謹賀新年
2019年 元旦
……神は来たり、復た去る。ゆえに、古代人は神を迎え、送った。これが古代祭祀の初期の形象であろう。神来たるときは、巌石、巨古木、山上などにしばらく留まる。この思想が神籬(ひもろぎ)であり、さらに人々が意識的(積極的)にお招きしたところが憑坐(よりまし)ということになろう。古代氏族の多くは、山上に集って神を迎えたが、やがて、山腹や山麓に社殿を設け、迎えた神を社殿にいざなうようになった。その【移動神坐・山車】の取材を続けるうち、否応なく、邪馬臺國の所在地はどこか? という問題を避けることができなくなった。しかし、これは大きな謎で、およそ二〇〇年余りにおよぶ研究史があって現在もなお解明されていない。なぜこのように時間をかけ諸氏がその研究に情熱を傾けたのに解決に至らないのだろうか? その主因のひとつに『三國志中「魏書 東夷傳 倭人條(通称、魏志倭人傳)」』の解読の誤りが挙げられよう。【魏志倭人傳 解読の誤り】とは、邪馬臺國の位置は、朝鮮半島(韓半島)の帯方都から、邪馬臺國までの距離、総数一万二千里であり、帯方都から、不彌國までの距離を累算すると、その総距離数は一万七〇〇里であり、その差である千三百里が不彌國から邪馬臺國までの距離ということになる。ところが邪馬臺國の記述中、水行十日、陸行一月とあるのを、不彌國から邪馬臺國へは、さらに水行十日、陸行一月を要する。さらに南を東の誤記と考えたために、「邪馬臺國 畿内説」がたてられるようになった。
わたくしは、【水行十日、陸行一月】とは。帯方郡より邪馬臺國に至る距離一万二千里におよぶ旅程の総括と考える。結論(私論)としては【邪馬臺國は、北九州東部】を挙げたい。
寥郭堂 主人
2019年 元旦
……神は来たり、復た去る。ゆえに、古代人は神を迎え、送った。これが古代祭祀の初期の形象であろう。神来たるときは、巌石、巨古木、山上などにしばらく留まる。この思想が神籬(ひもろぎ)であり、さらに人々が意識的(積極的)にお招きしたところが憑坐(よりまし)ということになろう。古代氏族の多くは、山上に集って神を迎えたが、やがて、山腹や山麓に社殿を設け、迎えた神を社殿にいざなうようになった。その【移動神坐・山車】の取材を続けるうち、否応なく、邪馬臺國の所在地はどこか? という問題を避けることができなくなった。しかし、これは大きな謎で、およそ二〇〇年余りにおよぶ研究史があって現在もなお解明されていない。なぜこのように時間をかけ諸氏がその研究に情熱を傾けたのに解決に至らないのだろうか? その主因のひとつに『三國志中「魏書 東夷傳 倭人條(通称、魏志倭人傳)」』の解読の誤りが挙げられよう。【魏志倭人傳 解読の誤り】とは、邪馬臺國の位置は、朝鮮半島(韓半島)の帯方都から、邪馬臺國までの距離、総数一万二千里であり、帯方都から、不彌國までの距離を累算すると、その総距離数は一万七〇〇里であり、その差である千三百里が不彌國から邪馬臺國までの距離ということになる。ところが邪馬臺國の記述中、水行十日、陸行一月とあるのを、不彌國から邪馬臺國へは、さらに水行十日、陸行一月を要する。さらに南を東の誤記と考えたために、「邪馬臺國 畿内説」がたてられるようになった。
わたくしは、【水行十日、陸行一月】とは。帯方郡より邪馬臺國に至る距離一万二千里におよぶ旅程の総括と考える。結論(私論)としては【邪馬臺國は、北九州東部】を挙げたい。
寥郭堂 主人