極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日本人の拠り所・神道

2018-05-08 11:05:57 | 日本社会

以下文は、神道 見えないものの力・葉室頼昭 著、宗教年鑑、ウィキペディア等々を参考にしています。素人である個人の神道に対する解釈等に可笑しな箇所が多々あると思いますので、まとまりの無い雑文、日記とします。

 

日本人は古来から現在に至るまで、全てのものと共生し、共に生きるという考えを持っていると言われています。日々、意識することはありませんが日本人の美徳、道徳規範として、神道は日本人に宿っていると思います。

神道という言葉が最初に文献に出て来るのは、西暦720年に編纂された日本書紀ですが、そこでは宗教的儀式、神々、社(やしろ・神を祭る建物、神社)を指したもので、現在使われているような宗教の教義のまとまった体系の意味で使われるようになったのは12世紀以降のようです。神道という言葉は、日本の伝統的な信仰形態を仏教と区別するために中国の道教につながる言葉をもちいており、神の道という意味を表わしているようです。

文化庁が宗教団体を取り扱っていますが、文化庁に登録されている宗教法人の総数は182985法人、日本の人口は1億2千万人位ですが、不思議と文化庁登録の宗教団体に属する信者総数は2億1千3百万人位となっているようです。何故・・・一人の日本人が複数の宗教団体に登録されているからのようです。神社の氏子、お寺の檀家、新宗教の会員、何の不思議もなく行われていますが、キリスト教系団体では、許されていないとも言われています。対し、神社、お寺は二重、三重に所属していてもとやかく言うことは無いようです。宗教法人細部は神道系が84,996法人で全体の46.4%を占め、会員総数は2億1千3百万人位で、神道系がそのうちの50.3%位で1億人以上のようで、神道は古来から現代まで日本人の生き様に大きな影響を与えていると思います。

昨今では世界が賞賛した311等々大災害時の日本人の行動・・・多くの日本人の心に宿っているとも言われる道徳心、意識することが無い神道によりこのような考えが発露されてるように思います。このような日本人の考え、生き方は世界でも極めてまれのようです。対し、外国の考え方は唯物論主体が主のように思います。(唯物的とは、精神よりも物質を物事の中心にすえて考えかた。)

 

この神道とは・・・

神社、秋のお祭り等々の神道のルーツは、古代イスラエル宗教と考えた方が自然です。私達が少しでも神道を理解することは日本の国家成立、国体、日本人の心、日本の文化、日本の社会、道徳等の本質を理解する一助になるかも知れません。これらの一部は日本のタブーとして扱われることが多いように思います。

私達がお参りする神社には手前に拝殿、その先、奥に本殿があります。本殿には、鏡、石、剣等が置かれていますが、それらは神そのものではなく参拝者は、そこに降臨(神が降りてこられること)、臨在(神がおられる場所)される見えない神を拝んでいます。

 

初代天皇・神武天皇は石を積み上げて壇を築き神を祭ったと言われています。こうした風習は、4000年前の古代イスラエル人の風習と極めて似ています。イスラエル民族の父祖ヤコブ(血統的ユダヤ人・スファラディーユダヤ人)は、神を祭るため石柱を立てています。

これらのルーツが日本で分かり易く残っている神社が北九州の福岡県築城町にある、小さな金富神社で鳥居でなく2本の石柱だけで、形を変えた旧約聖書記載の移動式幕舎そのものです。過去この神社に行きましたが地区には湊地区等の名前が残っており、渡来のルーツを表しているのかなと思います。

ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油を注いだ(創世35―14)、神社の神主さんも、時々石柱を立て神酒を注ぎます。

お神輿の不思議・・・お神輿は、古代イスラエルの契約の箱を参考にしたものとも言われています。八幡神社の総本社の大分県の宇佐神宮・・・一説では現在の位置になるまで移動しており、最初のお神輿が日本に上陸した地等が福岡県宗像付近とも言われ、年毛(としも)神社等がお神輿に何がしら関わったとも言われています。この神社は小さいですが鳥居から直ぐ玄界灘を望むことが出来ます。

私達がお神輿をかつぐ光景は、ダビデが契約の箱をエルサレムに導き入れたときと同じと言われています。神社のルーツが北九州等を経由して渡来したと考えるのが自然に思います

 

キリストの使徒パウロ、伝道旅行中、祖先伝来の様々な宗教の礼拝所がありました・・・あなたがたが知らずに拝んでいるものを教えましょう。(使徒17―23)

ギリシャ人が昔から知らずに拝んでいる方は本当は誰かについて語りました。天地創造の神こそが、知らずに拝んできたおかたなのですと語りました。

古代イスラエル宗教と神道間には明確な類似点があります。私達の多くは、元旦になると神社にお参りをします。車を買ったときも神社等でお払い等をする方もいますし、結婚式は神道式で行なうことも多いようです。赤ちゃん誕生でも多くの方は神社参りをします。

 

西暦538年に日本に渡来した仏教では多くの仏像がつくられ拝まれていますが、よく考えると日本の神社は、神々の彫像がありません。絵画で神道神のアマテラス・オオミカミを見ることはできますが神社で偶像をみることはありません。拝む対象としての彫像、神々の偶像は神道の場合は作られていません。
神社本殿には石や剣が置かれていますが、それらは偶像ではありません。これらは神聖さを示すためのものです。私達はそこに降臨、臨在される目に見えない神様を拝んでいることになります。

神社に置かれている鏡や剣などは、偶像ではない・・・イスラエルの契約の箱の中にあった十戒の石の板、アロンの杖、マナの壺などが偶像でなかったのと同様です。旧約聖書では、紀元前1000年頃にイスラエル王ダビデは、主の箱、契約の箱をエルサレムに運び入れたと記録されています。考えてみると契約の箱も偶像ではありません。契約の箱は神聖さを示すもので、神がここに降臨、臨在をおく場であったと言えそうです。人々は契約の箱それ自体を拝んだわけではありません。人々が拝んだのは降臨、臨在される、目に見えない神様、天地創造の絶対神・ヤハウェです。

目に見えない神様を拝むことは神道、古代イスラエル宗教とよく似ています。両方とも、偶像をつくりません。十戒の石板も、契約の箱の中に入れられていました。偶像ではありません。

日本の神社には、しばしば石の柱があります。大きな縦長の石を立てて、その周りにも石をめぐらしています。この石柱はご神体と呼ばれます。ご神体は偶像とは異なります。それは依代(よりしろ・神霊が寄りつくもの・・・樹木、岩石、人形、人間などが依代として考えられ、神体や神域のこと。)で、神霊がそこに降臨する神聖な目標物といわれています。人々はそれ自体を拝んでいるのではありません。

目に見えない神様を拝む・・・このような宗教は神道、古代イスラエル意外は無く世界でも珍しいです。

神社本殿の中には、鏡等が置かれていますが、その鏡が神様ではありません。単に、そこが神聖な場所ですよを示すためのものです。
私達は、鏡を拝んでいるのでは無く、そこに降臨し臨在される、目に見えない神様を拝んでいます。神様は目には見えません。
神道は、仏教が日本に入るより遥か以前の2000年以上前から日本に存在し、日本人固有の民族宗教で今日の私達にも生きずいていると思います。一説では、これらの神道は神を信じていた古代ヘブライ人達が旧約聖書等の考えを日本に渡来する際に持ち込んだ宗教だとも言われています。身近な一例として、神道は昨今の相撲事案、相撲にも根底に生き続けていると思います。

今上天皇は日々神事として国家安泰、世界平和等々のお祈りをなされてきたとも言われています。神道の頂点に位置される天皇、目に見えない神と私達の間をレビ(最高祭司長)としてとりもっておられるとも言われています。神道は、意識することはあまりありませんが、祭等々を通して、今も日本人の心に生き続け、永遠に生き続けると思います。

神道=天皇・皇室=私達国民

世界中で最も恵まれた日本に生を受けた私達は、より良き社会を作るためにも、より良き人生を生きるためにも、神道を少しだけでも理解することは天皇、皇室、日本の成り立ち、日本文化、日本社会、日本人の心、道徳等々を理解する上で大切だと思う昨今です。


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