透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

週末のサードプレイスにて

2017-09-16 | A あれこれ



 しばらく前までは金曜日に出かけていたが、仕事の関係で土曜日に出かけることにした週末のサードプレイス、松本市梓川のカフェ バロ。

今日(16日)も仕事帰りに立ち寄った。カウンターのいつもの席に着き、美味なミックスベリーのケーキとコーヒーを味わう。こうして仕事モードを解き、リラックスモードへ。

同じカウンターの常連さんは内科医のM先生と、学校の先生をしておられたFさん。

話題が平出遺跡に及び、私が縄文時代の竪穴式住居は茅葺きではなかったことを話す。そう、登呂遺跡はじめ、復元されている竪穴式住居は茅葺きだが、実はそうではなかった。私はこのことを講談社の「日本の歴史」で知った。以前このことについて書いたが、ここに再掲する。




講談社の『日本の歴史01 縄文の生活誌』/岡村道雄にこのことに関する記述がある。以下少し長くなるが引用する。

**「カヤ葺きの家」も、問題をはらんでいた。文化人類学者が北方民族の例を引いて、〝縄文時代の住居は土葺き〟であったと示唆したにもかかわらず、登呂遺跡(静岡県の弥生時代集落跡)の竪穴住居の復元以来、カヤ葺きの家が一般的な集落景観として固定していったようだ。焼失した竪穴住居が全国で多く発掘され、焼け落ちた柱材の上に焼けた土が載っているのを見ても、なかなか偏見は変わらなかった。カヤ葺きだけでなく、土葺き屋根も相当普及していたのである**(230、231頁) 

茅葺きの存在も認める記述だが、これは定説に対する配慮というか遠慮かもしれない。縄文時代の住居は樹皮・草木で葺いた屋根の上に土を被せた土葺き屋根だったと理解していた方がよさそうだ。

縄文住居を復元する際、今現在の道具を使わないことにすれば、茅を刈り取ることも非常に困難で、葺いた後、屋根の表面を整えることもできないことが分かるはずだが、このような実験考古学的な手法で行わないことに問題があるのかもしれない。 

中学校の、いや、小学校か、授業で、ずっと後の時代に稲作が始まって、稲穂だけを石器でほとんどちぎるようにして収穫していたことも教わった。だから縄文時代には茅を刈るような道具はなかったと判断するのが妥当だろう。だが、当時は縄文住居の屋根の葺き方に関する説明が不合理であることに気がつかなかった・・・。


 


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