透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

半鐘無き火の見は

2021-03-04 | A 火の見櫓っておもしろい


(再)安曇野市穂高 4脚〇8型  撮影日2014.04.25


撮影日2011.02.06

 何回も取り上げたこの火の見櫓、以前半鐘は櫓の中間にある小屋のところに設置されていた。


撮影日2021.01.17

今年の1月に見たとき、半鐘が消防団詰所の屋外階段のところに移されていることに気がついた(2014年4月に撮影した①には写っていない)。建設当初はもちろんてっぺんの屋根下に吊り下げてあったと思われるが(*1)、それが小屋のところに移され、そして詰所へ移されたのであろう。火の見櫓を昇り降りするのは大変だから、当然の成り行きともいえる。

で、半鐘の無い火の見櫓になってしまった。このような火の見櫓は本来の機能を失ったことになる。もはや火の見櫓ではないとする判断は妥当だと思う(私は火の見櫓として扱っているが)。となると、この先この火の見櫓を待ち受けているのは、撤去処分されるという運命だろう・・・。(過去ログ


以下過去ログ加筆再掲:江戸の前期、具体的には明暦の大火(1657年)によって甚大な被害を被った江戸幕府で、都市防災という概念が生まれ、そのころ火の見櫓の歴史が始まったのだが、ここにきてこの長い歴史に幕が降ろされつつある。火の見櫓の後継として防災行政無線柱や消火ホース乾燥柱が建てられ、火の見櫓が次第に姿を消しているのだから。

「時代の流れ」だから仕方がないとあきらめてはいるものの、やはり寂しい。この火の見櫓は黒部ダムの建設という昭和の巨大プロジェクトに関わり、その後火の見櫓として穂高の街を見守り続けてきた。これは近代産業遺産でもあり、地域の安全遺産でもある。また、昭和30年代の櫓構造の技術を今に伝えてもいる。このままの姿でずっと立ち続けて欲しいと願っている。

火の見櫓を取り壊すこと、それは街の記憶装置の喪失に他ならない。


*1 訂正追記(2023.02.28)半鐘はこの場所に移設された当初から中間の小屋のところに吊り下げられていて、てっぺんに吊り下げられていたことはなかった。