旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

長崎旅行(1)・・・日程

2009-05-09 12:48:48 | 

 母の法事を理由にした長崎旅行の日程をようやく決めた。長崎旅行と言うことにしているが、長崎は「一泊一日強」で、その前後のほうが長い。

  13日 11.20羽田発 大分空港から14時ころ別府着
     私は高校の同窓会、ワイフは「地獄めぐり」
  14日 8時別府発、列車で長崎へ 12時28分着
     夜まで市内観光 JR九州長崎ホテル泊
  15日 15時か16時ごろまで長崎市内観光
     佐世保に直行して「蔵元推薦居酒屋」で夕食
     ハウステンボスに帰り夜景を楽しみ「ホテルローレライ」泊
  16日 15時ごろまでハウステンボス観光の後臼杵へ。実家泊
  17日 母の四十九日の法要、納骨、親戚知人と会食
  18日 13.30大分空港発、帰京

 長崎旅行と言っても、長崎滞在時間は27~28時間、さてどこに行こうか迷っている。グラバー邸、出島、平和公園など行かなければいけないのかなあ? 夜は丸山界隈、昼は龍馬の足跡を追う、ぐらいで十分とも思うのだが・・・。まあ、画龍点睛を欠いてもつまらないので、行くべきところには行くことにしよう。
 佐世保は当初予定になかったが、「六十余洲」という銘酒を造る今里酒造さんに、「どこに行けば御社の純米酒等が飲めるか」訪ねたところ、佐世保の『花のれん』に行けという。ハウステンボスでゆっくり、のんびり夜景を楽しもうと思っていたのだが、その一部を割いて行こうかと思っている。行かないと必ず後悔すると思うので。
 8時ごろハウステンボスに帰ってくれば、十分夜景も楽しめるだろう。結局、行きたいところが日程の何倍もあるのだ。困ったことだ。
                   


部屋の模様替えを一応終わる

2009-05-06 22:29:13 | 時局雑感

 今日で大型連休なるものも終わった。
 私はこの間、家にこもって昨年来の部屋の模様替えに取り組み、一応終わった。机の位置などを変えただけでなく、数年使ってきたデスクトップパソコンを廃してノートパソコン一本にした。デスクトップに捨てがたき愛着を抱いたが、部屋の空間確保を優先した。生まれた空間に、上村松園の『秋の粧』のカレンダーを張り、その隣に井堂雅夫氏の版画を掛けた。
 NECのパソコン、CANONのプリンター、EPSONのスキャナーと横文字機具が並ぶ机の上に、上村松園、井堂雅夫という何とも日本的な両画伯の絵を掲げて、日本の心を保つことになったのだろうか?
 特に意識してやったわけではないが・・・。

 この間の収穫としては、デジカメを買い換えたこともある。今月は母の法事で臼杵に帰るし、その機会に別府、長崎、ハウステンボスを旅するので、思い切って新しいデジカメを買った。
 プロ写真家である娘婿の推薦でPANASONICの「LUMIXルミックス」を買った。うれしくなって、いつもはやらないワイフの朝の散歩に付いて行って写真を撮ったりした。何とも鮮明な画面と思ったら、レンズは「LEICAライカ」だ。加えて1010万画素はさすがにきれいだ。何よりも「手振れ防止」が老人にはうれしい。
 これで旅の楽しみもふえた。一年で一番いい季節を楽しむことにしよう。
                    


24節気の酒 ・・・ 立夏

2009-05-05 11:22:50 | 

 今日は立夏。夏の立つ日、暦の上では既に夏である。
 あいにく今日の関東地方は気圧の谷に入って、雨のぱらつく薄ら寒い天気である。最高気温も20℃以下で、四月上旬の寒さと報じられているが、東北地方などは20度をはるかに超え、6月上旬の暑さだと言うので立派に夏であろう。全国的に何度も夏日を経験しているので、既に夏は立っているのかもしれない。

 夏といえばなんといってもビールである。特に初夏の、明るい陽光の下で飲むビールの味は堪えられない。
 この「24節気の酒」では、当然のことながら日本酒を書き続けてきたが、ここは禁を破ってビールにする。24節気というのが何とも日本的であるので、当然その酒は日本酒となるが、、日本人が全て日本酒を飲んでいるわけでもないので、他の酒をとり上げてもいいだろう。
 というよりも、ビールは今や「日本人の酒」である。つまり日本人(いや世界の人々)が一番飲んでいる酒はビールなのである。戦前から戦後の10年間ほどは、さすがに清酒が一番飲まれていたが、昭和30(1955)年にビールが追いつき、30年代に爆発的に伸びて、昭和40(1965)
年には清酒の2倍のシェアーを占めた。
 その後も伸び続け、今や日本人の飲む酒の7割はビールである。

 照りつける太陽の下では、のど越しで飲む「ピルスナービール」を煽りたい。ソーセージなどをつまみながらゆっくり飲むにはイギリスの「エール」や「ベルギービール」がいい。夏はやっぱりビールだ。

    夕空に雲の真白きビールかな   日野草城
                        


憲法記念日の論調(2)

2009-05-04 15:07:32 | 政治経済

 昨年もしたように、憲法記念日当日の各紙の社説に目を通した。朝日、毎日、日経、読売、赤旗の5紙だ。

 昨日のこの稿でNHKの日曜討論にふれ、「9条問題でなく25条を全面的に取り上げた点、出色であった」と書いた。
 朝日新聞はほぼそれに近く、「貧困、人権、平和を考える」と題して専ら「25条」と向き合うことを提起している。毎日新聞は、駐日日本大使にナイ教授が任命されたことから説いて、彼の戦略で日本がイラクへの自衛隊派遣に至った面
を指摘しながらも、ナイの「ソフトパワー論」を評価、ブッシュの「ハードパワー戦略」から舵を切りつつあるクリントン国務長官の「スマートパワー重視戦略(ナイのソフトパワーを含む)」支持を主張している。
 日経は、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈を見直し、そのうえで自衛隊の国際協力活動を包括的に規定した一般法の制定が要る」と一歩「解釈改憲――改憲」の方向に踏み出している。
 読売はもっと露骨に、「2年前に国民投票法が成立したのに、その後憲法改正論議が失速している」ことに苛立ちを示し、「与野党とも憲法審査会早期に始動させよ」と焦りさえ感じさせる社説を掲げている。
 それに噛み付いたのか共産党は、その読売5面に、前面抜きの憲法擁護の広告を掲げた。併せて赤旗「主張」で、現下の経済危機、国民生活の実情に触れて、「改憲も壊憲も許さず、国民の不断の努力で、現憲法を守り生かしぬく決意」を新たに宣言している。

 どうすれば「健康で文化的な最低限度の生活」が全ての人に保障されるのだろうか? どうすれば「武器のない平和な世界」が訪れるのだろうか?
 私は、「オバマのプラハ演説」の後だけに、核廃絶に向けての新たな息吹が何か出てくるのではないかと期待したのだが、共産党を除いて、そのような動きはほとんど感じられなかった。

 生きることと平和の維持・・・・・・人間にとっての根源的課題だけに、その実現は最も困難なことなのだろう。
                    


憲法記念日の論調

2009-05-03 21:10:06 | 政治経済

 憲法記念日を迎えたが、各紙の論調は低調であると言わざるを得ない。つまり世論は、憲法が身近に重要でないのかもしれない。
 だいたい憲法問題といえば「憲法九条」が主題となる。そしてこれは、現今においても至上命題であろう。
 ところが今朝のNHK日曜討論では「憲法第25条」を取り上げた。これは出色の企画と言うべきだろう。「全て国民は、健康にして文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という文言が、この21世紀の世に輝いて映るのは何故か?

 この条文は、マックァーサー司令部の提示した原文にもなかったと言う(アメリカ憲法にもこのような条文はない)。これを提起したのは、焦土と化した日本の中でも、特に原爆の災禍のただ中にあった広島大学の学長森戸辰男の提起であった。社会党代議士森戸は、並み居る反対意見に断固抗してこれを主張し続けたと言う。
 そしてこの条文は、60年後の日本にも「現実の課題として」生き続けているのである。つまり、21世紀の世代にあっても、まさかと思われた「生存が危ぶまれる」状況が起きているのである。ワーキングプア、ネットカフェ難民、年収2百万円以下が一千万人以上・・・、このような状況を森戸辰男は見抜いていたのか? 「一生懸命働き続けても食べていけない・・・」 この状態が必ず来ることを想定して、森戸は反対を押し切って『憲法25条
』を譲らなかったのかもしれない。
 恐ろしいことである。
                   


現実に呼び戻した核廃絶の道――オバマ大統領のプラハ演説

2009-05-02 13:01:44 | 政治経済

 4月5日にプラハで行われたオバマ大統領の演説を読み直して、改めてその素晴らしい内容に感銘を受けた。
 核廃絶は人類の悲願ではあるが実現は不可能な夢である、という一般的感情がこの世界を流れている。その中で「出来るのではないか」という現実感に、私たちを引き戻してくれた内容であった。

 大統領は、「われわれが核兵器の拡散が必然だと信じるとしたら、ある意味でわれわれは核兵器の使用が必然であることを認めることになる」として、「核兵器を使用した唯一の国の道義的責任を認め」た上で、「きょう私は、核のない平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」と高らかに宣言した。
 加えて、『また夢物語を語っている』とする大方の批判を封じるかのように、「私は世間知らずではない。この目標はすぐに到達できるものではない――おそらく私が生きているうちには無理であろう」と釘を刺しながら、「しかし今、われわれは、世界は変えられないという人たちの声にも耳を貸してはならない。われわれは強く主張しなければならない『イエス・ウィ・キャン』と」と、呼びかけた。
 久しぶりの「Yes we can」を、この格調高い演説の中で聞いた。

 オバマ大統領の演説は、過去のアメリカ大統領のどの演説とも質を異にしているのではないか。核使用国の道義的責任を認めたこと、及び、核廃絶を呼びかける真摯な姿勢という面で。
 久しぶりに感銘深い演説を聞いて、核廃絶への思いを現実の中に引き戻すことが出来た。
                         


故人を偲ぶ

2009-05-01 18:00:20 | 時局雑感

 今日は朝出勤し仕事を片付け、11時過ぎに退社して義兄たちが催してくれた昼食会に望んだ。ワイフの兄たち3家族が、4月4日に亡くなった私の母を偲ぶ会を持ってくれたのだ。
 既に書いたように、母は95歳、天寿を全うしての死で「よく生きておめでとう」という類のもので、この会は九州での葬儀に携わった私たち夫婦を慰労する会であった。話題は母の話から当然のことながら義父、義母の話となった。
 義父はワイフが4歳のとき、昭和19(1944)年に死亡している。戦前の話である。義母は戦後の混乱期を義父の残した遺産(土地と家宅)を切り盛り(あるいは売却)しながら5人の子供(ワイフはその末っ子)を育て上げた。そして20年前に亡くなったが、その大らかな性格の所為か、家には家族のほかに絶えず多くの人が出入りしていた。私はいつも、誰が家族か、誰々が親戚が区別がつかないほどであった。
 桜上水の4、5百坪の土地に構えた数十坪の平屋建の家は、義父の残した立派な建物で、広い美しい庭ともども、誰をも受け入れる大らかな雰囲気をたたえていた。

 「当時どんな人が来ていたか?」…、そんな話題を続けていると長義姉が思い出深くつぶやいた。
 「家に出入りしていた庭師のMさんが『貴方のお父さん(義父)は大きな人でした。この庭を見ればわかるでしょう。心の大きい人でした』と話してくれた。貧しい人であろうと韓国の人だろうと区別せずに付き合った人だったようね。あの雰囲気はお父さんの残したものよ…」

 もちろん私は義父を知らない。しかし、死して60数年、このように偲ばれるような人になりたいものだと思った。私にはそのような力は到底ないが。
                         


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