暘州通信

日本の山車

◆04714 池田天白神社祭

2011年02月28日 | 日本の山車
◆04714 池田天白神社祭
□社名 池田天白神社
□所在地 磐田市(旧豊田町)
□祭神
□祭は十月上旬。
□山車
山車(屋臺)四臺を曳く。
・六上 上若 
新町と竜東の合併によりできた町。
山車の建造は昭和六十三年。
新町は明治中期に建造した山車があった。そのご森町の山車を譲りうけて曳いたが、火災に遭い焼失した。しばらく山車の無い時期を経て、戦後間もない昭和二十三年に建造した。この山車は昭和末期まで曳いたが、現在の山車を新らしく建造し、旧臺は菊川町に譲り渡した。
竜東には、昭和一〇年代に建造した山車があったが、新町との合併により新町の山車を曳くようになった。
・六下 藤美若
上町と宿が合併してできた町。
山車の創建は明治中期。現在の山車の建造は昭和五十三年。工匠は浜松市東伊場の高塚房太郎。
・七上 中若
中町と田中が合併してできた町。
中町は明治中期には山車をより曳いていた。大正末期に中泉町西新町の三層の山車を譲り受け二層に改修して曳いたが老朽化により、昭和三〇年代に廃臺となった。
田中は昭和初期より山車を曳いていたが、その後中泉町石原町より二輪の山車を譲り受けて曳いたが、中町との合併により、磐田市の大藤二区に譲り渡した。
現在の山車の建造は昭和五六年。工匠は森町の安間宇太郎。
彫刻は浜松市の早瀬広。
・七下 南若
四区の合併でできた町。
山車は昭和五十一年の建造、工匠は浜松市東木場の高林材木店。
合併前はそれぞれの地区に山車があったが、合併後は統合された山車を曳くようになった。
(順不同)
□汎論
 神社の創祀は不詳。社記によれば、奈良時代の孝謙天皇期、養老二年(七一八)ー 神護景雲四年(七七〇)と伝える古社である。
 豊田町(現磐田市)は、天竜川の左岸に開けた町である。かつては山車も竹ごとに形態が異なっていたが現在は、重層、無蓋、素木造りで、大きさもほぼ同じとなっている。夜明かりを点燈して曳かれる山車は一段と艶やかである。
 当地区の山車の呼称は屋臺である。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇総集編 歴史のまちなみ  5. 北陸
2011/1/31(月) 午後 9:16
... 平成20年6月、 伝建地区 (重要伝統的建造物群保存地区)に指定されました。  平成の大合併などによって古くからの地名が消え、ひらがなや「南アルプス市 ... 軒下に敷かれた笏谷石、三国祭でくりだす山車の収納蔵...。  かつて、井原西鶴に「北国 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/k2kojima2001/62722351.html

◆高麗人参(朝鮮人参) 

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆高麗人参(朝鮮人参) 
 旅を重ねて常陸の國についた左甚五郎、ひとりの子供が眼を真っ赤にしてうなだれているのを見かけた。甚五郎は子供に近づくとやさしく声を掛けた。「悪さをして、お父っつあんにでも叱られたかい?」。子供はかすかにいやいやをした。「ふーん、どうしたのかな?」
 少年は聞かれるままに、ポツリポツリと話し始めた。
 なんでも父親は早くに世を去り、母親が細腕で子供を育てていたが、長年の苦労が重なり、ついに病床に伏すことになった。ここ数日はさらに元気が無く、気力も衰え、子供が作った重湯すら喉を通らぬらしい。そこで、今日は医者に診てもらったところ、よく保って今月一杯の命だろうと言われたと言う。「何とかおっ母あを助けて……」と頼んだが、医者は、高麗にある朝鮮人参を煎じて飲ませれば、あるいは助かるかもしれんが、手にいれる手段があるまい、不憫にのうと言い聞かせたと言うことだった。
 「飛騨の山奥には、高麗人参があると聞いたことがあるが、たとえ、飛騨に行っても探しだせるかどうかな……?」。
 これを聞いていた左甚五郎、子供に言い聞かせた。「おじさんがその高麗人参を手に入れてあげよう。でもひとつ約束をしてくれるかな。ここで見たこと聞いたことは今後人には話さないことだ。いいかな?」
 子供はこっくりうなづき、「うん、約束する」と言った。
 甚五郎と子供は山道を戻ると子供に目隠しをし、抱きかかえると、黄色の鶴(黄鶴)を呼び出し、ひととびに飛騨の山中に到った。そこで、黄鶴の背中からおりた甚五郎と少年は、瀧に沿った山道を登り、清流のほとりに生えている高麗人参(竹節人参)を三株掘り起こし、これを持ってふたたび常陸に戻ってきたのだった。早速綺麗に水洗いし、三日陰乾ししたあと、土瓶に入れて水を張り、三時間あまり煎じたものを、少しづつ母親に飲ませると、夕方にはようやく声も出るようになり、「ありがとうございます」とお礼を述べるのだった。少年お喜びようは一通りではない。
 それから七日もたつと、ようやく床の上に起き上がることができるようになったのだった。
 甚五郎は上下が赤と黒に染め分けられた種子を取り出すと、子供に、これを播いて育てなさいと言って立ち去った。
 子供は長じてから江戸に出て、「赤髭」とよばれる名医になったが、甚五郎との約束は生涯守りとおしたという。




◆かぐや姫の山車

2011年02月26日 | 日本の山車 左甚五郎
◆かぐや姫の山車
 左甚五郎は、下野の國を旅していたときある町で、山車の彫刻を頼まれたが、題が『日本昔ばなし かぐや姫』だと告げられて、たいへん悲しそうな表情になり、注文を固辞して立ち去ったと言う。組内では仕方なく別の彫刻師に頼んで彫刻してもらったのだが、祭礼の前日に落雷があり、山車は一度も曳かれることなく炎上してしまった。
 この話がいつとはなく各地に広がり、山車を作るときは「かぐや姫」を避けるようになった。
 江戸時代、飛騨高山の国学者田中大秀は、その話を聞いてたいそう不思議に思い、多くの文献を渉猟して解明に当たったが、ついにその原因はわからなかったと言う。近年のことは不明であるが、江戸時代に建造された山車には「かぐや姫」にゆかりのある山車は無いらしい。
 田中大秀はこれが機縁になって、名著と言われる『竹取物語 解』を著述した。

◆左甚五郎 陸前の観音 二

2011年02月25日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 陸前の観音 二
 「そのお嬢様と言うのが先ほどまでここでわたしと話していたあの娘さ、可愛い姪じゃが、どうにもならん。田畑、山林などかなりの財産もあったのじゃけれど、いまはそれも七年のあいだにすべて売り払ってしまって、今はもう何も残っておらん。可愛そうに母親は心労で旦那のあとを追い、娘は縁談も流れ、いよいよ女郎に身売りするしかないと言って別れを言いにきたとこさ」。
 「ああ助かった」と言って喜んだ農民らは、慰めの言葉を掛けるところか寄り付きもせず、たまにみちであっても顔を背けて通るという浅ましさ。
 左甚五郎は眼に涙を浮かべて聞いていたが、聞き終わると姐さんに言った。
 「それは気のどくにのう、せめてわしが供養に観世音菩薩を彫刻してあげよう、いや、わしは飛騨高山の左甚五郎というもんじゃ」と名乗ったから茶店の姐さんは飛び上がるほど吃驚した。「わ、わ、わたしが娘の、い、い。家まで案内します」
 数日して、観世音菩薩が彫りあがった。姉、弟、茶店の姐さん、それに甚五郎の四人で、非業の死を遂げた夫妻の七回忌の法要を勤めることになった。左甚五郎の彫り上げた観世音菩薩をまえに。位牌をならべ、しめやかに法要は進んだが、娘が焼香し、鈴をたたき手を合わせ、ふと観音さまを見上げると、観世音菩薩はにっこりと微笑まれたのだった。次に弟が手を合わせると、やはり、にっこりとお笑いになる。茶店の御姐さんはその霊験に恐れ入ってしまった。
 このようなうわさが広がるのは早い、話を聞きつけた近在の人々が仏への供養志をつつんで尾舞藺するようになった、これがやがて、ご領主様の耳にも入り、御参りに来られることにませなった。


◆左甚五郎 陸前の観音 一

2011年02月25日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 陸前の観音 一
 陸前は北国とはいえ、盛夏の街道は、容赦なく照りつける太陽が恨めしくなるような昼下がり、「こんなときに冷えた一杯の酒を呑ませてくれるなら、土蔵付の家を呉れてやってもいいぞ」。ひとり愚痴を言いながら長い坂道を登ってきた左甚五郎は、峠の辻に一軒の茶店を見つけると、「水を一杯呉れ」。「水ですか?」、「酒を一杯飲ませてくれと言いたいが、生憎銭の持ち合わせがない。水で結構」、「お茶を淹れますよ」、「馬鹿を言え、この暑いのに、お茶など飲もうもんならあっという間に成仏してしまわあな」。「ははは、お客さんは江戸の方ですか」、「」いや、わしは飛騨高山の住人じゃ」、「ああそうですか、それは遠いところからようこそ」。
 立て続けに茶碗に三杯の水を飲みほすと、さすがに峠の辻だけあって、涼しい一陣の涼風が吹きぬけた。「姐さんその隅でしばらく休ませてくれ」というなり横になった甚五郎、まもなく寝息を立てはじめた。夕暮れも間近になって、ふと人声がするのに眼がさめた甚五郎、聞くともなく横になって聞いていると、なにやらしんみりした様子である。
 「せめて店でも繁盛していたら働いてもらうんだけどね、この有様じゃね」と言いながら甚五郎のほうをちらと見たから眼が合ったしまった。「これこれ、あてつけを言うものではないぞ」と言いながら起きだし、伸びをしながら聞いた話は次のようだった。
 七年まえのことだった。当地は大恐慌で五穀は実らず、餓死者もでる惨憺たる世相だったが、例年通りの年貢を治めよとの厳しい御達しが役所から届き、翌年に蒔く種籾まで徴収する厳しさだった。ところがその翌年もまた冷害で、七月の半ばには霜がおりる有様で、山野には草すら生えなかった。ただ不思議なことに、夏も終わり近くになると、笹が実をつけたのだった。【麦角】である。ひとびとはこの笹の実を【野麦】とよび、争ってこれを採集し、団子を作って辛うじて飢えを凌いだのだった。

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◇【世界遺産・日光】輪王寺&東照宮
2010/3/28(日) 午後 11:59
... 石鳥居 (いしどりい) 【重文】 ご鎮座翌年の元和4年(1618)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政 ... 眠り猫 (ねむりねこ) 【国宝】 左甚五郎作と伝えられています。牡丹の花に囲ま ... (´▽`*)アハハ 「お~い お茶」 の販売機。 なんとボタンが36個 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/mineyuho/51946262.html

◇越後長岡 ひなものがたり♪
2010/2/27(土) 午前 8:59
... 作は、左甚五郎 と伝えられているものだそうです。       左は 喜内様(三代将軍・家光 ... 養嗣子・忠恭(ただゆき)の娘・つね姫出生の翌年に    母の実家である遠州掛川城主・太田資 ... きっとここでお茶してたと思います。          最後 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelsea/59575588.html

◆左甚五郎 豊後日田の眠獅子

2011年02月24日 | 日本の山車 左甚五郎
◆左甚五郎 豊後日田の眠獅子
 豊後日田の某神社のことである。不幸にして火災に遭い、社殿は全焼してしまったのだった。
 幸いにも氏子の努力で数年を経ずしてみごとに再建できたのだった。神官の喜びはひととおりではない。しかし、やがて何か物足らないことに気がついた。正面の向拝柱には何の彫刻も無かったのである。気にしかけけたら夜も眠れぬくらいに苦になってならない。思案に余って氏子総代に相談したところ、総代も驚いた。
 ところがよくしたもので、豆田の旅籠に乞食のように薄汚い貧相な一人の男が、宿代の支払いができず、宿でも思案に暮れているという。なんでも飛騨の匠とか言っているらしい。
 しめた、これはいいことを聴いたぞ、「宿賃と酒代くらいで、向拝柱に「獅子と獏」を彫ってもらおう」。総代は、飛騨の匠に掛け合って見ることにした。
 早速その話を斐太の工にすると、意外とあっさり引き受けてくれた。男は数日かかって彫刻を完成し、柱に取り付けたと言うので神主や、氏子総代、氏子らがこれを見上げて驚いた。なんだか小さな岩くらいの丸まったものが柱に取り付けてあるが、どう見ても獅子には見えない。獅子の頭すらないのである。
 これが名高い飛騨の匠の仕事だろうか? と一同呆れて見上げていたがそのうち次第に腹を立て、怒号が飛び交うと、斐太の工を怒鳴りつけた。
 斐太の工は悄気かえり、ほうほうの態で、逃げるように日田の町から出て行ったのだった。
 あとに残った神社関係者は腹立ちも収まらないまま、しばらくは、斐太の工を罵っていたのだが、まあできたことは仕方が無い。聞くところによると、左甚五郎というえらい名人が肥後のほうでお仕事をなさっているそうな。それが終わったらこちらに回ってもらい、作り直してもらったらどうだろう。困惑していた一同は、やっと愁眉を開き、さっそくだれかを使いに立てようということになったのだった。
 異変はそれから三日後の朝に起こった。神社の前で蒼白になって震え、腰の抜けた一人の男がうずくまっていたのである。ただならぬ様子に早朝から多くの野次馬が集まってきた。男はただただ震えていたが、やがてやってきた代官所の役人らが、ようやく聞き出した話は、この男、このような立派な神社だから、さぞかし賽銭箱にはたんまり御賽銭があるだろうと昨夜遅くに忍び込みいざ、賽銭箱に手を掛けたところ、どこかで怪しい唸り声がし始め、やがて、首を擡げるや、巻き毛を振るわせ、真っ赤な眼を剥いて大声で吼えたのであった。男はこれを見て仰天し腰が抜けて動けなくなったと言うのだった。
 さて、そのころ左甚五郎は、肥後熊本城の客人として招かれていた。先年の【竹製の水仙】のお礼を述べたいということで招かれたのだった。日田の使いはその左甚五郎に会って吃驚仰天、なんと先日皆で怒号と罵声で追い払った斐太の工ではないか。
 左甚五郎はただただ恐れ入っている使いに言った。
 「いや、わしも悪かった。獅子も夜番をするからには昼は寝ておかんとのう」

◆02871 細江神社祗園祭

2011年02月24日 | 日本の山車
◆02871 細江神社祗園祭
□社名 細江神社
□所在地 浜松市(旧細江町) 気賀
□祭神
タケハヤスサノオノミコト 建速素盞嗚尊
クシイナダヒメノミコト 奇稻田姫尊
□祭は七月下旬。
□山車
山車(太鼓臺)がでる。
・呉石
・跡川
・上町
・中区
・下村
・油田
・清水
(順不同)
□汎論
 細江神社の創祀は不明だが、延喜式神名帳に記載される古社である。
 延喜式神名帳に記載される【名神大社 角避比古神社(かくさくひこじんじゃ)】は、浜名郡新居町に祀られる神社であったが、天災に遭い社殿ほか一切をを失ったが、ご神体は伊目の十三本松に漂着した。里人は隠岐大明神の地に仮宮を建てて祀った。しかし、ほどなく十二年後に再び地震による大津波のため流されて、細江町気賀(現浜松市北区)の赤池に漂着した。気賀の里人はこの地に社殿を建て、【牛頭天王社】として祀るようになった。細江神社とは資金の距離にあり、細江神社の神幸蔡には牛頭天王社を御旅所として巡行がある。
 神輿が赤池の御旅所に着くと御奉安祭賀行われ、巫女神楽の奉納のあと【出引】とよぶ太鼓臺の市街地曳き廻しが行われる。
 神の宿泊された翌日は、各地区の出引が御神輿に随い、天王小路から井口河岸に向けて出発し、ご神体を【神輿舟】に移し、屯倉水で海上安全祈願祭をを齋行したあと、御囃子を演奏しながら屋臺舟七艘、約二〇艘の伴舟とともに奥浜名湖を西気賀まで渡御となる。

□外部リンク
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◇式内社・旦飯野神社/新潟市
2011/2/23(水) 午前 8:45
... 「和名抄」(930年代完成)に記載の「蒲原郡日置郷」に ... 明治22年11月5日朝日地内の諏訪神社と合併し 社名を旦飯野神社と改称した明治32年社殿改築 明治四十一年村内の稲荷神社  石動神社 下諏訪神社 十二神社を合併した昭和5年村社に列せられる ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/51692340.html

◇太田姫稲荷神社
2011/2/21(月) 午前 11:53
... 大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが、昭和3年(1928)に再建。 ... 「新撰東京名所図会」の記載によると、太田姫神社の境内にあり本殿の傍らに接する宮で、例祭や修繕の費用が幕府から支弁されていたといわれます。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tomo4628tomo/11115958.html

◇氷川神社と獅子(狛犬);川越市郭町 三芳野神社6
2011/2/15(火) 午後 3:57
... 新編武蔵風土記稿に記載されているもう一つの     "諸人 ... その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮     (天神外宮)となり、明治五年に氷川神社境内     (宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存して     います。確証はありませんが ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sakado_iwasaki/51664131.html

◇筑波山神社:茨城県つくば市
2011/2/10(木) 午後 7:55
... その時参拝した筑波山神社のお話しです。 ... いただいたパンフに記載がありました。       山頂には徒歩・ケーブルカー・ロープウェイで行けるようです。 社殿の左手奥の方。           この先でお会いしたご年配の方に ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/marumarukusatu/63907939.html

◇ウカノミタマ祀る須多神社
2011/2/9(水) 午前 9:07
... 之御魂命  島根県八束郡東出雲町須田にある須多神社は、須多社(すたのやしろ)として、出雲国風土記に記載されています。  この神社は、9号線から雲南市方面に向かう道路をすすみ ... 境内自体は狭く、社殿のほかは、境内社と「氏子会館」という建物が ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/shuichi19670412/8669713.html

◆04465 諏訪神社祭

2011年02月23日 | 日本の山車
◆04465 諏訪神社祭
□社名 諏訪神社
□所在地 湖西市(旧新居町)仲町
□祭神
タケミナカタノミコト 建御名方命
ヤサカトメノイコト 八坂刀賣命
合祀 
天照大神
豐受大神
事代主神
大己貴神
合祀
猿田彦神
少彦名神
武甕槌神
經津主神
合祀
伊弉諾尊
伊弉冉尊
田心姫命
湍津姫命
市杵嶋姫命
□祭は七月下旬。
□山車
山車(太鼓臺)が出る。
・仲町
・高見町
・上西町
・上田町
・仲田町
・源太山町
(順不同)
□汎論
 諏訪神社の創祀は古く、社記によれば景行天皇十九年の創祀とあり延喜式神名帳に記載される古社である。新居宿の総氏神であり、延喜式内社浜名五座の一社として挙げられていた。しかし当社が諏訪神社と称するようになったのは、天正十年の天目山の戦のあと、山本勘助の家臣であった井口嘉末が信州の諏訪大明神を勧請してからのようである。それ以前には、【猪鼻湖神社】と言いサルタヒコノカミ(猿田彦神)を祭神としていたと伝わる。猶現在は不明になっているが、萬度水神社があり、オオワタツミノカミ(大綿津見神)・ウミサチヒコノカミ(海幸彦神)、アマテラスオオミカミ(天照大神)をまつっていたとの伝承がある。
 祭には太鼓臺を曳き、名物の手筒花火が披露される。
□外部リンク
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◇式内社・旦飯野神社/新潟市
2011/2/23(水) 午前 8:45
... 石動神社、十二神社を合祀した。 社殿は、文化8年(1811)に焼失。明治12年再建。明治30年(1897)改築。 境内に、神明神社、天満宮がある。 「越後国式内神社考證」には朝日の旦飯野神社を平安時代の「延喜式」の式内社としている。 論社として ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/51692340.html

◇伊達神社 (色麻町)
2011/2/21(月) 午後 10:11
... 石鳥居の横には、「式内 伊達神社」と刻まれた社号標。 社号標の側面には、「合祀神社 熊野社、塩竈社、田村社、今熊野社 八坂社二社、小河社 ... また鳥居が 「延喜式内名神大社 伊達神社」の扁額がかけられていた 社殿・拝殿 拝殿には ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/anaterasuoukami_76/2086213.html

◇小沢渡(こざわたり)町 六所神社(ろくしょじんじゃ)
2011/2/13(日) 午後 3:37
... 鎮座になっています 六所神社は、若宮八幡社、若宮明神社、天 神社、水 神社、天白社が明治 六年に、 八王子社を更に明治四十三年に合祀して、 村社  六所神社 としま し ... ます 「延喜式神明帳」にある 「遠江国 許部神社」 現在の「浜松八幡宮 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/takatsukakumano/7930955.html

◇物部神社・・・春日井市二子町の白山神社に合祀
2010/7/9(金) 午後 11:12
... 当白山神社は白山神社古墳の墳頂に鎮座している。後になって、そこへ物部神社と春日神社も合祀された。つまり、当社は白山神社であるが、同時に物部神社でもあり春日神社でもある ... 当社が延喜式神名帳にいう「春日部郡物部神社」のことなのかはっきりし ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/25326277.html

◇延喜式内 速星神社
2008/12/8(月) 午後 5:03
... 前の延喜の代に制定せられた延喜式神名帳に、越中の国婦負郡七座小並速星神社とあるのが、この神社です。 この速星は、『はやほし』の、当て字で ... 倉稲魂神の、相殿に、諏訪社を合祀し社号を改めて、『速星神社』と、なりました。 近年台風にて ...
  http://blogs.yahoo.co.jp/miwawa_i/55839789.html

◆23887 クツ

2011年02月23日 | 日本の山車
◆23887 クツ
 福井県敦賀市では、【沓見の田植祭】賀行われ、およそ五メートルにも及ぶ、赤と青の御幣が担がれる。【クツ】という音を持つ語彙であるが、【沓】の文字を当て、沓を含む苗字や地名にもしばしば見られる。
 滋賀県の安曇川町(高島市)は、京都市、琵琶湖、越前方面への三岐点にあたり、ここに【朽木(くつき)】の集落がある。水の綺麗な川が流れ、夏には鮎の好釣場となり多くの釣り人が訪れる。安曇川は、この朽木の上流が【葛川(くづかわ)】で、やはり【クツ】の音感がある。
 「クツ」に葛を当てる名称も多いが、【葛城(かつらぎ)】ももとは「くつき」だったろうと考えられ、加茂、賀茂、鴨などの【カモ氏】と結びつく。
 岐阜県萩原町(下呂市)には久津八幡宮(くづはちまんぐう)があり、巨杉が茂る古社である。
 【傀儡(くぐつ)】は中国起源とも言われるが、「くぐつ」の語義は不明とされている。
 兵庫県の西宮にある西宮恵比寿神社は祭神が「コトシロヌシノミコト」で、全国に知られる屈指の【福神】で、新年の九、十日は福を求める参詣人ですごい人出になる。
 この西宮は【傀儡まわし】発祥の地といわれ、淡路島、徳島鳴門に行われる文楽人形はこの西宮恵比寿神社の傀儡まわしが始まりと言われる。
 各地にはいろいろな【からくり人形戯】が行われる。飛騨高山の春祭の、三番叟、猩々(龍神)、石橋。秋祭の、布袋は山車からくりとして有名で全国から多くの人々が訪れる。大分県、福岡県には古表神社、古要神社には古い歴史を持つ傀儡人形がある。本来動くはずの無い人形が動くのは【神慮】と受け止めるのである。
 朝鮮半島には【クツ、マツリ】が同じように等格に扱われ、【クツとはシャーマンのこと】だとされている。
 『魏志倭人伝』に【卑弥呼は鬼道を行う】との記述があることはよく知られるが、この【鬼道】の「鬼」とは、中国の鬼、すなわち【幽霊】のことで、いわゆる、「赤鬼・青鬼」などの鬼(おに)ではない。例として、中国の古典『聊齋志異』には多くの鬼(幽霊)が挙げられている。 「シャーマン」、「シャーマニズム」というのは日本人にはとかく理解しがたい。卑弥呼の行った鬼道とは想像もできないが、かなり日本人離れした思想であろう。
 しかし日常的につかっている、【精神的苦痛、肉体的苦痛】などんも「苦痛(くつう)」というような平易な言葉にも、単に「痛み、苦しい」のみではない深い思想が秘められていそうである。




◆01839 沓見の御幣

2011年02月23日 | 日本の山車
◆01839 沓見の御幣
□社名
男宮
信露貴彦神社(しろきひこじんじゃ)
女宮
久豆彌(くづね)
□所在地 福井県敦賀市
□汎論
 【沓見の田植祭】として行われる神事で、【男宮】とよばれる【信露貴彦神社(しろきひこじんじゃ)】からは、青く塗った御幣。【女宮】とよばれる【久豆彌(くずね)】からは、赤く塗った御幣が出る。
幣軸の長さは五メートルあまりある。
 【女宮】は現在久豆彌(くずね)】とよばれているが、もとは、【久豆彌(くづみ)】だったといわれ、「久豆彌」と書くべきところをのを「久豆禰(くづね)】と誤記したものがそのまま定着してしまったものである。

◆24477 神社という語彙

2011年02月23日 | 日本の山車
◆24477 神社という語彙
 これは仮説である。
 日本で【神社と言う語彙】が使われだしたのがいつごろからであろうか。歴史上日本に文字が伝えられたのは、應神天皇期十六年(二八五?。あるいは、四〇五とも)のことで、百済(くだら)の王仁(わに)が『論語』一〇巻と 『千字文([せんじもん)』一巻をわが国にもたらしたのを嚆矢としている。
 この説に従えば、【神社の表記】が行われるようになったのは、西暦二八五年、あるいは四〇五年以降ということになる。わが国の神社には、紀元前に創祀されたと伝える古社も多いが、文字の無い時期にどのようによばれていたかは想像もつかない。
 『出雲の國 風土記』(岩波古典文庫)が完成したのは、天平五年(七三三)である。これを見ると神を祀る場所の表記が、【神の杜】とあり、神社と言う語彙は見当たらない。
 これまでたびたび述べてきたように、古代には神を迎える場所は、山上のことが多く、ここに【磐座】や【神籬(ひもろぎ)】、【みあれ】を設けられ、またときに、自然石や古木、山そのものを御神体山として【神坐す場所】として崇めたが、時代が下がるにしたがって、山麓に社殿を設け、これを拝する拝殿が設けられるようになった。いわゆる、【里宮】である。
 【神の杜(かみのもり)】から【神の社(かみのもり・かみのやしろ)】へと祭祀が移り、多くは神も定住されるようになった。
 このような神社制度が定着したのはいつごろであろうか。
 諸説があるだろうが、おそらく七世紀前後ごろではないかと考えられる。そしてそれは、わが国に仏教が伝来し、寺院が建立された時代とほぼ重なるのではないだろうか。
 朝鮮半島には現在神社はないようであるが、子文献を見ると、わが国より古くから【神社】の語彙が見られ、【古代には神社が存在】していた。このように考えると、【神社という語彙】は大陸からの渡来文化かもしれない。

□外部リンク
「日本の山車」を執筆している一人閑(ひとりしずか)と申します。早速ですが、貴方のブログ記事を「外部リンク」として紹介させていただきましたのでお知らせします。もしご迷惑でしたらお申し出ください。削除いたします。
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◇RE2:ユーラシア古代史の研究-騎馬・鉄器-
2008/9/24(水) 午後 7:34
... 非常に語彙も少なく単純な文法での会話なら ... 月山と羽黒山神社と酒田市にある飛鳥神社は一直線で結ぶ聖方位になることはご存知ですか。角度は少し小さめですが ... アレクサンドロスの東征は、  わが国が満洲から中央アジアへ回帰 ...

◆02355 大畑八幡宮祭

2011年02月17日 | 日本の山車
◆02355 大畑八幡宮祭
□社名 大畑八幡宮
□所在地 青森県大畑町大畑 
□祭神
□祭は九月中旬。
□山車
山車五臺、舟山車二臺。ほかに、ねぶたが出る。
・八幡山 本町
上臺は屋根の無い無蓋車。騎馬姿の八幡太郎義家の人形がのる。
正面に「八幡山」と書いた額が掲げられその左右に純白の幣束がたてられる。
見送りは、【琴高仙人(きんこうせんにん)】である。土地の伝承に好み送りは斐太高山の屋臺にかかっていたものだと言う言い伝えがある。高山には春の高山祭に曳く本町の【琴高臺】があるが、天保時代の建造である。もしかすると、この琴高臺の球体にかかっていた見送りかもしれない。中国の『列仙伝』に「琴高仙人は、龍の子を取ってくるといって、水に潜っていったが、やがて赤い鯉に乗って戻ってきた」とあるが、大畑の八幡山の鯉は黒鯉である。ちなみに高山の琴高臺の見送りの鯉も黒鯉である。
 勾欄は、上臺、下臺とも黒漆塗りである。
 山車の創建は古く、享保三年(一七一六)には【八幡山】を曳いたとの伝承がある。
現在の山車は、平成十一年の建造。工匠は地元本町の道地則之。
・天女丸 上野
工匠は青森県八戸市櫛引烏沢の吉井氏。
昭和五十一年に大湊の畑中旅館の所有する船山「天女丸」を譲りうけ「上野天女丸」として祭礼に参加。
・明神丸 湊
平成元年の建造。工匠は、久本武雄。
古く、享保六年(一七二一)ころすでに曳いていたとの伝承がある。
・鞍馬山 東町
 上臺の人形は、鞍馬山で修行する牛若丸と烏天狗。
 見送りは、中国の古典二十四孝の郭巨にちなむ。母親を養う貧しく若い夫婦が、あまりの生活苦に耐えかねて、子供はまた授かることがあるだろうが、親はかけがえがないと、意を決し、悲しみながらもわが子を埋める穴を掘っていると、金の釜を掘り当てたという故事。
 おなじ題を持つ山車に、京都祗園祭の郭巨山(かっきょやま)、滋賀県の大津祭で曳かれる山車にも郭巨山がある。この見送りも飛騨高山から嘉永五年に入手したと伝えられるが、高山の旧臺は不明。
 昭和六十一年の建造。設計は馬場辰吉。工匠は本町の山車とおなじ道地則之。
 建造の歴史は古く、享保六年(一七二一)ころすでに曳いていたとの伝承がある。
・放生会 大新町
 大新町とは新町と湯坂下、中島の三町の総称であり、湯坂下、中島が分かれた後も大新町の名称を残している。
建造は昭和六十二年、設計は馬場辰吉。工匠は本町の山車とおなじ道地則之。
往古は大名の儀杖行列を出したが、寛保元年の火事で儀杖の装束一切を焼失したので寛保三年(一七四三)より屋臺飾に変更された。
・中島山 中島
平成四年の建造。工匠は本町の山車とおなじ道地則之。
人形は武田信玄、製作は八戸市の類家山車組。
昭和二十九年に大新町の放生会に樽神輿で参加したのが始まり。
昭和三十一年に祭運行の露払いとして認められ、昭和三十九年に西方卯之吉が山車を寄進した、人形ははじめ八戸市類家町から借て祭に参加。
・豊栄会 湯坂下
昭和三十四年から六十一年までは、八戸市下大工町の祭組から「稲荷丸」などの山車を譲り受け、八戸の山車囃子を演奏しながら曳いたといわれる。
昭和六十三年に新町の旧山車を譲り受け、囃子も大畑のものに変えて曳いた。
・南町
享保六年(一七二一)ころすでに【山神臺】とよぶ山車を曳いていたとの伝承があるが、延享三年(一七四六)に山車を廃して神輿を担当するようになった。
(順不同)
□汎論
 大畑八幡宮の創祀は不明。古くは深山の地に祀られ深山権現といい神仏混淆の神社だったようである。創祀時の祭神は不明であるがおそらく八幡神ではないだろう。
 大畑川に沿い県道四号線を遡ると、旧地には深山神社の小祠がある。遷座されたのは、慶安元年(一六八四)とある。
 御神幸は、春日神社が御旅所になっていてそこで仮泊される。
 大畑八幡宮例祭に山車が曳かれるようになったのは、日本の山車史上でも古く、享保三年(一七一六)には【八幡山】を曳いたとの伝承がある。さらに明神丸はが湊、鞍馬山が東町、南町には享保六年(一七二一)ころすでに【山神臺】とよぶ山車があったといわれるが、現在は御神輿を担いでいる。
 大畑八幡宮には不思議な話が語り継がれている。静岡県の遠州灘、千葉県の九十九里浜は、実に明るい砂浜、太平洋の青い海原がつづき、眺めるには申し分の無い景観であるが、江戸時代には海運業者からたいへん恐れられた場所である。ここで暴風雨に遭うと逃げ込む湊が無くまず遭難を免れないからである。東北の米どころ、仙台から舟で運ばれてきた物資は、九十九里浜沖を通らず、利根川にはいり、佐原(香取市)で平舟に積み替えて遡上し、上流で隅田川に入って、ここで下り、両国の蔵前に運ばれていた。
 寛政年間、大畑の長川仲右衛門は幕府の御用船【政徳丸】の船頭として乗り込んでいたが、はたして房総沖に差しかかったとき激しい嵐に遭遇した。船底からは海水が吹き上げ、沈没を覚悟しながらも故郷の大畑八幡宮をひたすら祈ったところ、不思議と浸水が止まり、嵐も収まって、奥州大畑まで無事に帰還できたのだった。不思議なこともあるものと、舟を陸にあげて調べたところ、なんと船底の穴が開いたところに大きな鮑(あわび)が張りついて、浸水を食い止めていたのだった。
 船頭や水夫はその神徳にあらためて感謝を捧げたのだった。だから大畑に働く海運業者はいまでも鮑を口にしないのだそうである。
□問い合わせ 
むつ市役所本庁 〒035-8686 
青森県むつ市中央一丁目8番1号
電話 0175-22-1111 
FAX 0175-23-5178
□参考
 次を参考にさせていただきました。
 http://kenbun55.web.infoseek.co.jp/oohatamaturi.htm

◆00325 野辺地祇園祭

2011年02月17日 | 日本の山車
◆00325 野辺地祇園祭
□社名 
野辺地八幡宮
神明宮
□所在地 
□祭神
□祭は
□山車
山車(舟山車ほか数臺)が出る。
□汎論
 野辺地湊は、むつの田名部、鯵ヶ沢などとともに江戸時代には東北、北海道の物資の積出港としてにぎわった。野辺地湊は南部の銅などもここから長崎に向けて積み出しされたという。江戸時代に日本で作られた銅器は、金の含有量が多く、欧州にに運んで鋳潰して金が分離された。
 江戸時代に繁栄を極めた海運業に関わる人物の往来も多く。上方文化の影響も受けているが、祗園祭もそのひとつである。神社は野辺地八幡宮で、祭神は祗園神ではないが、付祭として行われ、奥州美人らによって祗園囃子が演奏される。
 かつては、海上渡御があり、二百艘以上の舟が供奉する御舟祭が行われたと伝えられる。
 現在は、舟山車ほか数臺の華麗な見立て山車が曳かれる。

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◇白八幡宮例大祭
2009/8/30(日) 午後 2:05
... 弘前八幡宮では山車祭りが消えてしまいましたが、こちら鯵ヶ沢では今なお続いています。 津軽地方ではたいへん貴重な山車祭りです。 浜町。オロチ退治。 田中町。神功皇后ほか。 七ッ石町。川中島の合戦。 淀町。日本武尊。 一丁目。楠公桜井駅。 漁師町。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/crazyfloater/20886924.html

白八幡宮の大祭「山車」
2009/8/17(月) 午後 11:57
白八幡宮の祭りは「津軽の京まつり」ともいわれ、二基の神輿を中心に乗馬の神職、御神馬、裃姿の奉行役のほか、古式ゆかしい装束に身をまとった鉄砲、槍 ... 昨日港で撮った各町内の山車と、15日に各町内で運行された山車行列の様子をご紹介したい。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/maitakeoyaji/50766008.html

◇山車絵師 夏坂和良氏とは・・・
2007/3/25(日) 午後 11:41
... 専務取締役 ☆主な活動☆ ◇八戸三社大祭 山車製作  山車製作用原画(山車絵図)製作から山車作りまで全般  元、吹上・売市・内丸組 ... 佐々木久枝氏 詩歌文芸誌・若菜ほか・・・・ ◇南部八百年刊行記念・櫛引八幡宮に武者絵馬奉納 ◇大間町春日神社大祭 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/dashimania/1739715.html

◇富岡八幡宮祭など、お祭、幾つになってもワクワクさせられますなぁ
2006/7/7(金) 午後 6:06
... 江戸・深川の水掛け祭ほか、どれもいいもんですな。 これは江戸・深川の富岡八幡宮祭、間もなくです。日本一 ... 栃木の山車、劉備玄徳の台。ほか日本の英雄、中国の豪傑などなど。 滋賀・大津の山車、京風でしょうか。 山鉾を模った建物、きりッと建っ ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/sekisen_tsurezure/11061188.html