極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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乃木希典、日本人の生き様

2014-09-02 03:19:14 | 日記
現代日本人は乃木将軍と聞いても、ピンと来ないと思います、、、正しく日本人の生き様を示した人です。(乃木 希典「のぎ まれすけ」1849年12月25日生まれ、武士長府藩士、軍人、教育者、陸軍大将、第10代学習院院長等)、皇室等々日本の真相を全て知っていた数少ない一人と言われています。
特に今も台湾ではリーダー等の心構えの手本として官民に語り続けられてるそうです。

第3代台湾総督(明治29年~31年)の乃木将軍、、、統治には台湾人の風俗を重んじた統治を行いました、最後は2年後に解任と言う形でしたが、、、

日清戦争で勝利した日本は、台湾を清国より譲り受けました、、、日本の統治は、韓国、台湾とも日本同様の差別しない政策でした。欧米諸国の統治法とはまったく正反対で良策であったと言われています。心から国土、台湾人のための国作りをやっており日本の統治が無かったら現在の進歩した国の姿は存在しなかったでしょう。現在の年配台湾人に当時が懐かしいと言われるのは、良策をした結果でしょう、世界広しと言え、植民地で当時を懐かしいと言う国民は世界で台湾、韓国等ぐらいでしょう、文献等を読んでみると台湾人だけでなく、韓国人の中にも日本の良策を感謝してる方が多いのもどうも事実であるようです。多くの韓国人の心ある人は、ちゃんと日本統治を心から感謝、懐かしがってると言われてるようです。
 
乃木将軍は、当時不毛の地と言われた台湾赴任時、母親(嘉子、69歳)から例え短い期間であっても病死等で無くなったとしても台湾の土となりなさい、その覚悟で任務を全うしなさいと言う母親からの言葉を胸に第三代台湾総督として妻(静子49歳)、母親(嘉子69歳)を連れて就任しました。

当時69歳の高齢であった母親も一緒に赴任しました。2カ月後、母親は病気になり台湾でなくなりましたが、遺骨を日本に持ち帰ることなく、遺言どうり台湾の地(桃園)に埋葬しました。
日本統治以前の不毛の地、台湾を統治してた清国の役人は、3年間の統治勤務でも途中多くが中国本土へ逃げ帰ったと文献に書かれており、いかに日本が台湾の発展に奮闘努力していたかがわかります。これは隣国韓国にも言えます。
 
乃木将軍は赴任後日本人役人に台湾人の風俗等を尊重するようにとの布令を発し統治を開始します。不毛の地である台湾の教育、衛生は、清国統治時にはまったく考慮されていませんでした。特に教育勅語等を取り入れ台湾人の道徳規範を作ったと言われています、台湾人の道徳心等が高いのはこの教育勅語の影響が大きいのは間違いなさそうです。更に嘉儀県の衛生機関の活動に賛同し、私費を投資したと言われております。当時台湾人に不評だった、水野行政庁長官を解任し、少しでも台湾人の心を掴むための努力を日々惜しみませんでした。
乃木将軍は現在でも多くの台湾人の心に焼き付いてる総督の一人と言われていますし、上に立つものの心構えとして、教育現場でも一部使用されてるそうです。

 台湾人に心を引き付ける乃木将軍には勝典、秦典という2人の子供がいましたが、日露戦争に出兵し勝典は1カ月後戦死しました。陸軍参謀本部は乃木家の家系を守るため、司令部衛生班に移動させようとしましたが、乃木将軍、秦典は拒否し最前線移動を上申、乃木将軍の部隊は壊滅し、秦典も戦死しました。

 日露戦争に勝った戦勝記念の宴が政府内等で開かれましたが、乃木将軍は参加せず一人靖国神社にお参りし、初めて涙したといわれています。

大正元年、明治天皇の葬儀の日、乃木将軍、妻(静子、54歳)は哀悼の意を表し、自分のミスにより1万2千名が無くなった責任、謝罪をし乃木将軍(62歳)は日本刀で、妻(静子、54歳)護身刀で、とも切腹しました、、、日本人の生き様、日本の侍にそのものでした。

本来の日本人とはを考えさせられる偉大な人物の一人でもありますし、今も世界のリーダー達に尊敬される所以でもあります。残念ながら日本国内では乃木将軍の台湾統治は評価されていませんが、台湾人の中では乃木将軍の台湾統治は良策として綿々と受け継がれてるようです。
多くの日本人もこの事実を知ってほしいですね、特に国を司どる方々には!

台湾、王静幹著、乃木将軍を一部参考にしています。 

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