旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

焼酎「森伊蔵」の果たした役割

2009-06-24 13:31:33 | 

 前回のブログ(621日)で、相次ぐ焼酎ブームの中で本格焼酎が伸びてきたが、その地位を不動のものにしたのが「森伊蔵」だと書いた。私は酒の戦後史を見る中で、第一次日本酒革命の導火線を「越乃寒梅」を中心とした地酒ブームとし、第二次革命の先導者を清酒における「十四代」、焼酎における「森伊蔵」に見る。両者は、サラリーマンなどで蔵を離れた息子が親の老齢化で呼び戻され、一念発起して「本物つくり」に挑み、業界トップ品質を造り上げて、無名の蔵を全国に知らしめた点で似ている。しかも、その酒に親の名前をつけた点でも共通する。

 「森伊蔵」を造った森覚志氏は8人兄姉の末っ子、焼酎屋のくせに九州短大の電気工学科を出てサラリーマンとなる。ひょんな事から退職することになり独立、調理師免許を取ってスナックの経営をやるなど大阪、東京、神奈川を渡り歩いたようだ。
 ところが、70歳と年老いた父親に「四人の兄は蔵を継げない。お前しか居ない」と鹿児島の垂水市に呼び戻された。1981年、覚志氏32歳の時という。(1999.11.22~日経新聞「人間発見」より)
 帰ってみると蔵に往年の面影は無く、「錦江」という焼酎は酒屋にも置いてもらえない状況であったようだ。一時は自棄酒も飲んだようだが、父の下で修行すること5年、“5代目当主・杜氏”となるや、「どうせやるなら酒販店など当てにせず“消費者が直接買いに来るような焼酎”を造ろう」と発起、材料としての芋、米麹、水を徹底的に追求、本物造りに取り組んだ。
 特に芋については、化学肥料で作った芋を止め、選び抜いた品種“コガネセンガン”を有機肥料で作る農家と契約栽培することにした。
 こうして完成した名品を、「私の名前は新聞や雑誌など読んでもお目にかかったことがない」と常に話していたと言う父親森伊蔵の名をつけて世に出したのである(前掲紙より)。
 19881215日のこと。時は昭和の暮れ(昭和63年)、日本は新しい平成に向けて動き出そうとしていたのであるが、この「森伊蔵」はまさに酒造界の新時代を切り開いたのである。
 覚志氏が発起したとおり、この焼酎が「消費者が直接、列をなして買いに来る」名酒となった事は周知のとおりである。
                             


投票ボタン

blogram投票ボタン