暘州通信

日本の山車

◆委奴國王

2017年12月31日 | 日本山車論
謹賀新年

2018年 元旦

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◆委奴國王

 中国漢代の、陳壽によって著わされたという、三國志「魏書 東夷夷傳倭人条」は、通称、【魏志倭人傳】としてよく知られる。
 記述には、「……イマ、使譯通ジルトコロ三0國。 倭人ハ帯方郡ノ東南大海ノ中ニ在リ、山島ニ依ッテ國邑トシ、モトハ百余國……」とあるが、使譯通じる國、通じない國をあわせたおよそ百余國は倭の國であり、漢の属国とはしていない。
 福岡県・志賀島(しかのしま)で発見された金印にある「漢委奴國」が発見されたのは、天明四年(一七八四)四月のことであり、その報告には亀井南溟の関与があった。その読み方については、「かんのわのなのこくおういん」とよむのが現代ではほぼ通説となっている。だが、「漢の倭の奴國」國をかさねてよむこと、「國名である倭を委と省略する」のはいかがなものかと疑問を覚えている。
 これは次のように「漢委奴國・かんのいなのくに」とよむべきではないだろうかと考える。縄文時時代終焉期とされる紀元前二千年ころより、次第に南下した縄文人らは、琉球において次第に融和したが、その末裔らは再度東北上して、薩摩國、肥國、日向國などに次第に集落を作って定住するようになった。山上に山上祭祀の神籬として、巨岩、巨樹。あるいは神籬を構築し、のちには、旗、幟、桙、柱などをうちたてて神を迎え、また送るようになった。
 これらの【氏族。日氏】の祭祀は、世紀初頭には次第に山を下り、山腹、あるいは山麓に社殿を建立して神を祀るようになった。いわゆる、「里宮」で全国に及ぶ。この里宮の造営に当たったのが、【日氏】と、【猪名氏】ではないだろうかと推察する。                  
【寥郭堂文庫 論攷 斐太ノ工】