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墨子 巻八 非楽上(原文・読み下し・現代語訳)

2022年08月14日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻八 非楽上(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《非楽上》:原文
子墨子言曰、仁之事者、必務求興天下之利、除天下之害、将以為法乎天下。利人乎、即為、不利人乎、即止。且夫仁者之為天下度也、非為其目之所美、耳之所楽、口之所甘、身體之所安、以此虧奪民衣食之財、仁者弗為也。是故子墨子之所以非楽者、非以大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙之聲、以為不楽也、非以刻鏤華文章之色、以為不美也、非以犓豢煎炙之味、以為不甘也、非以高臺厚榭邃野之居、以為不安也。雖身知其安也、口知其甘也、目知其美也、耳知其楽也、然上考之不中聖王之事、下度之不中萬民之利。是故子墨子曰、為楽、非也。
今王公大人、雖無造為楽器、以為事乎國家、非直掊潦水折壤坦而為之也、将必厚措斂乎萬民、以為大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙之聲。古者聖王亦嘗厚措斂乎萬民、以為舟車、既以成矣、曰、吾将悪許用之。曰、舟用之水、車用之陸、君子息其足焉、小人休其肩背焉。故萬民出財齎而予之、不敢以為慼恨者、何也。以其反中民之利也。然則楽器反中民之利亦若此、即我弗敢非也。然則當用楽器譬之若聖王之為舟車也、即我弗敢非也。民有三患、飢者不得食、寒者不得衣、労者不得息、三者民之巨患也。然即當為之撞巨鍾、撃鳴鼓、彈琴瑟、吹竽笙而揚干戚、民衣食之財将安可得乎。即我以為未必然也。意舍此。今有大國即攻小國、有大家即伐小家、強劫弱、衆暴寡、詐欺愚、貴傲賤、寇乱盜賊並興、不可禁止也。然即當為之撞巨鍾、撃鳴鼓、彈琴瑟、吹竽笙而揚干戚、天下之乱也、将安可得而治與。即我未必然也。是故子墨子曰、姑嘗厚措斂乎萬民、以為大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙之聲、以求興天下之利、除天下之害而無補也。是故子墨子曰、為楽、非也。
今王公大人、唯毋、處高臺厚榭之上、而視之鍾猶是延鼎也、弗撞撃将何楽得焉哉、其説将必撞撃之。惟勿撞撃、将必不使老與遲者、老與遲者耳目不聰明、股肱不畢強、聲不和調、明不轉朴。将必使當年、因其耳目之聰明、股肱之畢強、聲之和調、眉之轉朴。使丈夫為之、廃丈夫耕稼樹藝之時、使婦人為之、廃婦人紡績織紝之事。今王公大人唯毋為楽、虧奪民衣食之財、以拊楽如此多也。是故子墨子曰、為楽、非也。
今大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙之聲既已具矣、大人鏽然奏而獨聴之、将何楽得焉哉。其説将必與賤人不與君子。與君子聴之、廃君子聴治、與賤人聴之、廃賤人之従事。今王公大人惟毋為楽、虧奪民之衣食之財、以拊楽如此多也。是故子墨子曰、為楽、非也。
昔者齊康公興楽萬、萬人不可衣短褐、不可食糠糟、曰食飲不美、面目顏色不足視也、衣服不美、身體従容醜羸、不足観也。是以食必粱肉、衣必文繡、此掌不従事乎衣食之財、而掌食乎人者也。是故子墨子曰、今王公大人惟毋為楽、虧奪民衣食之財、以拊楽如此多也。是故子墨子曰、為楽、非也。
今人固與禽獣麋鹿、蜚鳥、貞蟲異者也、今之禽獣麋鹿、蜚鳥、貞蟲、因其羽毛以為衣裘、因其蹄蚤以為褲屨、因其水草以為飲食。故唯使雄不耕稼樹藝、雌亦不紡績織紝、衣食之財固已具矣。今人與此異者也、賴其力者生、不賴其力者不生。君子不強聴治、即刑政乱、賤人不強従事、即財用不足。今天下之士君子、以吾言不然、然即姑嘗數天下分事、而観楽之害。王公大人蚤朝晏退、聴獄治政、此其分事也、士君子竭股肱之力、亶其思慮之智、内治官府、外收斂関市、山林、澤梁之利、以實倉廩府庫、此其分事也、農夫蚤出暮入、耕稼樹藝、多聚叔粟、此其分事也、婦人夙興夜寐、紡績織紝、多治麻絲葛緒綑布縿、此其分事也。今惟毋在乎王公大人説楽而聴之、即必不能蚤朝晏退、聴獄治政、是故國家乱而社稷危矣。今惟毋在乎士君子説楽而聴之、即必不能竭股肱之力、亶其思慮之智、内治官府、外收斂関市、山林、澤梁之利、以實倉廩府庫、是故倉廩府庫不實。今惟毋在乎農夫説楽而聴之、即必不能蚤出暮入、耕稼樹藝、多聚叔粟、是故叔粟不足。今惟毋在乎婦人説楽而聴之、即不必能夙興夜寐、紡績織紝、多治麻絲葛緒綑布縿、是故布縿不興。曰、孰為大人之聴治而廃國家之従事。曰、楽也。是故子墨子曰、為楽、非也。
何以知其然也。曰先王之書、湯之官刑有之曰、其恆舞于宮、是謂巫風。其刑君子出絲二衛、小人否、似二伯黄径。乃言曰、嗚乎。舞佯佯、黄言孔章、上帝弗常、九有以亡、上帝不順、降之百𦍙、其家必懷喪。察九有之所以亡者、徒従飾楽也。於武観曰、啓乃淫溢康楽、野于飲食、将将銘莧磬以力、湛濁于酒、渝食于野、萬舞翼翼、章聞于大、天用弗式。故上者天鬼弗戒、下者萬民弗利。
是故子墨子曰、今天下士君子、請将欲求興天下之利、除天下之害、當在楽之為物、将不可不禁而止也。

字典を使用するときに注意すべき文字
折、又封土爲祭處曰折、 転じて、祭壇を築く、の意あり。
厚、木簡の戸籍と資産台帳の束 転じて、課税台帳、の意あり。
補、又益也。 りえき、の意あり。
明、音鳴。 ひびき、の意あり。
朴、離也。 ばらばら、の意あり。
眉、媚也、猶諧也。 ちょうわ、の意あり。
拊、順也。 したがう、の意あり。
萬、萬者、舞之總名。 ぶよう、の意あり。
醜、類也。 たぐい、の意あり。
羸、瘦也。 やせ、の意あり。
蜚、音非、與飛通。 とぶ、の意あり。
貞、卜問也。从卜、貝、以爲贄。 かい、の意あり。
縿、纁帛縿。 あかくそめた帛布、の意あり。
伯、把也。 たば、の意あり。
佯、又通作陽。陽陽無所用其心也。 心はここにあらず、の意あり。
黄、太老則髮黃。 たいろう、の意あり。

《非楽上》:読み下し
子墨子の言いて曰く、仁の事は、必ず務(つと)めて天下の利を興し、天下の害を除くを求め、将に以って法を天下に為さむとす。人を利(り)すは、即ち為し、人を利(り)せずは、即ち止む。且(ま)た夫れ仁なる者の天下の為に度(わた)るや、其の目の美(よ)しとする所、耳の楽(この)むとする所、口の甘(うま)しとする所、身體の安(やす)きとする所の為には非ずして、此を以って民の衣食の財を虧奪(きだつ)するを、仁なる者は為(な)さざるなり。是の故に子墨子の楽を非とする所以(ゆえん)は、大鍾(だいしょう)、鳴鼓(きょうこ)、琴瑟(きんしつ)、竽笙(うしょう)の聲(せい)を以(もち)ひ、以って楽(たの)しらずと為すには非ず、鏤華(るいか)文章(ぶんしょう)の色(しょく)を刻むを以(もち)ひ、以って美(よ)からずと為すに非ず、犓豢(すいかん)煎炙(せんしゃ)の味を以(もち)ひ、以って甘からずと為すに非ず、高臺(こうだい)厚榭(こうしゃ)邃野(すいや)の居を以(もち)ひ、以って安からずと為すに非ず。身は其の安(やす)きを知り、口は其の甘(うま)しを知り、目は其の美(よ)しを知り、耳は其の楽(たの)しを知ると雖(いへど)も、然れども上には之を考えるに聖王の事に中(あた)らず、下には之を度(はか)るに萬民の利に中(あた)らず。是の故に子墨子の曰く、楽(らく)を為すは、非(ひ)なり。
今、王公大人の、楽器を造り為すは無しと雖(いへど)も、以って事を國家に為す、直(ただ)に潦水(ろうすい)を掊(と)り壤坦(じょうたん)を折(せつ)し而して之を為に非ず、将に必ず厚にて萬民に措斂(せきれん)し、大鍾(だいしょう)、鳴鼓(きょうこ)、琴瑟(きんしつ)、竽笙(うしょう)の聲(せい)の以(もち)ふを為す。古の聖王は亦た嘗って厚にて萬民に措斂(せきれん)し、舟車の以(もち)ふるを為し、既に以って成る、曰く、吾は将に之を用いるを許すを悪(にく)まむか。曰く、舟は之を水に用い、車は之を陸(おか)に用いる、君子は其の足を息(やす)め、小人は其の肩背(けんぱい)を休めむ。故に萬民は財齎(ざいし)を出し而して之を予(かな)へ、敢へて以って慼恨(せきこん)を為さざるは、何ぞや。其の反(かえ)りて民の利に中(あた)るを以ってなり。然らば則ち楽器の反(かえ)りが民の利に中(あた)り亦た此の若くならば、即ち我は敢(あ)へて非(ひ)とするはなし。然らば則ち當(まさ)に楽器を用いること之を譬ふるに聖王の舟車を為(つく)るが若(ごと)くならば、即ち我は敢(あ)へて非(ひ)とするはなし。
民に三患有り、飢に食を得ず、寒に衣を得ず、労に息を得ず、三のものは民の巨患なり。然るに即ち當(まさ)に之の為に巨鍾を撞き、鳴鼓を撃ち、琴瑟を彈き、竽笙を吹き、而(ま)た干戚(かんせき)を揚ぐるも、民の衣食の財は将(まさ)に安(やす)むぞ得べけむや。即ち我は以って未だ必ず然(な)らずと為すなり。意(おも)うに此を舍(お)かむ。
今、大國が即ち小國を攻むる有り、大家が即ち小家を伐つ有り、強は弱を劫(おびやか)し、衆は寡を暴(そこな)ひ、詐は愚を欺(あざむ)き、貴は賤に傲(おご)り、寇乱(こうらん)盜賊(とうぞく)並びて興り、禁止す可からず。然らば即ち當(まさ)に之が為に巨鍾を撞い、鳴鼓を撃ち、琴瑟き彈き、竽笙を吹きて而して干戚(かんせき)を揚(あ)ぐるも、天下の乱るること、将に安(いづく)むぞ得て而して治む可(べ)けむや。即ち我は未だ必ず然(しか)らずとなす。是の故に子墨子の曰く、姑(しばら)く嘗(こころ)みに厚にて萬民に措斂(せきれん)し、以って大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の聲を為し、以って天下の利を興し、天下の害を除かむことを求む。而して補(えき)は無しなり。是の故に子墨子の曰く、楽(がく)を為すは非(ひ)なり。
今、王公大人は、唯毋(ただ)高臺(こうだい)厚榭(こうしゃ)の上に處りて、而して鍾は猶(なお)是の延鼎(えんてい)のごとしの之を視み、撞撃(どうげき)せずば将に何の楽を得むやと、其の説の将に必ず之を撞撃(どうげき)せむとす。惟勿(ただ)撞撃するに、将に必ず老(ろう)と遲(ち)なる者を使はざらむとし、老(ろう)と遲(ち)なる者とは耳目(じもく)は聰明(そうめい)ならず、股肱(ここう)は畢強(ひつきょう)ならず、聲は和調(わちょう)せず、明は轉朴(てんべん)ならず。将に必ず當年(とうねん)を使い、其の耳目は聰明、股肱は畢強、聲は和調、眉は轉朴に因らむとす。丈夫(じょうふ)をして之を為さ使むれば、丈夫は耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)の時を廃し、婦人をして之を為さ使むれば、婦人は紡績(ぼうせき)織紝(しょくじん)の事を廃せむ。今、王公大人は唯毋(ただ)楽(がく)を為し、民の衣食の財を虧奪(きだつ)して、以って拊楽(ふがく)すること此(こ)の如く多しなり。是の故に子墨子の曰く、楽(がく)を為すは非(ひ)なり。
今、大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の聲は既已(すで)に具(そな)はる、大人は鏽然(しゅうぜん)して奏(そう)し而して獨りこれを聴くも、将に何の楽しみを得むや。其の説の将に必ず賤人と與(とも)にせざれば必ず君子と與(とも)にせむとし、君子と之を聴かば、君子は治を聴くを廃し、賤人と之を聴かば、賤人は事に従うを廃せむ。今、王公大人は惟毋(ただ)楽(がく)を為し、民の衣食の財を虧奪(きだつ)し、以って拊楽(ふがく)するは此の如く多し。是の故に子墨子の曰く、楽(がく)を為すは非(ひ)なり。
昔の齊の康公は楽萬を興し、萬人は短褐を衣るべからず、糠糟を食うべからず、曰く食飲の美ならざれば、面目(めんぼく)顔色(がんしょく)は視るに足らず、衣服の美ならざれば、身體(しんたい)従容(しょうよう)醜羸(しゅうや)は、観るに足らず。是を以って食は必ず粱肉(りょうにく)、衣は必ず文繡(ぶんしゅう)、此の掌は衣食の財に従事せずして、而して掌の食を人に食はさるる者なり。是の故に子墨子の曰く、今、王公大人は惟毋(ただ)楽(がく)を為し、民の衣食の財を虧奪(きだつ)し、以って拊楽(ふがく)するは此の如く多し。是の故に子墨子の曰く、楽(がく)を為すは非なり。
今、人は固(もと)より禽獣(きんじゅう)、麋鹿(びろく)、蜚鳥(ひちょう)、貞蟲(ていちゅう)と異なるものなり、今、之の禽獣、麋鹿、蜚鳥、貞蟲は、其の羽毛に因りて以って衣裘(いきゅう)と為し、其の蹄蚤(ていそう)に因りて以って褲屨(こく)と為し、其の水草に因りて以って飲食と為す。故に雄(おす)をして耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)せず、雌(めす)をして亦た紡績(ぼうせき)織紝(しょくじん)せざら使(し)むと唯(いへど)も衣食の財は固(もと)より已(すで)に具(そな)はれり。今、人は此と異なる者なり、其の力に頼る者は生き、其の力に頼(たよ)らざる者は生きず。君子は強(つと)めて治を聴かざれば、即ち刑政は乱れ、賤人は強(つと)めて事に従はざれば、即ち財用は足らず。今、天下の士君子の、以って吾が言(げん)を以って然ならずとなさば、然らば即ち姑(しばら)く嘗(こころ)みに天下の分事を數へて、而して楽の害を観む。王公大人は蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(の)き、獄(ごく)を聴き政(まつりごと)を治める、此は其の分事なり。士君子は股肱の力を竭(つ)くし、其の思慮の智を亶(つ)くし、内は官府を治め、外は関市(かんし)、山林、澤梁(たくりょう)の利を收斂(しゅうれん)して、以って倉廩(そうりん)府庫(ふこ)を實(み)たす。此は其の分事なり。農夫は蚤(はや)くに出で暮に入り、耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)し、多く叔粟(しゅくぞく)を聚(あつ)む、此は其の分事なり。婦人は夙(つと)に興(お)き夜(よは)に寐(ね)むり、紡績(ぼうせき)織紝(しょくじん)し、多く麻絲(まし)葛緒(くずちゃ)を治め布縿(ふさん)を綑(お)る、此は其の分事なり。今、惟毋(ただ)王公大人に在りて楽を説(よろこ)びて而して之を聴かば、即ち必ず蚤(はや)く朝(ちょう)し晏(おそ)く退(の)き、獄を聴き政(まつりごと)を治(おさ)めむは能(あた)はず。是の故に國家は乱れて而して社稷は危し。今、惟毋(ただ)士君子に在りて楽を説(よろこ)び而して之を聴き、即ち必らず股肱の力を竭(つ)くし、其の思慮の智を亶(つ)くし、内に官府を治め、外に関市、山林、澤梁の利を收斂(しゅうれん)し、以って倉廩(そうりん)府庫(ふこ)を實(み)たすこと能(あ)はず。是の故に倉廩(そうりん)府庫(ふこ)は實(み)たず。今、惟毋(ただ)農夫に在りて楽を説(よろこ)び而して之を聴かば、即ち必ず蚤(はや)く出でて暮(くれ)に入るは能(あた)はず、耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)し、多く叔粟(しゅくぞく)を聚(あつ)むることは能(あた)はず。是の故に叔粟(しゅくぞく)は足らず。今、惟毋(ただ)婦人に在りて楽を説(よろこ)び而して之を聴かば、即ち夙(つと)に興(お)き夜(よひ)に寐むり、紡績(ぼうせき)織紝(しょくじん)し、多く治麻絲(まし)葛緒(かつちょ)を治め、布縿を綑ること必ず能はず。是の故に布縿(ふそう)は興(おこ)らず。曰く、孰(なに)を為し大人の治を聴き而して國家の事に従うを廃するや。曰く、楽(がく)なり。是の故に子墨子の曰く、楽(がく)を為すは非なり。
何を以って其の然るを知るや。曰く先王の書の、湯の官刑に之有り。曰く、其の恆(つね)に宮に舞ひ、是を巫風(ふふう)と謂う。其の刑、君子は絲(いと)二衛(にえい)を出(い)だし、小人は否(しから)ず、二(に)伯(はく)の黄径(こうけい)を似(も)ってす。乃(すなは)ち言いて曰く、嗚乎(ああ)。舞ふこと佯佯(ようよう)にして、黄言は孔(はなは)だ章(あきら)かなり、上帝は常(いたす)けず、九有(きゅうゆう)以って亡(ほろ)ぶ、上帝は順(したが)はず、之に百𦍙(ひゃくしゃう)を降し、其の家必ず懷喪(かいそう)す。九有(きゅうゆう)の亡ぶ所以(ゆえん)の者を察するに、徒(ただ)楽(がく)を飾るに従へばなり。武観(ぶかん)に於いて曰く、啓(けい)乃(すなは)ち淫溢(いんいつ)康楽(こうらく)し、野に飲食し、将将(そうそう)して莧磬(かんけい)を銘(な)らして以って力(つと)む、酒に湛濁(ちんだく)し、野に渝食(とうしょく)す、萬舞(ばんぶ)翼翼(よくよく)として、章(あきら)かに大(おお)いに聞き、天は用(も)って式(のり)とせず。故に上は天鬼の戒(かい)とせず、下は萬民の利(り)とせず。是の故に子墨子の曰く、今、天下の士君子の、将に天下の利を興(おこ)し、天下の害を除なむことを求めると欲すを請ひ、當(まさ)に楽(がく)の物(もの)為(た)るは在り、将に禁(きん)じて而して止めざる可(べ)からずなり。


《非楽上》:現代語訳
子墨子が語って言うことには、『仁というものごとは、必ず努力して天下の利を興し、天下の害を除くことを求め、これにより法を天下に行おうとすることだ。』と。人に利を与えること、それは行い、人に利を与えないこと、それは行わない。また、仁なるものが天下のために広まることとは、それは目で見て美しいとすることがらのため、耳で聞いて楽しいとすることがらのため、口で味わって旨いとすることがらでのため、身体が安らぎとすることがらのために、それを行うことではなく、また、仁を行うことで、民の衣食の財物を簒奪するなら、仁というものは行わない。このことに因り、子墨子が「楽」というものを否定とする理由は、大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の大編成の演奏をすることが、楽しくないとする訳ではなく、ものに彫刻や文様の彩色を施すことを、美しくないとする訳でもなく、肉類の炒め煮たものの味付けを、美味しくないとする訳でもなく、高い塔や奥行き深い住居に住むことを、安寧ではないとする訳でもない。身体は安らぎを知り、口は旨いものを知り、目は美しいものを知り、耳は楽しいものを知るとは云え、しかしながら、上にはこの「楽」というものを考えると、これは聖王の為すべき事に当らず、下にはこの「楽」というものの費用を計算すると万民の利には当たらない。この民の財を使うことがらとしては、子墨子が言うことには、『楽というものを行うことは、非である。』と。
今、王公大人は、楽器を新たに造ることはしないというけれど、楽器を演奏することを国家の事業として行い、ただ、土地から雨水を掻き出し、その土地を平坦して祭壇を築き、そして、そこでの祭祀での「楽」という行為ではなく、必ず課税台帳により万民に課税徴収し、大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の大編成の演奏を行う。古代の聖王は過去には課税台帳により万民に課税徴収を行い、舟や車を調達することにその税金を用いることを計画し、それにより舟や車の調達を行い、聖王が言うことには、『私が、役人が税金を舟や車の調達に用いること、それを許可することを嫌うか。』と。民が言うことには、『舟はこれを水運に用い、車はこれを陸運に用いる、君子はその旅行の足を休め、小人はその荷を担ぎ行く肩や背を休める。』と。この理由で万民は財貨を供出し、この舟や車の調達という君王の願いをかなえた。(この税金を使った調達で)無理にそれにより徴税の恨みを起こさなかったのは、どういうことだろうか。それは舟や車の調達に税金を使うことが転じて民の利益に適うことに因るからである。このような事により、楽器の調達や演奏が転じて民の利益に適うことが、舟や車の調達と同じようであれば、それなら私は無理に楽器の調達や演奏に税金を使うことを否定することはない。つまり、楽器の調達や演奏に税金を使うこと、これを例えるときに、聖王が舟や車の調達に税金を使うこと同じであれば、私は無理に楽器の調達や演奏に税金を使うことを否定することをしない。
民に三つの憂いが有り、それは、飢餓に食料を得られず、寒さに衣服を得られず、労働に休息を得られないことであり、この三つのものは民の大きな憂いである。そうであるのに、「楽」というものを得る為に、大編成で巨鍾を撞き、鳴鼓を撃ち、琴瑟を彈き、竽笙を吹き、また、剣舞の大斧を掲げるが、それで民の衣食の備蓄への安心は得ることが出来るであろうか。他方、私は民の安心への備えはまだ出来ていないと考える。私が考えるに、楽器の演奏への税金の投入は止めるべきである。
今、大國が小國を攻めることが有り、大家が小家を討伐することが有り、強者は弱者を脅かし、大勢の者は寡なき者に暴力を行い、詐者は愚者を欺き、身分の貴き者が身分の賤しき者に傲り、寇乱や盜賊が相次いで生まれ、これらを止めることが出来ない。そうであるのに、「楽」というものを得る為に、大編成で巨鍾を撞き、鳴鼓を撃ち、琴瑟を彈き、竽笙を吹き、また、剣舞の大斧を掲げるが、それで天下が乱れていることに安心を得ることが出来るであろうか。他方、私は民の安心への備えはまだ出来ていないと考える。このようなことで、子墨子が言うことには、『しばらく、試みに、課税台帳により万民に徴税を行い、それにより、大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の大編成の音楽を行い、それにより天下の利を興し、天下の害を除くことの可能性を調べてみよう。』と。しかしながら、その結果に益は無かった。この為に、子墨子が言うことには、『楽というものを行うことは非である。』と。
今、王公大人が、高台の屋舎の上に登り、延鼎の姿のような鐘(編鐘)を見て、編鐘を打ち鳴らしたら、どのような音楽を得られるだろうかと問うと、その問いかけに、きっと、編鐘を打ち鳴らすであろう。ただ、編鐘を打ち鳴らすには、必ず、老人と遅鈍な者は使わないとし、老人と遅鈍の者はその耳目が聡明では無く、身体は頑強では無く、聲は音に調和せず、編鐘の響きの、それぞれの鐘の音が明確ではないとする。それで必ず成人を使い、(選ぶ理由は)その成人の耳目は聡明で、身体は屈強で、聲は調和し、旋律は明確であることに因るとする。丈夫の者に編鐘の演奏をさせれば、丈夫の者は農耕や園芸の適切な時期を失い、婦人に編鐘の演奏をさせれば、夫人は紡績や織機の仕事を止めるであろう。今、王公大人は、ただ、演奏会を行い、民の衣食の財物を奪い、それにより演奏会を行うことは、(皆が知るように)このように頻繁に行っている。このような背景により、子墨子が言うことには、『楽というものを行うことは非である。』と。
今、大鍾、鳴鼓、琴瑟、竽笙の楽器はすでに備わっており、大人は恭しく楽器を演奏して独りこれを聴くが、さてどこに楽しみを得るのだろうか。この質問には、必ず、身分の賤しき者と席を共にしなかったら、必ず、君子と席を共にするという。大人が君子と共に演奏を聴いたならば、君子は統治のことを民に聴衆することを止め、また、大人が身分の賤しき者と共に演奏を聴いたならば、身分の賤しき者は仕事に従事することを止めるだろう。今、王公大人は、ただ、「楽」というものの楽しみを行い、民の衣食の財物を簒奪し、それにより「楽」というものを行うことは、このように頻繁に行っている。このような背景により、子墨子が言うことには、『楽というものを行うことは非である。』と。
昔の齊国の康公は音楽と舞踊の文化を興し、万人は粗末な短い渇色に染めた服を着てはいけない、残り物のような粗食を食べてはいけないと定め、康公が言うことには、『飲食が良いものでなければ、顔形顔色は観るに耐えられず、衣服が美しくなければ、身体・動作・痩身は観るに耐えられない。』と。このことにより食事は必ず肉料理、衣装には必ず文繡を施し、この者どもの手は衣食の財貨を生産することには従事せず、民の衣食の財物を簒奪し、それにより「楽」というものを行うことは、このように頻繁に行っている。このような背景により、子墨子が言うことには、『楽というものを行うことは非である。』と。
今、人は、本来、禽獣、鹿類、飛ぶ鳥、貝や虫などとは異なるものである。今、この禽獣、鹿類、飛ぶ鳥、貝や虫などは、その羽毛により衣装とし、その蹄や足の甲により袴や履とし、その水草により飲食とする。このために雄は農耕や園芸をせず、雌は紡績や織機をしないといっても、衣食の財物はもともと既に備わっている。今、人はこのような類のものとは異なるものであり、その己の力に頼るものは生き残れ、その己の力に頼れない者は生き残れない。君子は努力して統治のことを聴衆しなければ、きっと、刑政は乱れ、身分の賤しき者は努力して仕事に従事しなければ、きっと、財物用材は不足するだろう。今、天下の士君子が、このことについて、私の提言について、確かにその通りだとしないのならば、それならしばらく試みに天下の仕事を区分のことを数えて、そこから音楽を楽しむことの害を見てみよう。王公大人は朝早く朝廷にあり、夕方遅く朝廷から退く、朝廷で訴訟を聴き、政治を行う、このことは王公大人の仕事の区分であり、士君子は肉体の力を尽くし、思慮の智慧を尽くし、内には行政官府を治め、外には関所の市場、山林、沼沢からの利を収納し、それにより食糧庫や官府の倉庫を満たす。このことは士君子の仕事の区分である。農夫は朝早く家を出て暮に家に戻り、農耕や園芸を行い、たくさんの穀物を収穫する。このことは農夫の仕事の区分である。婦人は早朝に起き宵に寝、紡績や織機を行い、たくさんの麻糸や葛糸を納入し、赤く染めた帛布を織る、このことは婦人の仕事の区分である。今、ただ、ある王公大人が居て、女楽を楽しんで、それで女楽を聴いていたら、きっと、必ず朝早く朝廷にあり、夕方遅く朝廷から退き、朝廷で訴訟を聴き、政治を行うことが出来ないだろう。このことにより、国家は乱れて、それにより社稷の安寧は危ういだろう。今、ただ、ある士君子が居て、女楽を楽しんで、それで女楽を聴いていたら、きっと、士君子は肉体の力を尽くし、思慮の智慧を尽くし、内には行政官府を治め、外には関所の市場、山林、沼沢からの利を収納し、それにより食糧庫や官府の倉庫を満たすことは出来ないだろう。このために食糧庫や官府の倉庫は満ちないだろう。今、ただ、ある農夫が居て、女楽を楽しんで、それで女楽を聴いていたら、きっと、農夫は朝早く家を出て暮に家に戻り、農耕や園芸を行い、たくさんの穀物を収穫することは出来ないだろう。このため穀物は足りないだろう。今、ある婦人が居て、女楽を楽しんで、それで女楽を聴いていたら、早朝に起き宵に寝、紡績や織機を行い、たくさんの麻糸や葛糸を納入し赤く染めた絹布を織ることは出来ないだろう。このため手間暇かかる赤く染めた絹布の業は興りようもない。言うことには、『何ごとを行い、大人の治政を聴衆し、そして、国家の事業に従事することを止めるのか。』と。言うことには、『女楽というものである。』と。この為に、子墨子が言うことには、『女楽というものを行うことは非である。』と。
どのようなことにより、そのことがそうだと知ったのか。言うことには、『先代の王の書、湯王の官刑の書にこのことが有る。』と。書に言うことには、『常に屋内に歌舞し、この歌舞を巫風と謂う。』と。その歌舞の刑罰、君子は罰として糸二桿を出し、小人は罰として出す量は君子のものとは違い、二把の黄色に染めた経糸を出した。そこで語って言うことには、『ああ、歌舞に心ここにあらずして、太老の言葉ははなはだ明らかなり。上帝は常には佑けず、九州は為に滅び、上帝は理をせず、ここに多くの不祥を降し、その家、必ず滅びん。』と。この九州が滅びた理由のものを考察すると、ただ、「楽」というものを華美にすることに従ったためである。また、『武観』において言うことには、『禹王の子の啓は淫に溺れ女楽の遊びに空しくし、野に飲食し、ショウショウと莧磬の楽器を鳴らして、それらを盛大にし、酒に酔い潰れ、野に暴食を為し、「万」と名付けられた歌舞を盛んに為すことに因り、明らかに上帝はこの有り様を大いに聞き、天はこの有り様を君王が為すべき規範とはしなかった。』と。しかしながら、啓は、上にあっては「女楽というものを行うことは非である」ということを天鬼の戒めとはせず、下にあっては万民の利としなかった。このことにより、子墨子が言うことには、『今、天下の士君子が、今すぐに天下の利を興し、天下の害を除くことを求めると希望することを請うなら、その国に音楽というものがあるなら、すぐに禁じて、そして止めない訳にはいかない。』と。

注意:
注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
4.「楽」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『書·舜典』で示す「楽、命女典楽、敎胄子」(楽、女に楽を主るを命じ、子に喜びを授けさす)の説明の方で、歴史では「女楽」と云うものです。宋代以降の朱子学が主流になると、近現代の音楽の意味に取ります。
また、「啓」について、夏朝の禹王の治世は禹王と臣下の益との連携で行われ、禹王の死後に益が王位を継いだが、禹王の子の啓が益王を殺し、夏王朝を継いだとの伝説があります。一方、秦国の秦嬴氏はこの益王の子孫と唱えていて、墨学徒は秦墨として戦国時代では秦朝と繋がりがあります。
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