暘州通信

日本の山車

00489 生立八幡祭

2008年06月15日 | 日本の山車
00489 生立八幡祭
福岡県みやこ町(旧犀川町)
生立八幡宮
□祭は
山車(曳山)二臺、舁山六臺が出る。

□山車
親車
・続命院
・山鹿

舁山
・柳瀬
・古川
・本庄
・大熊
・谷口

□汎論
生立八幡宮は養老七年(七二三)に、豊前国司、宇奴首男人(うののおびとおひと)の創祀になり、仲津郡(犀川町、豊津町、行橋市の一部)の鎮守であった。
八幡宮は神社として一番古く仏教を取り入れ、放生池がつくられたところも各地に見られる。福井県小浜の放生八幡宮、富山県射水市の放生津八幡宮などがそれである、
奈良県東大寺の別当は手向山八幡宮であるが、ここに祀られる僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)はよく知られるが、当社にも古い神像があり祭神とされて祀られている。応永元年(一三九四)、当時、地頭職にあった西郷高頼が願主となってつくられたと伝えられる。
山車(曳山)は親車ともよがれる。川渡り神事で知られる風治八幡宮の山車と同じように幡がたちならぶ。舁山は現在は担ぎ山となって担がれている。幔をめぐらした「山」に高い二本の柱が立つ。筑前、筑後、肥前、豊前、豊後に見られる華麗な山車の祖形とも考えられる。







00214 盛岡八幡宮例大祭

2008年06月15日 | 日本の山車
00214 盛岡八幡宮例大祭
岩手県盛岡市
盛岡八幡宮
□祭神
誉田別命 (応神天皇)
合祀
春日大神
白山大神

□祭は九月中旬。
山車一〇数臺を曳く。

□汎論
盛岡八幡宮の創祀は、 康平五年(一〇六二)、源頼義が安倍氏を討つとき、戦勝を祈願して京都の石清水八幡より分祀を請けたのにはじまるという。「鳩森八幡宮」とも言い
日戸氏の尊崇が篤かった。
文禄二年(一五九三)に、南部氏が盛岡城を築城し、鎮守の神社として社殿が再建された。
延宝八年(一六八〇)、藩主の南部重信は旧地の青森より櫛引八幡を勧請し、
こちらを「新八幡」、「南部新八幡」とも言ったた。明治期に鳩森八幡宮を新八幡に遷した。明治二十二年(一八八九)に、市内にあった白山神社を合祀している。
風流山車十臺あまりが出る。毎年作り変え、歌舞伎、戦記物などから題が選ばれる。
岩を作り、その上を松、桜、藤、竹、造花で祭神となる人形がのる。
また山車各組ではその姿を精密・巧緻に描いた刷り物が作られる。
岩手県、青森県の各地に毎年更新される山車が建造されるが、盛岡の山車はそれらの祖臺と考えられる。

□問い合わせ
盛岡市観光物産課
電話 019-651-4111
盛岡八幡宮社務所
〒020-0872 
盛岡市八幡町13番1号
電話 019-652-5211
Fax 019-652-5212


24451 深浦円覚寺の厨子

2008年06月15日 | 日本の山車
24451 深浦円覚寺の厨子
青森県深浦町
円覚寺

□汎論
円覚寺の縁起は、大同二年(八〇七)、征夷大将軍坂上田村麻呂の東征時、厩戸皇子作
の十一面観世音菩薩を安置する観音堂を奉建したときにさかのぼる。
のち、清和天皇期の貞観十年(八六八)に、泰澄大徳の弟子で、浄定行者の弟だった円覚法印が、諸国遍歴中に深浦を訪ね観音堂を再興した。この円覚法印を開基としており、山号も法印にちなんでいる。
津軽三十三ヶ所観音霊場の第九番札所で、明治五年に古義真言宗醍醐派となった。
円覚寺の厨子は飛騨の匠の作と伝える。飛騨の匠(工)は、名工の誇りと伝統を伝えるが、各地に赴いて建築、彫刻をのこしているが、明治期以前までは普段の生活はは農耕、山林仕事などにたずさわり、仕事が入るとその規模により個人で、あるいは集団を組んで招聘に応じた。伝統の技は定評があり、施主は飛騨の匠の仕事に満足し自慢した。
このような民間伝承が各地に「左甚五郎伝説」となって伝わる。


01046 矢部八朔祭

2008年06月15日 | 日本の山車
01046 矢部八朔祭
熊本県上益城郡山都町(旧矢部町)
□祭は九月上旬。
作り物の大山車を曳く。

□汎論
各町内が田の神に感謝して、竹、薄などを使った巨大な作物をつくり大山車にのせて曳く。
中世時代、阿蘇氏の支配下にあり、承暦年間に大宮司、鎌倉期にはその支配が小国、矢部にも及んだ。旧矢部町浜町には承元元年(一二〇七)頃、大宮司の「浜の館」が置かれたが、天正十四年(一五八六)薩摩の島津氏の侵攻により浜の館は破壊された。
天正十五年には、越中立山超え、黒百合伝説で知られる佐々成政が肥後の支配下になっている。
当地の近隣には見事なアーチ型の石橋が見られる。皇居の二重橋もこの地方の石工の手になるという。通潤橋もそのひとつで、水を通すこの橋の完成で、いまも百町歩(約百ヘクタール)の農地を潤している。