暘州通信

日本の山車

00324 飯能夏祭

2008年09月30日 | 日本の山車
00324 飯能夏祭
正丸八坂神社祭
下直竹八坂神社
□汎論
飯能夏祭は「八坂さま」とよばれる飯能各所の八坂神社の祭。七月に行われる
夏祭で山車(屋臺)が曳かれる。十一月には、地域の連合でおこなわれる飯能まつりがある。


34474 鳥と霊

2008年09月24日 | 日本の山車
34474 鳥と霊
太陽を運行する太陽信仰と鳥の例。
赤ちゃんはコウノトリが運んでくる西洋の例。
死者の霊は鳥によって来世に運ばれる鳥葬の例。
来るもの、往くもの。万物すべてが免れ得ない絶対の摂理に支配されている。
明烏の鳴き声には不吉を覚え嫌悪する。鳥と霊を結びつける事例は世界に無数にある。
ときには、蝶にさえも先祖の存在を感得する説話さえある。
死と生を絶対としてそのまま自然に受け入れる思想のひとつに「鳥居」がある。
鳥居の起源は不明な点が多いが、朝鮮半島から、中国の西部からヒマラヤ、東南アジアの一部に分布するようである。
こうしてみてくると日本の神社に見られる鳥居は、外来文化と言えそうである。
社寺建築に「鳥衾(とりふすま)」をもつものがあるが、死者の霊を迎えにきた鳥のとまる場所であろう。
京都府北西部、兵庫県の東部におよぶ広範な値域、丹波地方にはかつて草葺の屋根に千木を結び、さらにそのうえに、竿状の架木をおいた家屋が多く見られた。
あらたないのちをとどけ、死者の霊を迎える鳥のとまる場所である。
近年数は減少したがまだ一部では見られるようである。この架木を「鳥とまり」という。東南アジアのタイ北部にもまったくおなじような家屋があるからアジアではかなり広範に分布するのだろう。鳥居もおなじである。そしてそれは、支石墓・ドルメンの分布にほぼ重なる。
支石墓は、南方型と北方型に二大別されるようだが、わが国でも各地にみられる古墳は、基本的にこの支石墓から発展したものであろう。
支石墓・ドルメン、またストーンサークルという祭祀文化は紀元前から、紀元八世紀ころまで変化しながら分化発展しているが、それは、縄文文化、弥生文化のなかに同化している。紀元前、この文化をもった民族が古代日本人であろう。

24112 千鹿頭神社

2008年09月16日 | 日本の山車
24112 千鹿頭神社
千鹿頭神社という神社は、松本市のちかくでは、諏訪周辺に数社ある。
松本市の千鹿頭神社は元和三年(一六一七)に山の東側が高島藩西側が松本藩
となったため、かつては一社だった神社が二社になり、四本の御柱が立つ二社の社殿が境界をはさんで建つ。その位置はちょうど安曇野市の穂高神社と下諏訪の諏訪大社をむすぶ一直線上にあり、社地を決めるさいに吟味されたことをうかがわせる。
チカトウ・千鹿頭は音にあてた漢字で、チカト、チカツは同義であろう。各地に日置、比企、匹、蟇、蟇目などの氏族の名が姓名、地名にあるが、ヒキ氏は古代の測量技術に秀でた氏族として知られる。
表記は異なるがほかにも千鹿戸、血方、千勝、智賀都なおがある。
滋賀県の近江は都に近いチカツウミ。遠州の浜名湖は都から遠いトオツウミだともいわれるが、近江のチカツは別の解釈もありそうである。
チカトの名のつけられた神社は栃木県にも数社あり、宇都宮市徳次郎には智賀都神社があって立派な山車が曳かれる。 猶、地名の徳次郎は「トクジラ」で、トクジロウではない。

38812 宗像大社と住吉大社

2008年09月16日 | 日本の山車
38812 宗像大社と住吉大社
神社のなかでも大社と名付く神社は多くはない。なかでも宗像大社と住吉大社はいずれもその大社にあたる。その淵源を遡ればおそらく祖神は同じである。創祀は宗像大社がさきで、住吉大社はあとになる。
宗像大社を祀ったのは安曇氏。住吉大社は天孫族ということになろう。
信州(長野県)安曇野市には三郷に住吉神社があるが古いものではない。松本市、下諏訪町、茅野市、諏訪市には住吉神社はほとんど見られない。
子の傾向は全国的なもので、宗像神社のある地には住吉神社が無く、住吉神社のあるところには宗像神社は祀られていない。
なぜだろうか。
筆者はつぎのように推理する。
三ー五世紀にかけて、安曇氏から独立して天皇家が立った。おそらく天皇家は宗像大社を祖信と主張した。しかし、安曇氏は異議を唱え、頑として認めなかった。
天皇家は九州に安曇氏を攻めたが容易ではなかった。仲哀天皇は戦死し、戦況は不利で、あった。妻である神功皇后は、身重のからだで、竹内宿禰とともにを親族のいる朝鮮に渡ってその説得と調停をはかることとした。世に言う「三韓征伐」どころではなかった。
しかし、安曇氏は譲らず、結局住吉大社を立てることになり、支族の祀る宗像神社は住吉神社になった。瀬戸内に面する地には宗像神社、住吉神社が混在する。
このなかから、海の神であるアマテルカミ・海祗をアマテラスオオカミとして祀り、さらにオオヒルメと称するようになった。このうちから、仲哀天皇と神功皇后の一子である応神天皇が八幡神社に創祀された。
天皇家は、安曇氏の有力氏族である出雲系氏族に国譲りを迫り、ついに武力を背景に屈服させた。つまり簒奪がおこなわれた。
しかし、筑紫の宗像大社、讃岐の金毘羅神宮、尾張の熱田神宮、信州の諏訪大社、飛騨の水無神社などは靡かなかった。備前の吉備津神社にもこの動きがあったようである。
しかし、趨勢は大和朝廷を打ち立てた天皇家それを支持した氏族らに有利にはたらき皇室は勢力を増してゆき、六世紀なかば、持統天皇気には皇室の勢力はほぼ定まった。
それでも大和(奈良)における皇室の権威は安曇氏の流れを引く氏族の力を抑えきれず、一度は祀ったアマテラスオオミカミを皇室から移転し伊勢の地に祀ることになった。
このなかから神社を忌避し寺院を建立する動きが起こった。天皇家の創立に尽力し、異議を唱えた大物氏、仏教の導入に尽力した曾我氏はいずれも滅び、平群氏のな名も消えた。皇室も、飛鳥地方から、近江京、信楽京、平城京、難波京、長岡京など転々と移っている。十世紀平安京が定まるころになって、あらためて宗像大社は皇室に迎えられた。
大和朝廷をたすけたのは朝鮮半島の百済系氏族の力はおおきく、また、大和葛城地方に古くから定着し隠然たる勢力を維持した加茂氏は、のちの平安期に擡頭する。
おそらく高松塚古墳に祀られる主は子の朝鮮からの渡来人であろう。
ヤマタイコク・邪馬台国は九州に興り、畿内で発展した。卑弥呼にあたるのは神功皇后であろう。
江戸時代天下祭で知られる江戸の山王宮をはじめ、各地の山王宮が明治時代になって日枝神社に改称されたのを髣髴とさせる。

31121 穂高神社と諏訪大社

2008年09月15日 | 日本の山車
31121 穂高神社と諏訪大社
穂高神社が長野県安曇野市に、諏訪大社が諏訪市、千野市、下諏訪町に。それぞれ鎮座しているが、おなじ信州(長野県)に祀られるようになったのはどちらが先か。
この疑問の答えはすでに出ているのかもしれない。ご存知の方があったらぜひ教えていただきたい。
次は推定である。
筆者は穂高神社が先だと考える。
穂高神社は安曇氏が祖先を祀った神社である。諏訪大社は出雲、オオクニヌシノミコト・大国主命の子であるタケミナカタノミコト。祀られた当時の穂高神社と諏訪大社の社格はおそらく穂高神社が上位にあっただろう。諏訪大社に立てられる「御柱」は信州においては徹底しており、諏訪以外の神社から屋敷神の祠にまで立てられ、宮中神として祀られる生島足島神社にも立つ。
これらを見ていると、御柱は諏訪大社の徹底した支配権の象徴のようにさえ見受けられる。だが、穂高神社には御柱が立てられていない。かつ、穂高神社と諏訪大社のあいだに過去に争いがおきた事跡がない。
換言すれば、穂高神社は諏訪大社の支配権のうえにあり、諏訪大社は穂高神社に「御柱をたてよ」とは求めなかったと考えられる。
松本市の和田に「和田神社」がある。旧和田七ヶ村の鎮守で「大宮」と呼ばれていたと言われるが、万治年間の火災で子記録の一切を失い、その由緒は不明である。いまは立川和四郎富棟の弟子であった、小松七兵衛が棟梁となって建てた立派な二間社流の本殿がならんで建つ。しかし、正面の扉は三方構で祭神としてヒコホホデミ・彦彦火火出見命、ムネタカダイミョウジン・宗高大明、スワダイミョウジン・神諏訪大明神らの三柱がおさまる。ムネタカダイミョウジン・宗高大明は宗像大明神であろう。
ワダ・和田の名称は、ワダ・海であり、この神社がかつては海神、綿津見神社であったことをうかがわせる。当初はやはり安曇氏の一族が祖神として祀ったのであろう。
この和田神社にも、御柱がなく、秋祭には穂高神社とおなじように、山車「御船」を曳く。
近くにイサゴダジンジャ・沙田神社がある。鳥居が奈良井川に面して立ち、長い参道がある。かっては川からあがって参詣する風習があったのだろうか。


35501 延喜式神名帳

2008年09月14日 | 日本の山車
35501 延喜式神名帳
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)は、平安時代、延喜年間(九〇五)京都において、醍醐天皇の命により藤原時平を長として編纂がはじまったとされる。時平の死後はその子藤原忠平に引き継がれ二十年あまりをかけえ、延長五年(九二七)に完成したその後の集成や校訂を経て康保四年(九六七)より施行された。
当時の律令など法令を規程した大系(施行細則)であり、延喜式神名帳とよばれる部分ははこのうちの巻九、巻一〇があてられており、全国二八六一の神社を集成し、このうちの巻九、巻一〇を「延喜式神名帳」といいならわしている。
たいへん貴重な資料であるが、天皇制の立場で編纂されたものであり、当然皇室中心になっている。このため、神社の取捨、祭神のあつかいに故意にゆがめられた恣意的作為があり、表記どおりには信じがたい部分が多数ある。
平安時代には存在したが記載に洩れた神社があって「式外社」という。例として、
紀伊の熊野那智大社
讃岐の金比羅神宮
備前の吉備津彦神社、
備後の吉備津神社
紀伊の熊野那智大社
などは選に洩れている。
また、格式ある大きな神社でも、 
尾張の熱田神宮
出雲の出雲大社
筑紫の宗像大社
豊後の宇佐神宮
は、なぜか官幣社から洩れている。
尾張の熱田神宮は著名な神社であるが、尾張の真清田神社(ますみだじんじゃ)は上位に位置し。おなじ愛知県一宮市の岩戸神社が尾張一ノ宮、熱田神宮はいわば三ノ宮にあたる。編纂に当たった主任は藤原 だが、菅原道真を筑紫の大宰府に左遷した人物である。
延喜式の編纂には当初から、すでに問題が提起されていたと考えられる。
古代の研究には欠かせない資料だが、表面上をなぞっただけでは真が見えてこない資料で謎はつきない。


25517 倭と大倭

2008年09月14日 | 日本の山車
25517 倭と大倭
アヅミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミは皇統では四姉弟とされる。
つまり、安曇氏と天皇家は姻戚関係に当たり、安曇氏の祖神は海神(ワダツミ)、海祗(ワダツミ)である。出雲系大国主の主筋にあたる。
漢より「漢倭奴国王」の金印を受けた「ナ・奴」とは安曇氏族であり、おそらく「倭はワダツミのワ」。「ヤワタ・ヤハタ」は「邪馬臺・八幡」で、「大倭・大和」の意であろう。
大倭は倭の統一国家で、大分県宇佐市の宇佐八幡宮は、大倭・大和を標榜する応神天皇
を祖神とする。祭祀者は応神天皇の母である神功皇后。
漢の倭は奴国、隋の倭は大倭でもあり、邪馬台国。ほぼ同一地域にあり。その実権はのちに奈良県の大和地方に移ったと考えられる。
スサノオノミコトは朝鮮半島の出身、オキナガタラシヒメ(息長帯媛・神功皇后)はアメノヒボコの裔でもあり、こちらも朝鮮半島に祖先をもつ氏。
朝鮮に戻ったあと、再度島根県に渡りテナヅ、アシナヅチの娘であるクシイナダヒメを妻に迎えている。
古墳時代の中期以後にあらわれる「前方後円墳」はほぼ邪馬台国の擡頭期にあたり、三角縁神獣鏡をはじめとする後漢以後の銅鏡の出土地域は、同盟関係にあった氏族であろう。前漢以前の漢鏡は北九州方面に一六〇面あまり出土しているといわれるが、山陰、山陽、畿内にはみられないようである。


24472 神武天皇の正妃

2008年09月13日 | 日本の山車
24472 神武天皇の正妃
ヒメタタライスズヒメ・媛蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の正妃とされる。
大国主命の一子であるコトシロヌシノミコト・事代主命の娘。分かりやすく言えば
七福神として祀られる恵比寿さんの娘であり、大国主から言えば孫娘である。
天皇家と出雲系氏族が婚姻を通じて姻戚関係が結ばれたことを意味すると言えよう。


23662 大物氏に嫁いだ皇女

2008年09月13日 | 日本の山車
23662 大物氏に嫁いだ皇女
ヤマトトトヒモモソヒメ・倭迹迹日百襲媛命は系譜では、孝霊天皇の皇女で、三輪の祭神である大物氏に嫁いでいる。箸墓伝説でよく知られ、奈良県の桜井市に巨大な「箸墓」に祀られる。
大物氏と大国主を同一と見れば、出雲氏の家系に入った皇女ということになる。



28874 天皇の先祖

2008年09月13日 | 日本の山車
28874 天皇の先祖
ウガヤフキアエズノミコト・鵜草葺不合命は、古事記では、アマツタカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト・天津日高日子波限建鵜草葺不合命。日本書紀では、ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト・彦波瀲武□草葺不合尊(□は文字なし)。と書き表わされる。
山幸彦で知られるホウリノミコト・火遠理命、祝命と、海神の娘であるトヨタマヒメ豊玉媛の間に生まれた一子で、カムヤマトイハレヒコ・神武天皇の父にあたる。
つまり記紀を信じれば、神武天皇は海神族である安曇氏の血を引いている。


20033 親魏倭王と大宰府

2008年09月13日 | 日本の山車
20033 親魏倭王と大宰府
「親魏倭王」の金印を魏王から受けたとされる邪馬台国の卑弥呼が使いを送ったのは
朝鮮半島に魏が設置した「楽浪」だったという。当時朝鮮半島は中国の魏の支配下にあった。魏志倭人伝(魏書・東夷伝)に記述のある邪馬台国へいたる旅程に記述がある帯方郡もおなじである。
では、魏からの使節を迎えた倭国の施設はどこにあったか。
それはおそらく大宰の府である「大宰府」だっただろう。
では古代の「大宰府」が、いまある「大宰府」だったかといえば疑問が生じる。
太宰府は菅原道真の左遷でよく知られ、有名な太宰府天満宮がある、西には戒壇のある古刹観音寺があり、さらにその東に都府楼址(とふろうし)がある。だが、都府楼址の礎石は意外に質素である。
これまで太宰府の発掘調査で明らかになっているのは、遺物が九世紀以後のものとみられていることで、時間の推移におおきな時差がある。
私見だが、現在の太宰府はいずこから移ったのではないだろうか。「大宰府」はもっと海よりであったと想定すると、香椎宮、筥崎八幡宮の旧地などが浮かび上がってくる。もっとも何の根拠もないのだが。


21148 古代の大和

2008年09月13日 | 日本の山車
21148 古代の大和
四世紀から六世紀にかけ、大和地方には大物氏、加茂(賀茂、鴨)氏、物部氏(もののべし)、和珥氏(わにし)、平群氏(へぐりし)、紀氏、巨勢(ごせし)、舟津氏らの諸豪族が割拠していたと考えられる。
大物氏は、桜井市の三輪山を中心とした一大勢力であり、諸豪族を配下においたと推定される。大物主と大国主を同一視する説がある。肯定も否定もできないが有力な説ではある。ニギハヤヒを介して出雲系、安曇系につながる。
加茂は、静岡県、岐阜県美濃地方、京都市北部などの地名になっている。物部は武士を「もののふ」ともいうように、武の発祥ともされる。和珥は、滋賀県湖西に和迩の地名があり、岐阜県北部に船津(神岡を経て現在飛騨市)があり、この地方にはいまも和仁姓がある。平群は三重県、千葉県におなじ地名がある。
紀は、紀州でもある和歌山県、いずもにゆかりが深い静岡県伊豆半島には、来宮神社がつらなる。小田原氏市は紀伊神社がある。
天孫族は日向高千穂の「クシフル」に降臨したという神話伝説が語られる以前、すでに大陸からの渡来人たちが国を築いていた。
神武天皇が、豊後にほぼ一年、吉備にほぼ三年をかけおよそ四-五年の歳月をかけ大阪湾に到ったのは、紀元前ではなく、三-五世紀のことであり、和泉、大和は出雲系の氏族がひしめいていたと推定される。
神功皇后の実在を疑う説があるが、客観的に仲哀天皇以前の天皇の存在を否定している。天皇家の支配する大和朝廷が確立したのは六世紀から七世紀ころとされる。


24778 たなばた

2008年09月11日 | 日本の山車
24778 たなばた
日本でよく知られる七夕伝説は、天帝はわが娘である機織の上手な織姫と、働き者の彦星の結婚を認めふたりを夫婦にしたが、ふたりは一緒になるや織姫は機を織らなくなり、夏彦は仕事を怠り牛も追わなくなった。天帝は怒って二人を引き離したが、ふたたび化粧も忘れて仕事に打ち込むようになった娘を不憫に思い、一年に一度七夕の日に会うことを許す。
これが大筋であるが、それだけで「たなばたさま」を祀るだろうか。
たなばたの二つ星、妻の織姫は琴座のベガであり、超新星爆発でいずれ超新星となっていずれ消える星とされる。夫の夏彦星(彦星、牽牛星)は、鷲座のアルタイルだという。
七夕は、しちせき、たなばたといい、朝鮮、中国、台湾、ベトナムと広範におこなわれている節供のひとつで年間五節句の一つにも数える。
年中歳時としてよく知られているようでいながら、日本の淵源は案外不明でよく分かっていない。
北九州宗像市の宗像大社では、中津宮の祀られる大島で七夕祭が行われ舟の運行もある。鎌倉時代から続くといわれる。おそらく朝鮮からの渡来と考えるが、祭の歴史はさらに古いであろう。
安曇氏による祭祀は、宗像、胸肩、棟方などと名称を変えて東北地方にまでいたるが、
大阪府交野市には星田、天の川がある。
京都府の綾部市は漢氏(あやし)にゆかりがあり、大阪府池田市には、呉服(くれは)
があって、かって呉服座があったいまは愛知県犬山市の明治村に移されている。
服部氏は衣服を司る氏である。
麻績(おみ)も多い名称であるが、長野県松本市今井の鎮守である麻続神社の祭神は、タナバタヒメ・棚機媛は、諏訪神であるタケミナカタノカミの娘だと言う。もとは上流の朝日村鉢盛に祀られていたものを遷したという。
京都祗園祭に曳かれる長刀鉾の天井に星座が描かれる。滋賀県大津祭の山車にも星座が描かれる。飛騨高山の山王祭で曳かれる上川原町の大國臺(だいこくたい)の上臺にも
織姫と彦星ほかの星々が描かれている。福島県の山都村では宗像神社の祭に山車が曳かれる。
秋田の竿灯、仙台の七夕、尾張一宮の七夕など安曇氏の宗像、大己貴から諏訪から出雲系の神社など各地のたなばたは、古代で宗像神社につながっているようである。



21189 天照大神(2)

2008年09月11日 | 日本の山車
21189 天照大神(2)
天照大神は、安曇氏の祖神とする「海祗神」からみちびかれた神で、「海彦・山彦」神話を紐解くまでもないであろう。
漢、隋から金印を受けた倭の国王は奴国と邪馬台国。安曇氏の本拠はかつての北九州の安曇郷、鐘崎のあたりとされている。おそらく「漢の倭の奴の国」であろう。
邪馬台国の存在した地はいまも謎のままである。
崇神期、皇室の宮殿にアマテラスオオミカミとオオクニタマ・大国魂(オオナムチあるいはオオモノヌシか)を併せて祀ったところ天災、人災が重なり、その原因は二神をおなじ宮殿に祀ったためであろうと言うことになって、オオクニタマがのこり、アマテラスオオミカミが外に出された。アマテラスオオミカミの御霊を携えたヤマトヒメはその後数年を彷徨して現在の伊勢の地にいたってここに祀ることになった。
だが、その地は海人族の支族である度会氏(わたらいし)の祖廟である「磯宮」であり、いわば当初は磯宮の庇をかりる仮宮だったと想像される。
これはどういうことなのか。
また推定になるが、これは皇室に本質的にアマテルカミ・海祗神すなわち、アマテラスオオミカミを祀ることに異議があり、ときの天皇も屈しざるを得ない隠然とした勢力が背景にあったと考えられよう。
安曇氏と天皇家は祖先をおなじくしている。
七世紀に仏教が伝来し、四天王寺、法隆寺など諸仏閣が建立されている。法隆寺には多くのには百済観音をはじめとする飛鳥佛(推古佛)が残されており、朝鮮の百済との関係が深かったことを示している。余談になるが、法隆寺金堂の釈迦三尊像をつくったとされる、鞍造鳥利(クラツクリノトリ)は北飛騨(飛騨市)の泉鏡花の『高野聖』で知られる天生峠の東麓の出身だとの伝説がある。
富山県氷見市から越中八尾を経る道は古代の大陸にいたる道であり、楢峠(ナラ)、白木峰(新羅)から渡来したひとたちが通った古道である。
大阪市の生野区には百済の地名がある。
仲哀天皇には正妃があり、神功皇后はいわば第二夫人ということになろうが、正妃の子をたおしてわが子である応神天皇をたてた。
諡号はホムタワケノミコト・品陀別命、誉田別。最初に仏教名の諡号を持つ天皇として知られる。仏教伝来時に、物部氏と曾我氏に争いがあったことが知られるが、七世紀から十世紀にかけて、仏教色の濃い八幡宮以外の神社は天皇家に忌避された疑いがある。


21188 天照大神

2008年09月10日 | 日本の山車
21188 天照大神
アマテラスオオカミ・天照大神は、おそらくアマテルカミであろう。
アマは海、テは□(て=文字なし。祗の示す偏のない旁部分)は。言い換えると天照大神の本義はウミツミノカミ・海祗留大神祗であろうと推定する
ワダツミ・綿津見(海神)は、ワ・倭の「ダ」のツミ・祗であろうと推定する。「ダ」は海であり。たとえば「ナダ・灘」は凪ぐ海の古語である。
こうしてみてくると、天照大神と綿津見神はおなじということになる。
言うまでもなく綿津見神は安曇氏の祖神である。宗像神社に祀られる宗像三女神の父親はスサノオノミコト・素盞鳴命、母親はアマテラスオオカミ・天照大神である。「うけひ」により八人の子をもうけている。スサノオノミコトとアマテラスオオカミは神話では姉と弟であるが、一方で夫婦、またはそれに近い関係にあったとする諸説は多く、記紀神話成立に中国の東王父と西王母、伏羲と女□(か=文字なし)に比喩する説もある。
アマテルカミ・アマテラスオオカミである海祗神は安曇氏の祖神であると同時に、皇室の祖神である。だが、三世紀ころ、安曇氏はその祖神である海祗神を皇室の祖神とすることには多大の反感があったと見る。
神功皇后の九州遠征は、皇統譜に海祗神をあてることが最大の目的であったと考える。
しかし、その目的は難航し、夫の仲哀天皇を失うことにまでなり、妥協案として提示した宗像神にも加えられず、政治決着として生まれたのが住吉神だと想像する。