暘州通信

日本の山車

◆斐太番匠の道具と本地

2017年07月31日 | 日本山車論
◆斐太番匠の道具と本地

 建築の起工式などで、建築に携わる人々が、墨壷(すみつぼ)、指矩(さしがね)、釿(ちょうな)の三具を【釿飾り】として神に供え工事の無事と、竣工を祈願することはよく知られるが、
 斐太ノ工の家々では建築道具一〇種を佛に見立てて、大切に扱ってきた。
 その一〇種とは、

  斧(おの)     火炎不動明王
  釿(ちょうな)    釈迦如来
  鉋(かんな)    文殊菩薩
  曲尺(かねじゃく)  普賢菩薩
  墨壷(すみつぼ)  観世音菩薩
  鋸(のこぎり)    勢至菩薩
  地板(ぢいた)   地蔵菩薩
  鑿(のみ)      大日如来
  がんがり      虚空蔵菩薩
  錐(きり)      阿弥陀如来
  
 これに小物類二十八宿が撰ばれている。 元禄十六 癸未歳 斐太番匠の記録である  
 

◆沖縄 浜比嘉島

2017年07月31日 | 日本山車論
◆沖縄 浜比嘉島

 浜比嘉島は、沖縄県うるま市、沖縄中部の勝連半島の東、およそ三キロメートルにあり、面積は二・〇九キロ平方メートル、周囲(海岸線長)約六・七キロメートルで、島には、【スガイ山 海抜783.7メートル)】があり美しい海が望まれる。方言で「バマヒジャシマ」とよばれてきた。
 琉球王朝時代には「勝連間切 かつれんまぎり」と称ばれる地域に属していた。その後、勝連(かつれんちょう)を経て、現在はうるま市となっている。島の西部は、浜(はま)、東部は比嘉(ひが)で、島名は、この二つの地区の名称を連称とした複称になっている。交通は、与那城町の平安座島と浜比嘉大橋によって結ばれている。

 「比嘉 ひが」という名称は、地名、姓名として、沖縄ではしばしばみられる名称であるが、
 私見であるが
 鹿児島県の【枚聞神社 ひらききじんじゃ】、大阪府東大阪市の【枚岡神社 ひらおかじんじゃ】、
京都市の「平野神社」、滋賀県の、比叡、日枝、比良などにつながる【日氏】のルーツと考えている。
 古来、「久高島」とともに、神々が住む島と伝えられ、
女神 アマミキョ
男神 シルミキョ
 の二神は、琉球開闢の祖として敬われる。その他神々を祀る岩礁 【アマンジーの洞穴】が、比嘉の東にあり、【アマミチュー洞窟】とよばれるが、「アマミゾ御嶽(うたき)」であったらしい。このほかにも数か所の御嶽がある。
 海から訪れた、女神の、「アマミキョ」は、来訪神で、兼久集落の沖合にある【久場島】を目座して、浜比嘉島に到り、土地神である、男神の「シルミキョ」と夫婦になって、「アマミチュー」に住んだと伝わる。
 洞穴は比嘉地区の南東にあって、「シルミチュー霊場」とよばれている。比嘉地区では旧暦三月三日に、女性が浜に下りて、海に入って身を浄め、神人が豊作祈願を行う神事がある。
 浜地区の東側には、「シヌグ堂 シヌグドゥ」、とよばれる御嶽がある。東の御嶽ともいう。


◆越後 勝山

2017年07月29日 | 日本山車論
◆越後 勝山

 富山県の朝日町と、新潟県の糸魚川市を結ぶ国道8号線の区間は、古来天嶮の地として知られる「北陸道 親知らず 子知らず」は交通の難所である。現在は高速道路・北陸道が通っていて、こちらを通れば難所は回避できるが、国道8号線のほうは、次第に道路改修が進められつつあるものの、曲折の多い危険なトンネルと洞門がつづき、いまも難所に変わりはない。
 この区間にある境川は、富山県と新潟県の県境であり、いわゆる越中國と越後國の國境である。市振(いちふり)はその関所が設けられていたところで、芭蕉の『奥の細道』の、

 今日は 親しらず 子しらず 犬もどり 駒返し など云ふ北国一の難所を越て 疲れはべれば 枕引よせて寝たるに.……

 と紀行文にも記された地で、

  ひとつ家に 遊女もねたり 萩と月

 と詠んだ地として知られ、関所跡がよく整備され保存されていて、おとずれる人も多い。

 親しらず 子しらずにほぼ沿うようにして位置するのが【勝山 標高328メートル】である。
 北アルプスが北に延びて日本海に沈む、地の涯てともいうべき地にあり、その山容は、周囲の山崖に阻まれて全容が見づらいが、よく見える場所では、他の山々とは明らかに異なる整形の二等辺三角形を呈している。
 私見であるが、この山は、『延喜式神名帳』に記載される【青海神社】の奥社にあたる御神体山ではないかと考える。青海神社は、勝山の北麓に鎮座する里宮ではないだろうか。

 勝山の歴史は、平安期の、「治承 寿永の乱」のとき、木曽義仲が、信濃から上京する際に、その軍勢を阻止するため築城された説話が伝わる。
 戦国時代、越後上越(上越市)の春日山城の【上杉謙信】が、越中との國境のを守るため、【落水城(おちりみずじょう)】を築いて警護にあたらせた。

上杉謙信の子、景勝の代に、越中の「佐々成政(さっさ なりまさ)による北進お阻むため落水城を整備したが、このとき「落」の一字を忌んで、【勝山城】と改名した。天正十三年(一五八五)に、に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、越中に入って佐々成政を滅ぼしたが、このとき上杉景勝に会談を申し入れたが、上杉景勝は、直江兼続とともにこれを受け、勝山城において、羽柴秀吉と石田三成とのあいだで会談した。
『落水盟約』として知られ、のちの上杉家安泰にもつながることになった。