Blogout

音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ストラヴィンスキー「春の祭典」「ペトルーシュカ」/小澤&CSO,BSO

2005年04月17日 18時04分31秒 | クラシック(一般)
 小澤征爾 が60年代終盤に、シカゴ響やボストン響を振った若き日のストラヴィスンスキー集です。近くのショップに置いてあったので、音質目当てという不純な動機(後述)で購入してきました。収録曲は「ペトルーシュカ」と「春の祭典」、そして「花火」の3曲。「花火」はちょっと珍しいですかね。

 これが録音されたころの小澤は、ボストン響の常任になる前でアメリカを舞台に売り出し中、年齢も確か30代中盤くらいで、まさに絵に描いたようなフレッシュな新進指揮者だったハズです。演奏の方はといえば、まさにそのとおりの颯爽したリズムのキレや、ぐいぐい進んでいく推進力を持つものといえます、記憶によればボストン常任後に録音した演奏はちょい優等生っぽかったですから、まぁ、一本調子という批判はあるかもしれませんが、全体に表情が溌剌としている分、こっちの方が聴いていて楽しいくらいです。
 「春祭」の複雑に錯綜するリズムを縦横に乗り切っていく様や、「ペトルーシュカ」での賑々しさや情感にはおまり拘らず、もっぱらオケの推進力にまかせて自然とドライブさせていくあたり、いささか旧式ではあるが、高性能なスポーツカーでドライブしているみたいでけっこう快感です(ちなみに「ペトルーシュカ」でピアノを弾いているのは、若き日のティルソン・トーマス!)。

 ところでこのCD、リマスタリングの効果なんでしょうが、私がもっている10年前くらいに出たRCAのクラシカル・ナビゲイター・シリーズという廉価盤(もっともこちらは「春祭」と「火の鳥:組曲」等の組み合わせ)の音質と比べて、もうまるで別物かと思うくらい劇的に音が良くなってます。RCAのクラシカル・ナビゲイター・シリーズは、いかなる意図かはわかりませんが、どれも収録レベルが低い上に、ノイズ・リダクションをかけ過ぎがたたって、音が小さい上にぼやけているという....私にとっては到底満足できない音質だったもので、今回の充分な解像度と深々とした低域を復活させたリマスターはまさに念願かなったというところです。

 ついでにいえば、この調子で「火の鳥:組曲」もリマスターしてくれないですかねぇ。若き日の小澤によるストラヴィンスキーの三大バレーでは「火の鳥:組曲」が一番できがいいと思いますから....(パリ管との全曲演奏あんまりおもしろくなかったし)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウェーベルン管弦楽作品集湯/湯浅&アルスターO

2005年04月17日 17時15分25秒 | マーラー+新ウィーン
 ウェーベルンは新ウィーン楽派のひとりです。新ウィーン楽派というのは、シェーンベルク、ベルク、そしてこのウェーベルンあたりの人脈を中心とした人達のことを指していると思われますが、彼らは無調だとか、12音だとかいう、その後の現代音楽にとって重要な方法論を生み出したこともあって、その音楽はとにかく難解さで知られる現代音楽の始祖みたいな扱いを長らく受けていました。

 ところが、ここ四半世紀くらいですか、現代音楽の始祖と思われたていた彼らの音楽も、どちらかといえば「ロマン派の最終ステージの人達」みたいなタームで語られたり、聴かれるようになってきたと思います。まぁ、シェーンベルクはマーラーの弟子でしたし、ベルクとウェーベルンはシェーンベルクの弟子ですから、人脈的に自明ではあったんでしょう。また、作曲家や演奏者らとっては常識ではあったのかもしれませんが、素人クラシック愛好家には、なかなか理屈通りに音楽を体感できなかった。
 しかし、時の流れとはおもしろいもので、この四半世紀、彼らの音楽については、様々な演奏が登場したり、彼らの影響下にあった作曲家の音楽などがそれなりに一般化するのと時を併せるようにして、我々のようなリスナーにとっても彼らの音楽は、けっこう普通に聴こえるようになってきたんですね。

 さて、今、聴いているのはNAXOSから出た1~2年前に出た、ウェーベルン管弦楽曲集で、演奏は湯浅卓雄とアルスター管弦楽団のものです。ウェーベルンという人の作品は、総じて新ウィーンの3人の中では一番ロマン派的な体臭の薄い、いってみれば未来志向の強い非常に凝縮された音楽が多いのですが、その分、一音一音に込められた集中度が強い分、異常に緊張感が高く、じっくり聴くと、CD1枚でもぐったり来ることも多かったのですが、このアルバムの演奏は時代の流れというべきなんでしよう。あっけないくらいにリラックスしています。
 1曲目の「パッサカリア」など往年のハリウッド映画のサントラのようにロマンティックな情緒を全面に出して、ごくごく普通な管弦楽曲として演奏しているを筆頭に、鋭利な緊張度という点では随一な「弦楽四重奏のための5つの楽章」なども、ここまであっけなくやりますか!的にさらりと流れるように演奏していますし、わずか7分にまとめた「交響曲」など、この曲につきまとう観念論的難解さをきれいさっばり洗い流し、極端にいえばニュー・エイジ・ミュージックのように音の感触を素直に楽しむ....みたいなものになっているあたり新鮮です。

 最後に、音楽にもあれこれうるさかったコリン・ウィルソンはその名著「音楽を語る」の中で、ウェーベルンの音楽をイエーツの詩の一節、『足ながアメンボウのように/彼の心は、沈黙の上を歩く』を引用して、彼の音楽のストイックさやその寡黙ぶりについて蘊蓄をかたむけていましたが、私はこれほど的確な、ウェーベルン評をこれまで読んだことありません。けだし名言だと思います。もっとも、今回の湯浅の演奏は、「沈黙の上を歩く」というよりは、滑走する....って感じですけど(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする