八幡神社祭

2008年07月28日 | 日本の山車
00307 亀山八幡神社祭
香川県池田町
亀山八幡神社
□祭は十月中旬
太鼓臺(蒲団太鼓)がでる。
□山車(太鼓臺)
・蒲野
・西蒲生
・中東蒲生
・室生
・平木
・浜条
・迎地
・北地
・上地
・中山
・吉野
・二面
・入部
(順不同)
□汎論
赤い蒲団を積み上げた太鼓臺は、伊勢音頭の唄で担がれる。
演技の際は、横に返すのが大きな特徴で、蒲団、横棒は地面につくことはない妙技が披露される。壺井栄の「二十四の瞳」で、大石先生が結婚式を挙げた神社で知られる。





31145 古墳と鳥居考

2008年07月11日 | 日本の山車
31145 古墳と鳥居考
三世紀末から七世紀にかけて築造された墳墓は「古墳」と定義され、その時代以外のものは墳丘墓という。あまり適切な分類とも思えないが、ここは通例に従っておこう。
古墳は外形の形式より、
一、円墳
二、方墳
三、上円下方墳
四、前方後円墳
五、前方後方墳
六、双方中円墳
などに分類される。いうまでもなく死者を埋葬する塚であるが、もとは外来文化であり、その形式については、前方後円墳などわが国での発展が認められるものがある。
大陸からの影響を強く受けているが、朝鮮半島南部では、国ごとに埋葬形式が若干異なる。朝鮮半島から渡来して帰化したし族は、当然故郷の形式の墳墓を作ることになる。
北九州各地には甕棺を伴うものが見られる二つの甕に死者をいれ中継ぎする。この同じ形式のものが朝鮮半島南部で若干見られるが、北九州より分布数は少ないとされる。
古墳文化の北上かもしれない。
埋葬方法から、竪壙式と横穴式に二大別される。
後者の横穴式古墳は、ごく一般的な形式である。開口部は南、ないしは東南にあり、棺を納める玄室、外部から玄室に至る羨道、入り口には鏡岩を左右にたて、上を庇状の大きな岩で覆う。
卑近な例だが、大きなまるい墳墓は、女性の妊娠した姿、玄室は子宮、羨道は産道、鏡岩は陰唇にたとえられる。
覆土がながれ、岩が露頭した形はギリシャ文字のΠ(パイ)の形をしておりドルメンに酷似する。
事実、明治五年(一八七二)-明治二十一年(一八八八)のあいだ十六年年間にわたって日本に招聘されていた、イギリス人のウィリアム・ゴーランド(William Gowland)は
滞在中に日本各地の古墳を研究しているが、興味あるのは古墳を「ドルメン(支石墓)」と考えていたようである。
朝鮮半島にも若干のドルメンがあるようだが、西および西北の中国からの渡来と見ているようである。
神社には鳥居が建てられている。神社により各形式があるが、鳥居の起源にはドルメンが考えられないだろうか。



34487 祇園祭の函谷鉾

2008年07月09日 | 日本の山車
34487 祇園祭の函谷鉾
今日と祇園祭で曳かれる函谷鉾(かんこくほこ)は、古くは「くわんこくほく」と書かれその記録は応仁期まで遡ることができるようである。
中国の函谷関にちなむとされるが、鉾と函谷関を結ぶ接点がなく疑問の余地がある。
もとは、各地に例が多い「閑鼓鶏」だったのではないだろうか。
もっとも祇園祭には別に「鶏鉾」がある。

32284 忌避された神社

2008年07月08日 | 日本の山車
32284 忌避された神社
三世紀から七世紀のあいだに神社が忌避された時代があったと推定する。
たとえば、皇室の正宮である伊勢神宮は、外に出され、皇女であるヤマトヒメ(倭姫命)が御神体とともに数年にわたって各地を遍歴したすえ、現在の伊勢の地に祀られることとなった。
伊勢神宮は、正宮とされる「皇大神宮(内宮)」と、「豊受大神宮(外宮)」がある。
皇大神宮の祭神はアマテラスオオミカミ(天照大神)、豊受大神宮の祭神はトヨウケノオオミカミ(豊受大御神)である。
創祀は、垂仁天皇期の紀元前六十九-七十年にヤマトヒメノミコト(倭姫命)が天照大御神を鎮座する地を求め、丹波、倭、紀乃国、吉備、大和、伊賀、淡海、美濃、尾張、伊勢などの各地を旅した末、現在の五十鈴川畔に到り、五十鈴宮を鎮座したという。
豊受大神宮は、雄略天皇期に丹波から迎えたという。
ヤマトヒメの旅はその行程をたどると、彷徨遍歴ともいいうるものである。
常識的に考えれば、皇室の御神体を遷すということになれば、行き先も定めず皇室の外に出すというような措置はまず考えられない。
皇室が伊勢の地を選んで本殿を建て、斎主としてヤマトヒメを選任するというのが筋であろう。表現が悪いが、アマテラスオオミカミ(天照大神)は皇室から外に放り出されたような有様である。
丹波を経たとあるが、この地には伊勢より創祀の古い「伊勢神宮」がある。
弥生時代の終焉期は、出雲の国譲りとほぼ重なると考える。
しかし、国譲りの行われた後も各地で相当のいざこざが生じている。換言すると、皇室に服命しない部族が相当あったと推定され、これらの多くは渡来系の氏族であったと推定される。
アマテラスオオミカミ以下、渡来系の祖神を祀る神社と氏族の存在は皇室にとってかなり厄介な存在であり、権威を脅かすものであった。
祖神を祀る神社は、仏教の導入と、寺院の建立に置き換えられた。四天王寺、法隆寺などの建立にはじまり聖武天皇により、東大寺が建てられ、各地に国分寺が建てられたのは、上代の皇室の政権の確立した時期でもあったといえようか。
このことは当然軋轢が生じ、蘇我氏と物部氏の対立を生んだ。
応神天皇(品陀別命)を祀る八幡宮は、いちはやく仏教と褶合し、僧形八幡神像が像造されている。
いうまでもなく、朝鮮半島からの文化伝来より、中国から直接渡来するようになっていった。中国への、唐、隋、宋へと留学僧が派遣されたのも仏教興隆の施策がとられている。その歴史遺産は正倉院御物に多くを見ることができる。
神社の維持形態として実権を寺院にゆだね、別当があたる例が多く見られる。別當(別当)がおかれない小規模の神社は「當人(とうにん)」があたった。いまも「党人、頭人」による祭が行われるのはそれであろう。
「本地垂迹」が敷衍してゆき、やがて神仏が融合するようになるのだが、桓武天皇による平安遷都以後、延喜年間に至って延喜式が定まった時期は、天皇の覇権が確立し、神社を認める復古が成立した時期と見られる。
要約すると、天皇の派遣が確立する一時期、障害となる神社が忌避された時期があると推定する。



36882 仏教の伝来

2008年07月07日 | 日本の山車
36882 仏教の伝来
仏教の伝来とは、国策として招聘したものであろう。その目的のひとつには皇室の権威を高めるため、意図的に朝鮮系ともいえる神社の勢力を抑圧する大義の名分でもあったと推定する。仏教の伝来はまた国内に波乱を巻き起こしている。
推古天皇期にいわゆる飛鳥佛が渡来し、あるいはつくられている。
渡来した飛鳥様式は、中国の北魏、雲崗から日本への渡来は直接渡ったもの、朝鮮半島を経由したものに二大別される。


37728 中国からの古代の道

2008年07月07日 | 日本の山車
37728 中国からの古代の道
古代の日本と中国を結ぶ道として確立していたと推定できるひとつは「魏志倭人伝(漢書東夷伝)」に見ることができよう。
「邪馬台国」をめぐって解釈に異説が多い書であるが、おおよそ争いのない部分として、挙げられるのは、「…郡より倭に至るには、海岸に沿い韓國をへて北岸狗邪韓國に至る七千余里。海を渡り、千余里で対馬國。 南に海を渡って千余里で一大國に至る。さらに海を渡ること千余里で末盧國。東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。東南の奴國には百里…」とあり、中国から沿岸沿いに、朝鮮半島を経て、海をわたり、対馬、壱岐(一大)、さらに海をわたって北九州の松浦(末盧)、糸島(伊都)から奴、女王國(卑弥呼の国)に到るというものである。
「女王國より以北はその戸数道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず…」とあって女王国がどこかは論議の的になっている。
三世紀には、日本から中国に貢物を贈る国がいくつか存在したこと。その旅程は、玄界灘をわたって壱岐、対馬、朝鮮半島ここから沿岸沿いに中国にわたるという道があったと推定される。


38228 三韓と日本との交流

2008年07月06日 | 日本の山車
38228 三韓と日本との交流
馬韓(ばかん)にはじまる、百済(くだら)。弁韓 (べんかん)にはじまる任那(みまな)。辰韓 (しんかん)にはじまる新羅とともに三国が存在した朝鮮半島は民族もやや異なり、争乱が繰り返されて、平和に治まっていたわけではない。
神功皇后の三韓征伐はよく知られ、山車のうえに三韓征伐する神功皇后と竹内宿禰(たけのうちのすくね)が飾られる。京都祇園祭の船鉾、秋の高山祭で曳かれる金鳳臺など例は多い。神功皇后と竹内宿禰はもともと大陸から渡来した渡来系の人物であり、三韓征伐とはいうなれば憂国の講和使節であったと考えられる。
三韓はのちの百済、任那、新羅、北部の高麗(高句麗)の時代になっても互いに相剋罷むところはなかった。
朝鮮半島から日本に渡来した民衆はかなり多かったと考えるが、そのなかには乱を避け、あるいは亡命し、あるいは新天地を日本に求めて来日したことであろう。
朝鮮系の新羅神社、百済神社、高麗神社、任那神社はそのまま祖先の来歴を物語るのであるが、日本に到った彼等朝鮮半島からの渡来民族は日本においても相争ったであろうことは想像に難くない。
想像を逞しくすれば、日本が朝鮮国家になっていた可能性をも否定できない。
では、なぜ日本は朝鮮(広義の)にならなかったのか。
紀元前すでに日本は中国に属する「倭」であり、日本を侵略することは、中国に刃向かうことをよく承知していたからに他ならない。
北九州の「志賀島」から出土した金印「漢委奴国王」にあるとおり、「漢の倭に属する奴」にみられるように、古代日本は漢の属国として朝貢していた。
侵すべからざる国だったといえよう。
そして日本は六世紀ころにはほぼ天孫族の支配権が及んでいたと推定される。

38227 辰韓

2008年07月06日 | 日本の山車
38227 辰韓
辰韓 (しんかん)は、朝鮮半島南部にあった「三韓」のひとつで、辰韓が存在したのは、紀元前二世紀から四世紀ごろとされ、およそ六百年位の歴史があるとされる。その存在した時期は馬韓、弁韓、とほぼ重なり、まさに三国鼎立(さんごくていりつ)をなしていた。
もとは六国であったが、のちに十二国にわかれ、そのうちの一国である「斯蘆」が後の新羅になったといわれる。