極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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元ミスインターナショナル吉松さんと、明治の山川捨松

2014-03-27 18:39:51 | 女性の尊厳・性犯罪等

 元ミスインターナショナルの吉松さん、今でも国内外のプログでも多くの人々が見守っています。吉松さんと如何しても、山川捨松(女性)の生き方が重複します?

激動の時代を生き抜いた姿勢は、日本女性の未来の姿でもありました。吉松さんも一部の理不尽な社会と戦い、現日本女性の生きる、進むべき姿勢を明確に示しました。大和撫子そのものです。吉松さんの勇気ある行動等により、日本社会の歪んだ一端を再確認することが出来ました。

理不尽な裏の社会の一端を知ることで特に日本女性は大きく舵取りをすると思います。

過去どれだけ日本女性が、悪い言葉で言えば食い物にされてきたか、もう一般国民が知ってしまった以上これまでのような理不尽さは許されないでしょうし、マスコミの正体等を・・・マスコミは場合によっては悪の元凶等に他ならないことを示し、その裏の紳士面の裁判所等も所詮同類億であることを日本国民は勿論、良識の世界の人々は知ってしまいました。

吉松さんは行動は良識であり、全世界中に吉松さん問題は知れ渡っています。唯日本のマスコミ等が報道しないだけです。

今後は、日本のマスコミ、裁判所等は全世界から間違いなく色眼鏡で見られるでしょう!我々は国民は、現実を理解、認識することが重要だと思います。

撫子日本女性は内面、外面とも更に磨きをかけ世界一目指してほしいです!

以下の文は文献等の散文を集めたものです。
明治4年、欧米に派遣された岩倉使節団、歴史の教科書にも載っている有名な欧米使節団です。

使節団には、約50名の政府役人の他に、約60名の留学生が加わっていたました。その留学生の中に、5名の少女たちがいました。永井繁子(10歳)、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)、津田梅子(津田塾大学創始者、9歳)、山川捨松(12歳)です。

使節団首脳は戊辰戦争での官軍(勝者)側に対し、女子留学生の親たちは全て賊軍(敗者)側でした。

当時の女子留学生を募集したのは北海道開拓使という役所でした。

開拓使次官の黒田清隆(後の総理大臣)は、北海道開拓の参考にと考え、西部開拓の実績を持つアメリカを調査に行きました。黒田がそこで目にしたのは、男性とまったく対等に活躍する女性の姿でした。

日本近代化のため女子にも教育を受けさせる必要を感じた黒田清隆は、帰国後、北海道開拓使がスポンサーになって、女子留学生を募集することにしました。留学期間は10年で、全ての費用は政府がもつという好条件だったようですが、応募は皆無でした。当時の日本では、女子に教育を受けさせたり、外国に10年もやるなど考えられないことでした。かろうじて2次募集をして集まったのが5人でした。5人の家庭は士族ですが賊軍側で、新政府においては隅に追いやられていました。女子留学生への応募は、せめて娘をアメリカで教育させて、やがて薩長を見返してやろうとの思いが込められていたようです。
 
五人の女子留学生の中で、山川捨松(12歳)は、幼名は咲子といって、会津藩家老・山川尚江の末娘として生まれました。8歳の時、会津戦争になり、家族とともに城に籠城して悲惨な戦いを経験していました。幼い咲子も危険な弾薬筒運びの仕事をし、義姉が砲弾で亡くなるのを目のあたりにしていました。

会津藩は降伏後、領地を没収され、北端の斗南(青森と岩手の一部)に移され、悲惨な生活を送ることになりました。
山川家では一番小さい咲子だけでも何とかしてやろうと、海を隔てた函館に預けました。最初は坂本龍馬の従兄弟にあたる、ギリシャ正教会宣教師・沢辺琢磨に預けられ、後にフランス人の家庭に引き取られました。女子留学生の募集が耳に入り咲子はアメリカに渡ることになりましたが、これを機会に、咲子の母親は、「捨松」と改名しました。

お前を捨てたつもりで遠いアメリカに送るが、お前がお国のために立派に学問を修めて帰ってくる日待っています、、、コノ改名は母の切ない気持ちからでした。
アメリカでの山川捨松らは10年間の留学、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)の2名は、病気のためその年のうちに帰国しました、後10歳前後の3名の少女が残ることになりました。
捨松はベーコン牧師宅に預けられ、英語の勉強をした後、ヒルハウス高校を経て、ヴァッサーカレッジを卒業しました。

日本人女性で最初に大学を卒業したのは山川捨松一人です!さらにコネティカット看護婦養成学校に短期入学した。現在の津田塾大学の創設者として有名な津田梅子は、年少であったためこの時の留学では高校卒業でした。後に再留学して、大学を卒業しました。
留学を終え帰国した3人には、何の仕事も有りませんでした。北海道開拓使はすでに廃止されていた。多感な十代をアメリカで過ごした3人は、日本語をほとんど忘れ、考え方もアメリカ的になっておりました。
男尊女卑の風潮が強く残る日本では、高等教育を受けても、女性では活動の場がありませんでした。命がけとも言える10年の留学の結果、待っていたのは本当に失望だったようです。
 
帰国から1年後、捨松は結婚しました。女子教育のための学校をつくるという夢は、当時の社会情勢の壁に阻まれて断念しなければなりませんでした。帰国時、捨松は23歳になっていました。当時は娘は十代に嫁に行く時代で、とっくに適齢期は過ぎていました。
捨松より2歳年下の永井繁子は、すでに瓜生外吉(後の海軍大将。日本海海戦にも参加)と結婚していた。当時は適齢期の女性が結婚をしないで仕事をするなど、考えられない時代でした。

5人の女子留学生のなかで、帰国時10代だった津田梅子だけは、結婚せず「女子英学塾」をつくり、女子教育に打ち込むことを選びました。現在の現在の津田塾大学です。捨松にも縁談はいくつかありました。最も熱心だったのが、薩摩出身の陸軍卿(大臣)・大山巌でした。西郷隆盛の従兄弟になる人でその肖像画のモデルとなった人です。
大山巌には沢子という先妻がいましたが、3人の幼い娘を残して病死してしまっていました。多忙な大山にとって、娘を託せる後妻を早く迎える必要がありました。後妻探しに特に熱心だったのが先妻の父で、娘たちの祖父である吉井友実でした。

山川捨松に白羽の矢を立てたのが吉井友実でした、その名を聞いた大山巌がパーティの席上、捨松を見たところ、一目惚れしました、3回の海外留学経験のある大山巌は洋風好みです、政府高官の立場上夫人同伴での外国要人とのつき合いも多かったようです。

アメリカの大学を卒業し、英語、フランス語、ドイツ語に堪能な才色兼備の捨松はこの上ない女性でした。
吉井友実から縁談の意向を伝えられた山川家はびっくり驚いたようです。

山川家は会津藩の家老です、今でも福島(会津)の一部には、鹿児島(薩摩)山口(長州)に対して、戊辰戦争におけ恨みが消えずに残っているました。大山巌は砲兵隊長として、会津攻撃に参加している上、今や薩摩閥のリーダー的存在でした。山川家は当然拒絶しました。大山巌の従兄弟で、西郷隆盛の弟の従道が説得役になり、山川家に通いました。西郷従道との交渉は時には徹夜になったそうです。
最終的には山川家は捨松本人が承諾すればよいと答えたそうです。捨松は大山巌を知った上で返事したいと、、、先進的なデートをしたいと!親の意向で結婚が決められていた時代において、まさにアメリカ的だったようです。大山巌は応じました。2人はデートを重ね、そして捨松は結婚を承諾しました。

大山巌と捨松、結果として似合いの夫婦でした。捨松は母としても、先妻の3人の子と、自分の産んだ3人計6人の子供を立派に育て上げました。

多額の国費を使い、十年以上の海外留学の結果が、幸せな結婚生活だけだったというわけではありません、捨松は、政府高官の妻という立場から、その留学等で学んだ能力等を十分に生かして、数々の大仕事を成し遂げていきました。

結婚の翌年、伊藤博文の依頼で華族女学校設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招きました。
明治33年、津田梅子が津田塾大学の前身にあたる女子英学塾を設立した際、捨松は顧問として参加しました、後に理事や同窓会長にも就いています。大山夫人というの立場上、直接教師として教壇には立てなかったが、学校の運営面で、女子高等教育の復旧に貢献しました。
独身女性が独立して仕事をしていくには困難な時代において、津田梅子が成功した背景には、社会的地位の高い大山捨松や瓜生繁子の協力があったことは間違いないでしょう。日本女性の地位向上に果たした素晴らしい先人です。

 「条約改正交渉を有利に進めようとの西洋化政策」から、鹿鳴館が誕生しました。
鹿鳴館では、連日舞踏会が行われた。慣れない燕尾服に身を固め、ぎこちないステップを踏む日本人を、外国人たちは「「猿まね」だと笑っていました。その中にあって、大山捨松だけは違っていました。日本人離れした長身を、フランス製のワインカラーのビロードの服でつつみ、アメリカ仕込みの軽やかなステップを踏んでいました、そして、外国人とは流ちょうな英語で会話してました。

大山捨松は、社交上の華やかさだけでなく、鹿鳴館において日本初の慈善バザーを開催し実質的な貢献をしました。貴婦人たちが生まれて初めて「商売」をすると評判になり、目標金額の8倍の収益があがった。全額共立東京病院に寄付されました。
鹿鳴館時代は歴史的評価では、実を結ばない「あだ花」とされるが、大山捨松は本物の花だったということが出来ます。日露戦争で大山巌は、陸軍の最高責任者である満州軍総司令官になりました。

捨松は皇族や華族の夫人や令嬢を率いて、日本赤十字社でのボランティア活動を行いました。募金活動、包帯作り、戦死者の家族の世話など、先の鹿鳴館バザーとともに、捨松は日本の上流社会にアメリカ流のボランティア精神を定着させていきました。
アメリカの新聞では、連日、日露戦争の記事が載った。次々とロシア軍を破っていく日本の総司令官の夫人は、アメリカの大学の卒業生であると報じました。アメリカの世論は日本びいきであったようです、親友アリス・ベーコンも、大山夫人や瓜生夫人からの手紙を地元新聞に紹介し、わが町にいた二人の活動への支援を訴えた。アメリカで集まった寄付金は直ちに日本の捨松のもとへ送られ、慈善活動に使われました。当時としては異例ずくめで画期的なことであったようです。
 
日本女性の地位向上、先駆けとなった山川捨松、現代の日本女性は間違いな外面、内面とも世界一であると思います。大和撫子のDNAは綿々と日本女性に受け継がれてるように思う昨今です。

2012年ミスインターナショナル吉松さんは、日本社会に一石を投じました、日本女性の更なる地位向上等々になることを願っています。


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