透明タペストリー

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茅葺きではなかった縄文住居

2019-11-10 | A あれこれ

 12月1日予定のココブラの火の見櫓に関する講座で、このことに触れることになるので、初掲20140629の記事を再掲して復習。なぜ火の見櫓の講座で縄文時代の住居に話題が及ぶのか?それはヒミツ。

縄文時代の住居といえば茅葺きの竪穴住居が直ちに浮かぶ。各地の復元住居は茅葺きだし、教科書では**縄文時代の人々は、地面を掘って床をつくり、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけた竪穴住居に住んでいた。**(「新しい歴史教科書」扶桑社から引用)といった説明がされているから。

だが、これには異説がある。



講談社の『日本の歴史01 縄文の生活誌』/岡村道雄にこのことに関する記述がある。以下少し長くなるが引用する。

**「カヤ葺きの家」も、問題をはらんでいた。文化人類学者が北方民族の例を引いて、〝縄文時代の住居は土葺き〟であったと示唆したにもかかわらず、登呂遺跡(静岡県の弥生時代集落跡)の竪穴住居の復元以来、カヤ葺きの家が一般的な集落景観として固定していったようだ。焼失した竪穴住居が全国で多く発掘され、焼け落ちた柱材の上に焼けた土が載っているのを見ても、なかなか偏見は変わらなかった。カヤ葺きだけでなく、土葺き屋根も相当普及していたのである**(230、231頁) 

茅葺きの存在も認める記述だが、これは定説に対する配慮というか遠慮かもしれない。縄文時代の住居は樹皮・草木で葺いた屋根の上に土を被せた土葺き屋根だったと理解していた方がよさそうだ。

縄文住居を復元する際、今現在の道具を使わないことにすれば、茅を刈り取ることも非常に困難で、葺いた後、屋根の表面を整えることもできないことが分かるはずだが、このような実験考古学的な手法で行わないことに問題があるのかもしれない。 

授業で、ずっと後の時代に稲作が始まって、稲穂だけを石器でほとんどちぎるようにして収穫していたことも教わった。だから縄文時代には茅を刈るような道具はなかったと判断するのが妥当だろう。だが、縄文住居の屋根の葺き方に関する説明が不合理であることに気がつかなかった・・・。

 


 
撮影 1979年10月 群馬県にて

土葺き屋根のなごり?で、棟の部分に土を載せて、草を生やした(これを芝棟という)民家が昔はあった。


 鎌倉時代の始期については1192年と教わった。「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えたが、数年前に見たある小学校の教室に張ってあった歴史年表では1185年となっていた。

ウィキペディアに鎌倉時代の始期について**東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力視されている。**とある。


 


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