The Last ward from Southen Cross to my future

目の前にある林檎は本当に林檎なんだろうか。その林檎は腐っているから林檎だって気づかないだけかもしれない。

原爆の日に思うこと

2008-08-06 09:31:19 | Weblog
過ぎたことを分析するのは勝手だが、原爆により亡くなった人々への祈りをする日。
核の平和利用を兵器利用よりも優先して考えるとずっと人々は願ってきたにもかかわらず、世界から核兵器はなくならない。まさに、一度核の被害にあってみればいかに恐ろしい兵器なのかを実感するんじゃないか、と思う。勿論、それがその国だけではなく地球上にも恐ろしい被害をもたらすってことも決して忘れてはいけない。

せめて、小さい実験場にでも核兵器開発を進める国のリーダを閉じ込めて、核実験を体験してもらうとかしない限りはこの恐ろしさはわからないのかもしれない。
人道的なんていってないで、こういった犯罪者には同じような拷問や結果で死刑を実行してもいいと自分は考える。何故なら残忍といわれる兵器で死んだ人々はそれこそ実験対象として死んでいる訳だからだ。所詮、指揮する人間は戦場にいないのだから、怪我もしないし、こういった被害にもあわない。
反面、核兵器に対しての被害を抑えるための核排除するような技術も開発することで、原子炉などの被害に対して有効なんだろう。しかし、核爆発によ高熱を抑えるような兵器って作れるんだろうか?

広島や長崎の原爆だけではなく、世界では多くの核実験がまだ実行されている。
日本のゴジラは、核による突然変異で生まれた怪獣なんだが、米国のゴジラ映画といい単なるモンスターでしかなかったなぁ。自分が生まれる前の映画なんだが、ゴジラの映画ってのは、結構考えさせるような内容だと思う。
もうひとつは自分が好きな小説、「渚にて(On the Beach)」だ。災害は防げないかもしれないが、核という人災は防げるんじゃないだろうか? 原子力船やら潜水艦を作るくせにどうして放射能被害に対しての中和装置なんて考えないんだろうか?
そんな考え方はそれこそマンガを越えているってことなんだろうか?

石油では宇宙旅行はできない。核ならどうなんだろうか? 
人類が核を兵器ではなく新たなエネルギとして利用するならば、それは人類にとっての進化だと思う。危ないから使わないではなく、それをいかに安全に使うかというのを考えることができるのが人間の知恵なんじゃないのか?

使う人の気持ち次第で、どんな道具も凶器になる。核だけではない。こんな簡単なことをわかっていても、それでも犯罪はなくならない。戦争だって犯罪だと思うんだけどね。そもそも戦争の始まりってのは、私利私欲の争奪からなので、話合いでの解決なんか無理だと思っている。それこそ水を飲まない馬に水を飲ませるってもんでしょ。この理論なら米国のイラン攻撃も成り立つ。

賢いのは文句ばかり言っているよりは、黙々と自分の今やるべきことを成すことかも。日本はどこぞの国のように文句に集中するあまり、やるべきことを見落とさないで、ちゃんとやっていこう。その点、現政権は評価できる。馬鹿の相手しないで、日本は日本の行くべき道を粛々と進み、生き残ろう。過去は過去であり、温故知新を実行すればいいだけだ。

原爆が正義のために、戦争を拡大させないために投下されたと言われても気にしない。それは連合軍側の理論だから。戦争は国家の責任はあれども、国民に責任はないと思う。何故なら、当時の国民は事実を知らされてない上に、戦争のはじまりですら理由を知らない人も多かったと聞いている。日本人だから日本国家と同じ責任を背負う必要はない。だから、今更原爆投下の理由なんて亡霊を引き出す必要もない。
それは歴史研究かに任せればいい。自分たちは前を見て、進むために戦争という犠牲になった日本人および他国の人への黙とうをするだけだ。

そして、原爆投下から立ち上がった広島や長崎のように、日本も立ち上がろう!と決意をするときでもある。生きたい、だから立ち上がるだけだ。
コメント
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