極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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旧約聖書とアフリカ

2019-12-23 14:50:15 | 日記

以下文は主に旧約聖書、ウィキペディア等々を参考に記していますが可笑しな箇所はスルーして下さい。

 

アフリカの歴史は人類の歴史でもあると思います。アフリカはアフリカ単一起源説からヒトの起源とされ、世界遺産の南アフリカの人類化石遺跡群は人類の発祥の地と呼ばれています。シュメール粘土板には驚くべき内容のアフリカでの人類誕生プロセス等が極めて細かく記されています。

アフリカ近代の歴史は黒人であるが故、白人によりデザイン等されたと思っても過言では無いと思います。

1500年代以降、1000万人以上のアフリカの黒人達が理不尽にも奴隷として米国等に連れ去られています。唯、黒人であるが故に・・・

黒人問題等の根底等は旧約聖書創世記(9・20・21)にあると思います。一部の白人の一部は、黒人の売り買いに都合のいいように旧約聖書の一部を解釈したように思います。結果、奴隷売り買いは、聖書のお墨付きと言う結果になっています。決して肌が黒いからでは無いように思います。
有名な旧約聖書に出てくるノアの方舟の話は多くの人は知っていると思います。簡単に言えば、大洪水の予言を受けたノアが方舟を作って家族、動物達を救ったという話です。(旧約聖書・創世記6・11-7・22)
以後、ノアは農夫になり畑で葡萄を作っていました。ある時、ノアは葡萄酒を飲んで酔ってしまい、裸になって寝てしまいました。(創世記9・20・21)
ノアの子供はセム、ハム、ヤペテです。
裸で寝ている、全裸の父親(ノア)を見たノアの息子「ハム」は面白がって、恥ずべきもの見たと、2人の兄達(セム、ヤペテ)にそれを話します。2人の兄弟(セム、ヤペテ)は、裸を見ないよう後ろ向きに歩いて行き、顔を背けたまま着物で父親の裸を覆いました・・・目を覚まし、ハムのことを知った父親ノアは激怒、息子ハムの子・カナンを呪います。

***カナンは呪われよ、「奴隷」となり、兄弟達に仕えよ。(創世記9・25)***

一部の白人達は、この「ハムの子・カナンが黒人」であると都合のよい解釈をしています。その結果、カナンの血統である黒人は奴隷である!本当に理不尽なことです。旧約聖書に「奴隷となり・・・」、奴隷売人達にとって、奴隷制度は旧約聖書のお墨付を得ていたと言えるでしょう。
人類最大の恥ずべき解釈です。自分達に都合の良い旧約聖書解釈により、多くの黒人達が苦難の歴史を歩く結果となってしまいました。この解釈は表に出ることはありませんでした。現在も一部の白人達の中で生きているとも言われ、白人優越の世界を作っているかも知れません。これらの旧約聖書の解釈は世界のタブーと言われていました。勿論世界中、学校等で教えることはありませんでした。

 

アフリカ大陸の地図を見ると、現在は54カ国があり国境がありますが、不思議と直線箇所があります。リビア、エジプト、スーダン等の国境は、サハラ砂漠に真っ直ぐに引かれています。更に精査すると部族間の対立箇所に国境線を引き、部族の対立を起こさせ、乗じて利権を得るよう策していることがわかります。裏で対立を煽ってきた構図が浮かび上がります。この国境線を引いたのは誰かと言うとアフリカを植民地とした西欧列強であることが分ります。現実にはアフリカ社会は部族社会であり、あまり意味をなさないとも言われています。africanholocaust.netによればアフリカには約54カ国、3000の民族、2000~2100の言語があると言われ多種多様のようです。

昨今、有名なルワンダ内戦(1990年~1993年、フツ系の政府軍及びインテラハムウェとツチ系のルワンダ愛国戦線との間で行われた武力衝突)では3ヶ月間で100万人以上の犠牲者を出しています。アフリカの対立は西欧列強の植民地化等の結果で理不尽なことです。

アフリカ大陸で2カ国、独立を保った国家、アフリカ人の自治国家が継続した国があります。一つはリベリアです。1897年、リベリア(リベラル、リバティ、自由の名を冠した米国で解放奴隷となった人々がアフリカに戻ってアメリカ合衆国憲法を範として建国した国家)です。形の上では西欧列強の植民地化は避けられましたが、問題は米国で奴隷解法された黒人支配階層はこの地区出身でなく、多くの地域にルーツを持った人です。当然、この地域に住む原住民との間には差別、対立が発生しています。米国からの移民ではないからです。
アメリコ・ライべリアン(Americo-Liberian、アメリカ黒人、教化された人達、リベリアにおける米国の解放奴隷子孫の黒人呼名)支配は1980年、クーデタで終結、今もリベリア現地部族間対立で凄惨な対立、内戦が断続しているとも言われています。

もう一つはエチオピアです。エチオピアの歴史は極めて古く、昨今、日本での情報は少ないようですが、日本(皇室)との関わりは大きいようです。国名の由来はギリシャ語で、日に焼けた顔を意味するアイティオプスに由来するそうです。
ハイレ・セラシエ1世(1892~1975)は旧約聖書記載の血統的ユダヤ人でもあるスファラディー・ユダヤ人で一説では有名なシバ女王の流れを汲むとも言われています。エチオピア皇室の廃位は人類の大きな損失とも言われています。

紀元前から栄えた古代エチオピア帝国は、3~4世紀にキリスト教が伝来、コプト派キリスト教国となっています。エチオピア・キリスト教徒はイスラム勢力と友好関係を保ち、独自のアフリカ・キリスト教大国として繁栄、ローマ教皇等とも友好関係を保っていました。
エチオピアが独立を維持できたのは、キリスト教等の背景が存在するとも言われていますがソマリア、エリトリアを領有していたイタリアによって植民地化の危機にさらされますが、1896年アドワの戦い(エチオピアのティグレ州アドワ近郊で戦った会戦)でイタリア軍に勝利し独立を守っています。

日本は1895年、東アジアで大国の清に対し勝利、1905年、列強国のロシア帝国にも勝利し列強国の一員となります。
エチオピアは1905年以降、日本に影響され民族自決を考えるようになっています。エチオピア帝国最後の皇帝であったハイレ・セラシエ1世(1892~1975)はエチオピア正教会のキリスト教徒でした。
1916年に摂政として国内の実権を握ると第1次世界大戦後の1924年国際連盟加盟、近隣植民地からの帝国主義支配を強める列強に対抗すべく米国、日本との関係を強化しています。
1930年、ハイレ・セラシエ1世即位、翌年に大日本帝国憲法を模範とするエチオピア初の成文憲法を発布しています。
ハイレ・セラシエ1世は黒人民衆の現人神のように位置づけられ、エチオピア皇帝が主となって西欧列強の進出に対抗するアフリカ自決の力となっていました。
ハイレ・セラシエ1世は、エチオピア国内の互いに対立する各部族の地主支配、搾取等、古くからの経済構造を温存、地域共同体を守り、西欧列強植民地支配による社会の崩壊・改変を免れています。
1935年からファシスト政権のイタリアの攻撃を受け、1936年ロンドンに脱出、1941年、英国軍によるファシスト・イタリア駆逐後、再び帰国しています。

1974年に帝国が崩壊するまで、ハイレ・セラシエ1世は約30年にわたってエチオピアに君臨、外交面では独自の活躍をしています。

疑似・大日本帝国憲法による国内統治は地方の有力者利権を温存、政党を禁じ自由な経済発展を阻害するーカルな搾取構造に依存したままだったので世界の波に乗り遅れ、第2次世界大戦後の高度成長から取り残されています。石油ショック時にはエチオピアは世界最貧国の地位にまで転落して国内は混乱してしまいました。
82才の高齢に達していたハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie I)アフリカ統一機構初代議長でもありました。1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の1975年に暗殺(1997年にエチオピア当局は廃位直後射殺と発表しています。)されました。

 

日本とアフリカの関わり、理不尽な欧米列強に立ち向かった日本に対するアフリカ諸国の評価は高く、私達にこれらの事実の多くは戦後封印したままのように思います。

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