暘州通信

日本の山車

◆00002 烏山山あげ祭

2010年02月27日 | 日本の山車
◆00002 烏山山あげ祭
栃木県那須烏山市(旧烏山町)
八雲神社
□祭は七月下旬。
□山車
・元田町
御拝飾 鶴に鯉 明治十年の作。
建造記録は不明。
・金井町
御拝飾 神功皇后と武内宿禰。
寛政八年(一七六九)。常陸美和村国鷲子(茨城県)の薄井武衛門の建造。
・仲町
御拝飾 須佐之男命の八岐大蛇退治。
明治三十七年の建造。
・泉町
御拝飾 神武天皇と金鵄。
明治四十一年の建造。
・鍛冶町
御拝飾 少彦名命大鷲退治。
明治四十年の建造。工匠は井上卯吉。
彫刻は鷲子の小林兵衛門
塗師は佐藤為義
・日野町
御拝飾 牛若丸と烏天狗。
山車の建造は大正元年。
旧鍛冶町だったが分離独立した町。
□汎論
 烏山山あげ祭の行われるのは盛夏。眼もくらむような暑いさなかに行われる。山車は前部およそ四分の一が屋臺
、後部四分の三ほどが、山あげの部材を積む臺車の形態で、町の辻に山車をとめて山をたて、歌舞伎が上演される。 永禄三年(一五六〇)那須資胤は天下泰平、五穀豊穣、疫病消除を祈願して城下五町の鎮守牛頭天王(素盞鳴命)を祀る八雲神社を創建した。永井氏が領主だった元禄期には狂言が行われたといい、やがて城主が大久保侯に移った
享保から宝暦年間にかけては、江戸歌舞伎が隆盛になったのを受け、山車藝能がはじまった。舞臺装置や背景も「山あげ」による大規模なものになり、江戸時代末期には、今日のような全国にも例を見ない絢欄豪華な「山あげ」による野外歌舞伎が行われるようになった。
山あげは、六町内が年番となって交代に行われ、山車の舞臺を中心に道路上の約一〇〇メートルに大山(おおやま)・中山(なかやま)・前山・館(やかた)・橋・波などを配し、舞臺のすべてをつかい、 新緑が一瞬にして紅葉に変わるなどの陰の演出には青年らが巨大な山を操作する。
歌舞伎は常磐津にあわせて上演されるという壮大なものである。盛夏の炎天で観客は身じろぎもせず見入る。所作狂言が終演すると、装置はあっというまにとりかたづけて山車に積み、つぎの上演場所に移動する。
山は竹を割って網代に編み烏山和紙を幾重にも重ね張りしてつくるが、山があまりにも大仕掛のため、和紙をはるのりにするうどん粉を多量要するため値上がりしたというエピソードがのこされている。
これまで演じられた藝題には
「平将門」
「戻り橋」
「宗清」
「狐忠信」
「梅川忠兵衛」
「関の扉」
「蛇姫様」
「自雷也」
「奥州安達ヶ原・黒塚」
などがある。




◆00001 近江日野祭

2010年02月27日 | 日本の山車
◆00001 近江日野祭
滋賀県蒲生郡日野町村井馬見岡
綿向神社
□祭は五月上旬。
・西大路
・本町
・新町
・越川町
・清水町
・双六町
・河原田町
・今井町
・仕出町
・杉野神町
・上鍛冶町
・金英町
・南大窪町
・岡本町
・大窪町
・上大窪町
休止
・下鍛冶   
・呉服町   
・白銀町 

□汎論
山車十六臺を曳く。
いずれも屋根のない露臺式の山車で上臺に「だし」とよぶ人形を飾る。
近江日野祭は弘治三年に神輿三基の渡御が行われている。
日野に山車が曳かれるようになったのは「近江輿地志略」によると享保十九年「山鉾二基ほかねり物」とあって享保年間頃で、飾山や舁山だったようである。それ以前には練物が出ていた。「和田日記」には享和二年、引山と見え二輪か四輪の山車が曳かれたようである。宝暦になると「山車十二基」とある。
江戸時代各地に出向いて活躍した近江商人の財力を傾けた見事な山車がのこるが、信州諏訪に出店のあったという岡氏とのかかわりから立川一門の山車彫刻が見られる。
蒲生郡は額田王ゆかりの地で、石塔寺は大陸起源の古石塔がたつ。また日野町には飛騨町がある。
日野祭の山車は俗に「重箱型」と表現される。
屋根がない露臺型で、上部を飾山という。
正面に階段を設ける。
町内の記録によれば、最初に山車が曳かれたのは弘治三年で、「練物」、「飾をつけた舁山」のようなものではなかったか? と推定されている。
享保期にはこの練物や舁山に二輪、あるいは四輪の車輪をつけたものが曳かれるようになった。
享保十九年の「近江輿地志略」によると、
「山鉾二基ほかねり物」の記述があり、 享和二年の「和田日記」には、 宝暦年中「山車十二基」とあるから、このころにはほぼ現在に近い臺数の山車が曳かれるようになったと推定される。
文化三年の越川町山車は、飾山囃場山車で車輪は四輪
正面に階段をつける。
文化四年新町飾山囃場山車はやはり四輪車で階段と向拝が付く山車だったようである。文政期、岡本町の山車は飾山四輪の囃場山車。階段と二階が付いたものだったという。天保四年西大路越川町の山車は、飾山囃場山車葉車輪八輪とあるのが珍しい。階段があり軒唐破風をつけたものだったようである。
新町山車は天保五年の作といわれ、階段部まで船木とよぶ部材が伸びている。
このあとに建造された岡本町山車は二層式で今見られる形がほぼ整ったとみてよいだろう。清水町の山車は向拝をつけるもので新しい形式である。
西大路山車は屋根を葺き、さらにその屋根には軒唐破風をつける。
しかも規模が大型化してきた。
大窪町の山車は塗装をしない素木のままの山車である
南大久保は蔓股彫刻に中国の仙人である、費長房を載せる。
日野町の山車は、更新のさい、旧臺を譲渡した例があり。鈴鹿関町の文化センターには
その面影の残る山車の部材と一部装飾品が展示されている。
  

◆02355 大畑八幡宮祭

2010年02月26日 | 日本の山車
◆02355 大畑八幡宮祭
青森県むつ市(旧大畑町)大畑
大畑八幡宮
□祭は九月中旬。
□山車
・八幡山 本町
享保三年(一七一八)に山車を曳いた記録がある。
現在の山車は平成十一年の建造。工匠は地元本町の道地則之。
・鞍馬山 東町
享保六年(一七二一)に山車を曳いた記録がある。
現在の山車は昭和六十一年の建造。工匠は本町の道地則之。
・放生会 大新町
古くは儀杖を出していたが、火災で焼失し、寛保三年(一七四三)より山車(屋臺)になった。
現在の山車は昭和六十二年の建造。工匠は本町の道地則之。
・中島山 中島
本座人形は武田信玄。人形製作は八戸市の類家山車組だという。
昭和三十九年地元篤志家より山車が寄進され曳くようになった。
・豊栄会 湯坂下
昭和六十三年に新町の旧山車を譲り受けて曳くようになった。
・上野天女丸 上野
船山。工匠は烏沢の吉井。大湊の個人所有の山車を譲り受けて曳くようになった。
・明神丸 湊
享保六年(一七二一)曳行の記録がある。
現在の山車は平成元年の建造。工匠は久本武雄、山田正博の施工。
・南町
享保六年(一七二一)に山車、山神臺を曳いた記録があるが延享三年(一七四六)に山車を廃し、神輿を担ぐようになった。
□汎論
 大畑八幡宮祭には山車七臺が曳かれる。記録によると
五臺の山車が露臺式の山車で、内二臺は船山である。山車は黒漆掛け、勾欄も黒塗りである。後部には見送り桁に絵画が架けられる。本町の八幡山が一番古くて享保三年の建造。東町の鞍馬山が享保六年の建造でこれにつづく。
 山車の建造記録によればその歴史はかなり古い。江戸時代中期には上方、江州(滋賀県)の商人たちが、交易のため出向しており、山車の形態は、田名部とともに滋賀県日野町、水口町。近江八幡市浅小井などで曳かれる露臺式の山車が基本になったと推定される。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
◇日本の山車 ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/ypjcd447/
◇日本の山車 ホームページ
http://hiyou.easy-magic.com/
◇津島秋祭り
2009/9/1(火) 午後 11:01
... 後、享保3年(1718年)から山車に乗せて行われるようになり、享保11年には恒例行事となった。 ●今市場の山車(いまいちば) 大土社(本来「土」の字の右上には点がある ... 末期から19世紀初期に建造されたと伝わる。 ●神守の山車(かもり) 文化年間 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tsm0124/20977559.html

◆00507 岩代塩松太鼓臺祭

2010年02月21日 | 日本の山車
◆00507 岩代塩松太鼓臺祭
福島県二本松市(旧岩代町)小浜
塩松神社
□祭は十月上旬。
・藤町
・鳥居町
・新町
・反町
□汎論
 塩松神社の創祀は一説に天喜三年(一〇五五)と伝える古社。のちに、源頼朝の家臣、伴助兼が信仰していた宇都宮権現明神を勧請したという。宝永二年(一七〇五)現在地に遷座された。
 祭のはじまりは、天明七年(1787年)、神社の祭衣服に、領主だった丹羽氏の家紋
がつかわれたとの言い伝えがある。唐破風屋根のある太鼓臺四臺を曳いているが、近年にはじめられたようである。

□外部リンク
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◇高津神社・大神八幡・姫島の比売語曽神の伝承
2010/2/16(火) 午後 10:02
... 天明三年(一七八三)大神八幡大宮司小石丹波は宇佐公国と諮り ... 『姫島村史』より引用  日出町の高津神社は、近くに大神八幡があり大神比義が延暦七年十一月故郷の大神の鎮護のため、宇佐神宮を分祀したとされ宇佐神宮の摂社になっています。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/giyokuan/9450590.html

◇玉山金山と竹駒神社
2009/12/11(金) 午後 2:21
... 玉山神社として建立。 文禄四年(1595)野火により社殿が焼失、伊達政宗の命により再建、延宝年間の頃より、金山が衰退したために天明七年玉山の明神平より現在地に遷座、竹駒神社として竹駒村の総鎮守となったといいます。 慶応二年(1866)に拝殿を再建。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/22916453.html

◇野原神社
2008/10/26(日) 午前 0:16
... 天明(1785)の記録によると神殿 ... 野原大明神が鎮座ありしを明治七年一村           一社 ... 祭神はわかりません 野原神社の直ぐ横にご鎮座する 宇迦之御魂神社 稲荷神社のようです 赤い 江戸時代まではこの辺りに六所神社があっ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/44875149.html

◇岩神さん(岩神祠・岩上神社)
2008/2/24(日) 午後 0:10
... 天明八年(1788)の「天明の大火」で類焼した後に岩神寺は衰退 ... 慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、岩上通六角下る(中京区岩上町・・現在は中山神社があります)へ運ばれたとも、或いは、寛永年間(1624~43)に岩上通六角へ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/53996322.html

◇世田谷赤堤六所神社
2006/4/30(日) 午後 4:38
... 天明七年九月社殿再建、明治七年には赤堤村社と定められました。 で、少し気になったんですけど、3枚目の写真、厳島神社の分社です。 厳島神社は、あの有名な広島の神社ですし、分社も結構見かけますが、 神社の中に、別の神社があるってことは ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/gengen719/34654304.html

◇播州・曽根天満宮~梅~
2010/2/13(土) 午後 8:58
... 参考:yahooより 曽根天満宮:菅原道真を祀る神社として知られる。伝えによれば、延喜の頃(901)、讒言(ざんげん)によって九州太宰府に流される途中、日笠山に登って休んだ道真が ... 天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は、大正13年(1924年)に ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/watanabe30321/31288876.html

◇鎮札神社その後
2009/7/16(木) 午後 10:17
... 静岡市清水区大平地区の鎮札神社を紹介     しました         http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/40847172.html      当時は神社由緒が
分かりませんでした ご祭神も100 ... 姫尊      天安二年勧請 天明年間婦人のみを犯す疫病が ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/48720671.html

◇『ひふみ神示』発祥65年目の今日と岡本天明先生の真意
2009/6/10(水) 午前 6:23
... 画家岡本天明は、千葉県成田市台方に在る麻賀多神社の境内の、天之日津久神社に参拝しました時、突然右手血管が怒張激痛し、止むを得ずに丁度持っていた矢立を、画仙紙に当てた処、自然に手が動き出し ...      http://blogs.yahoo.co.jp/a313jyuon/2010475.html 今回 ...

◇石仏神社の石仏群/新発田市
2007/12/14(金) 午前 11:47
新発田市御幸町3-11-14の稲荷神社は別名石仏神社とも言われている。 祭神は宇賀之魂命である。 ... この境内の一隅にある「石造仏4体」は、下がって天明年間聖籠観音(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31880347.html)の講中といわれる 七兵衛という人達が ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38451971.html

◇柏原八幡神社
2010/2/21(日) 午後 8:39
... 氷上市柏原町にある八幡神社で、厄除け祓いがあります。 この日は、たくさんの人が参拝に来られ、厄除け祓いをされます。 その日に行けなかったので、今日お参りに行ってきました。 この八幡神社は、国の重要文化財に指定されているんですよ。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/azemiti172/9806709.html

◇塩名田神社
2010/2/21(日) 午前 7:43
... この境内で両佐久郡の宿祢会相撲大会が挙行された。このとき、勧進元の一人に地元中津川余文治、角力部長には鷹ノ森権之丞が勤めている。    (「駒形神社」⇒http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/53911492.html 08.7.1 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/59124205.html

◇吉野神社 「絵馬」 (岡山県奈義町)
2010/2/19(金) 午後 11:21
... 将兵が買い自分の故郷の神社に武運長久を願い奉納したモノでは無いでしょうか?  明治四年九月と書かれているモノも有りました  由緒を書かれているモノも有りましたが…私は毛が少ないモノで…  神社から見た那岐山  那岐山頂に山小屋らしいモノが見え ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/asakasig22ki/23997835.html

◇ベンツセールスマンさん☆お千代保稲荷神社☆
2010/2/18(木) 午後 5:41
☆お千代保稲荷神社☆ ベンツセールスマンさんのブログより すごいコメント数ですね ↓ gif-net放送局も近々「お千代保さん」をアップしますね~
 http://blogs.yahoo.co.jp/gnetmovie/9567793.html

◇廣瀬神社 砂掛けまつり
2010/2/17(水) 午後 9:29
... お昼過ぎには終了しましたので 14時からはじまる、河合町の廣瀬神社に行くことにしました。  砂掛けまつりは、今回で2度目。  前回は午前の神事から餅巻きまで見させていただき、砂掛けまつりも完全防備で挑んだのに 対して、今回は無防備。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/a02221370209/58844847.html

◆03232 中山神社祭

2010年02月21日 | 日本の山車
◆03232 中山神社祭
山形県酒田市(旧松山町)
中山神社
□祭は五月上旬。
□山車
・内町 
見立て山車一臺を造って曳く。
□汎論
 中山神社の創祀は不明、一説には慶安元(一六四八)といわれる。松山町(旧中山)の総鎮守である。松山藩がおかれたあと延宝四年(一六七六)に、二代藩主の酒井忠予が庄内藩初代忠次と徳川家康の長男にあたる信康を併祀し、源鎮霊社と称した。
祭には、鹿流の太鼓を打ち、武者行列が町内を練る。無形民俗文化財に指定される。

□外部リンク
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◇穂の国・ウオーキング(豊川西部地区)
2010/2/18(木) 午後 8:55
... この神社の夏祭        りは国府夏まつりと呼ばれ、各町内からの山車と歌舞伎行列が旧東海道を大社神社まで        練り歩くほか、境内では手筒・大煙火が奉納されます。 ... 三河領主のころの徳川家康が立ち寄ったり、芝増上寺の管長祐天 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/aikento33/9570486.html

◇日枝神社(東京千代田区)
2010/1/31(日) 午前 1:20
日枝神社に行ってまいりました。 ここは ... 江戸に家康さんがくる以前から、 東京で頭をはっていた、そんな神さまみたいです。 江戸時代には、ここと神田明神の山車だけが、 江戸城内に入ることを許されたという、VIP待遇の神さまだそうです。 ...
  
◇13輌の山車 犬山祭
2009/10/24(土) 午後 5:15
... 12万の大軍を率いて この城にはいり 徳川家康と戦いました 着物では すごく大変な急な木 ... 田楽のみそもこわくありません さて11時 次々山車が広場に集まりました 犬山の山車は 春が本祭りで 神社に奉納する目的であります 秋は観光客へ ...

◇人形山車とお囃子の競演のお祭り
2008/8/18(月) 午後 2:48
人形山車とお囃子の競演のお祭り  近くにある神社なのですが、創建以来1,200年近い由緒ある神社、皇大神宮の例大祭を初めて見に行った。  当地の今年の夏は ... 堀川町の仁徳天皇、苅田町の徳川家康  左側から宮ノ前町の那須与一 ...

◇自作小説の舞台地を訪ねる3。日枝神社編と徳川家康はなぜ新田源氏を名乗ったのか
2007/11/3(土) 午後 10:43
... 神田明神と隔年で行われる天下祭りには、壮麗な山車が半蔵門から江戸城に入ることが許され、徳川将軍が吹上で上覧したという。 日枝神社の特色は神門に猿の姿をした像があることだ。翁と嫗の衣装をつけた神猿が ... 徳川家康は曲がりなりにも「新田源氏」を名乗り ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/pcscd431/25176286.html

◇下谷神社祭 下車坂
2006/5/7(日) 午前 3:11
ママの実家の地元上野では神社祭が、下町特有のイベントです。私も実は高校まで神田育ちです。山車を引っ張っていた二人はそれでは満足せず、長男は子供神輿をかつぎ、次男は山車の太鼓を叩きはじめました。掛け声のテンポと違う太鼓の音が上野の町に響き ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mnyuu0513/4218695.html

◇総社-神明太一宮 - ①
2010/2/18(木) 午前 3:01
... 江戸時代以降 尾張徳川家の崇敬が特に篤く社殿の造営等に ... 説 明 ▼ 人口五万弱の田舎町にしては結構大きな神社と理解出来るじゃろうか? 山車は此処を含めて数台 ありこの神社で 春、秋の祭礼には引き揃いがあり賑わう、こんな神社の続きは次のページ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sy_5rougoya/9527937.html

◇石刀神社(いわとじんじゃ)・今伊勢町
2010/1/18(月) 午後 4:35
... 一宮市浅井町黒岩にある石刀神社もそうであり、岐阜県羽島市桑原町にある八剱神社(やつるぎじんじゃ)もそうである。このように候補が ... 福島正則の軍(徳川方)が当社に駐屯し ... 一枚の社頭掲示板には祭礼用山車が紹介されている。山車(だし)は5輌だったが ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/23230810.html

◇名古屋の山車
2007/7/19(木) 午前 7:54
徳川園での山車揃えは、地元東区の出来町・筒井町の各町内の 須佐之男神社の祭礼(天王祭)に合わせて、隣接する徳川園で勢揃いします。  また、十月に催される「名古屋まつり」にも、両天王祭の山車揃えが行われています。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hotsuma816oari/13524265.html

◆甚五郎の招き猫

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の招き猫
 江戸時代、江戸の町で小間物の行商をしていた忠兵衛、さな(佐奈)という夫婦があった。子はなく一匹の猫を飼っていたがたいそう忠兵衛になついていた。三月を迎えたある日、いつものように忠兵衛は行商に出かけたのだが、その日は風が強く大火事が発生した。後に言う振袖火事、明暦の大火である。江戸の町は火に包まれ、この火事で天守閣も焼け落ちた。伝馬町の牢屋では、一時的に囚人を解き放つ、解き放ちが行われた。これ以後千代田城には天守が築かれることはなかった。また一時的に解き放たれた囚人たちは恩徳に感じて全員戻ったといわれる。
 行商埼でこの火事を知った忠兵衛も急いで我が家に飛んで帰ったのだが、幸い妻は無事であったが火が迫るのに猫が忠兵衛の帰りを待ち続けて、家を出ようとしないというのである。 忠兵衛は火の粉の舞う家並みを通り抜けて、燃え盛る我が家に飛び込むと、愛猫を抱いて飛び出したのだった。
 しかし、猫は焼け落ちた梁に前足を挟まれ、哀れ不具になってしまった。ちょうどこのころ江戸にいた甚五郎のうわさを聞いた夫婦は甚五郎のところに相談に来た。「わしは医者じゃないからどうにもならんが…」といいながらも、気のいい甚五郎は木で猫の前足を作ってやったのだった。不思議なことにこの日から猫は普通に立って歩けるようになり、どこで見つけたかお嫁さんまで連れてきたのだった。
 やがて寿命で猫が息を引き取ると夫婦はそのさびしさにさいなまれるのだったが、夫婦で相談をして、甚五郎さんに猫の遺影を彫ってもらおうということになったが、甚五郎はどこかに旅立って江戸にはいなかった。うわさをたどって、上州伊勢崎でようやく甚五郎をたずねあて「しかじかで…」と話すと、甚五郎は前足を作ってやった猫をよく覚えていて、そっくりの猫を木で彫り上げてくれたのだった。しかしこの猫は動かなかったので少しがっかりしたが、それでも喜んで江戸に戻ったのだった。それからしばらくたったある日のこと、仏壇の前に飾っておいた猫があまりにも生前の姿に似ていたので、思わず猫の名前を呼ぶと猫は眼をあけ、片足を上げて「みゃあ」と嬉しそうに鳴いたから忠兵衛はびっくり仰天、それからというもの毎日名前をよんでは頭をなでてやると、猫はのどをごろごろいわせて喜ぶのだった。やがてその年も迫り、十一月ともなると浅草の長國山鷲山寺の酉の市に、夫婦そろってお参りし、おかめ笹で作った福笹を買って帰ったのだが、面白半分に笹についていた打出の小槌を猫にもたせたところ、猫は喜んでそれを振ったから、たちまち福が舞い込み、商売は繁盛、家普請でき、以前にもましてはんえいするようになった。この猫は世田谷の豪徳寺の猫と兄弟だったという。
 浅草の長國山鷲山寺には左甚五郎が奉納した大鷲があったというが、夫婦が献納した猫ともども大正時代の関東大震災で失われた。



◆甚五郎の子授け地蔵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆甚五郎の子授け地蔵
 日向の国、延岡のお殿様延稜公に招かれて、豊前臼杵から南に向かっていた左甚五郎はある村で宿を借りた。夫婦は好人物で甚五郎をあたたかくもてなしてくれたのだが、なぜか家のなかがわびしい。だがそのわけはすぐにわかった、夫婦に子供がいないのである。長年連れ添い夫婦仲もいいのだが、近くのお地蔵さんにお参りしてお願いしても、なぜか授からぬものは仕方が無い。もう諦めているという話だった。一部始終を聞き終わった甚五郎は翌日、あるじにお地蔵さんまで案内してもらった。しばらくお地蔵さんを眺めていた甚五郎は祠を寄進して差し上げようといい、お地蔵さんのおうちを作ってそちらに移ってもらったのだった。夫婦はたいそう喜んで毎日団子を作ってお供えし、せっせと日参したのだが、やはり子宝に恵まれなかったのである。夫婦は世間で評判の左甚五郎さんもたいしたことはないわい。もう明日からはおまいりもやめようなどと夫婦は愚痴を言いながら帰ってきたのだったが、その夜のこと、夫婦の枕元に件のお地蔵さんが現れたから驚いた。お地蔵さんいわく、「そちたちのお陰で毎日腹がふくれているのはありがたいが、聞けば子宝を望んでいるそうじゃの?」、「さようでございます、しかしお地蔵さんが望みをかなえてくださらないので…」思わず愚痴を言ったところ、お地蔵さんが言うには「わしは、団子はもう食い飽きた、明日から餅をあげよ」というなりぱっと姿が消えた。後で聞いたら妻も同じ夢を見たという。「不思議なこともあるものじゃ?」、しかしお地蔵さんのお告げなので翌日は餅を搗いてお地蔵さんに備えたのだった。その夜のこと妻が真っ赤になってもじもじしているのを見た主人、「ははあ? そういうことだったか」とすべてを理解した。「甚五郎さまのご利益はありがたい」。仲のよい夫婦に子供が恵まれたのはそれからまもなくのことだった。
 子宝に恵まれない夫婦は餅を搗いてお地蔵さんに供えると子供が授かるというのでたいそう評判になって、お参り衆があとを絶たなかった。

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◇日光に行ってきました~!
2008/3/4(火) 午前 9:58
... 親子杉や夫婦杉など御神木があって、夫婦円満に良いと書い ... このお地蔵さんの名称は並び地蔵なんですけど、 行きに数えたお地蔵さんの数と帰りに数えた数が絶対に合わないという ... 名匠左甚五郎の名に因んで名付けられたという 日光甚五郎煎餅を買って帰り ... http://blogs.yahoo.co.jp/chikatyu2000/54154948.html

◇祇園祭小事典ラインナップ
2006/7/5(水) 午前 0:56
... 8月の地蔵盆、9月の御施餓鬼  27日:長刀鉾 ... 左甚五郎の兎の彫刻、豪華な屋根回り  18日:白楽天山 → 禅問答の御人形、学問のお守り  19日:芦刈山 → 別れた夫婦が再び一緒に、山口華揚のライオンの前掛、鶴の見送  20日:太子山 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kobayan717/38485279.html




◆左甚五郎と五合庵

2010年02月17日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎と五合庵
 ある秋の黄昏がた、左甚五郎は越後寺泊をすぎたあたりの海辺で、空腹に耐えながら暮ゆく向かいの佐渡島を眺めていたときだった。「どうしなさった」と声をかけてきたものがいる。振り返ると破笠に破衣の貧相な僧である。甚五郎は苦笑いしながら「じつは腹が減って…」、それを聞いた僧はまじめな顔で「それはお困りじゃろう」しばらくお待ちなされといって姿を消したがしばらくすると、古鍋を提げてもどってきた。
 しして、ふところから今日の托鉢で得たと思しき一合ほどのこめを鍋にあけ海の水で炊いで、お粥を炊いてくれたのだった。「さあ、食べなされ」、僧は甚五郎にすすめ、自分も一緒になって食べたのだった。甚五郎は尋ねるともなくたずねると、どうやらこの近くの僧らしいが、行く雲、流れる水。臥所を定めぬ常住の住まいもないらしい。
 話を聴き終えた甚五郎は、僧のために、弥彦神社の南斜面の空き地に翌日から三日ほどかけて、小さな小屋を建ててやった。六畳と三畳ほどの粗末で小さな庵だったが、拾い集めた小枝を囲炉裏にくべると、部屋はたいそう暖かかだった。
 「神社には話をしておいたから、この庵で過ごしなされ」と甚五郎は言い、立ち去ったが、近くには湧き水もあり、それからはまれには尋ねてくる人もあり、米、醤油なども届けられ、紙、筆、硯も次第に備わってまずは不自由の無い暮らしであった。
 この貧しげな僧とは良寛で、訪ねてくる人の求めに応じて書を認めるのだった。
 あとで、庵を提供してくれたのが左甚五郎だと知った良寛は、この庵を、一合の雑炊を分けて食べた甚五郎を偲んで「半合庵(ごごうあん)」と名づけた。さらに、飛騨のたくみを詠んだ詩一編をつくって甚五郎の徳をしのんだのだった。「飛騨のたくみの打つ墨縄の…」とある。良寛はこの庵にしばらく住まいし、老いてのちに麓に移った。「半合庵」はその後無住となり、ひとびとは「五合庵」とよんで、明治の初め頃までは存在したらしいが、ついに朽ちたのだった。いまは良寛を讃える人々によって、往時を偲ぶ五合庵が復元されている。



◆伊萬里の甚五郎稲荷

2010年02月15日 | 日本の山車 左甚五郎
◆伊萬里の甚五郎稲荷
 肥前の伊万里の里を旅していた左甚五郎は、村はずれで一人の少年に出会った。手に一握りのしきびの枝を握っていたから「お墓まいりかい」と声をかけたが、少年は黙って首を横に振った。見ると眼が真っ赤である。さらに尋ねるとおとうが死んじゃったという。なにか異常を感じた甚五郎、少年に一緒についていってあげようといい、少年の家まで来ると、そこは蓆がぶらさがった、いかにも貧しげなちいさな小屋である。
 土間には焼き物を焼いていたとおぼしき釉薬を入れる甕などがいくつかならんでいて、奥にはせんべい布団にほとけが横たわっている。「お母ちゃんは?」、「いない」、「兄弟は?」、「お姉ちゃんがいるけれど薩摩にお嫁に行ってしもうた」、「親類の人は?」「いるけれどだれも来てくれない」、「近所の人は?」、「だれも来てくれない」、聞けば父親は暮らしが貧しいのに、酒好きで借金がかさみ喧嘩好きで次第にだれも相手にしてくれなくなったのだという。
 「わしと似たような仁だったらしいな」。聞いていて甚五郎は目頭が熱くなった。「よしおじさんが手伝ってお弔いをすませよう」、甚五郎は少年を手伝ってふたりだけで葬式を済ませたのだった。その夜、棚に並んだ幾つかの粗末な焼き物を見た甚五郎は、少年にその犬を見せてくれと聞くと、少年はそれをとって甚五郎に渡した。「犬ではない狐じゃ」と少年は答えた。「こりゃあ悪いことを言ったな」詫びながら、だれがつくったのか聞くと父親の作ったものだという。稚拙な狐であったが、人の気を惹く稚気がある。
 甚五郎は少年の家に一晩とまり、小さな祠をこしらえて、なかにその狐を祀ったのであった。怪訝な顔をしている少年に、お賽銭箱に小銭を投げ入れ、「手をたたいてお参りしてごらん」、甚五郎が言うと、少年は素直に手をふたつたたいておまいりした。すると祠の奥で狐が「コーン、コーン」と二つ鳴いた。この話が次第に近所に伝わり、入れ替わり立ち代り、お賽銭を入れて狐を拝むと、「コーン、コーン」と狐が鳴く。ひとびとは面白がってお参りしていたが、いつとはなしにづ福運を授けてくれる奇特な狐じゃ、これは稲荷さまじゃということで、だれ言うとなく「甚五郎稲荷さま」と呼ぶようになった。
 お参り衆はあとを絶たず、おかげで少年は次第に裕福になり、立派に成人して、かわいらしいお嫁さんを迎えることができたのだった。
 しかし、ある台風の夜、強い風にあおられて祀堂が壊れてしまった。お参り衆は浄財を寄進して立派なお堂に建て替えたのだが、なぜかお稲荷さんは鳴かなくなってしまった。 ご利益のほうは一向に衰えず、初午の時には京のみやこからもお参りの人々があり、大勢の参詣人が続き、おみやげに土地の伊万里焼を買って帰り町はたいそう繁盛したという。

◆伊予の甚五郎薬師さま

2010年02月15日 | 日本の山車 左甚五郎
◆伊予の甚五郎薬師さま
 かの左甚五郎、伊予の三島にある傾きかけた古いお堂で一晩泊まったが、夜もあけぬ、まだ暗いうちからもう長い間、おもてで一生懸命お祈りしている様子、破れ障子の間からしばらくそのありさまを見ていたが、あまりに騒々しくてもう寝てなどいられなくなり、表戸をあけて外に出たから、お祈りしていた人は腰を抜かさんばかりに驚いた。「へへえ…」額を地に額ずかせて恐れ入っている。見ればどこかまだ幼い面影を残したひとりの少年である。「これこれ、若いの何をそう願っているのじゃ」、甚五郎は少年に声をかけると、少年は、「あの…失礼ながら、当院のお薬師さまでしょうか」と聞いたので、甚五郎は面倒くさくなり「いかにもそうじゃ」と答えると、少年は、「へへえ、実はお願いの儀がございます」、「申してみよ」、「それにしてもうすぎたないお薬師様で…」、甚五郎苦笑いしながら、「余計なことを言わずともよい」といって。先を促すと、少年はぼちぼちと語り始めた。父は越前若狭の士族だったが、病でみまかり、お情けで跡目の想像はできたものの、年端がゆかぬため、伊予三島に学問に出されたのだという。しかし、昨日故郷のほうから便りが来て、母が病で、この年は越せないだろうということだった。「父親の遺志をついで立派に奉公してくれ」とあるのを見ると居ても立っても居られなくなった。しかし、お城から遣わされている身では、故郷にも帰るわけにはいかない。そこんで悩んだ挙句、こちらのお薬師様に母親の病を治していただこうと思い…、という話だった。話を聴き終わった甚五郎、「これ若いの、筆とすずりを持ってまいれ」、「筆ならここに矢立が…」「おう、そうか」甚五郎は、お堂の諸氏神をべりべりひっぺがすと、それになにやらしたためていたが、書き終わると封印して少年に渡し、これを持って伊予大洲のお城に行ってご城代様に渡すのじゃ、「お返事がいただけたらすぐに戻ってまいれ」。半信半疑の少年はそれでも出かけていった。やがて、夕暮れも近い頃、ほっぺたを真っ赤にして少年が駆け込んできた。「お薬師様、おやくしさま…」、「追う帰ったか」、少年の話ではいまちょうどお殿様が国にお帰りになっていて、直接会ってくだされ、「感心なことじゃ」といって三〇両くださいました」、甚五郎は、とおりを三つ目の過度を左に曲がった酒屋に行ってそのうちから昨日の借りじゃといって二両を渡してまいれ。そしてもう一度ここに戻って参れ。やがて少年は不思議そうな顔で戻ってきた。「いやいや何も言わずともよい」
甚五郎は、一日かかって彫り上げた黄色い鶴を示し、よし、ここに腰掛けてみよ、といって少年を鶴に座らせると少年に手ぬぐいで目隠しし、黄鶴に「越前若狭へ」と声をかけると、鶴は大空にむかって大きく羽ばたき、瀬戸内の海を越えて飛び去った。
 難波、琵琶湖を越え嶺南から若狭へ無事に着いた。「おっかさん」少年は大きな声で家に飛び込むと母親に声をかけた。病み衰えた母親を見て少年は声を詰まらせたが、母は患いというより極度の過労と貧しい暮らしが故であった。少年は残りの二十八両を母に渡し、「来年春には帰ってくるから元気で居てくれ」と励まし、ふたたび黄鶴の背にまたがると、黄鶴は飛び立ち瞬く間に伊予に帰ってきた。黄鶴は少年を下ろすといずこえともなく飛び去った。少年は夢のような出来事にただただ驚いたが、こえもみなお薬師さまのお陰と喜ぶのだった。しかしお薬師様の姿は無かった。
 伊予大洲の城にはおおきなつぼみをつけた一輪のボタンが届いたのはそれから間もなくのことであった。
 春になって帰郷した少年は元気になった母親と再会し、親子ともども「甚五郎薬師」に感謝するのだった。

□外部リンク
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避暑避暑話 Vol4
2006/9/9(土) 午後 0:21
... 自然です。 また左甚五郎(ひだりじんごろう)は「飛騨の甚五郎(ひだのじんごろう)」が訛ったものだという説が ... 後ろにある建物は、本尊が薬師瑠璃光如来-やくしるりこうにょらい-(薬師如来)であることから ... トイレに向かって全力少年になるのでした・・・。
 http://blogs.yahoo.co.jp/uchipy0802/41184133.html

◆羽前街道金山宿の巡業親娘

2010年02月14日 | 日本の山車 左甚五郎
◆羽前街道金山宿の巡業親娘
 左甚五郎は、羽前街道金山宿(現山形県最上郡金山町)を旅していたとき、いかにも貧しげで、どうも影の薄い親娘とであった。話しをきいてみると、淡路島の出身で、旦那と妻、そのひとり娘で旅から旅の文楽人形使いの巡業者だったのだが、夫を病で失い、故郷にも帰れず今日まで人様の情けにすがって生きては来たものの、秋も深まれば冬の訪れももう間近か、たくわえも無くとても冬を越すあてもなく、いっそ最上川に身投げしようと、その死に場所をさがし、こうして娘とうろうろ…、という話を聴いて甚五郎は驚いた。「まあちょっと待ちなせえ」、甚五郎は近くに宿を取り、親子の話を聴いてみると、夫は一人使いの人形師、妻は浄瑠璃語り、娘は浄瑠璃三味線を弾いていたという。
 一部始終を聞いた甚五郎、親子を説得してひきとめ、あくる日から、なにやらせっせと彫り物をはじめた。五日ばかりすると人形の首が出来上がり、人形には親娘がつくった着物を着せて、娘の三味線で「傾城阿波の鳴戸(けいいせいあわのなると)」を弾き始めると、驚いたことに人形はパッチリと眼を見開き、立ち上がって、母親の浄瑠璃にあわせて所作をはじめた。
 勘定も支払わず流連する客のようすをいぶかり様子を伺いにきた、宿の主人はこの有様を見てびっくり仰天した。
 風采のあがらない旅人は、飛騨の名工、左甚五郎だったとは、後で知った一同は驚いたり、なるほどと納得したのであった。
 さあこれが評判になって遠近から訪れる客が後を絶たないありさま。何とか当座をしのぐ見通しも立ち、親娘は甚五郎に感謝し涙にくれるのだった。しかし、いい事は続かないもの、ある夜忍び込んだ盗人にこの人形を奪われてしまった。親娘の悲しみはいくばかりだったか。ところが盗人は捕らえられ、つまらん人形は捨てたというので、役人は事情を聴くと、盗賊は「あんな人形はうごきませんや」という。早速人形を拾い、親娘をよびよせて「これ、この人形は動かぬそうじゃ」といい人形を返したが、娘が浄瑠璃三味線を弾き始めると、人形はむっくりと起き上がって、芝居を始めたから、居並ぶお役人も盗賊もびっくり。無事に戻った人形といっしょに庄内各地を巡業してまわって大評判となり、こうして路銀のたくわえもできたので、親娘は旦那の位牌とともに、無事淡路島に帰ることができたのだった。しかし、不思議なことに淡路島の在所で、甚五郎の人形に芝居を披露しようとしたが、なぜかまったく動かなくなってしまった。


◇三津五郎さん&芝雀さん巡業@所沢市民文化センター
2008/11/11(火) 午後 10:40
... ま、これからってことで(^^) 『京人形』左甚五郎:三津五郎女房おとく:萬次郎栗山大蔵:亀寿井筒姫:巳之助奴照平:市蔵京人形の精:芝雀 やっぱ三津五郎さんならば ... (^^) 小さな見どころも満載の巡業、2時間半(爆爆)かけて出かけ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/niuniu_shogun/57535918.html

◇魚屋宗五郎と京人形
2008/10/31(金) 午前 0:41
10月30日(木)秦野市民文化会館で、松竹大歌舞伎・巡業を見てきました。 出し物は、『魚屋宗五郎』と『京人形』 宗五郎=三津五郎、女房おはま=芝雀、三吉=亀寿 左甚五郎=三津五郎、女房=萬次郎、人形=芝雀 他に、市蔵さん、秀調さん、彦三郎さんなど ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/giselle_1103/26261419.html


◆05587 貴布祢神社の狼さま祭

2010年02月13日 | 日本の山車 左甚五郎
◆05587 貴布祢神社の狼さま祭
岡山県久米町桑下
貴布祢神社
□祭神
タカオカミノカミ 高寵神
ヤミオカミノカミ 闇寵神
□祭は十二月中旬。
□山車
だんじり
・桑上
・桑下
□汎論
 貴布祢神社は京都の貴布禰神社から分祀を受けて祀られた。通称「狼様、おおかみさま」と呼ばれるのは、祭神のタカオカミノカミ(高寵神)、ヤミオカミノカミ(闇寵神)がいつか狼に置きかえられたらしい。タカオカミノカミは干天時の雨乞いに祀られていることが多い。
□問い合わせ
久米町産業課
電話 0868-57-7795

◆左甚五郎の獅子

2010年02月13日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎の獅子
 左甚五郎が伯耆の国を西に向かって旅をしていたが、折から雨季で、道はぬかるみ難渋していた。淀江の旅籠に泊まったが、雨が上がらず困り果てていた。自分の傘を京都の知恩院に忘れて来てしまったのである。そのうち宿賃がかさみ、支払いができなくなってしまった。旅籠の向かいは傘屋だった。店先ではあるじがせっせと仕事に励んでいたが、甚五郎は何とか傘を一介を手に入れないものかと思案していたとき、耳寄りな話がもちこまれてきた。神社の獅子舞につかう麒麟獅子が貸した先の神社の祭のあとで紛失してしまったという。旅籠の主人も思案していたが、「おまえさんも飛騨のほとなら、獅子でも彫ってくれたら、宿賃くらいは負けてやってもいいのだが」、結局宿賃と傘を交換条件に甚五郎は腕を奮い一頭の獅子頭を彫り上げたが、お世辞にも褒められたものではないお粗末至極なものだった。宿屋の主人はかんかんに怒って甚五郎を放り出してしまった。そのとき傘もとりあげ、こんな出来損ないの獅子の代金ならこの破れ傘で充分だ。まだ酒手の代金が残っている。あるじは、ほとんど紙の破れた傘を抛ってよこした。甚五郎はべりべりと傘の骨をむしると、一本の竹竿を杖について、そぼふる雨に濡れながら宿場町を出て行った。
 旅籠のあるじは腹が収まらずむしゃくしゃしていたが、腹立ち紛れに、甚五郎の彫った獅子を囲炉裏で燃やしてやろうと、ふとみると、そこにあったはずの獅子がなくなっているので驚いた。あとでわかったことだが、獅子は甚五郎を追いかけて出て行ったものらしい。そのあと甚五郎が雨宿りした淀江神社の拝殿には、たくさんの獅子の泥足のあとが残っていたが、肝心の獅子はどこに行ってしまったのか影も形も無かったという。
 のちの話だが、出雲の某寺では、住職が死去し、あとにおかみさんと子供が3人の子供が残されたが、生活がたたずに困っていた。甚五郎は、淀江の旅籠であるじが投げてよこした破れ傘の柄に雨龍を彫っておかみさんにあげたが、本道に飾られた傘は、左甚五郎の龍だということで評判になり、遠方から訪れる参詣者があとをたたなかったという。
 のちになって出雲にでかけた飛騨高山の名工、松田亮長(まつだすけなが)も、龍を彫った淡竹の龍を奉納している。

□外部リンク
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◇播磨・西国の寺~(3) 明石・浜光明寺から大蔵海岸へ 2009.3.29 
2009/4/23(木) 午後 0:13
... 居城を三木城に移すに当り、陣屋のあとを寺院にしたと伝わる。赤松満祐が ... 「牛乗りの神事」と「神楽獅子無」・「囃はや口」が有名で市の無形文化財に指定されている。楼門の彫刻は左甚五郎作だそうです。気付きませんで、残念。 大蔵院を東へ歩く ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/teravist/15408415.html

◇中華ソバ櫻坂&渋谷散歩
2008/9/29(月) 午後 11:12
... 食事のあとの渋谷散策は「金王(こんのう)神社」です。 渋谷警察の裏側です。 写真は鎌倉時代の御神輿で、右側のガラス戸の中には、 左甚五郎作の獅子頭がありました。 「ちい散歩」で放送された直後のことで、とても人が多かったです。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/komenoman/1566820.html

◇9月7日(日)木馬亭定席
2008/9/15(月) 午前 0:19
... 前日の「越後獅子祭り」で素晴らしい口演をされた藤田元春さん、本日は「南海情話」でした。 仲入りのあと登場したのは、三門柳さんでした。昨年6月の木馬亭以来 ... 桃川鶴女  甚五郎水呑みの龍(講談) 藤田元春  越後獅子祭(三味線 伊丹明) 三門柳 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kosawa3545/16535151.html

◇京都ひとり旅2006’夏-2 (養源院)
2006/7/12(水) 午後 9:46
... 場所・場所へ移動し、一人で拝観。 ☆俵屋宗達の象や獅子、麒麟を描いた杉戸絵☆ ☆秀吉の学問所とした牡丹の間☆ ☆左甚五郎の造った鴬張廊下☆ などなど、ポジションごとにおばちゃんが ... 甲羅干しを横目に      養源院をあとにしました。 つづく http://blogs.yahoo.co.jp/tin_3_chin/11916131.html

◇秋の京都 (PART 1)
2009/11/13(金) 午前 0:59
... 抹茶をたてて 1ついただきます(^^) あとの3つはお土産として持ち帰り~☆ 和菓子 ... お寺やけど 俵屋宗達の描いた象や獅子・麒麟の襖絵が見れます。 手形のハッキリわかる「血天井」や 「左甚五郎 作」の(うぐいすばり廊下)も有名。。。 ... http://blogs.yahoo.co.jp/mofmof1015/31285223.html

◆01188 江刺火防祭

2010年02月12日 | 日本の山車
◆01188 江刺火防祭
岩手県江刺市
秋葉神社
□祭は五月上旬。
□山車(屋臺)
・本町
・六日町
・中町
・一親会
・大通り
・川原町
・南栄会
・男石
・南大通り、
(順不同)
□汎論
 火伏せの神祭秋葉神を祭る神社。
 祭には多数の人たちによる江刺甚句の流し踊りがある。
□郷土藝能
江刺甚句

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◇チーム同期会を行いますか?
2009/5/28(木) 午後 8:23
... 郡上市人権の夕べ 9 日 今 町 秋葉祭 10 月 新栄町 恵比須祭(個人 ... 愛宕町 十八観音祭 19 水 立 町 日吉神社祖霊祭(団体おどりコンクール 午後7時30分~) 20 木 本 町 宗祇水神祭 22 土 八幡神社 小野天神祭 24 月 上桝形町 桝形地蔵祭 29 土 新町 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/localpapag/1623293.html

◇東京23区の好きな寺社300~17荻窪八幡、18観泉寺(杉並区)
2009/4/2(木) 午前 10:24
... 社務所の他、末社として稲荷、祓戸、須賀、琴平、御嶽、猿田彦、秋葉神社がある。 神門を入ると木造拝殿、本殿が建つ(写真)。 また拝殿前には、太田道灌が石神井城を攻めたとき軍神祭をして槇樹を植栽した「道灌槇」がある。 なお1294年,1388年,1422年銘 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911co/13974777.html

◇「郡上踊り」始まる
2008/7/13(日) 午後 3:28
... 記念祭・人権の夕べ 9日 土 今 町 秋葉祭 10日 日 新栄町 恵比須祭(個人 ... 十八観音祭 19日  火 立 町 日吉神社祖霊祭(団体おどりコンクール) 20日 水 本 町 宗祇水神祭 23日 土 八幡神社 小野天神祭 24日 日 上枡形町 枡形地蔵祭 30日 土 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kumonoito0001/12489054.html

◇(西区、櫨谷町)秋葉神社(あきばじんじゃ)のご紹介です。
2007/6/3(日) 午後 9:38
櫨谷(はぜたに)秋葉神社(あきばじんじゃ)のご紹介です。 本社は、西区櫨谷町、福谷地区の北の端の山の頂上に鎮座されております。 ... 当社の管理は、代々の氏子総代が行っており、毎月の1日に神祭を執り行っています。 社殿の西には、木製の展望台があり ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/33259698.html

◇「秋葉もち」 2月11日は秋葉大祭
2007/2/11(日) 午前 4:22
... 故郷のお餅を送っている。真さに御接待である。 秋の「神祭もち」「お正月もち」そして「秋葉もち」年3回である 懐かしい故郷の餅の味を ... 一斗余りの餅を2時間ほどで突き上げる。 その後、秋葉神社への前日参り。もうすでに出店の準備も万端の山里 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/dr_kinoko0522/46030240.html

味鋺神社(あじまじんじゃ)
2010/2/10(水) 午前 8:10
... 境内末社は、熱田社・神明社・日神社・金毘羅社・天神社・山神社・斎宮者・稲荷社・秋葉社・洲原社・津島社 「洲原社」というのは私にとっては初見で、ネット検索すると、 「洲原神社というのは、白山信仰における美濃国側の中心的な里宮(「前宮[さ ... http://blogs.yahoo.co.jp/nabesan88com/51717244.html

秋葉神社
2009/12/11(金) 午後 10:50
タケルくんが行く 秋葉神社      浜松市中区三組町39に秋葉神社が在ります      浜松市の中心街の中です       赤い鳥居が ... でした 以前に訪ねた亀山 http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/49507778.html
神社が近くでした
http://blogs.yahoo.co.jp/pineroad184/48954268.html 17 ...

◇旧北野貝戸村の金山権現社④ 中釘秋葉神社①
2009/5/6(水) 午後 10:53
... 中釘秋葉神社は「火産霊神関東本社秋葉神社」といい、関東の秋葉神社総本社を謳っている。祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)、つまり火神迦具土命(かぐつちのみこと)だ。  火神を祀る神社の祭日が片目の神を祀る神社のそれと一致するというのは ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/26637758.html

◇秋葉神社 参拝
2007/6/27(水) 午後 5:31
... 寄り道して台東区松が谷にある『秋葉神社』を参拝して来ました。 ... 関連資料 《秋葉原誕生記 第一章》 http://blogs.yahoo.co.jp/scganishii/10713856.html 《秋葉原誕生記 第二章》 http://blogs.yahoo.co.jp/scganishii/10782030.html 《秋葉原誕生記 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/scganishii/10823456.html



◆02317 平内ねぶた

2010年02月11日 | 日本の山車
◆02317 平内ねぶた
青森県東津軽郡平内
平内町郷土サマーフェスティバル
□祭は八月中旬。
□汎論
 平内町は、北側は陸奥湾に面している。郷土サマーフェスティバルとよばれる夏の市民祭。小港では小型の人形ねぶたが出る。小湊は国道四号線にちかい平内町役場などが集まる中心街。


◇第20回なんぶサマーフェスティバル
2009/8/9(日) 午後 8:47
8月22日(土) 南部町にて「なんぶサマーフェスティバル」が開催されます 夏の恒例となっている「なんぶサマーフェスティバル」のメインイベントは花火大会 観覧席から打ち上げ場所が近く ... 農豊穣太鼓 名久井農業高等学校郷土芸能部 ・坂本サトルwith his band ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/siroookamiphotographpavilion/5239379.html

◇三沢まつり~流し踊り~
2008/8/23(土) 午後 11:44
... それでも寒い~! 今日は郷土民俗芸能、大仮装行列、三沢まつり流し踊り、国際サマーフェスティバル、古間木三社奉納まつりが開催されました。流し踊りだけ見に行けましたので、何枚か紹介します。 昨年 も見たんですが...やっぱり流し踊りっていい ...  http://blogs.yahoo.co.jp/jadecb9623/44213268.html

◇第一回 軽米生き生きサマーフェスティバル
2008/7/28(月) 午後 7:17
軽米町の緑豊かな自然のなかで「生き生きサマーフェスティバル」が開催された。 当日は、雲行きが心配されたがさいわい雨の心配がなく ... 焼き鳥、漬物がセットされ 産直グループは郷土のくしモチ、田楽豆腐とおでんが飛ぶように売れていた。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/kinosituyo/13847216.html

◇いばらきの夏到来だ!! お祭りイベント情報
2007/8/1(水) 午前 2:01
... 3日 千波湖ふれあい広場   『サマーフェスタ』11:00~19:00 ... 25日   ―――――――――  なかひまわりフェスティバル2007  ――――――― 10:00~20:00那珂市総合運動公園     花火大会・郷土芸能・器楽演奏・獣拳戦拳ゲキレンジャー ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/maxspeed1000km/15188732.html

◇翔駒会演奏予定
2007/4/22(日) 午後 11:35
... 演奏会(19年度) ありがとうございました! ●府中市郷土の森での演奏会 日時 5月4日(祝) 1回目11:30 ... 日鋼団地夏祭り 日時 8月4日(土) ●昭島市モリタウン サマーフェスティバル 日時 8月5日(日) ●牛込中央通り商店会納涼大会 日時 8月 ...
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