暘州通信

日本の山車

◆01339 楢泉庵 横山家 38

2016年03月17日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 38

 江戸時代後期、楢泉庵主、横山彌右衛門が死去すると生前の多大な功績を振り返り、その死を悼む人々から弔問が絶えなかった。 横山家では、菩提寺である秋聲寺に鐘楼がなかったことから、追善供養の鐘楼を寄進することとなった。建築部材は 横山家から提供されたが建立を担当したのは谷口延儔が生前の恩を謝し、すべて奉仕で建てられ、梵鐘は、鋳物師を招いて【鐘鋳り】によって鋳造された。
鐘楼は、みごとに完成したが、與鹿はすでに高山にいなかったため彫刻はない。

◆01339 楢泉庵 横山家 25

2016年03月10日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 25

飛騨東照宮(通称 松泰寺)
高山市西之一色町

 創祀は、高山藩三代藩主、金森 重頼(かなもり しげより)により、高山城中に東照権現社が勧請され、美濃赤坂(現大垣市)より転居した西之一色村の鴻巣氏により、寛永五年(一六二八)に現在の西之一色村尾崎に遷座となったと伝わる。
 元禄五年(一六九二)に東耀山松泰寺寶珠院が開山し、飛騨東照宮の別当寺となったが、奇しくもこの年は金森氏が改易となって、出羽國上ノ山(山形県)へと転封になっている。金森氏はこのわずか三年後にふたたび移封となって、美濃の郡上藩に移されたが、宝暦八年(一七五八)に一揆を咎められ断絶となった。
 今も歌われる、郡上のかわさきの歌詞にある、

  郡上の八幡出てゆくときは
    雨の降らぬに袖絞る

 とは、このときの悲哀をうたったものと言われ、飛騨高山からも多くの縁者が見送りに訪れたと伝わる。
 現在の祭神は、
トクガワイエヤスコウ 源朝臣徳川家康公
オオヤマクイノカミ 大山咋神 山王神
オウジンテンノウ 応神天皇
ハヤタマオノカミ 速玉男神 熊野神
クシミケツノカミ 櫛御気野神(櫛御食野命) 熊野神
キクリヒメノミコト 菊理姫命(白山比命 白山神
イザナギノミコト 、伊邪那岐命 
イザナミノミコト 伊邪那美命
摂社
金龍神社
祭神
カナモリナガチカ 

 江戸時代中期に本殿が改築された。交渉には名工中川吉兵衛がかかわったており、白虎、青龍、玄武、朱雀の四紙彫刻があったが、なぜか現在見当たらない。本殿と唐門および透塀は岐阜県指定文科財に指定されている。

建材、彫刻材の納入したのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 24

2016年03月09日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 24

飛騨國分寺 三重の塔
高山市総和町

 飛騨國分寺は、聖武天皇の発願により、天平十三年(七四一)に建立されたと伝わる。境内東北隅に七重の塔礎石がのこる。創建時飛騨のような小国に七重の塔が建造されたのは驚きであるが、すべて飛騨國のいわゆる斐太ノ工の手になるものだったと伝わる。
 しかし、この七重の塔は 弘仁一〇年(八一九)に火災によって失われ、斉衡二年(八五五)ころ再建された。この塔は五重だったと考えられている。
 天正一三年(一五八五)金森長近が可重(ありしげ)とともに飛騨入りし、三木自綱(姉小路氏)の松倉城を攻めたとき、この兵火にかかって炎上した。
 元和元年(一六一五)、金森可重氏により三重塔が寄進されたが、寛政三年(一七九一)に暴風雨により倒壊。その後しばらく塔のない状態が続いたが、その三一年後の、文政四年(一八二一)にいたり、三代目水間相模守が請負い工匠を小笠原氏が務めて再建されたのが現在の三重塔である。筆者はその設計図を拝見したことがある。
 小笠原氏の後裔である笠原烏丸氏のお話によると主要な建材は八日町の楢泉庵主、横山彌右衛門により納入されたもので、その材木の対価はおよそ五百両に近いものだったという。塔心となる巨大な原木は、目処(めど)に太い縄を通し八日町湊より、善男善女数百人により、これを激励する木遣の采配により雪道を曳き、現地では【めでた】をうたって散会した。

 三重の塔建造の材木大五百両とは、莫大な金額であるが当時の屋臺建造には、少なくとも一〇〇〇両位はかかったものであった。











◆01339 楢泉庵 横山家 18

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 18

應龍臺
應龍は千年を経ると飛龍になるといわれる霊獣であるが、当屋臺は、谷口與鹿と、松田亮長ノ両名の作になる應龍が無数日彫刻されていたと伝わる。
谷口與鹿と、根付彫刻でも著名な松田亮長(まつだすけなが)によって建造された屋臺であったが、惜しくも火災にあい焼失した。長江の一部は分散されていて一部は残ると伝わるが、現在所在が知れない。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 14

2016年03月07日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 14

石橋臺(しゃっきょうたい) 
高山市上二之町上組
臺名は、謡曲の石橋にちなむ。
建造は、文久三年(一八三六)起工、(慶応元年(一八六五)の竣工。
彫刻は浅井和助。
石橋臺見送り
 石橋臺見送りは、現在は複製品に架け換えられているが、本歌は、【朝鮮毛綴・ちょうせんけつづれ】と伝わる。きわめて尠い【綴織。つづれおり】で、産地は、朝鮮半島、また、中国北部、あるいは中国北部の産ともされるが不明な点が多い。現在は朝鮮半島にはまったく保存されていないと記述したが、その後、韓国のソウルにある、

【ソウル歴史博物館】
所在地 ソウル特別市 鍾路区 新門路2街 2-1
電話番号 02-724-0274~6
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=491
 に、二面が保存されていることがわかった。

 山車にかけられる懸装品としては、当、石橋臺見送りのほか、三重県上野市の上野天神祭りに曳かれる、上野新町の山車、【薙刀鉾・なぎなたほこ】の胴幕が朝鮮毛綴といわれ、
滋賀県日野町の【日野祭の山車】、【水口町の山車】にもかけられるとの情報があるが、詳細は不明。
 大津市の【天孫神社祭礼】に曳かれる、【神功皇后山】の旧胴懸である、【楼閣庭園圖】は朝鮮毛綴だと伝わる。
 京都【祇園祭】に曳かれる山車、【岩戸山】の旧見送りは、前懸となっていた【玉取獅子、鳳凰、虎、鶴】が、朝鮮毛綴だといわれる。
 さらに、 放下鉾(ほうかほこ,ほうかぼこ) 京都市下京区新町通四条上ルの山車、【放下鉾・ほうかほこ】の懸装品が朝鮮毛綴。 京都市下京区室町通四条下ル鶏鉾町の山車【鶏鉾・にわとりほこ】の【日月鳳凰に牡丹圖】の【二枚継(にまいつなぎ)が朝鮮毛綴。
 丹波町で曳かれる山車の見送幕である、【楼閣風景圖】が朝鮮毛綴。
 京都府亀岡市にはいくつかの朝鮮毛綴が伝わり、【鍬山神社祭礼】で曳かれる山車、【武内山】の、
 胴懸、【窓繪對瓶圖】、【四花瓶圖】は、安永六年(一七七七)、朝鮮李朝一八世紀作。
 胴懸、【窓絵四蝶圖】、【四對花瓶圖】は、安永六年(一七七七)。朝鮮李朝一八世紀作。
 後懸、も安永六年(一七七七)。朝鮮李朝一八世紀作。
 袖幕 【五羽鶴図】これも、安永六年(一七七七)の作。
 さらに、山車、【浦島山】の胴掛幕、【玉取獅子】」が朝鮮毛綴。
 京都府宮津市の山車にも朝鮮毛綴が架けられると伝わるが、詳細不明。
 など貴重な作が伝承される。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 9

2016年03月06日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 9

惠比壽臺
 谷口與鹿がこの屋臺のを手がけたときの屋臺の名称は殺生石で、同名で完成するはずだった。谷口家には殺生石の設計図がある。
作業が進むにつれて、改称の話が進み、できあがったとき「惠比壽臺」と命名されたのは、異国情緒豊かな見送りの入手にあった。
この見送りの脇にたつ「手長、足長像」の彫刻下絵も谷口家にある。他にも、明らかに惠比壽臺のものと思われる何枚かの下絵も残っている。
半月円の窓に彫刻した龍、親子竜はみごとな量感を持つが、與鹿が一番苦心したのは見送り桁の両脇に立つ手長・足長像であった。
與鹿は彫刻の題をきめるにあたって赤田章斎に教えをうけたが、その章斎が闇を得て死去したあとは、その子誠軒に拠った。
赤田誠修館で書籍を借覧し、ようやく行きついたのが、「山海経」だったが、これは写本で図がなかった。この手長足長図が與鹿に届くまで二年近くかかってしまい製作は遅れにおくれ、酒屋の支払いは嵩むばかりで町内でも閉口した話が残されている。
しかし、完成した惠比寿臺はあまりにも豪華で曳くのが憚られるほどであった。
この手長・足長の評判を聞いてわざわざ諏訪の立川和四郎富重が訪ねてきたが、和四郎もこれを見て、愛知県豊田市の挙母祭山車、半田市の山車、静岡県静岡市の浅間神社におなじ手長足長を彫って収めた。評判を聞いて彫られた根付はかなりつくられたらしい。
信州諏訪に手長神社、足長神社があり、「テナヅチ、アシナヅチ」に凝らした解釈があるが誤解である。

惠比壽臺 逸話
惠比壽臺は上三ノ町上組の屋臺で、文化三年(一八〇六)まで芦刈の名で曳かれた。世阿弥作と言われるいわゆる直面ものに題をとった能の芦刈にちなむもので、からくりがあった
一時は芦売りまでに零落した日下左衛門が妻と再開しその後立身する。というもの。
京都の祇園祭にこの芦刈を題にした「芦刈山」がある。
文化四年(一八〇七)に花子と改称されたが、これも狂言に名をとったもので、歌舞伎で演じられる身代わり座禅をからくりで演じて見せるものだった。
人気のあるからくりだったが、わずか三年演じられただけで、文化六年には姿を消した
風俗を紊し好ましくないというお達しがあったからである。まだ見ていなかった人はたいへん残念がった。
文化七年には殺生石と改名された。
これは後鳥羽院の頃洞御所にあらわれた、美女の玉藻の前はひとり院の寵愛を受けるが、じつはこれは金毛九尾をもつ狐が化けたもので、陰明師の阿倍清明に見破られ下野の石にされるというもの。
これを謡曲の殺生石にのせてからくりを演じるものであった。のちこのからくりは、人形とともに古川に譲られた。
山車(屋臺)の曳行記録はしばらく途切れるが、休臺の年もあるところを見ると、かなり傷みがすすんでいたのであろう、十一年後の文政四年(一八二一)に夷の名で曳かれたときにはすでにからくりは上演されなかった。弘化三年(一八四六)より、嘉永元年(一八四八)の三年におよぶ改造は、まったく新臺の建造であった。
通例として、それまですでに屋臺を保有していた屋臺組は、あたらしく建造する場合でもその誇りにかけて、新造とは言わない。大改造、大改修などという。
この屋臺の大改造は谷口與鹿が二十五歳から二十七歳にかけての大作である。
もうすでに與鹿の腕を知った人たちは何の疑いも持たなかった。
こんども、前以上の立派な屋臺を造ってくれるだろう。その期待は與鹿にとっては重かった。
一作ごとの評判が高ければつぎはより以上のものが求められた。
この惠比壽臺には何を造るか? 與鹿はその課題に悩んだ。しかもこの屋臺は造る前から夷臺と臺名が決まっていた。というのも、この屋臺組では高山の屋臺でも随一といわれる猩々緋の大幕を持っている。
近くでみるとさほどではないが、遠くから見るその美しさは比類がない。これに気をよくしている組みの人たちは、京都よりオランダ渡りといわれる秘蔵の織物を入手した。このタペストリー加工して見送りに懸けたところ、たいへんな評判となった
異国情緒にあふれたもので、世人の目を驚かすのに充分であった。組の人たちは、この異国の婦人の見送りがあることを自慢にし、屋臺の名を夷臺と決めてあったのである。しかし、旧屋臺と異人の見送りは、何かしっくりと馴染まなかった。
この点は組みの人たちも十分承知していて、こんどの屋臺ではこの見送りと屋臺とを調和させた屋臺に仕上げてもらいたい。しかも、再来年の春には曳けるように。
と念を押されていた。いくつもの条件が建造着手前に約束されていたのである。
與鹿は自ら築いた世評故に、呻吟することとなった。
来る日も来る日も、この空間処理に腐心した。
例によって酒に浸る日がおおくなった。半年は瞬く間に過ぎたが與鹿は全く仕事のかかろうとしない。こんなことで間に合うんだろうか?
組の人から不満の声が洩れはじめる。
大黒屋、栃尾屋、西瓜屋、洲岬などから大晦日の請求書が回ってくる。その金額を見て組みの人は驚いた。明けても全く仕事にかかろうとしない、酔いが醒めるとどこかにでかけていく。
與鹿は昨年新装なった赤田静修館にいた。
書庫にはおびただしい漢書が積まれていたが、そこには章齋の姿はなかった。このようなとき相談に乗ってくれた章齋はいない。
途方にくれる與鹿は、ついに一巻の書に出逢った。「山海経」である。
紐とくと、まことに難解な書であった。しかし與鹿は丹念に読み進んでいった。目が輝きを帯びてくる。「其の六」まで読み進んだところで、與鹿の手が止まった。
ついに求めるものと出逢ったのである。
「山海経 その六」の「海外南経の海外」のところに、

その西南隅より東南隅にいたるもの、とあり
長臂の国は、周尭国の東にあり、
魚を水中に捕らえ、両手にそれぞれ一匹を持つ
さらにその先、「其の七」には、
海外西経の海外その西南隅より東南隅に至るもの、
の項には、
窮山は軒轅国の北にあり、
その丘は四匹の蛇が絡み合う。
野には鸞鳥が歌い、鳳凰が舞う
民は鳳凰の卵を食い、
甘露を飲み、
欲しいものは思いのまま、
百獣はあい群れてすむ。
その北にいる人は、両手に卵を持って食い、
二羽の鳥が前にいて、彼の行くところをいつも導く。
龍魚は陵に住んでいる。
その様相は鯉のようで、
神仙はこれに乗って九野を行く。
白民の国はその北にあり、
身体は白く、髪を振り乱している。
乗黄という馬がいるが、
狐のようなさまで、背には角がある。
これに乗れば、寿命は二千年を得るという。
粛慎の国はさらにその北にある。
雄常という樹があり、
昔、中国の皇帝の代理が、この樹皮から布を作ったことがある。
長股の国は、雄常の樹の北にあり……

うむ、長股の国か……

長股の国は、雄常の樹の北にあり、
その国の人は股が長く、髪を振り乱している。

うむ……
長臂の国
長股の国
……
長臂の人
長股の人

與鹿はここでついに求めるものにであった。よし、これだ、これを彫ろう。
こうしてついに原案は決まった。しかし、この山海経は写本であったので画がなかった。赤田臥牛が彦根の龍草盧のところで書き写したものだった。しかし、いったいどんな風貌をした人なのだろうか、これがわからないことには手のつけようがなかった。臥牛と同行した人たちも他界している。與鹿はまたしてもはたと困った。
惠比壽臺は立派にでき上がった。
曳き綱に曳かれて、屋臺蔵を出る惠比壽臺を、一目見ようと人が群がったが見た人は一様に感嘆の声を放った。
黒塗りの見送り枠に収まった見送りは、左右に並び立つ長臂人、長股人によって一段と引き立った。この彫刻を見た子供が、思わずおおきな声で「てなが、あしなが」といったが、このよびかたが、この屋臺を親しみのあるものにし、すっかり馴染みふかいものになった。

建材、彫刻材の納入はしたのは楢泉庵主、横山彌右衛門である。
□山車文献資料
・寥郭堂文庫資料

◆01339 楢泉庵 横山家 3

2016年03月02日 | 日本の山車
◆01339 楢泉庵 横山家 3

 元禄四年(一六九一)、金森氏が転封隣、飛騨は幕府の直轄地となった高山城は加賀藩へのお預けとなり、代官所は知行の石高を改めるため検地を行った。元禄検地と呼ばれ検地帳(水帳)が作成された。
 飛騨は山国であるため、貢租となる米が江戸に送られることはなく、一定の日に、信濃国福島、美濃国、越前国、、加賀國金沢、越中富山に米の相場を問い合わせる「5箇所聞き合わせ法」により平均をとり、これを基準として米に見合う対価を納税する方法がとられていた。
 のちに、江戸は火災が多く街衢の発展から木材の需要が多く、飛騨国も貢租を材木で納税する「山方米(やまかたまい)」の制度が定着した。飛騨地方の河川沿いの産地から木材を伐採し、河川の流れを利用して運搬するのである。
 飛騨川(益田川)は、上流で伐採した木材を金山下原(現下呂市)で、「綱場」とよばれる、川に綱を張って流れてくる材木を集めここで筏に組んで下流の八百津湊ま河川輸送により尾張国に送られた。
 高山町では、清見村八日町(現高山市)に湊が開かれ上流から流された材木はここで集めて刻印をあらため筏に組んで、河口の富山藩西岩瀬湊に運び、ここで、北前船に積み替えて江戸に送られた。
 富山藩では、旺盛な藩内の材木の需要を満たした常願寺川、黒部川などの上流から伐採した木材を得ていたが到底満たしうる量が満たされず、陸奥青森方面から材木を買い付け、御用商人の伏木の回線問屋によって運ばれていたが、代金の決済が「つけ」であったため、材木が粗悪であったという。これらの事情から、飛騨の材木が尊ばれた。この湯女事情から、飛騨の民間財が富山に送られたがこれを一手に扱ったのが横山家であった。
 高山町清見村八日町に集められた民間材は富山藩笹津湊で陸揚げしここから各地に運ばれた。
 北前船の船主として知られる東岩瀬の森家の邸宅はひだの材木を使い飛騨の大工によって普請されたが、その間取りは高山市の重要文化財に指定されている日下部家住宅とほとんど同じである。このことから、近年前後して文化財に指定されることになったが、建築時期は日下部家よりも古い。


◆02771 柳原三社祭 更新

2014年12月29日 | 日本の山車
◆02771 柳原三社祭 更新
□社名 柳原三社
□所在地 山梨県韮崎市中田町小田川
□祭神
アマテラスオオミカミ 天照大神
スドクテンノウ 崇徳天皇
ミズハノメノカミ 罔象女神
□祭は、十月上旬。
□山車
山車の呼称、形態は、屋臺。
□汎論
 【柳原三社】の創祀は慶長年間と推定されている。旧は、現地よりやや東に鎮座していたが、文化年間の塩川水害により現地に遷座となった。藤井庄の水口にあたるので、ミズハノメノカミ(罔象女神)が相殿となっており、さらに近年になって金比羅神が配祀されたことから、
アマテラスオオミカミ(天照大神)、ミズハノメノカミ(罔象女神)、コトヒラノカミ(金比羅神)の三神を併祀する【柳原三社】と称されるようになった。
□参考
次を参考にさせていただきました。
・茨住吉神社
2014/12/26(金) 午後 1:03
茨住吉神社は大阪市西区九条に鎮座する神社。○祭神底筒男命・中筒男命・表筒男命・息長足媛命○歴史寛永元年(1624年)香西哲雲が九条島開発の際に勧請。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/bekkouame_yuzu/38395150.html

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◆05829 移田八幡宮祭 更新

2014年12月24日 | 日本の山車
◆05829 移田八幡宮祭 更新
□社名 移田八幡宮(いかたはちまんぐう)
□所在地 富山県高岡市中田
□祭神
□祭は十月上旬。
□山車
山車の呼称、形態は、曳山。
新湊より譲り受けた曳山が曳かれたが、老朽化で廃臺となった。
□汎論
□参考
次を参考にさせていただきました。
・事任八幡宮さま
2014/9/18(木) 午前 7:04
ことのまま八幡宮さまへ行ってきました。願いが叶う…パワースポットですね♪願いが叶うおこしと茶飴を頂いてナムナムナム…事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)所在地 ...
. .
 http://blogs.yahoo.co.jp/minori19700819/65284611.html
・富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)
2012/3/25(日) 午前 11:51
... 測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に当八幡宮の境内に銅像が建立された。 日本最大の神輿と水かけ祭りが有名。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tohsama/63221021.html
・番外編 河内源氏 壷井八幡宮
2007/2/8(木) 午後 3:45
... 壺井八幡宮は清和源氏に最も縁のある「源氏三神社」の一つです。鶴岡八幡宮や石清水八幡宮のような大きな社殿はなく、静かな集落の高台に神社は建っています。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/hhmamwa/4387165.html

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◆06493 千須谷熊野神社祭 更新

2014年12月21日 | 日本の山車
◆06493 千須谷熊野神社祭 更新
□社名 熊野神社
□所在地 神奈川県平塚市千須谷
□祭神
□祭は、四月上旬。
□山車
山車の呼称、形態は、山車。
自動車を利用した山車が一臺出る。
□汎論
□参考
次を参考にさせていただきました。
・岩神稲荷神社通称飛石稲荷
2014/12/6(土) 午前 6:48
... 南向きに建立されている岩神神社社殿、祭神は、倉稲魂命 木花咲耶姫命。この社殿の裏に巨岩があります。;岩神稲荷神社 前橋神社要覧由緒 神社裏に巨岩があり、往昔この巨岩 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/npcsk058z/33595764.html
・大阪高槻の三島鴨神社は、日本で最初の三島神社(山祇神社)とされる。鴨神社の祭神は大山積命 (おおやまづみのみこと) 。
2014/10/26(日) 午後 1:13
;三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)は、大阪府高槻市にある神社。式内社論社で、旧社格は郷社。社伝では、伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社とともに「三三島」と呼ば ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/tanetabi10/67746000.html
・杉神社確認しました:祭神、仲哀天皇、神功皇后、竹之内宿禰1264年野田周防守が香椎宮より分霊とあり
2011/2/9(水) 午後 6:02
... 初瀬川が流れる)には〔杉神社〕本堂跡付近に鏡神社(祭神は息長足姫尊)が現存する。 2:28 PM Feb 5th jyoumonjn ―"ぜひ、長谷寺跡の確認方お願いします"―佐賀県の泊瀬(現在 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/waikoku/54240898.html
・猿投神社(ご祭神の謎)
2009/6/30(火) 午前 11:37
... これが私の神社訪問の目的だった。 神社の前に到着すると、黄色い色の鳥居が建っている。神社の鳥居は木や石で造られ、その地肌のままか、朱塗りになっている。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/18938615.html

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◆06491 広川八幡神社祭 更新

2014年12月21日 | 日本の山車
◆06491 広川八幡神社祭 更新
□社名 広川八幡神社
□所在地 神奈川県平塚市広川
□祭神
□祭は、四月上旬。
□山車
山車の呼称、形態は、山車。
自動車を利用した山車が一臺出る。
□汎論
□参考
次を参考にさせていただきました。
・大岩八幡神社
2012/12/11(火) 午後 3:13
大岩八幡神社は大阪府茨木市大岩に鎮座する八幡神社。 ○祭神 応神天皇 ○概要 大岩地区の鎮守社。現存の棟札から寛永17年(1640年)までは遡ることができる。 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/bekkouame_yuzu/36657599.html
・切田八幡神社
2010/5/4(火) 午後 9:38
桜と鳥居のコントラストが美しい切田八幡神社。 所在地は青森県十和田市切田字下切田10 祭神:誉田別命 縁起は 建久二年 (1191) 南部家の始祖南部光行が奥州糠部下向 ...
 http://blogs.yahoo.co.jp/yn37/25180118.html



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