暘州通信

日本の山車

01140 小野神社の御柱祭

2007年04月30日 | 日本の山車
01140 小野神社の御柱祭
長野県塩尻市
 小野神社は矢彦神社とともに信濃の二之宮社で、塩尻市の小野神社と辰野町の矢彦神社は並んで鎮座する。
由緒記によると、天正十九年(一五九一)に、松本藩と飯田藩の藩境をめぐる争いがおきたとき、これを豊臣秀吉が両者の主張をきいて裁定し、両社のあいだに境界線を引いて、北の小野地区は筑摩郡(現塩尻市)。南の伊那郡(現上伊那郡)に二分された。したがって、小野神社は筑摩郡、矢彦神社は伊那郡になったという。
この両社を総称して小野南北大明神という。
小野神社の創祀時の祭神は、滋賀県の小野篁、遣唐使で知られる小野妹子らを輩出した小野氏を祖神だったのではないか? 
と推定している。
境内には「胸肩神社」がある。宗像神社のことであろう。安曇氏の祖神が境内に祀られているのも興味深い。
両社には諏訪大社に次ぐおおきな御柱が立つが、小野神社の柱は樹皮を樹皮をつけたまま、矢彦神社は樹皮を剥いでいる。


20005 石橋臺

2007年04月30日 | 日本の山車
20005 石橋臺

石橋臺(しゃっきょうたい)
は、高山市上二之町上組の屋臺で、創建は天明年間(一七八一ー一七八九)と伝えられる。
 謡曲の石橋にもとづいたもので、大江定基が中国の宋に渡り、天呂山に入って、文殊菩薩の浄土にかかる石の橋をわたろうとしたとき、牡丹の花に戯れる獅子を見た故事にちなむ。
現在曳かれている屋臺は幕末の文久三年(一八六三)に着工し、慶応元年(一八六五)に竣工した。
 機関樋の上で獅子が舞うからくりがあった。
美女が踊っているうちに一瞬にして獅子に変化して獅子舞となるものだったが、風俗紊乱をとがめられて禁止されていた。その後はからくりが演じられることもなく、屋臺蔵で
百余年間眠っていたが、昭和五十九年に、長唄の「英執着獅子」に合せて舞う姿で再現された。
あやつりを行う綱師が浄瑠璃人形の黒子のように面をおおって綱をとる。
この屋臺にはもうひとつ大きな財産を承継している。
屋臺後ろの見送りにかける「朝鮮毛綴の圖」である。
朝鮮毛綴はいまは重要な稀品で、すでに朝鮮には存在しないといわれ、日本には京都祇園祭、京都亀岡祭、それに高山の三箇所につたわるといわれるが、寥郭堂資料ではさらに、滋賀県日野祭、滋賀県水口祭に存在することがわかっている。
しかし、ひじょうに貴重な幕であることに変わりはない。
現在石橋臺の見送りは復元されたものが架けられている。
山車彫刻は、谷口與鹿の弟子であった浅井和助。
山車上臺の勾欄が後ろを閉じるのはこの山車のみの特徴である。

20002 高山祭の三番叟

2007年04月30日 | 日本の山車
20002 高山祭の三番叟
春の高山祭に曳かれる「三番叟(さんばそう)」は高山市上一ノ町の屋臺であるが、人形からくりでよく知られる。
屋臺の曳き順では、いわゆる「籤とらず」で、神樂臺についで常に引き順二番が与えられている。
その理由は、臺名の由来ともなっているその演目「三番叟」に由来するからである。
江戸時代 年ころにはこの屋臺には「恩雀」の名があったことが知られており、日本昔話の「舌切り雀」のからくりがあったといい、正直爺さんが雀から貰って帰った葛籠の蓋をあけると、なかから巻物、金銀、丁字、珊瑚、小判等が五色の紙とともに風に舞い、固唾をのんで見守っていた群衆はこぞって拾ったといわれ、最初から三番叟ではなかったようである。
この屋臺で三番叟が演じられるようになったのは、明確ではないが、その後「翁」に改名されたのが三番叟のはじまりである。
翁がからくりであったかどうかは不明であるが、町内にはいまも文樂の「三番叟首(かしら)」が保存されていて、かっては上方の影響を受けた浄瑠璃による「三番叟」が演じられていたことを窺わせる。
この文樂による「翁」の屋臺からくりが上演されていたとすれば、恩雀に続いて人気のあったからくりが行われた可能性はきわめて高いといえよう。

三番叟の名前の由来には諸説やいろいろな伝承があり、一定しないが、おそらく「三番めの老人」の意だろうといわれ、狂言方がつとめる役のなかでもことに神聖視されている。
その
扮装、演出、演技にも多くのきまりがあり、これも演じられる流派によってそれぞれ異なっている。
曲名も、大蔵流では「三番三」と書かれる。
舞は「揉之段」と「鈴之段」とに分かれ、揉之段では仮面をつけないが、鈴之段では黒い三番叟の面(黒式)をつけ鈴をもって舞う。
高山の三番叟もこれにあたり、乙女姿の人形が右手に鈴を持ってまず鈴の段を舞い、舞終ると人形は機関樋(からくりとい)の先に安置されている面箱まで進み出て、体を前方に折り曲げ面箱におもてを伏せると、みごとに黒き翁の面を着けており、観衆の喝采を浴びる。
からくり人形が黒い翁の面をつけた「翁の舞」は天下泰平を祈り、黒い三番叟の面をつけて舞うのは「五穀豊穣を祈る舞」だといわれ、この三番叟も同様である。
舞の型にもそれを示すものがある。民俗芸能、人形劇、歌舞伎などで演じられる
三番叟物
翁と三番叟は、儀式舞踊として歌舞伎に取り入れられているがそのはじまりは、猿若勘三郎による、風流、大小の舞、三番叟の三部構成による『乱曲三番叟』だといわれる。
歌舞伎では祝儀ものとして顔見世の三日間、正月の仕初式や、劇場の新築披露のときなどに型も音曲も能楽に近い形で演じられていたといわれ、翁には太夫元、千歳には若太夫、三番叟には座付の振付師などが扮していた。なかでも能狂言の「三番叟」が歌舞伎の好みによくあい、演じられているうち、これから江戸長唄、豊後節などが生まれた。
後年さらに所作事が発達するにつれて、能楽とは趣の異なるものも多くつくられるようになった。
「寿式三番叟」
全曲の祝歌詞として神事司祭の太夫を初めとする諸役により、白き翁、千歳、黒き尉の三人によりつとめるが、舞人は面をつけることで神格を生じ、祭りに参加する人々は、この神の口から天下泰平、五穀豊穣の祈りを聞くとう趣向である。
粋人は「三番叟は常磐津「式三番叟」にかぎる」といい。古い形の田楽で演じられる三番叟には三味線が入いらず囃子は笛と太鼓、鼓だけであるため、これを評して「糸がないと何か引き立たず物足りない」ともいう。
能の「式三番臾」は三番臾の終曲で舞われるが、鈴の段はかなり激しい舞である。
三番叟は猿楽能で「翁」といっている。老人による祝祷舞が原形で、千歳はその露払いの役である。
古くは「児」といい、能では少年がその役をつとめるが、白き翁とは対照的で躍動する調子のよい舞である。
三番叟は近世の歌舞伎にとりいれられて様々な三番臾者が作られてきたが、中には「操り三番臾」という人形振りの演出もおこなわれる。これは、役者が人形になり、操り人形を演じるという趣向である。
高山の三番叟が糸操りのからくりであるのに対し、これは人間がからくり人形の所作により、コッペリアや、胡桃割り人形のように操つり人形になりきって三番叟を舞うものである。
能楽の「翁」のなかで「千歳の舞」、「翁の舞」に続いて狂言方が演じる舞。

古くは呪師芸の三老人の演技に発して仏教的意義をもっていたともいわれる。のちにその第三の老翁役はワキ役とし猿楽者が演じるようになり、三番猿楽の名が生まれた。
これを鎌倉末期に狂言方が演じるようになったが、以来狂言方が勤める役のなかでも特に神聖視されてきている。 舞は『揉の段』と『鈴の段』とに分かれ、揉の段では仮面をつけないが、鈴の段では黒い老人面をつけ、鈴を持って舞う。
能の「翁」、長唄や清元では「種蒔三番」(舌山三番)、常磐津の「子宝三番」、「式三番」、長唄の「操三番」、義太夫の「二人三番叟」などはよく上演される。    
愛知県知多半島の半田市亀崎潮干祭では、曵山芸能として曵山の上で少年三人による三人使い三番叟が演じられる。


01487 宮代白山神社祭

2007年04月30日 | 日本の山車
01487 宮代白山神社祭
岐阜県郡上市(旧和良村)宮代
白山神宮
□祭は九月上旬。
□山車一臺を曳く。
□汎論
山車の古い形態を継承する。下臺全体を白い幕で覆い上部に紫の水引幕をかける。上臺は小ぶりで、屋根は神明造り、からくりが演じられる。
境内には大きな舞臺があるが、いまは藝能は行われていない。


01647 大池諏訪神社祭

2007年04月30日 | 日本の山車
01647 大池諏訪神社祭
長野県東筑摩郡山形村
大池諏訪神社
□祭は10月上旬。
舞殿とよぶ山車を曳く。
下大池は御柱を立てる(6年ごと)。
□山車
・上大池区
・中大池区
□御柱
・下大池区

□汎論
山形村内に分散して立てられる御柱。道祖神祭祀所に立つ。



00606 陸前高田けんか祭

2007年04月29日 | 日本の山車
00606 陸前高田けんか祭
陸前高田市
八月上旬
七夕山車四臺を曳く。以前は八臺ほどあった。
・上八日市町
・下八日市町
・鉄砲町
・荒町 

□汎論
写真は、陸前高田市の松原にある道の駅「松原高田タピック45」のロビーに飾られるけんか七夕の山車である。
陸前高田市の西にある玉山金山は、僧行基が天平年間に発見したと伝え気仙金鉱の中心に位置している。
奈良東大寺の大仏鋳造にあたりその費用に当てるための黄金が献上され。平泉に中尊寺、毛通寺を建造し、藤原三代にわたる栄華の基礎ともなった。
平重盛が中国育王山に献納した黄金千三百両はこの奥州金だったといわれる。

00460 五所川原の立佞武多

2007年04月27日 | 日本の山車
00460 五所川原の立佞武多
四月二十二日、青森県五所川原市の佞武多の館が開館三周年を迎え記念行事が行われたので行ってきた。
開館に展示される佞武多人形は高さおよそ二十三メートル。七、八階のビルの高さに匹敵する巨大さで見るものを圧倒する。
エレベーターであがり、長い回廊をまわりながら下り、多角的に佞武多を鑑賞できるようになっている。いい試みだ。
ちょうど、お囃子の実演と「はねと」のすばらしい踊りを堪能できた。
五所川原市の佞武多の歴史は詳らかでないが、地方資料によれば明治時代中期
に盛んになり、大正期にかけて高さ十間(十八メートル)以上の巨大なものが出たとある。近年は電線敷設のため高さが制限されて、背の低いものが作られているが、このような制限のなかったころには各地の佞武多は背の高いものであった。
佞武多は、青森市などに見られる「ねぶた」と、弘前市などに見られる「ねぷた」に
二大別される。前者は、人形ねぶたといい、後者は行燈ねぷたともよばれる。
五所川原市では佞武多をねぷたとよび、往年の巨大な佞武多を復活させ「立佞武多」と呼ぶようになってきている。
佞武多の起源は不明とされ、幕末の古文書にはすでにその「起源が不明」とある。
「ねむり流し」の行事は、九州阿蘇方面にも行われており、富山県滑川市にねぶた祭があり、福島県二本松市にも佞武多祭がおこなわれている。かっては全国的に行われたと考えられる。
山車が火と結びついた行事は各地にあるが、石川県の奉燈きりこ、富山県の夜高行燈、新潟県や弥彦の行燈、山形県湯沢の行燈などの行事が次第に北上伝播していったものであろう。
一方鹿児島県や宮崎県に見られる彌五郎どん、三重県四日市市の大入道は、だいだらぼっち、でいだらぼっちともいわれる大入道にちなんだ巨人伝説がある。
富山県高岡市伏木には「たてもん」とよぶ巨大な人形をつくる風習があり、祭には富山湾のかなたからも海のうえにまず人形が見え、しだいに岸に近づくと人形の下に家並みが見えるようになったという言い伝えが残っている。
熊本県牛深市に起源をもつといわれる民謡の牛深はいやは、次第に北上して、白峰おわら、越中おわら、佐渡おけさなどとなり、青森県に至って洗練の極地といわれる津軽あいやになったと言われる。南に下った鹿児島おわら、徳島の阿波踊りで知られる「よしこの」もその影響を受けている。
筆者は、青森の佞武多もおなじ経路をたどったものと推定している。
青森の佞武多は神社に係属しない民俗行事となっているが、五所川原の佞武多も、終わればいわき川に流したといい、まがごとながし(凶事流し)にきざしている。佞無他とよぶべきだという説もある。
芭蕉の、
   象潟や雨に西施がねぶの花
にある、ねぶの花は合歓の木の花のことであるが、
   荒海や佐渡によこたふ天の川
とあわせて、牽牛と織女が天の川に会する祭を佞武多祭だという説もある。
大隅の彌五郎どんまつりとおなじように浜くだり神事に比定する説もある。

00226 田名部祭

2007年04月27日 | 日本の山車
00226 田名部祭
青森県むつ市
田名部神社
□祭神
・味耜高彦根命 アジスキタカヒコネノミコト
・誉田別命 ホンダワケノミコト
□祭は八月下旬。
昼と夜には装いをあらためた、山車五臺が曳行される。
□山車
・先山(一番山) 稲荷山 
横迎町 豪川組
祭神 稲荷 白狐左右一対
見送幕 黄鶴仙人図
・二番山 猩々山
小川町 義勇組
祭神 猩々
見送幕 鳳凰に仙人が乗る
・三番山 大黒山 
柳町 共進組
祭神 大黒天(大国ではない)
見送幕 義光が秘曲を授ける図
・四番山 蛭子山 
田名部町 明盛組
祭神 蛭子(恵比寿)
見送幕 仙人が乗る大亀
・後山(五番山)香爐峯
新町 新盛組
祭神 清少納言
見送幕 鬼若丸が鯉に乗る図 、替えに紅毛唐人憩図がある。

□汎論
昭和35年田名部町と大湊町が合併し「むつ市」となった。田名部は田名部川に面し、藩政時代この地方の物産集散の中心地で、北前船の往来も多く、南部藩の代官所も置かれた。
霊場で知られる恐山の登山口にあたり、毎年8月下旬には恐山大祭と併せて田名部神社の例大祭である田名部祭が挙行される。
田名部神社は、江戸時代には田名部通りに鎮座し、下北半島の総鎮守として社格は郷社に任じられていた。
祭の沿革は不明とされるが、寛政四年(一七九二)にこの地を訪れた菅江真澄の「菅江真澄遊覧記」に祭の記述に見られることからこのころにはすでに祭が行われていたようである。
 山車の曳き出しは十八日の午前から行われる。十一時ころには神社前に曳きそろえられる。十九日は町内曳き。二十日の本祭には午前十時ころそろって町内を巡幸する。夕方5時ころには神社に戻り、そろって宮入りする。夜十一時ころになると夜の曳行が行われる。神社を出た五臺の山車は田名部神社、本町の十字路にそろい、祇園囃子の演奏のうちに祝いの鏡開きが行われ、山車の曳き子をはjめ見物客に樽酒が振る舞われる。
これが終わると各山車は町内に曳き別れられ帰途につく。
隣町の大湊、おなじ下北半島太平洋側の風間浦にも舟山車が曳かれる。また、むつ市の各所には青森に共通するねぶたも出る。
山車は五臺いずれも二層式。
この地方に例をみない山車の形式は、江戸時代この地に往来した近江湖西高島(現高島市大溝祭)の山車を模したという説がある。




04261 生出神社八朔祭

2007年04月26日 | 日本の山車
04261 生出神社八朔祭
山梨県都留市四日市場
生出神社
祭神
建御名方命 タケミナカタノミコト
八坂刀売命 ヤサカトメノミコト

□祭
8月下旬-9月上旬
屋臺四臺を曳く。

□山車
・新町
文化九年の建造。平成11年に高山市の工匠らにより修復がおこなわれた。
見送りは鹿嶋踊り、葛飾北斎と伝える。

・早馬町
文化年間(1804ー17)ころの創建。昭和初期まで曳かれ解体保存されていた。
が平成元年、市内上町の滝本照男により修復
大幕は「裸馬群像」柳文朝、南柳斎の落款がある。
見送りは葛飾北斎の牧童図。
水引幕は龍。

・下町
創建は不明。
平成8年修復。
大幕は三番叟翁の舞波羅密、清水岳麟の合作。
見送りは葛飾北斎の猛虎図。
水引幕は飛龍。
下幕は葛飾北斎。

・仲町
平成12年高山市の工匠らにより修復。
見送りは藤原栄之の筆になる桜に駒。

・田町
舟型屋臺があったが、現在は人形のみが残る。

・高尾町
かって曳かれたが現存しない。

・弁天町
かって曳かれたが現存しない。

・横町
かって二層の屋臺があった。

□汎論
金井の桂林寺の南には小山田氏の館があったと伝えられる。
小山田氏の居館は火災に遭いその二年後にあたる天文元年、小山田氏は谷村に居館を移した。これ以後谷村は郡内の中心地となった。
天正十年甲斐の武田氏が滅び、甲斐黒駒の合戦で戦功のあった鳥居元忠は、徳川家康都留一帯を拝領し、領主となって入府した。
天正十八年、豊臣秀吉は家康を江戸に移し、甲斐の国には羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政など一族の重臣らを封じた。都留市の歴史資料によると、谷村の地は三輪近家、加藤左内、浅野氏重がはいったとある。勝山城は、浅野氏重が築城した。
宝永九年、谷村は秋元氏が川越に転封以後幕府の天領となり谷村陣屋は幕末期まで幕府の直轄地であった。
郡内は山間地で耕作に不適なため養蚕や機織がおこなわれてきたようであるが、この地で生産される「郡内縞(ぐんないしま)」は、間道を手本にした縞織物で、江戸の越後屋が一手に扱い、高い評価を受けるようになり、莫大な収益をあげたようである。
都留市の歴史資料によると、埼玉県の秩父銘仙、伊勢崎銘仙をもしのぐ生産量を上げたとある。
松尾芭蕉をはじめ、数々の文人墨客が杖を引いているが、当時の文化人らの来訪は山車をさらに磨いていったようであるが、とりわけ、葛飾北斎、藤原栄之、柳文朝らが下絵を描く、後大幕は特筆すべき遺産である。
谷村(都留市)の八朔祭に山車が曳かれるようになったのは宝永九年の秋元氏、転封以後、天領となったころと推定するが、山車が華麗になってゆくのは、天領であったこと、経済的に豊かであった二つの大きな要素がある。
山車は秩父の屋臺に共通する部分があり、相互に影響を与えているようである。
新町、下町、早馬町に葛飾北斎の手になる画がのこる。落款の有無が問われるが、葛飾北斎の絵に間違いなく貴重な遺品である。

□参考
葛飾北斎
・長野県小布施


20001 山車の定義 12

2007年04月05日 | 日本の山車
20001 山車の定義 12
山車は氏神祭の一部を分担する。
高山祭にみられるように屋臺上で神楽を演奏する。四国から関西各地などで広く見られる太鼓臺(蒲団太鼓)。
屋臺そのものにそっくり赤や青の油単をかけて獅子に仕立て、夫婦獅子とか、赤獅子、青獅子としているものがそれである。
長野県木曾地方、和歌山県南部、茨城県常陸地方、宮崎県などに見られる。

20001 山車の定義 11

2007年04月05日 | 日本の山車
20001 山車の定義 11
山車はときに「あかり」と密接に結びつく。
北陸地方富山県に集中的に見られる「夜高」、新潟県弥彦神社を中心に周辺各地に見られる燈籠、あるいは行燈。秋田市の竿燈。北の青森県にいたって、ねぷた、ねぶたとなって曳かれる。
山車をいろどる提燈祭は福島県、二本松市、白河市をはじめ、各地で行われ幻想的な世界を展開する。
仏教と結びついた「あかり」の神事もある。