暘州通信

日本の山車

◆物部守屋 一一

2018年02月14日 | 日本山車論
◆物部守屋 一一

 これは仮説である。

 「二田物部氏」

 新潟県柏崎市西山町二田に鎮座する【二田物部神社】は、越後國の二宮で、祭神、フタタノアメノモノノベノミコト(二田天物部命)を祀る、『延喜式神名帳』記載される古社であり、社記によると、創祀の由緒に、フタタノアメノモノノベノミコトは、【弥彦神社】の祭神である、アメノカゴヤマノミコト(アメノカグヤマノミコト)(天香山命)とともに、高志(越後國)に派遣されたと伝わる。
 アメノカゴヤマノミコトは、『先代旧事本紀』に、ニギハヤヒノミコト(饒速日命、天火明命)と、アメノミチヒノミコト(天道日女命)の間に生まれた神とされている。
 おなじ、物部氏の祖神、ウマシマヒノミコト(宇摩志摩治命)とは、兄弟神となっている。『先代旧事本紀』には、、ニギハヤヒノミコト(饒速日命)の降臨に供奉した「天物部等二十五部神」の一神とあり眷属神である。


◆物部守屋 一〇

2018年02月10日 | 日本山車論
◆物部守屋 一〇

 これは仮説である。

 末羅國造

 末羅國とは、末羅國(松浦 ほぼ現、長崎県松浦、佐賀県唐津市、伊万里市、東松浦郡があたる)をいい、『三國志魏書東夷傳(いわゆる「技志倭人傳)に記載される【末廬國】が比定される。
 この、末羅國に、成務天皇期、イカガシコオノミコト(伊香賀色雄命)の子である「大水口宿禰(大水口足尼)の孫にあたる「矢田稲吉(やたいなぎ)」が末羅國造に任じられた記録がある。
 末廬國(末羅國)は、もともと物部氏の所領であり、大和朝廷の覇権とともに当地に天皇制の【國造】が制定されたことになる。末羅國造の始まりとされる。
 矢田稲吉は日氏系の【日下部氏の祖】とされ【肥前風土記】の「大屋田子と同一人物」とする説がある。

◆物部守屋 九

2018年02月10日 | 日本山車論
◆物部守屋 九

 これは仮説である。

 筑紫國の剣岳

 物部守屋が討たれたあと、守屋の子、片野田連公は、飛騨に難を避けたとされるが、異説では、弟とともに筑紫國の鞍手に流されたという。別説には、弟の流されたのは、
肥國松浦だったという。
 文保二年(一三一八)に著ったとされる『聖徳太子伝』には、「物部守屋次男 片野目連、四男辰狐連を筑前鞍手ニ流ス」とあって、諸説乱れていずれが正しいか判然としない。

 福岡県鞍手郡鞍手町は、遠賀川の中流域、左岸に位置する町であるが。【剣岳】は、中山と呼ばれ、物部氏の祭祀にかかる【御神体山・神南備山】であって、物部氏にとっては、父祖の地。いわゆる故地である。

◆物部守屋 八

2018年02月10日 | 日本山車論
◆物部守屋 八

 これは仮説である。

 三河國 村積神社

 物部守屋が討たれたあと、守屋の一子である次男の【眞福・まさち】は、三河國(愛知県)仁木郷(にききょう)に難を避けた。やがてその地に、戦死した父や一族の菩提のために、【真福寺(しんぷくじ)】を建立し、また、祖先を祀るため、「村積山」に
【村積神社】を建立した。
祭神は、

オオヤマツミノミコト 大山祗命
コノハナサクヤヒメノミコト 木花咲耶姫命
オオナムチノミコト 大巳貴命

 である。

「村積山」は海抜二六二メートルの、風光に優れた山としてきこえ、大宝年間(七〇一-七〇三)に、持統天皇の三河御幸のとき、その美しい景色から【花園山】の名称が与えられた伝わる、天皇は、物部守屋への供養のため村積山に桜の木を手植えにされたと伝えられる。同山の麓にはみごとな枝垂桜があって、春には美しい花を咲かせ、天然記念物の指定を受けている。
 当時すでに、物部守屋の死去からおよそ一三〇年余りの歳月が経過していたはずであるが、持統天皇の胸中にhいかなる思いが去来したことであろうか。

◆物部守屋 七

2018年02月09日 | 日本山車論
◆物部守屋 七

 これは仮説である。

 羽後國の唐松神社

 山形県を包括する旧國名は、出羽國であるが、明治元年の戊辰戦争後に、山形県の北部と、秋田県の鹿角市と小坂町を除いた現在の秋田県のほとんどの地は【羽後國】となり、それ以前の【出羽國】は、【羽前國】と呼ばれるようになった。
 従って、羽後國の名称は旧国名の中ではもっとも新しい國である。
 【唐松神社】は、その羽後國(現、秋田県大仙市協和境字下台)に鎮座する。
 祭神は、

オキナガタラシヒメノミコト 息長帯姫命
カグツチノカミ 迦具土神
トヨウケヒメノミコト 豊宇気姫命
タカミムスビノカミ 高皇魂命
カミムスビノカミ 神皇魂命

 で、タカミムスビノカミ(高皇魂命)、カミムスビノカミ(神皇魂命)が物部氏の祖神である。 カミムスビノカミは、タカミムスビノカミの子が祀られている。
 古くは、【韓服宮】とよばれたという。
 物部守屋が討たれたあと、守屋の一子である【那加世】とその一族が定住した地で
ある。

 後年、唐松神社の社家から、「水理学」の泰斗、物部長穂(もののべ ながほ)が出ている。長穂は、「多目的ダムの提唱」でも知られ、富山県の庄川にある小牧ダムを手掛けている。

◆物部守屋 六

2018年02月08日 | 日本山車論
◆物部守屋 六

 これは仮説である。

 物部守屋が討たれた後、その一族は四散した。その行方については史書の記載が少なく不明な点が多い。しかし、伝承と事跡は各地に残されている。その真偽については疑義もあるが、それには触れずに足取りを見てみたい。
 守屋一族が向かった先は、おなじ一族の居住地がもっとも多いようである。且つ、それは一カ所に限定されず、各地に散ったいったようである。
 日氏の系譜に寄る辺を飛騨とおなじように同族の委奴氏(為那氏、為奈氏、猪名氏、稲氏など)の居住する【信州の伊那】を選び、【上伊那郡高遠町字片倉 現、伊那市高遠町藤沢】に定住した。
 ここに鎮守として【守屋神社】を祭祀し、御神体山である守屋山の東峰に【物部守屋神社 奥宮】が祀られ、守屋神社の石祠がある。

◆物部守屋 五

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 五

 これは仮説である。

 蘇我馬子の命により、物部守屋を討った厩戸皇子(聖徳太子)の妻の母は守屋の妹であった。さぞ、忸怩たる思いがあったことであろう。聖徳太子は、荒陵山 四天王寺の一角に、物部守屋と中臣勝海の霊廟を立てている。

 法隆寺の創建
 法隆寺が建立されたのは、六〇七年と伝わる。蘇我馬子による、物部守屋討伐がおこなわれた、【丁未の乱・ていびのらん】 が五九七年七月であるから、ちょうど一〇年ののちのことである。
 この、法隆寺建立には、飛騨高山から斐太ノ工(物部氏)が招かれ諸堂、東員夢殿の建立にあたっている。「金堂の釈迦三尊像」は、飛騨の【鞍造之鳥利】の作とされるが、おおらく、斐太ノ工と行を共にしたと考えられる。


◆物部守屋 四

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 四

 これは仮説である。

 一説に、物部守屋の子である、【守屋片野田】は筑前鞍手へ逃れたとされるが、実は、一族の委奴氏(猪名、為奈氏、稲氏とも)らと、斐太(飛騨)の【日氏、物部氏】を頼り飛騨入りした。その居住地は、現、高山市東山一帯、小八賀郷、山口、石浦、千島、西之一色、花里村などに定住し土木、建設のしごとに従事するようになった。
 物部片野田が落ち着いた先は、現、高山市片野町で今もその名が残る。片野田は、一族の氏神である、オオヤマクイノカミ(大山咋神)を奉じる【山王宮】の小祀を建立し、物部の再起を祈願したと伝わる。
 のちに、高山市の三福寺にあった【三佛寺城】が木曾義仲に攻められて落城したことから城内にあった、【鎮守の山王宮】は遷座となり、物部片野田の屋敷にあった【山王宮】に併祀された。

 天正年間に到り、豊臣秀吉の命で飛騨の姉小路氏(三木氏)を攻めた金森長近は、飛騨高山の城下町経営に着手し、物部片野田屋敷の片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)の屋敷に祀られていた【山王宮】を、高山城山の一角に移し、飛騨高山城下町の陳寿とした。
 この山王宮で齋行される祭禮が、華麗な山車で知られる、日本三大曳山祭・春の高山祭で名高い【日枝神社祭禮】である。

 委奴氏の定住地は【イナ】であった。現在は江名子町でとなっていて、祭神 タカミムスビノカミ(高御産巣日神、高皇産霊尊)を再任とする『延喜式神名帳』記載 飛騨八社中の【荏名神社・えなじんじゃ】を創祀した。


◆物部守屋 四

2018年02月07日 | 日本山車論
◆物部守屋 四

 これは仮説である。

 一説に、物部守屋の子である、【守屋片野田】は筑前鞍手へ逃れたとされるが、実は、一族の委奴氏(猪名、為奈氏、稲氏とも)らと、斐太(飛騨)の【日氏、物部氏】を頼り飛騨入りした。その居住地は、現、高山市東山一帯、小八賀郷、山口、石浦、千島、西之一色、花里村などに定住して土木、建設のしごとに従事するようになった。
 物部片野田が落ち着いた先は、現、高山市片野町で今もその名が残る。片野田は、一族の氏神である、オオヤマクイノカミ(大山咋神)を奉じる【山王宮】の小祀を建立し、物部の再起を祈願したと伝わる。
 のちに、高山市の三福寺にあった【三佛寺城】が木曾義仲に攻められて落城したことから城内にあった、【鎮守の山王宮】は遷座となり、物部片野田の屋敷にあった【山王宮】に併祀された。

 天正年間に到り、豊臣秀吉の命で飛騨の姉小路氏(三木氏)を攻めた金森長近は、飛騨高山の城下町経営に着手し、物部片野田屋敷の片野村杉ヶ平(現、高山市片野町杉ヶ丘)の屋敷に祀られていた【山王宮】を、高山城山の一角に移し、飛騨高山城下町の陳寿とした。

 この山王宮で齋行される祭禮が、華麗な山車で知られる、日本三大曳山祭・春の高山祭で名高い【日枝神社祭禮】である。

◆物部守屋 三

2018年02月06日 | 日本山車論
◆物部守屋 三

 これは仮説である。

 物部守屋(もののべ もりや)の生年は不詳であるが、記録としては、用明天皇期二年(五八七)があるほか、語りつがれる伝承が数多くある。六世紀末の強大な勢力を有する豪族で、父は、物部尾輿、母は、弓削倭古の娘で、阿佐姫。兄と弟があり、兄は、物部大市御狩大連、弟は物部石上贄古。
子には、
物部片野田(片野目)
物部辰狐
物部那加世
があるが、一説には、

『諸系譜 第十三冊 稲生系図』には、守屋大連の子として、
忍人
益人
真乙比売

の三人の名がある。

◆飛騨高山の物部氏 二

2018年02月04日 | 日本山車論
◆飛騨高山の物部氏 二

 これは仮説である。

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の西郊外に【松倉山】がある。山頂近くには岩窟があり、【飛騨七観音】のひとつ【松倉観音】があり、これとは別に、夏季に【松倉絵馬市】が立つ。市内の旧飛騨陣屋のまえで売られる【絵馬】を買い求めるが、その絵馬の価格は一〇〇倍に両をつけたもので、たとえば、五〇〇円の絵馬であれば、五万両の値段で客を呼ぶ。このことから【松倉相場】という地言がある。
 買い受けた客は、これ携えて、まだ暗いうちに起きて暁天登山をし、観音堂で押印していただき、これを持ち帰って家々の壁に貼る。

 この観音堂の近くに松倉山の山頂がある。山頂にいたる歩道の途中にはいまも立派な石垣がみられる。松倉山頂は平坦で、三木自綱によって築城された【松倉城本丸址】である。
 三木氏は、岐阜城の齋藤道三、尾張の織田信長とむすび、上杉氏ら北方から南下、あるいは西進を阻む目的から、飛騨高山にいたり、西之一色の丘陵地を仮居として、松倉城の築城に取りかかった。
 
 松倉山の東麓丘陵地は【花里・はなさと】とよばれ、ここに【花里神社】があった。
 つまり、松倉山を御神体山とする、その【里宮】であり、
 祭神は、
 アメノミナカヌシノカミ 天御中主神
 イカガシコオノミコト 伊香我色男命
 ニギハヤヒノミコト 饒速日命
 モノノベモリヤ 物部守屋公
 その他
 が祀られていた。齋主は一色氏で、錦山神社の齋主と同族の一色氏であった。このことから、齋主を
東の一色
西の一色
とよんだ。西之一色はいまも地名となって残っている、
旧社地には、いまも神籠石が残されている。
 三木自綱は、齋藤道三の娘、桔梗を妻に娶り、松倉城が上棟するまでこの花里を寓居とした。桔梗は、しばらく飛騨高山ですごしたのだが病にかかり早逝した。自綱はその菩提を弔うため善應寺を建立したのであった。

 天正年間に到り、金森氏が飛騨入りして三木氏は滅亡したが、このとき【花里神社】と、【善應寺】は兵火にかかって焼け落ちた。この焼け残った部材は、旧丹生川村(現高山市)に運ばれて、今朝山千光寺の本堂として再建された。

 のちになって、金森氏は、東北部にあたる別の地に祭神をあらため、應神天皇を祀る花里八幡宮を建立した。
 
 、

◆飛騨高山の物部氏 一

2018年02月04日 | 日本山車論
◆飛騨高山の物部氏 一

 これは仮説である。

 飛騨高山(岐阜県高山市)の旧市街の東部は、かつては「そらまち」とよばれる高台にある集落で、金森氏の藩政期には、その武家屋敷が京都を模倣し、斐太ノ工らにより創建された、大隆寺、宗猷寺、善應寺、法華寺、天照寺、素玄寺、大雄寺、雲龍寺など
各宗の寺院が軒を連ねる。
 【錦山】は、その東山につらなる秀麗な山で、【飛騨八景の一】に数えられている。
 城山の高山城天守閣あとにのぼると、ほぼ正面にあたり、その背後に聳率する乗鞍岳、焼岳、穂高連峰、槍ヶ岳、双六岳、笠ヶ岳など著名な飛騨山脈(北アルプス)の名峰が一望できる。
 その前山である【錦山】は、他の山々が峩々としたあらあらしさを見せている中にあって、二等辺三角形の裳裾を引いていて、この山容が自然のままのすがたではなく、あきらかに人工の手が加わっていることを認識する。
 【錦山】は、古代には、神が降る山・ご神体山であった。その山麓には、【錦山神社】が鎮座する。御神体は【物部守屋とその眷属】で、「錦山を御神体とする山上祭祀の里宮」に該る。
 つまり、祭祀の形態は大和の大三輪山とおなじである。私論であるが、延喜式神名帳に記載される飛騨の延喜式神社は八社であるが、そのなかの【荏名神社】とは、この
錦山神社のことではないかと推察する。
 江戸時代、飛騨高山の国学者、田中大秀翁は、江名子地区に【荏名神社】と千種圓を住居として多くの子弟を導いた。その功績は大きいが、正しい【荏名神社】とは、現在の【錦山神社】であり、田中大秀翁の誤認ではないだろうかと考える。
 






 

◆員弁(いなべ)

2018年02月02日 | 日本山車論
◆員弁(いなべ)

 これは仮説である。

 鈴鹿山脈の東麓に員弁郡があり、員弁町、東員町があるが、員弁町は、いなべ市員弁町となった。
 当地の猪名氏(委奴氏)は、摂津河辺郡(兵庫県)からの移住したとの伝承がある。伊丹市の「野宮」とよばれる【猪名野神社】とは、深いつながりがある。
 猪名部百世(いなべのももよ)の出身地で、益田縄手とともに、奈良の【東大寺大仏殿】を建立した【斐太ノ工】である。
 神護景雲元年(七六七)、称徳天皇東大寺行幸のとき、功労者として、外従五位下の叙位があった。
 三重県員弁郡東員町北大社には、【猪名部神社】が鎮座する。
 祭神は、
イナベシソ 猪名部氏祖
伊香我色男命
建速須佐男命
天照大御神
 となっていて、猪名部氏の祖先が祀られる『延喜式神名帳』記載の古社である。

 三重県員弁郡東員町に、大字穴太(あのう)がある。

◆伊那

2018年02月02日 | 日本山車論
◆伊那

 これは仮説である。

 天竜川は、長野県の諏訪湖から流れ出て、掛塚(現在、竜洋町)で遠州灘にそそぐ。天竜峡は急流で知られ、かつては木曽川とともに筏流しが行われ、民謡「竜峡小唄」が唄われた。その流域にある伊那は、伊那谷の異名で知られる。現在は伊那市となっている。
 古代、委奴氏の定住した地で、斐太ノ工のふるさとである「飛騨」との結びつきも強く越年用の「越中富山(富山県)」の【寒鰤(かんぶり)】は、飛騨高山から「野麦峠」を超えて「信州伊那」に贈られた。伊那地方では、この寒鰤を【飛騨鰤。ひだぶり】とよんで珍重したという。
 飛騨高山の秋祭に曳かれる、寺内の屋臺【布袋臺】は、唐子がブランコをしながら「綾」を飛び移り、最後に布袋の肩にとまる「はなれはらくり」の妙技でもよく知られるが、この屋臺の意匠・彫刻を行ったのが【中川吉兵衛】であり、高山の著名な屋臺彫刻を数々残した谷口與鹿の師匠でもあったが、晩年は「信州伊那」に住んだ。
 【立川流】は、立川富重にはじまるとされ、信州高島藩(諏訪藩)の桶職に始まるとされるが、遠祖は「信州伊那」の【斐太ノ工】の家系である。
 中川吉兵衛は、この立川氏の招聘により信州に移ったのであった。



◆印南

2018年02月01日 | 日本山車論
◆印南


 これは仮説である。


 和歌山県和歌山県日高郡の印南町は、徳島県の、徳島県徳島県阿南市の蒲生田岬(かもだみさき、がもうだみさき)と向き合っている。日高郡日高町と美浜町の町境にある
「日ノ岬」とともに、九州から、四国を経て本州に至った日氏系氏族の本州の上陸地と推察される日氏の地であり、印南は、委奴につながる斐太ノ工ゆかり地と考える。
近隣には、日高郡、日高町、日高川など【日】にちなむ地名や語彙が多い。