透明タペストリー

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「幽霊」北 杜夫

2021-03-22 | A 読書日記



 北 杜夫の『幽霊』(新潮文庫1965年発行)を久しぶりに読んだ。初めて読んだのは1981年。福永武彦の『草の花』もこの年に読んでいる。

**人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。――だが、あのおぼろげな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。**

この魅力的な書き出しに、この小説のモチーフが端的に表現されている。そう、『幽霊』は心の奥底に沈澱している遠い記憶を求める「心の旅」がテーマの作品だ。幼年期から旧制高校時代までを扱っている。抒情的というか、やわらかな文体で書かれた小説だ。

**記憶というものは、どれほどの層をなし、どれほど複雑にいりくんだものなのであろうか。ここに述べている物語とは殆ど関わりのない現在となっても、僕はひょっと思いがけぬ昔の事柄を憶いだすことがある。**(173、174頁)

幼年期の記憶として母親の部屋の様子、父親の部屋の様子がそれぞれ2ページに亘って詳細に描かれている。このことだけで、北 杜夫の記憶力と描写力がわかるというもの。

松本平から見た北アルプスや美ヶ原はこの作品だけでなく、いくつもの作品で描かれているが(*1 *3)、いいなぁ と読むたびに思う。

北 杜夫の作品はこれからも読む機会があるだろう。


*1 **春、西方のアルプスはまだ白い部分が多かった。三角形の常念ヶ岳(*2)がどっしりとそびえ、その肩の辺りに槍ヶ岳の穂先がわずか黒く覗いていた。島々谷のむこうには乗鞍が、これこそ全身真白に女性的な優雅さを示していた。朝、アルプスに最初の光が映え、殊に北方の山々は一種特有のうす桃色に染るのであった。**『どくとるマンボウ青春記』(54頁)

*2 文中の表記

*3 **塩尻の駅を過ぎると、西の窓に忘れることのできぬ北アルプス連峰が遥かに連なっているのを、係恋の情を抱いて私は望見した。黒い谿間の彼方に聳える全身真白な乗鞍岳は、あたかもあえかな女神が裸体を露わにしているかのようであった。**『神々の消えた土地』(84頁)

一部過去の記事を再掲した(2012年3月17日)。