備忘録として

タイトルのまま

オリンピック

2008-08-19 23:19:29 | 話の種
北京オリンピックは後半に入り連日熱戦が繰り広げられている。お盆休みはどこにも行かずオリンピック観戦に明け暮れた。卓球では男子も女子も選手たちの神経をとぎすました一打一打から目が離せなかった。北島選手の百m平泳ぎや柔道の内柴、谷本、上野の一本勝ちには歓声をあげた。ほとんど手中にしていた金メダルが残り10秒で塚田選手からするりと逃げていった最後の10秒。なんであと10秒我慢できなかったんだと罵ったが、そのあとの塚田選手のインタビューで見せた涙と表彰式での晴れやかな笑顔はさわやかだった。格闘技は攻める姿勢が見る者を感動させるのであって、ポイント稼ぎでの勝利には何の感動もない。石井の準決勝までは素晴らしかったが決勝戦はしらけたし、レスリングの伊調姉妹の技のでない数試合はつまらなかった。負けはしたが対戦相手のほうが意気込みと勇気で優っていた。観客のエゴかもしれないが、卓球の韓陽選手が”オリンピックは勇気のあるものが戦う場だ”と言った言葉は深い。

私のオリンピック最古の思い出はもちろん小学校4年生のときの東京オリンピックである。聖火リレーは学校近くの西大工町の沿道でクラスメイトたちと小旗を振って応援し、その夜は誰と行ったか覚えてないが徳島県庁で一夜を明かす聖火を見に行った。学校の体育館に置かれたテレビを通してクラス交代で観戦したが、その時見た競技種目は覚えていない。三宅選手の重量挙げだったかもしれないしそうでないかもしれない。何分にも三宅選手の重量挙げのシーンと表彰式で金メダルを誇らしげに掲げて見せたシーンは、その後テレビなどで何度も脳裏に焼き付けられているから、いつの記憶か分からなくなってしまった。何年か後、おそらく中学生のときに、徳島ホールで映画”東京オリンピック”を見たが、その時の記憶とすり替わったかもしれない。その時はこの”記録映画”に単純に感動したが、この映画の監督が市川崑だということを知ったのは、今年2月に監督が亡くなったあとで見たNHKの番組であった。映画”東京オリンピック”は、脚本にもとづく立派な”ドラマ”で、単純な”記録映画”ではなかった。

ほんの数日前、札幌オリンピックの日の丸飛行隊の一人である青地選手が亡くなったという記事が新聞の片隅に載っていたが、札幌は高校2年のことで鮮明に覚えている。その日は県の駅伝大会で、中継地点にあった喫茶店のテレビで放映されていたジャンプを窓越しに見ながらタスキを待ったことを思い出す。陸上部で長距離を走る選手が足りないための助っ人だったのだが、翌日が実力テストだったので気もそぞろで出場した。不真面目な助っ人頼りだったチームの成績は後ろから数えたほうが早かった。試験前日の追い込みが頼りだった私の実力テストの成績も散々だった。

私のオリンピックベスト(順不同)
柔道最後の砦、斎藤仁が金メダルを取ったときの涙(ソウル)
古賀が負傷しながら金メダルを取ったシーン(バルセロナ)
円谷がヒートリーに抜かれたシーンと”父上様、母上様---美味しゅうございました。”という痛切な遺書(東京)
体操の加藤沢男の個人総合2連覇のときの床の演技(ミュンヘン)
ジャネットリンの転んでもフリー最高得点(札幌)
橋本聖子の転んでゴールシーン(アルベールビル)
塚原月面宙返りの衝撃(ミュンヘン)
男子バレーボール対東ドイツ戦の大逆転Liveは寝てしまいVTRで観た。(ミュンヘン)
ジャンプ団体で金を逃した原田の大失敗ジャンプと次回の舟木の金メダルジャンプ(リレハンメル、長野)
コマネチの10点(モントリオール)



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