UGUG・GGIのかしこばか日記 

びわ湖畔を彷徨する独居性誇大妄想性イチャモン性前期高齢者の独白

戦後史断片:「おじさんのこの右手がバチ~ンと彼のほっぺたを・・・」

2018-08-27 01:20:49 | 日記
8月24日の朝日新聞朝刊に、昭和天皇についての記事が大きく掲載されていました。昭和天皇が亡くなるときに侍従を務めていた人物の日記を共同通信が家族から入手し、その一部を公開したというニュースです。

今日の写真はこの朝日の記事を撮ったものです。よろしければクリックしてご覧くださいませ。デジタル版にも掲載されています

記事の見出しは、《「戦争責任いわれる」昭和天皇の苦悩、晩年の心情 侍従日記に》とされています。

日記では、1987年4月6日の夕刻、天皇が「…長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことを言われる」と述べたとされています。この天皇の言に対して侍従なる人物は「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したとされています。

天皇の言、「兄弟など近親者の不幸」が何を具体的に意味しているのか定かではないのですが、87年2月に亡くなった弟の高松宮のことなどを指しているのかもしれません・・・

(高松宮は太平洋戦争が始まる以前から海軍の軍人でもあり、対米開戦慎重論を天皇に伝えたとされています。戦時中は大戦初頭から和平を唱え、弟・三笠宮などの和平派皇族や、和平派の政治家や軍人に協力したと伝えられています。戦後、高松宮が戦時中の終戦派としての働きを記した手記を発表した際、昭和天皇は激怒したとも伝えられています)。

それはともかくとして、みなさんはこのニュースに接してどのようにお感じになったでせうか

GGIの感想は、結局、昭和天皇は自らの戦争責任について何も語らずに逝ってしまったのだ、でも、果たしてそれでよかったのかなあ・・・ということです。

昭和天皇が先のアジア・太平洋戦争に実質的に果たしてどの程度関わっていたのか、という点については議論があるところですが、とにかく戦前の日本における飾り物ではない正真正銘の国家元首であり、いわゆる「大元帥」として軍の統帥権を持っており、先の大戦における日本側の最重要なキーパーソンであったことは間違いなく、その意味において昭和天皇が歴史的な存在であったことは確かです。ですから、戦後、自らの戦争責任を否定するにしろ肯定するにしろ、何らかの形で、国民に向けて公の場で自ら戦争責任について明確に言及すべきではなかったのか、というのがGGIの思いであります。

すなわち、戦争が終わった後、「自らの戦争責任について自ら判断を下し、それを公にすること」が昭和天皇の最低限の「戦後責任」であり、彼の歴史に対する責任ではなかったかと思うのですが、ついにその責任を果たさずに逝ってしまった、これは日本の一市民としてまことに残念かつ遺憾の極み・・・とGGIは慨嘆せざるを得ませぬ

と申しますのは、実は、昭和天皇は生前、少なくとも一度は、自らの戦争責任について公の場で正面から語る絶好の機会があったからです。

昭和50年(1975年)10月31日、訪米後、帰国してから日本で行われた記者会見において、米国の記者が、戦争責任についてストレートに質問したときのことです。記者の質問と天皇の答は以下のとおりです

「陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?」(ザ・タイムズの記者)

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」

上記の「言葉のアヤについては」というのは、《「私が深く悲しみとするあの戦争」という私の発言が戦争責任を認めたことになるのかどうかについては》ということを意味しているものと思われます。

日本の根性なしメディアはこんなストレートな質問をする勇気をまったく持ち合わせておりませんので、米国の記者さんにまことに大感謝であります。しかし、天皇は見事に逃げ切りる
と申しますか記者たちを煙に巻いて、戦争責任について正面から語ることを行いませんでした。自らの「戦後責任」を果たす絶好の機会であったのですが、その機会を自ら台無しにしたのです。

(GGIはこの記者会見のシーンをテレビで見ていた記憶があります。この天皇の答を聞いて、一瞬、何を言っているのか理解できませんでした。「おいおい、オッサン、何を言うてるのや、文学方面云々という話とはちがうやろ」と思ったのでありました。ですから、この米国の記者さんにここでもう一歩突っ込んで質問してほしかったのですが、彼はこれ以上は質問しませんでした。数多くの記者が同席していたのですが、他の記者諸氏も、誰ひとり質問しませんでした)

もっとも、どの程度反省の気持ちがあったのかは定かでありませんが、敗戦の翌年から数年にわたり昭和天皇はいわゆる「戦後巡幸」なるものを行い全国各地へ足を運んでいます。戦後の混乱する日本国内を直接視察し、復興に携わる国民を「激励」し、戦災者や戦没者遺族などを「慰問」することを目的としていたとされています。

以下はこの《巡幸》に際して天皇と直に接して話したことがある某人物から直接聞いた話です。

この某人物はわがファザーと旧制高校・大学時代をともにした、生涯を通じてわがファザーの親友であった人物です。某大手製薬会社の優良子会社の社長さんでありました。我が家は子だくさんでビンボーでありましたので、戦後まだまだ貧しき頃、この温厚で紳士然とした社長さん、ときおり神戸なんかの高級お菓子屋さんのケーキなどをおみやげを手にしてわがオンボロ庵を訪問、ですからこの人物が来るのをいつも心待ちにしておりました。

いつごろのことか記憶は定かでないのですが、あるとき、この人物がやってきて、大きく引き伸ばした一枚の写真を見せてくれました。

写真の左側にはこの社長さん、右側には昭和天皇が写っております。黒板を前にして社長さんがなにか天皇に説明しています。天皇、血色は良好、健康そのもの、意気軒昂という感じです。社長さんのほうが少し背が高く、天皇は後ろ手でやや反り返って、社長さんの説明を聞いています。ときおり「あっ、そう」などと言っていたのでありませう。社長さんは何やら右手を振り挙げております。

「おじさん、これ何しているところなの?」

「これは天皇がおじさんの会社の工場を視察にきたときの写真、工場の仕組みや様子を天皇に説明しているところ」

「ふ~ん、おじさん、右手を大きく振り上げているけれど、どうしたの?」

「これはなあ・・・そうだなあ・・・このあと、この右手を思いっきり振り回して、天皇のホッペタにバチ~ンと一発・・・」

まことにワッハッハ、愉快で明るいオジサンでありました。別にこの人物、過激な思想の持ち主ではありませぬ。皇族には誰であろうと、たとえ幼女であろうと「さま」付けにしなくはならないなどという昨今のヘンな風潮とは異なり、戦後しばらくは、この人物のように、多くの市民は、もう天皇はそんなにエラクはないんだいう感覚が強く、巷では人々は今どきよりもずっと自由にモノを言っていたような気がいたします。

たとえば作家の坂口安吾は、その著作「堕落論」かあるいは他の著作のなかで、「天皇は何を浮かれて全国あちこち歩き回っているだ。戦争に負けたのだから三年ぐらいは皇居に蟄居していろ。そのあとで、天皇が誰もお付の者を連れずに銀座を一人で歩いてきたら、オレは道を開けてやるぐらいの礼儀は持ち合わせているさ」といった意味のことを書いておりました。

そういえば、GGIは昭和天皇には直にお目にかかったことはないのですが、現天皇には近くからお目にかかったことがあります。たぶん現天皇が皇太子のころではなかったか思うのですが、彼が夫人を連れて湖国で植樹祭が行われたときにわがガーデンの前の大通りを車で通りすぎたときのことです。そのおりGGIはステテコ姿でごあいさつしたことがあるのを思い出しました。そのときのことは今年はじめに日記に書いております。GGIのステテコ姿なんてどうでもいいけど、読んでもいいよ思われる方はご覧になってくださいませ。

またまた、まとまらない話になりました。お許しくださいませ

なもあみだぶ・なもあみだぶ・なもあみだぶ・・・
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